第二十五話 動くとき
約一カ月ぶりの更新になってしまいすみません。いろいろと予定が立て込んでいて執筆時間が取れませんでした
今回の話は『自分勝手』をテーマにしています。自分の欲望を優先した結果どうなるのか。それぞれの後悔とこれからを書きました
誰も動けなかった。誰も何も言えなかった。それくらい、俺の親友の行動は突然で予想外のものだった。
目の前で走り去った親友の配流玲と、その幼なじみの天王寺友加。駆け落ちだと、心の中で思ってしまったことは黙っておこう。そんな素晴らしい行いではないのだから。
部屋の中央では、二人を追いかけようとした若い刑事が立ち尽くしている。熱血刑事なのか、二人が背を向けてすぐに立ち上がっていたが、数歩走ったところで別の刑事に止められてしまった。だが、止めた本人ですらもバディに対して何も言わなかった。この場に合った言葉を、誰もが見付けられないでいる。
その沈黙を破るように、誰かが吹き出す音がした。それは俺のすぐ隣の、ハットを被った男から聞こえる。俺を含め部屋にいる全員が、一斉に彼を見た。
「巡? どうした?」
多くの視線を受けているのに、それに気付いていないのか千歳巡は高笑いをし続ける。まるでお笑いの賞レースを観ているときのような、楽しそうな笑顔だ。この状況にそぐわない、明るくて愉快ないつもの巡の笑い方だ。
「大丈夫か?」
俺の脳内に、『失笑恐怖症』という文字が躍り出た。強いストレスや不安、恐怖を感じ脳や心がキャパシティを超えそうになった際に、それをやわらげるために笑ってしまう心理的防衛反応。
親友大好き人間の巡の心に、先ほどの玲の行動が影を落としたのかもしれない。俺はそう推察し、巡を落ち着かせようと彼の背中を叩いた。
「大丈夫だからさ」
わけも分からないまま、俺は親友の背を擦り続ける。巡が『大丈夫』と言って欲しいのかも、何が『大丈夫』なのかも分からない。それでも俺は、親友のために何度も呟いた。
「大丈夫だ、俺がいる」
笑い声を掻き消してやりたいのに、俺の声は笑い声に埋もれてしまう。それがもどかしくて、俺は巡の額を自分の胸に押し当てた。これなら、この距離なら、きっと届くはずだ。
「俺はずっと、ここにいる」
巡の耳に、言葉が落ちた。俺の口からポツリと零れ、空気中で溶けてしまうほどに弱くて小さい思い。それでも、それが巡に届いた瞬間にあの笑顔はなくなっていた。
「笑ってまうよ」
ケーシーに冷たい液体が滲む。笑い声は、いつの間にかしゃくり上げるような声に変わっていた。俺はゆっくりと、巡の丸い頭を撫でる。
「知ったかぶりは身を滅ぶすんやな。知っとるつもりで、結局いっちゃん大事なとこは言うてもらえんかった。俺たちは大事やないんか」
やはり、先ほどの玲と友加のことが原因か。あの二人は、二人だけの世界にいた。あの二人にしか分からないことを、この五年間ずっと共有して生きていた。俺と巡は、そのことを酷く痛感させられてしまった。
「そうだな。お互いドンマイってことだ」
そんな軽い言葉でどうにかなるとは思えないが、俺は気丈に振る舞うしかなかった。俺まで落ち込んでしまっては、共倒れに他ならない。俺だけは、巡の心の拠り所にならなければ。
「そうだ、巡! ジュース奢ってやるよ」
とにかく、ここから退散することが先決だ。背中に刺さる視線に気付かないふりをし、俺は巡の腕を引いた。あくまでも親友を励ますため。そう自分に言い聞かせ、俺は棘のような目線に背を向けた。
「それでは、外科部長。お先に失礼します」
まだ呆然としたままの上司に形だけの挨拶をし、俺は会議室を出る。途中で紺色のスーツの男性とすれ違ったので、その人に会釈しつつ俺は食堂に向かった。食堂の前に置いてある自動販売機で、ジュースでも買って落ち着こうという算段だ。
「巡はさ、こうなること分かってたよね?」
エレベーターに乗り込み、俺は二人だけの空間でそう質問をした。ジュースを片手に訊こうと思っていたのだが、我慢出来なかったようで勝手に口が動いていた。それほど、不思議に思ってしまったのだろう。
巡は友加から事件の真相を聞いていた。玲の兄がしたことも、それを玲が兄のために隠そうとしたことも。それなのに巡は、今まさにそれを知ったかのように見える。むしろ、初耳だった俺の方が冷静な判断をくだせている。そんな現状が、不思議で仕方ない。
「それとも、俺に嘘吐いた? 本当は知らないのに、知ったかぶりした?」
エレベーターが上昇をやめ、扉を開ける。俺は一旦口を閉じ、エレベーターから降りて自動販売機に向かう。巡もまた黙って、俺の後をついてきた。今話すつもりはないらしい。
「どれでも良い?」
俺は巡が頷いたのを確認し、百円硬貨を二枚入れる。それから、ハテナマークの下のボタンを二度押す。出てきたのは、よく冷えたアイスティーとレモネードだった。
「この自販機、二百円入れるとランダムな二本が出てくるんだよね。今回は紅茶とジュースだったけど、だいたいは天然水と麦茶の組み合わせ。運が良かったな」
レモネードを押し付ければ、巡は何も言わずに受け取ってくれる。その表情は、先ほどよりも柔らかくなっていた。俺は明るく振る舞えた自分を内心で称え、空いている談話室に巡を通す。本来なら患者の家族と医師が使う部屋だが、この時間帯は誰も使わないので、遠慮なく使わせていただこう。
「どこでも良いよ。テキトーに座ってくれ」
『使用中』に入り口のプレートを変え、俺は談話室の鍵を閉める。身の置き場を考えている巡に声をかけ、俺は身近なキャスターチェアを引いた。そこに腰かけると、巡も近くにあったソファに腰をおろす。
「ソファもイスも寝具もあると、どこに座れば良いか迷うよな。俺も初めて使ったとき、けっこう悩んだんだよ」
巡に微笑みかけ、ペットボトルのキャップをひねる。アイスティーを勢い良くあおり、俺は身を縮めている巡を見た。巡は陽気に見えて、実際は繊細な心の持ち主だ。こういうときに、心の支えがなければ崩れてしまう。俺は今、それになりたい。
「ずっと、法助は共感力の高い奴やと思っとった。せやから、この状況が不思議でしかない」
「巡? どうしたんだよ、いきなり」
「ほんとはな、法助の方がくらうって予想しとった。完全に予想外やなあ」
わざとらしく間延びした口調とともに、巡が背中を伸ばした。それから巡も、レモネードを一気にあおる。一瞬で半分ほと減ったペットボトルを、巡はテーブルに滑らせた。
「さっき法助が来るまで、友加ちゃんと真相明かした後で法助のメンケアせんとなって話してた。優しい人が傷付いたまんまなんは、どうしても嫌やからな」
それは、今まさに俺が思っていたことではないか。いつも明るくて優しい巡の元気が、こんなにも分かりやすく枯れてしまっている。そんなの、嫌に決まっているだろう。
「でも案外、法助は平気なんやな。俺がメンケアしてもらってるくらいやし」
「平気、ではないかな。巡が思ったより限界そうだから、逆に冷静になれてる」
「限界なあ。そうかもしれへんけど、なんかそれだけやないっていうか……」
巡は口ごもり、それをごまかすように唇を動かす。気恥ずかしそうにするその仕草に、俺は自分の考えが否定されたことを知った。俺が思うほど、巡は落ち込んでいないのかもしれない。
「度肝抜かれたっていうんが正しいんかな? 笑い過ぎて涙出てきたし」
「やっぱりそっち? 俺、めちゃくちゃ心配したんだけど」
「いやな、度肝抜かれ過ぎてうまく話せへんかっただけやで。心配してくれておおきにやけど、なんかすまんな」
やはりというべきか、巡はヘラヘラと笑い俺の言葉を流す。それがいつもどおりなのに、何だか今はとても腹立たしい。俺は震える拳を振り上げぬように、きつく握り締めた。
「俺は、親友のこと何でも知っとるつもりやった。でもやっぱ知ったかぶりで、こういうときに一番置いてかれてまう。玲のことも、友加ちゃんのことも、法助のことも、今まったく分からへん」
ほら、いつもどおりではないか。いつもそうやって、自分が傷付いたことを無かったことにする。人の心配ばかりして、自分のことは後回し。だから、俺は巡のことを放っておけない。
「俺だって、よく分からないよ。なんでこんなことになったのか、なんで誰も何も言ってくれなかったのか。俺だって、分かんないよ」
「さっきも言うたけど、法助のこと傷付けたくなかったからや。仲間外れにしたわけやない。友加ちゃんから真相を聞いたとき、俺ん中だけで留めとこ思て。そしたら、友加ちゃんも同じこと考えてたみたいで」
「巡と友加ちゃんが、俺のことを想ってそうしてくれたっていうのは分かった。だから、それはもう良いよ」
背を丸める巡に申し訳なくなり、俺はそうそうにこの議題を切り上げる。それに、俺のことなんてどうでも良い。今は、巡のことを知らなければ。
「俺が言いたいのは、俺も巡も、親友のことを何も知らなかったってこと。玲が何を考えていたのか、何を大切にしていたのか、何も知れないまま玲を失った。同じだよ、俺たち。どっちかがどっちかのメンケアしなきゃとか、そういうことじゃない。俺たちは同じだから」
強い不安やストレスを感じたとき、人は必ず共感を求める。俺の医師としての経験が、それを知っていた。なので今の巡に口を割ってもらうためには、俺が巡と同じ立場だと示すしかない。俺は黙って巡を見つめる。
「せやね。友加ちゃんから聞いたんは、全部事実やった。あのとき誰が何をしたのか、その事柄だけ。この人はこうした、その結果こうなった。玲の気持ちも友加ちゃんの気持ちも、教えてはくれへんかった」
遠くに視線を投げた巡は、すぐに俺を見つめ返す。そしていたずらっ子のような笑みを浮かべ、俺の手の中からペットボトルを引き抜いた。
「そうなんだ」
相づちを打ちながら、俺は奪われたペットボトルを取り返す。まじめな話をしている間は、ふざけないでいただきたい。こんなことを許容して、巡の思いをうやむやにされてしまうのだけはダメだ。
「お兄さんのことやから守りたいんやろなって、適当に考えて勝手に納得しとった。奥に踏み込むことを、しようともせんかった。なのに、玲たちはあんな覚悟決めとったんやな」
巡は唇を尖らせ、拗ねた表情をする。これは、どちらに対する拗ねなのだろうか。俺は机に肘を置き頬杖をつく。巡の表情の変化を、見逃さないようにしなければ。
「玲がそういう突っ走れるタイプだとは知ってた。でも、友加ちゃんはどっちかっていうと思慮深いタイプだろ。俺は玲より友加ちゃんの方が意外だった」
「愛、なんやろな。あの二人にしか分からへん」
「たしかに、俺には理解出来ないもんな。誰かのためって理由で、自分が苦しむ道を選ぶなんて」
玲はお兄さんのため。友加は幼なじみのため。それぞれの大切な人を守るために、二人は勇んで茨の道を歩いた。俺にはそれが、まったく理解出来ない。
「でも、まっすぐな愛なんや。頭ん中を占められて、その人のためになることが一番嬉しい。せやから、俺たちは蚊帳の外」
巡が自嘲ぎみに笑う。きっと俺も今、同じ顔をして笑っている。俺と巡は、玲たちから頼ってもらえはしなかった。
「びっくりしたな。あんなに、二人だけの世界を見せ付けられるとは……」
「おもろい奴らよな。俺たちの出る幕なしやで」
「なあ、巡。俺たちって、そうやって逃げてきただけなんかじゃないか?」
自嘲を続ける巡に、俺は前々から思っていたことを訊ねた。自信がなく恐る恐るだったせいか、目をむいてこちらを見やった巡に背筋が凍ってしまう。理由もなく後ろめたくなり、俺は巡からおもむろに目を逸らした。
「今話してたことって、そういうことだろ? 玲も友加ちゃんも親友だから、みんなで頼り合って問題を解決していくものだと思ってた。誰かが悩んでいたら、他のみんなで全力で助ける。そんな関係でずっといられるのだと思ってた」
「俺たちには、ここが足りひんかったってことか?」
巡が自分の頭を人差し指で軽く叩く。呆れたような仕草に憐れむような表情。それでも、言葉の奥底にたしかな怒りが感じ取れた。分かるよ、巡。俺だって、湧き上がる怒気を抑えるのに苦労しているのだから。
「勝手に盲信してた自分が浅はかだった。あの二人には、あの二人にしか分からない事情があるっていうのに。自分の立場を誤認していた」
「法助、あんま自分を責めんな。玲が頼るっていう選択肢を取らなかっただけや。言ってしまえば、玲が悪い」
「違うよ。取らせなかった、だと思う。俺は玲が抱えているものに気付いてあげられなかった。玲に自分の理想を押し付けて、現実の姿を見ようとしなかった」
六年前、玲が由命界総合病院を辞めたと人伝で聞いた。そのとき俺は、玲に何があったのかを一度しか考えなかった。頭によぎったその疑問を無視し、俺は玲が何をしているのかを考えた。命を救う玲が好きだから、そこに憧れたから、ずっと玲にはそうであって欲しいと願った。
そのせいで、見るべきものを見落としてしまった。つい先日この病院で玲に会った。今も医師であるかを訊ねたときの、玲のあの返答。そこに込められた意味に、俺は気付こうともしなかった。言葉を額面どおりに受け止め、歓喜に湧いた。やっぱり俺の親友は俺の憧れたとおりなのだと、喜ぶだけで終わらせた。
「玲は、命を救うということだけを考えられる人だった。それに一生懸命になって、命のために突き進んで行く。俺はそこが大好きだった。だから、それが続いていることが嬉しかった。どうしてとか考えずに、そこで思考を放棄した」
「もしかして法助、どっかで玲と会ったんか?」
「うん。二週間くらい前にここで。そのときに玲の現状を知れて、ぬか喜びをして、その一週間後に遊園地行って。それでこれだ。バカだよ、俺。自分のことしか考えてない」
話しながら、先ほどの巡の言葉を思い出す。真実を知ったとき、俺が食らってしまうのではと巡と友加は心配してくれていた。俺はそんなことより巡の方が気がかりだったが、親友たちの言うとおり結構きているのかもしれない。自分への嫌悪が止まらない。
「遊園地行ったときは、何を考えてたんや? その言い方やと、そこでも玲のこと考えてあげてたんやろ?」
「巡は優しいね。ここまで俺の話を聞いて、『あげてた』って言える。俺はお前が思うような良い奴じゃない。ただ自分のもとに、親友を手繰り寄せておきたかっただけだ」
玲を儚い人だと思ったことはない。むしろ図太くて厚かましくて、良くも悪くも一直線の奴だと思う。でもだからこそ、突き進んだ先で、俺の知らないところで、一人で無理をする奴だとは分かっていた。すごい奴だと知りながら、そんな玲が怖かった。だから、俺が自分の不安や恐れをなくすために玲との距離を詰めようとした。
「幼なじみの友加ちゃん、高校からの親友の巡。玲から見た俺は新参者で、頼りにならないと思われていることはなんとなく自覚していた。同じ病院で研修医をして、同じ病院で外科医として勤めた。一緒に肩を並べて切磋琢磨をしてきたと認識していたけど、やっぱりその感覚は変わらなかった。だから、少しでも玲に意識してもらいたかった」
「それであんなことしたんか? 法助」
巡が優しく俺の名前を呼ぶ。柔らかな絹のようなその声音が、俺の心にそっと触れてどこかへ流れていく。本当にこの男にも敵わない。
「そうだよ。だから俺は自分勝手なんだ。あんまり買い被らないでくれ」
「せやねえ。やけど、法助のそれで自分勝手なら俺も玲も友加ちゃんも、みんな自分勝手や。法助だけとちゃうで」
「だけど……」
「それに、法助がああ言うてくれたから俺たちはもっと仲良うなれた。自分勝手を悪いことやと思わん方がええ」
分かっている。巡がそう言ってくれるのは分かっている。だからこうして、巡に全部もらしてしまったのではないか。巡なら肯定してくれると、無意識下で分かっていたから。
「まあでも、法助んのは良い自分勝手やったな。玲と友加ちゃんのさっきんやつは、どうやっても悪い方向にしか転ばへんと思う」
憎々しげに顔を歪め、巡は滑らかに話題を俺からそらす。ただそこには、俺を励まそうだとか玲と友加に恨み言をぶつけようだとか、そんな気持ちは微塵も込められていなかった。巡の心が塞き止められることなく、そっくりそのまま言葉になった。そう感じるほどに、巡の表情に嘘偽りはない。
「ここまでお互い強がってみたけど、結局俺たちはあの二人に振り回されたようなもんや。俺たちの知らんとこで、あの二人は勝手なことしとった。せやけど、俺たちもある程度は自分勝手やった。親友の苦しみに気付いてあげられへんかったんやからな」
「巡、俺たちはどうするべきだ? このままじゃ、大切な人を二人も失うことになる。そんなのは嫌だ。ずっと仲良しだって約束したのに。そう言ったのは、他でもない玲なのに」
握り締めた俺の拳が、怒りに耐えるため震える。このまま何もしなければ、俺たちの約束は反故にされてしまう。何よりも、言い出しっぺである玲の手で壊されてしまうことが悔しい。あの誓いを信じて、俺たちは今まで親友でいたのに。
「怖いんや。俺は、離れ離れになるんが怖い」
巡が今日初めて、しっかりと弱音を吐いた気がする。さっきまで気を遣わせて、誤魔化されてきたのかもしれない。俺もそうしようとしていた。でも、隠すことも知ろうとしないこともダメだというのが、俺たちが出した結論だ。
「俺もだよ。ずっと一緒にいた。ずっと仲良し集団でやっていけると思ってた。働き始めてそれぞれが違う場所に行っても、心が繋がったいるのだから大丈夫だと信じてた。だから、こうして全部を否定されかけているのがどうしようもなく怖い」
怖い。この言葉がすべてだ。目に見えない絆や繋がりを盲信していたら、それがただの幻想だったと思い知らされた。俺が理想としていた友情は、喜びも悲しみもどんな感情でも共有出来る友情は、理想に過ぎなかった。それを自分自身で断言してしまうことが、とても恐ろしい。
「目に見えないものを信じていたら、目に見えないところで親友が苦しんでいた。因果応報っていうか、皮肉なことだよな」
「法助。せやから……」
巡が腰を浮かせ何かを言いかける。だが、その何かを苦々しい顔で呑み込みソファに沈んだ。逡巡するように目を左右へ動かし、俯き唇を丸める。その一連の動作で、巡の考えがすべて透けて見えた。たぶん、俺も巡と同じ気持ちだ。
「巡、やるか? 目に見えないものに惨敗したなら、目に見えることをすれば良い。玲と友加ちゃんのために動いてみよう」
「法助、俺も今そう思った。せやけどな、俺にも法助にも仕事がある。やらなければならないことが、社会人としての責務があるんや。第一、患者はどうするんや? 朝川寧音ちゃんのこと、法助がいんかったら誰が診るんや」
「俺はどっちもやるよ。寧音さんのことを回復させるし、玲と友加ちゃんのことも救う。俺は欲張りな上に合理的判断が出来ないから、やりたいことは全部やる。だから巡、力を貸して欲しい」
俺は、勉強が出来るだけのバカだ。玲や巡、友加みたいに勉強も日常生活も効率良くこなして器用に生きていける人ではない。だから、考えれば考えるだけ変な方向に舵を切ってしまう。それならばいっそ、考えなくて良い。直感を信じて、進みたい方向に進む。これは俺の持論だが、バカの直感ほど当たるのだ。
「なんか法助と話しとったら、あんなに悩んどったのがアホみたいやな。自分が何を出来へんかったかやない。これから何が出来るか、それが大事なことなんやな。そんなら、もう迷わへんわ。法助、一緒にやろう」
「ああ。目に見える形で示すんだ。俺たちの友情がどれだけ固いものかを」
「せやね。動かへんと、なんにも変わらん。大切な人のために出来ることは全部せえへんと」
見つめ合い、ゆっくりと二人で頷く。覚悟は決まった。俺たちは動く。誰の目から見ても明らかだと言われるくらい、親友のために動く。それが、夢うつつに生きて逃げてきた俺たちなりの償いだ。
「玲と友加ちゃんは罪を犯した。それでも、大切な存在なことに変わりはない」
「俺たちは罪人を助けるんやない。かけがえのない人を救うだけ。その結果俺たちが糾弾されても、それは自己責任。自業自得になる」
裁かれたって良い。世間から非難されたって良い。それが俺たちの選んだ道なら、俺たちに文句を言う資格はない。
親友を救う。それだけを胸に、俺たちは談話室を後にした。
ーーーーー
「安倍さん。これからどうしますか?」
沈黙に満ちた会議室で、この空気に耐えかねた俺はバディに質問を投げかけた。しかし、歳上の相棒は腕を組んだまま目をつむり黙りこくっている。答えるつもりはないらしい。
「とりあえず、本部に報告しておきます。被疑者が脱走したなんて一大事ですよ。血眼になって捜さないと」
「そうだな。頼んだ」
「……了解です」
自分から動く気もないらしい安倍に唇を尖らせ、俺は捜査本部に電話をかける。数コールの後に電話に出た本部の刑事へ手短に用件を伝え、俺はさっさと通話を切った。子供らしい理由だが、人からお叱りを受けるのは嫌なのだ。
「安倍さん。俺たちも行きますよ」
いまだに地蔵を決め込んでいる安倍の腕を握り、筋力で無理矢理立ち上がらせる。そしてそのまま腕を引き、俺は安倍と部屋を出ようとした。なのに、重心を後ろにかけているのか安倍が動いてくれる気配はない。堪忍袋の緒が切れた俺は、一言文句を言ってやろうと安倍を振り返った。
「安倍さん。いいかげんにしてください!」
「なあ、北条。配流玲は、どうしてここにいたんだ?」
「はあ?」
ようやくまともに話してくれたと思ったら、安倍は突拍子もないことを呟いた。俺は思いっきり顔をしかめ睨み付けたが、安倍はそんなことも気にせずに思考を始める。俺は呆れつつ、とりあえず安倍に付き合うことにした。このままでは何事も進まない。とにかく、相棒と同じ方向を向いてやらねば。
「留置場からどうやって出たんだ? 見張りがいる中で、どうやって独房から出た? 普通ならありえないことだ」
安倍の言葉に頷きながら、俺は一つの可能性に行き着いた。警察官としては真っ先に除外したい可能性だが、今のところこれしか思い付かない。俺は意を決して口を開いた。
「もしかしたら、警察に協力者がいたのかもしれません。刑事になら、捜査だと言って被疑者を連れ出すことが出来ます」
「北条。俺もそう思った。しかし、そんなことをして誰に何の得がある? それに今、その人物はどこにいる? 自分で連れ出しておきながら放置するなんて、わけが分からない」
俺が思い付くレベルのことを、安倍が思い付かないはずがない。頭を抱えて唸る安倍に申し訳なくなり、俺はそっと腕を離し相棒を解放した。そのときだった。
「呼んだ?」
はつらつとした抑揚のある男声。突如として響いたその声に顔を向ければ、会議室の入り口で紺色のスーツを着た男が手を振っている。その顔に驚き、俺は思わず大声で彼の名前を叫んでいた。
「渡さん!」
俺が警察官になったばかりの頃、生活安全課に回されたときの指導係。いつも飄々としていて、感情の読めない笑顔と口調で話す男。俺のよく知る温度のない笑顔で、渡貢は俺と安倍に手を振り続けている。
「どうして渡さんがここにいるんですか?」
「湊くん。それを今から話すところだ」
渡はまるでランウェイでも歩くかのようなゆったりとした足取りで部屋の中央まで進む。そしてこれまたファションモデルのように優雅なターンを決め、俺たちを見やった。
「渚くんに荒牧くん、久しぶり。あれから大丈夫?」
「大丈夫だと思いますか? 渡さん」
「ご心配おかけしてすみませんね」
面識があったのか、渡は実験病棟の医師二人を見付け笑顔になる。そして二人を義務的に案じるが、荒牧港からは鼻で笑い飛ばされ、陣内渚からは心にもない謝罪をされた。渡のこの二人からの信頼は、それほどではないらしい。
「そんなにカリカリしないで欲しかったな」
「あなたには感謝もしていますよ。ですけど、さすがに余計なことをしてくれましたね」
渡を睨む陣内の顔には、明らかな敵意が滲んでいる。陣内の言う『余計なこと』が、どれほど煩わしいことだったのかがよく分かった。渡はいつも自分の思いどおりに物事を進めるので、こうやって人と衝突することが多々あった。俺が生活安全課ではなく刑事課に籍を置いているのは、渡のこういったところについて行けなくなったからでもある。
「渡さん。あなた何したんですか?」
「湊くんにまで呆れられると悲しくなるなあ」
「言っときますけど、これは俺たちの事件です。あなたは地域住民の苦情にでも対処しててください」
渡は優秀な男だ。それは痛いほどに理解しているし、渡の実力を信頼してもいる。だがその能力は、自分のテリトリーで活かすべきだ。わざわざ戦地に上がり込み、場をかき乱すだけかき乱して帰る第三者。俺は、そんな存在を歓迎出来る人間ではない。
「酷い言い草だね」
「当たり前です。俺たちの事件で、好き勝手しないでください!」
「北条。一旦落ち着け。そもそも、俺たちはこの事件の担当なだけで、この事件が俺たちのものなのではない」
渡に食い下がった俺を、安倍は静かに制す。その言葉の正しさにも食いつこうとしたが、安倍の目の先にいる人物に俺の勢いは殺されてしまう。俺は自分の浅はかさに耐えきれず、そっとこの場にいる全員から目を逸らした。
「北条。君の気持ちも分かる。だけど、俺たちは刑事だ。第三者が我が物顔をしてはいけないのだろう?」
「安倍さん……」
いつの間にかすぐ隣に立っていた相棒に肩を叩かれ、俺は強制的に冷静にさせられる。急速に熱を失った脳内は素早く活動を始め、俺の言動を振り返りだした。
俺は、渡に邪魔をしないでもらいたかった。この事件に首を突っ込み場を荒らさないで欲しかった。でもそれは、俺がこの事件を自分のものだと認識していたから思ったことだ。そしてその認識は間違いだった。
この事件で我が物顔をして良いのは、この事件の関係者だけ。俺は無意識に安倍の視線の先に目をやる。被害者である朝川寧音の姉、朝川愛意。被疑者の配流玲と同僚である実験病棟の医師や学生時代からの親友、そして昔からの親交がある貝塚璃王。自分の大切な人が巻き込まれた事件に、担当の刑事がしゃしゃり出てくるこの状況をはたして許してくれるだろうか。
俺は、渡に押し付けた自分の禁忌を自分で犯していた。それなのに自分を棚に上げて、渡だけを責め立てた。そりゃ、相棒に止められてしまうよな。俺は安倍の思慮深さに感謝をし頭を下げた。
「すみません」
「良いんだ。君ほどではないが、俺も今怒りを発散させたい気分なんだ」
はしゃぐような口調と弾むような笑顔。その二つを使いながらも、憤りをたたえた瞳で安倍は渡を睨めつける。俺はこの人の、こんな今にも怒り狂いそうな顔を見たことがなかった。そのせいで気圧されてしまい、一歩、バディの隣からずれる。
「渡さん。あなたが配流玲を連れ出したんですよね?」
あくまでも断定はしない。だけど、安倍の語気と眼力の強さがその問いへの確証を表していた。それに何より、俺以外の全員が同じ目をしている。みんな、同じ答えに行き着いていたのだろうか。
「あなたは警察内部での信頼が厚い。あなたが言うことすべてを疑わずに、頷いてしまう人だっている。そういう人をうまく使ったのでしょう?」
「渡さんは人の頼みごとを絶対に断らない人です。でも、人より自分の思いどおりになることの方が大事な人だ。玲の優しさを利用して、うまいこと口車に乗せたってところですか?」
「あなたは先ほど安倍刑事の言葉に『呼んだ?』と反応した。つまり、あなたが配流玲を連れ出したということは明白です。だから、答えてもらいましょうか。私たちの問いに」
三方から三者三様に蔑まれても、渡はわざとらしく肩をすくめるだけだった。渡の実力を認めている安倍と陣内は一言称賛を挟んだが、愛意は咎める姿勢を崩さずに渡を汚物のように見ている。俺の今の表情は、いったいどちらに近いだろうか。
「まいったな。こんなに責められるとは思わなかったよ」
ゆったりと全体を見回す渡につられ、俺もこの場にいる人たちの顔色をうかがっていく。誰もかもが、目付きを鋭くしている。誰もかもが、嫌悪感をあらわにしている。それが自分宛ての感情ではないのに、そう理解しているのに、俺の足はすくんでしまった。
「北条」
バディがそっと俺の名を呼び、自分のもとに引き寄せる。倒れかけていた俺の体は支えを得て、ようやく立っていられる状態になった。俺はバディを真下から見上げ、その瞳を凝視する。ここにいつも宿っている正義感は、今日は留守にしているらしい。
「安倍くんと湊くんは、これからどう捜査するつもりだったのかな? 捜査本部の方針に表向きは従いつつ、好き勝手するのが君たちのやり方だ。私は賛同しかねる方法だが」
「それは俺たちバディの勝手でしょう。あなたには関係ない。それに配流玲本人を連れて来なくたって、俺たちは彼の無実の可能性を探ろうとしていました。冤罪を避けるために!」
最後の言葉を、安倍は力強く叫んだ。叫んでくれた。俺が一方的に掲げている俺たちバディの信念を。この状況で一人感激する俺に、バディは優しく微笑んでくれた。
「安倍くんもまだ若いね。捜査したってね、全部が全部分かるわけじゃない。人の気持ちは絶対に分からない。正しいかどうか確かめる術がないからだ。術も持たずにがむしゃらに捜査したところで、時間がかかり過ぎるか時効というタイムオーバーを迎えるかどっちかになる」
「それは……。もちろんそのことも理解しています。だからこそ、俺たち刑事は捜査をし続けるんです。一秒でも早く事件を解決し、事件関係者の心を救うために」
「やっぱり、若い子は世間の厳しさを知らないんだね。そんな綺麗事を遂行出来るほど、日本の警察は優秀じゃない。どんなに自分の時間を割いても、どんなに文字どおり寝る間を惜しんでも解決出来ない事件はある」
渡の正論に、安倍は唇を噛み続きを途切れさせる。俺も反論したいのに、目の前に座る女性の存在がそれを許してくれない。歯がゆい思いのまま、俺は空気を飲み込んだ。
分かっている。今のこの状況を作ったのは、紛れもなく警察という組織だ。当時の捜査員たちが朝川寧音を保護出来ていれば、五年経った今にこうやって誰もが苦しむことはなかった。この状況を引き起こしたのは当時の捜査員だなんて、もちろん口が裂けても言えないが。
「だから私はどんなことでも利用する。誰かから事件を調べて欲しいと頼まれればそれに応えるし、自分なりの答えに辿り着けばそれが正しいと証明する。組織に属して集団行動がために初動が遅れるなら、個人で動く方がよっぽど楽だ」
「だからって、渡さんは自分勝手が過ぎますよ。自分を頼ってくれた人も自分を信じてくれた人も利用するなんて、結局あなたの八つ当たりです」
俺は渡の本性を知らない。元からこんな性格だったわけではないらしいが、俺が出会った四年前にはもうこれだった。弟が事件に巻き込まれ、自分が指揮を執った失踪事件は未解決のまま更迭されるはめになった。きっとさまざまな絶望があって、それを隠すためにこんな性格を選んだのだろう。だがそれを加味したところで、やはりただの八つ当たりにしかならない。
「北条くん、君は今その八つ当たりに助けられたんだよ。私が彼をここに連れて来なければ、事件の全容が明かされることはなかった。この事件の解決の兆しが、見えなかったかもしれないんだ」
「俺たちはそんなこと望んでない!」
聞き捨てならないことを、渡は平然と言ってのけた。俺はあらん限りの力を込めて喉を震わせる。冷え込んでいた室内の空気が、俺の怒号で更に張り詰めた。
「たしかに、事件の解決が一番の目的です。それが警察という組織が存在する理由ですし、警察官の使命の一つです。でも俺は、ただ冤罪を憎んでいるだけなんです。あなたみたいに、正義感や使命感をもって警察をやってるんじゃない。容疑者として浮上した人物が本当に犯罪者なのか、もしそうならその動機は何なのか、俺はそれが知りたい。事件の内容なんて、これっぽっちも興味がない!」
「湊くん、君という人は……」
俺が力いっぱい断言しても、渡は呆れて言葉を失うだけだった。失望とまではいかなくとも、渡は俺を見限ったのかもしれない。それくらい、俺を見下す顔をしている。
仕方ない。なんにせ俺には、自分の考えを誇示出来るほどの成功体験も、渡のように自分ルールを作らなければならないほどの失敗体験もないのだから。他人がいろいろなことをして、そこから何かを感じて生きてきた。そんな受け身の人間が、主体的に生きてきた人の考えを変えられるわけがない。
「渡さんは事件そのものを重要視している。俺は人を優先する。正反対なんですから、分かり合えるわけがなかった」
「そうだね、湊くん。残念だ」
「はい。俺はあなたみたいに、事件解決に命を捧げる警察官にはなれません」
俺はたっぷり時間を使い息を吸う。もうここで、はっきりと言ってやろう。
「そこまで、国家の犬に成り下がる気はありませんので」
誰かが、はっと息を呑む気配がした。俺はその声の主が気になり、辺りを見回そうとする。しかし安倍が俺の肩に手を置いたので、俺は慌ててそちらを振り返った。
「だそうですよ、渡さん」
見れば、安倍は誇らしげに笑っている。そして、渡に自慢するように鼻を鳴らす。どうやら俺のバディも、国家の犬はお断りらしい。
「それでは俺たちはこれで失礼します。あなたのせいとはいえ、被疑者を逃走させたのは俺たちの責任になりますから。配流玲を探しに行きますよ」
「安倍くん、湊くん。君たち……」
「北条、行くぞ。真実を探しに」
『真実』。それは探しに行かなくても、渡のおかげで配流玲本人の口から明かされたではないか。そう言おうとして、立ち止まる。きっと俺たちが探すべき『真実』はそれではないのだから。
「了解です! 安倍さん」
俺たちは警察組織に属するバディなのかもしれない。だがそれいぜんに、同じ目的に向かって走る仲間なのだ。誰に何と言われようとも、俺たちバディは俺たちの目的を果たすのみ。
「行きましょう!」
掴むんだ。俺たちが知るべき、事件関係者たちの『心の真実』を。
読んでくださりありがとうございます!
次回も読んでくださると幸いです!




