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第二十一話 赦せないとき

玲の原点とも言える過去の出来事。玲が血の繋がらない父親に抱く、複雑な感情。「赦す」とは、罪や過ちを責めない、ありのままを受け入れる、といった意味だそうです

 俺は、誰からも赦されないまま死ぬのだろう。それを悲観することはしないし、何も疑問に思わない。それくらい、自分が犯した罪が重いことを知っている。


 むしろ、赦されたくない。中途半端に同情されて、涙を流されることの方が苦しい。あのときみたいに、なって欲しくはない。あれは子供ながらに、肩身の狭い思いをした。


配流(はいる)、面会だ」


 事務的な声かけをしてきた男に続き、俺は面会室に入る。あくびを噛み殺し、それから目に入った光景に、ポカンと口を開けた。開けたというより、開いた口が塞がらなかった。


「どうして?」


 アクリル板の向こうにいる男に、俺は足をもつれさせながら近寄る。こんなにも俺はうろたえているのに、男は落ち着いた笑みを崩さない。


(れい)。元気だったか?」


「どうして……。お義父さん」


 俺はへたり込むように椅子に沈む。何故ここにこの男がいるのか、皆目見当もつかない。俺は黙って、養父を見つめるしか出来なかった。


「玲が言っているよ。俺は君のお父さんだからね」


「血の繋がらない赤の他人ですよ。わざわざ、貴重な時間を削ってまで来るところではありません」


 天王寺(てんのうじ)友仁(ゆうじん)は、三十三年前に俺を養護施設から引き取ってくれた人。それから息子も同然に育ててくれたが、俺が配流姓を名乗ることも許してくれた。その優しさは、ちゃんと娘の友加(ゆうか)へ受け継がれている。


「俺はそこまで高名な人じゃないからね。父親として、息子に会いに来る時間くらいはあるよ」


「だから、父親面しないでください。俺はあなたの子供ではない」


 友仁は、友加の父親だ。そして俺の父親は、配流(らん)ただ一人。俺たちに血の繋がりはない。どこかの誰かが、血ではなく心で繋がっているのが家族だと言っていた。だが俺はまだ、この人を心の底から家族と思えたことがない。


「そうか。俺たちが一方的にそう思っていただけか?」


「少なくとも、友加は俺を家族だと思っていませんよ。幼なじみ、だそうです」


「まんざらでもなさそうだな」


 友仁に指摘され、俺はようやく胸を張っていたことに気付く。慌てて襟を正しながら、友仁のそれこそまんざらでもない表情を凝視した。相変わらず、飄々としていて感情が読めない。


「好きなのか? 友加のこと」


「はあ!」


「兄妹だと結婚出来ないけど、幼なじみなら結婚出来るからな。友加のこと、好きなのかと思って」


 呑気な笑顔の裏で、そんな失礼なことを考えていたのか。義父に呆れながらも、その観察眼に脱帽する。たしかに、俺は友加のことが恋愛的な意味で好きだ。昔からずっとそうだった。好きだから、兄妹にはなりたくない。そんなふうに思っていた。


 図星であるから否定しきれない。だからせめてもの抵抗で、強く睨み付けてみる。だが友仁の朗らかな顔に、あっさりと毒気を抜かれてしまった。


「好きですよ、友加のこと。でもそう認めたところで、こんな犯罪者に大切な娘は渡さないでしょ?」


「当たり前だ。娘の人生は、楽しくて幸せにあふれたものであって欲しいからな。苦しむと分かっていて、送り出す親なんていない」


「そう言ってくれると思いましたよ」


 友加は俺と違って、実の両親から愛されている。いつも大事にされ、意思を尊重され、ダメなときは叱ってもらえる。一目見て、愛のある親子だと分かった。俺の家族とは大違いだ。


 俺を引き取ったのだって、結局は友加のためだ。友加が俺に会いたいと言ったから、それならと思ったのだろう。友仁も母親の美加も、友加のためなら何だって出来るといった顔をしている。


 絵に描いたような完璧な家族。俺の天王寺家への第一印象が、今も崩れていないことに安堵した。友仁たちは犯罪者から娘を遠ざけ、必ず守ろうとする。もしものときに、友加がつらくなることはない。


「俺は家族が大切だ。命にも他の何にも負けないくらい、大切に想っている。もちろん玲、君のこともだ」


「お世辞でも嬉しいですよ」


「この熱烈な告白をお世辞か。相も変わらずひねくれてる」


 お世辞だなんて思ってもいない。目は口程に物を言うそうなので、友仁の熱く揺れる瞳を見ればそれが嘘だなんて思えない。だから、そのまっすぐな気持ちから逃げようとした。友仁の愛は、俺には少し熱過ぎる。


「すみません。親にそう育てられましたので」


「俺は君のご両親に会ったことがないから、お二人がどんな人なのかは判断しかねる。だけど、そのひねくれは君の素だと思うよ。仕込まれたものではなく、君から自然発生したものだ」


「そうでしょうか? 俺の両親、意外と底意地悪いんです。悲しいですけど、遺伝ですよ」


 自信があるようなので心苦しいが、友仁の推察をはっきりと否定させてもらう。俺は、確実にあの二人に似た。悔しいが、似ていないと声高らかに宣言出来ない。それが出来るほどの自信を、この人生では得られなかった。


 表面だけをなぞるように見ると、あの二人は完璧な親だった。産まれたばかりの、人並みの健康を享受出来ない息子を、一番に考え安全な暮らしをさせた。すべてのリスクを回避し、すべての望みを叶える。これほど素晴らしい親がいるかと、笑って言えるだろう。


「演技が上手なんだと、勝手に思っています。人にどう見られているのかを、ズレもなく理解する。だから表面だけ取り繕っていれば、簡単に人を引き寄せられる。こういった性質をもつのが配流家なんです」


「ご両親も、君も、そうだと?」


「はい。ふとしたときに思います。ああ、今の俺、あの人たちと同じだって」


 優しいはずなのに、どこか狂気を秘めた笑み。圧をかけられ、目に見えない鎖で束縛された。やりたいこと、欲しい物も満足にねだれず、親の顔色だけが世界のすべてだった。力による支配とはまた違う、実体のない感情による支配。逃れようとしても、見えない鎖から解かれる術を知らなかった。


 そうやって俺がもがいている間にも、両親は同情を集めていく。大変だね、頑張ってね、何でも頼ってね。優しい人たちがいる。あんな子のためによくやるね、不倫相手との子でも大事な子供だものね、あの子邪魔じゃないの。棘を隠そうともしない人だっている。


 両親は、どちらかと言えば自分勝手な人間だ。俺のすべてを、悪びれもせずに決めていく。自分たちが絶対的に正しいと、信じて疑わない。無自覚に棘を突き刺し、俺の身体を貫いていく。言語化できない支配が、この世で一番怖かった。


 そんなことをしたって、好かれる人は好かれるのだ。両親の葬式で見た涙の粒の大きさと聞いた嗚咽の多さには、正直思うところがある。でも、俺が理由を知ろうとしないだけで両親が慕われる人間だとは分かっている。だって、それこそ俺もそうだから。


 偏屈でひねくれていて、口も性格も悪い。死んでも関わりたくないタイプだと自負しているが、こんな俺にも好意を向けてくれる人がいる。唯一無二の親友、尊敬する先輩、純真な部下、無垢な青年。わけもなく俺を好いてくれるし、俺もそれを倍にして返してやりたいと思う。


 関わってはいけない種類の人間なのに、人を惹き付ける何かがある。それは人に好かれる演技が上手いからであり、両親も俺ももっている性質だ。そのせいで、相手からの好意の理由を考えると、両親と同じだからという結論に至ってしまう。


「本当は、兄さんみたいになりたかったです。嘘を吐かずとも好かれる人に。兄さんは根っからの超人で、何でも出来て周りを冷静に見れて。だから、その飾り気のなさに人が寄って来た」


 両親や俺が『こうすれば良い』と考え行動する人なら、兄は『こうしなくてはならない』を基準に行動する人だ。自分の役割と立場を理解し、そこに恥じない成果を出せる。そこに憧れた。


 泥臭い努力があるわけではない。天性の才能が、彼を彼たらしめた。彼はその役割をまっとうするために産まれてきたのだと思わせるほどに、非の打ち所のない男だった。だから、人々は彼に酔いどれるのだろう。


 俺もそうだった。俺のためと言い訳をして縛り付けてくる両親より、暇だからと呟いて隣にいてくれる兄の方が好きだった。してはいけないことを教えてくれる両親に対して、兄はそれをしたらどうなるかまで教えてくれた。それをしたら俺がつらくなると、半ば脅してきたこともあった。そんな人だから、笑っていられた。


 一緒におしゃべりをして、一緒に教材を広げて、一緒に本を読んだ。隣に並んで同じことをしているだけで、俺は幸せだった。特別なことは何もしないという、兄の優しさが大好きだった。だから兄を尊敬し、そうありたいと願った。


「弟にそう思ってもらえて、お兄さんも嬉しいと思うよ」


「お義父さん。それが違うんですよ」


 友仁はもう俺の家族語りに飽きたらしい。前のめりだった体は、椅子の背もたれに預けられている。会話をとっとと切り上げようとした様子から、この短時間で耳にタコができたのかもしれない。俺は彼の興味を引き戻そうと、今度は自分が身を乗り出す。


「この前、久しぶりに会って食事をしたら、ものすごく叱られました。俺、だいぶ兄さんに嫌われていたみたいです」


 脳裏にあの夜が蘇る。あそこまで体を震わせ、声を荒らげる兄を見たことがなかった。でもそのおかげで、あれが兄の本音なのだと察することが出来た。俺は、兄に本気で『大嫌い』と言われた弟なのだ。


 大好きな兄に嫌われて、悔しいも悲しいも一回は感じた。でも、嫌われるような行動をしたのは俺だ。俺の自業自得であり、俺は傷付くことも兄を責めることも出来ない。自分を嘲り、友仁に笑ってみせる。


「至極まっとうなことを言われ、しっかりと説教までされました。嫌われたのは俺のせいなのに、兄さんが信じられなくなりました」


「君は、自分が嫌われるようなことをしたっていう自覚はあった?」


「ありませんよ。俺は俺なりに、上手くやっていたつもりでした」


 自分の思いどおりにことを運ぶために。心の中でそう付け足しておく。さすがに聖人君子の友仁には、そんなゲスいことなど言えない。


 俺は、自分が描いたシナリオどおりに人を動かしたい。だからそのために、相手の気持ちを考えコントロールしようとした。だが、俺の考える気持ちと相手の実際の気持ちが乖離していたらしい。


 そこを兄に指摘され、驚いた。俺は今までに自分の予想を外したことがなかった。俺の『こうすれば良い』はいつも最適解だった。だから驕っていたのかもしれない。


 俺の知っているその人の一面だけを信じて、それを指針にしていた。天王寺友加も、藤條(とうじょう)瑠伊(るい)も、固定された観念で生きてはいない。生きて外部と接しているのだから、もちろん人として成長していく。それを完全に失念していた。


「でも、そう上手くいかないから人生なんですよね。俺は兄の人生を奪ってしまった。俺のせいで兄は……」


「ちょっと待ってくれ」


 声を上擦らせ、友仁は俺の言葉を遮る。自責の念に駆られていた俺は、その焦りように面食らい思わず顔を上げた。大きく見開いたブラウンの瞳と視線がかち合う。


「わざと、嫌われるようなことをしたわけではないのだろう。だったら、そう自分を責めずぎない方が良い」


「ですが……」


「わざとでないなら、謝ればきっと許してくれる。誰かを思いやれる優しい君のお兄さんだ。そうに決まっている」


 やはり、友仁は常に自信に満ちあふれている。今だって、胸を張って当然のことのように言いきった。それがとても妬ましく、大嫌いだ。


 普通なら頼れるその姿勢が、友仁の場合は不安にさせてくる。絶対的な自信に根拠も何もない。それなのに自分がそう思ったからという理由だけで、こちらに圧をかけてくる。全部勝手に決めつけて。


「兄さんは俺を赦してくれませんよ。俺のせいで、人生の大半を棒に振ったようなものですから」


「さっきから自分を責めてばかりだな。そんなに自分を赦してあげられないか?」


「赦すも何も。人の怒りは、時間の経過とともに緩んでいくことが多いんです。そうやって周りから自分の罪を忘れ去られるなら、自分だけは覚えていたい。自分で罪を背負って生きていきます」


 そう覚悟していたのは、やはりながら、俺が人の気持ちを理解していなかったからだろう。時間が経てば許してもらえるなんて甘えたことを考えて、それなら自分がと気が急いていた。


 俺が自分を罰しなくとも、俺の罪を覚えていてくれる人はいる。悪だと思わなかった行いも、罪としてカウントしてくれる人がいる。自分がそうしなくても、俺が赦されることはない。


「俺がしたことは、最低最悪の行為なんですよ。大好きな兄の偶像を守るために、兄本人を傷付けた。大好きな偶像を維持するために、罪のない少女を誘拐した。しかも、犯罪の理由付けに兄を使った。誰からも赦されなくて、当然のことをしました」


「こんなところで訊くことではないが、君は本当に自分の意思で誘拐をしたのか?」


「そうですよ。だから、無関係の兄を言い訳にしたことが恥ずかしくてしかたないです」


 浮かんだ涙を隠すように、右腕で瞳を覆う。恥ずかしさとも悔しさとも違う不思議な感覚が、じわじわと俺の首を絞めてくる。


「もう、そういうことにさせてください」


 本当は、もう疲れた。嘘を吐く度に心が痛み、虚言を事実だと認識しようと脳が過重労働をした。嘘をつらつらと述べることが出来ても、それを信じ込ませることは難しい。取り調べで刑事がするあの鋭い目付き。まるでもう一人の自分に睨まれているようで、居心地が悪かった。


 分かっている。俺は嘘しか口にしていない。真実を話そうだなんて、微塵も思っていない。そんな殊勝なことをする勇気を、俺は持ち合わせていなかった。だから、そんな惨めな自分から目を背けるために早く嘘を信じてもらいたい。


 どんな嘘も、信じる人がいれば真実になる。俺はずっとそのときを待っている。早く、この事件を終わりにしたい。早く、藤條瑠伊と朝川(あさかわ)寧音(ねね)に平穏な暮らしを送ってもらいたい。


「早く、早く、終わって欲しい」


 俺のせいで人生を裂かれた人たちが、笑って暮らせる世界が欲しい。そのために俺は、嘘を吐き続ける。嘘を真実にして、全部俺一人が背負えば良い。巻き込んでしまった親友も同僚も、俺の知らないところで笑っていて欲しい。


「俺のせいなんだから、俺が終わらせます」


 涙を拭い去り、俺は強く友仁を見つめ返す。堂々としていなければならない。そうしなければ、俺の心はあっという間に悲鳴を上げて壊れてしまう。みんなのためにも、俺が終わらせる。


「よく分かったよ。今の君は、人の話に聞く耳をもたないっことが」


「そうですよ。俺はもう決めたんです。あなたが何を言おうと、俺は折れたりしません」


「玲はいつも、変に頑固だね。なんだかあのときを思い出すよ」


 あのとき。その抽象的な言葉が指すものを、俺はすぐに察することが出来た。俺が天王寺家の一員にはなれないと悟ったとき、そして、俺が自分の罪を覚えていようと決めたとき。


 今の俺を形作った、あの決定的な瞬間のことだ。俺は息を呑み、友仁の瞳から逃げた。あの事故で、俺は友仁から大切なものを奪った。その罪悪感が、一気に押し寄せて友仁の目を見ていられない。


「あのときも、自分のせいだと言って譲らなかった。もしかしたら今でも、玲は自分を責めているのかもしれないな」


「はい。俺があの場にいなければ、防げた事故です。俺のせいではないと全員が言ってくれましたが、俺に責任がない方がおかしいです。俺は、責任を問われるようなことをしました」


 あのときを思い出す。俺の人生を決定づけた、あの研究所での事故を。俺はあのときから、少しも成長していないのかもしれない。


ーーーーー


 俺が友仁に引き取られてから、ちょうど五年が経った日のことだった。この日は、俺が初めて友仁が所長を務める研究所に足を踏み入れる日で、朝から興奮してばかりいた。


「ここがハートラボだよ」


 森林を抜けた先にある、隠れ家のような場所。白い壁の二階建てで、外国の海辺に建つ住宅を想起させた。しかし、建物の隣に『ハートラボ』とかわいらしいフォントで書かれた看板が立っているため、ここが日本だということは嫌でも思い知らされる。


「お父さんはここで、心臓の病気を治す方法を探している」


「心臓?」


「ああ。俺にとって、心臓は人体の核だ。この身体にぬくもりが宿るのは、この心臓が動いているからだと思う。だから、全人類のコアを守るために俺に出来ることをやりたい」


 力強く意気込む友仁に続き、俺はラボの中に入る。その瞬間、いつも友仁からしている鼻を刺す臭いがし、その強烈さに顔をしかめた。


「何、この臭い……」


「ああ。消毒液か。慣れないと鼻が痛いよな。大丈夫か?」


「痛いというより、なんかムズムズする」


 たしかに鼻に鋭い痛みが走ったが、それよりもくしゃみが出る寸前のようなむずがゆさがある。俺は鼻をひくつかせながら、先に進む友仁を追った。


「マスクする? ちょっとはマシになると思うけど」


「やだ。我慢する」


 大のマスク嫌いにそんな提案をするなんて。俺はふてくされ、友仁から顔を逸らした。うっすらと意地悪な笑みをする友仁に、ふつふつと怒りが湧いてくる。俺の苦手なことを知っているから、こうやってからかってくるのだ。


「お義父さんって、たまにサイテー」


「お! 友加とおんなじこと言ってる」


「だったら、態度を改めるべきだね」


 実の娘の友加と、養子の俺が同じことを言った。そんな変なところで興奮している友仁を置いて、俺はさっさと研究室への扉を開ける。いつも話題にはあがるが、実物を見たことはない。俺は未知の世界への興味で、素早く室内に飛び込んだ。


「うわあ! すっごい!」


 途端に、俺は感嘆の声をあげた。白を基調とした広い部屋の中で、義父と同じ白衣を着た人たちが忙しなく動いている。ある者たちは薬品を運び、またある者たちはパソコンを食い入るように見ていた。


「これ、何の薬なんですか?」


 俺は興味をそそられ、近くにいた男性に話しかける。彼の持っていた薬は透明の液体で、パッと見では水と変わらない。だが、これは人の命を救うためのものだ。どんなはたらきをするのか、気になってしまうのは当然だろう。


「これは解熱剤っていって、熱を下げるために使うものだ。玲くんも、覚えていないだけで使ったことがあると思うな」


「誰か熱出したんですか?」


「ああ。僕の担当の患者さんがね。これから投与してくるよ」


 男性は俺に手を振り、急いで部屋を出て行った。そして、慌てた足取りで階段を上っていく。そこまでの急用だとは思えないが、子供には分からない何かがあるということか。


「玲は、二階の患者さんがいるところと、奥の調合室には入っちゃダメだからね。危険が比較的少ない、ここだけでお願い」


「分かった。じゃあ、ここ案内して。お義父さん」


「君、だいぶ俺の扱いが上手くなったね」


「そうかな?」


 子供らしく友仁に手繋ぎをねだり、許可される前に指を絡める。義父はそんな俺に呆れ顔をするが、どこか嬉しそうに口角を上げた。


 おどけてはみたが、俺はこの五年間でこの人の扱い方を学習していた。どんな言動をすれば友仁に喜んでもらえるのかは、もうとっくの昔に分かっている。友仁の言葉どおり、俺はこの人の扱いが上手い。


「前にも説明したとおり、ハートラボは心臓病の患者を対象にした研究施設だ。二階には患者さんが入院する個室が数部屋あって、一階はここのモニタールームと調合室、あとはみんなの休憩スペース」


「お義父さん。モニタールームって何?」


「見てのとおりだよ!」


 俺が質問をすると、友仁ははしゃぎながら室内を指差す。スキップのような軽いステップで、俺の手を引き中に進んだ。


「これがお父さんのデスク。パソコンは三つ使っていて、右のは調べもの用、左はカルテ管理用、そして真ん中が患者のモニタリング用だ。他の人のデスクも同じ感じだよ」


 三つのパソコンはそれぞれ独立した別物であり、大きさも機種もバラバラだった。右のパソコンはタブレット端末と同じ大きさで、検索サイトが開かれている。左のものはそれより一回りほど大きいが、表示されているカルテの文字はかなり小さい。一枚に記入することが多過ぎるのか、文字たちが身を寄せ合っているように見えた。


「お義父さん。このうねうねしてるのが、心臓のやつ?」


 俺は中央の最も大きなパソコンを指し、首を傾げる。パソコン画面のはずだが、そこに表示されている情報は心電図モニターそのものだった。俺は釈然とせず、友仁を見上げる。


「そうだよ。心臓が変な動きをしていないか見るための波形と、脈拍のリズムを確認するための波形がある。でも一番下の波形は、心臓じゃなくて呼吸のリズムとか深さを表しているんだ」


「数字もたくさんある」


「そうだね。この数字が二つ並んでいるのは血圧。左が最高血圧、右が最低血圧。それと下のかっこの中の数字が、その平均の血圧だよ。あと、この小さく表示されているのが体温だね。こういったことをこの場で見られると、すぐに患者さんの異変に気付けるから良いんだ」


 説明を聞きながら、俺はこれに既視感を覚えた。どこかで見たことがあるような、でもその記憶に靄がかかっているような不思議な感覚。奥底に眠った記憶の中に、確実にこれを下から眺めた記憶がある。


「お義父さん。俺、これを見たことがあるような」


「覚えていないのか?」


「うん。はっきりとは思い出せなくて……。でも、確かにこれだった気がする」


 思い出そうと唸っていると、ふいに友仁の手が頭に触れた。そのまま髪をわしゃわしゃと撫でられ、最後にはぽんぽんと優しく叩かれる。俺はその手をどかそうと、友仁の甲をつねった。


「どかしてよ!」


「玲。無理して思い出さなくて良い。悪かったな」


 再度俺の髪をかき混ぜ、友仁は手を離す。俺がその腕を追うと、友仁の笑顔に行き当たった。眉尻の下がった悲しそうな笑み。その笑顔に、俺の記憶がはっきりと像を結んだ。


「あ……」


 あのときだ。ここに来たばかりの頃、環境の変化に体がついていかず大きく体調を崩したことがあった。免疫の発達が人よりも遅く、俺は病気が重症化しやすい体質だった。あのときも最初はただの風邪だったのが、だんだんとこじらせて肺炎になっていた。それで寝込んで、自分の死を覚悟したっけ。そうだ、あのとき。ベッドから見上げた目線の先にあれがあった。


 自分の心臓を可視化し、自分の体を数値化した機械が。その隣で、友仁は俺に無理をするなと微笑んでくれた。今とまったく同じ笑顔だ。


「お義父さん、ごめん。俺やっぱり帰る」


 さすがにいたたまれない。俺自身はうなされていて記憶もおぼろげだが、友仁はずっと俺が苦しんだところを覚えているのだ。そのせいで、俺を気遣わなければと気負っている。


 ここを見せて欲しいと頼んだとき、なかなか了承してくれなかったのもそれが理由だろう。俺が終わりを意識するほど苦しめられたということを、思い出して欲しくないのだ。そう思うと、これ以上ここにはいられない。


「玲、大丈夫か?」


「ごめんなさい」


 それだけ言うのが精一杯だった。俺は友仁に背を向け、早足で出口に向かう。一刻も早く、この場を去りたかった。俺のせいではあるが、気遣われるのは居心地が悪い。


 俺は誰とも目を合わせないように、うつむきながら歩く。そのせいで、前から歩いて来る存在に気付かなかった。


「うわ!」


 顔面を強打し、その衝撃で尻もちをつく。ぶつけた鼻頭に鈍痛が走った。


「ごめん! 大丈夫? 怪我してない?」


 俺にぶつかられた男性は、あたかも自分が悪いかのように振る舞い俺に手を差し出す。俺はその手を取り、立たせてもらう。そして勢い良く頭を下げた。


「すみません。俺は大丈夫です。あなたこそ、怪我してませんか?」


「僕も怪我してないよ、大丈夫」


 男性は人懐っこい笑みを浮かべ、俺の頭を撫でる。撫で回しながら俺の顔を覗いた男性は、はっとした表情になりそれから笑顔をより一層大きくした。


「君、さっきの子だね。どう? ここ面白いでしょ」


 太陽のように眩しいこの男性は、本当に先ほど焦っていた人物と同一人物なのか。鬼気迫る表情と朗らかな表情では印象に大差があるので納得しかねるが、声と口調が完全に一致しているので納得することにした。


「はい、まあ」


 友仁を振り返り、曖昧な返事をする。面白いというより、友仁が危惧したとおり肩身の狭い場所だと感じてしまう。それを悟られぬため、俺は男性の脇を通り過ぎようとした。


「あれ? 帰るの?」


「すみません。お邪魔しました」


 しかし隣に並んだタイミングで腕を掴まれ、俺は身動きが取れなくなった。挨拶をして帰ろうとするが、それもむなしく終わる。男性は興味津々といった様子で、俺を観察し始めた。


「すっごい! 綺麗な目の色をしてるんだね」


 案の定、俺の灰色の瞳に食いついてくる。日本人では珍しい色だし、灰色の目には疾患がある可能性が高いので興味をもたれる予感はしていた。この研究所に勤めている人は大半が医師なので、この人も気になって仕方がないのだろう。


「まるで宝石だ……」


 宝石。友加にも、そう例えられたことがある。だが、そのときと同じ嬉しさは湧かなかった。友加は瞳に見惚れて目尻をとろけさせていたのに、眼前の男は瞳孔をかっ開いて気迫のある顔になっていた。肉食獣が獲物を襲う直前にする顔に似ている。そう思うと、嬉しさよりも恐怖に支配された。


 俺は衝動的に逃げようと、ひざまずいている男から距離をとる。数歩後ずさりをして、すぐに棚にかかとが当たる。そのまま背中を棚に強打し、俺は男から逃げる術を失ったと理解した。そのとき、男が顔を驚愕に染め血相を変えて飛び出した。


 視界に影が落ちる。俺は男の腕に抱えられ、その勢いのまま床に倒れ込む。俺に覆い被さり、俺を抱きしめる男。その上に、棚からダンボール箱が落ちてくるのが見えた。誰かが、何かを叫んだ。


 ガシャン!


 甲高い音が鳴り響き、辺りにガラス片が散らばる。ダンボール箱に入っていたガラス器具類が、床に落ちた衝撃で割れてしまった。音に驚き呆然とした俺は、頬に流れた生ぬるい液体の存在で現実に引き戻される。自分がしたことの重大さを、そのとき理解させられた。


近藤(こんどう)!」


 友仁が、男の名を叫んだ。それで、俺の上で額から血を流す男の名前が近藤であることを知った。近藤の額は、ガラスでぱっくりと裂かれている。そこからとめどなく血があふれ、俺の頬を伝っていた。生ぬるいのが、気持ち悪い。


「玲! お前はそこから動くな」


 室内にいた他の研究者たちに指示を出し、最後に友仁は俺に大声を飛ばした。そこに怒気が含まれていることは、すぐに分かった。俺は近藤の震える腕の中で、体を小さくする。


「ごめんね、玲くん。気になっちゃてさ」


 近藤が、俺を抱く力を強める。腕も声も震えているのに、さっきまであんなに怖かったのに、そこには妙な頼もしさがあった。


「ごめん。怖かったよね」


 俺は全力で首を振る。怖かったことを否定するわけではない。ただ、こんな目に遭ったのに俺を責めようとしないその姿勢を否定したかった。俺が注意を怠ったせいなのに。


「良かった。守れて」


 なんで、そんな顔して笑えるのだ。近藤の心底ほっとしたらしいその笑顔に、俺は理解出来ない恐怖を覚えた。怖い。理解出来ないことが、これほどまでに怖いのか。


「ごめんなさい」


 研究者たちに連れてかれる近藤に、そう声をかける。しかし、そのときには既に近藤の意識はなかった。友仁は近藤を見送り、ガラスを避けながら俺に歩み寄る。そして、俺を抱きかかえて部屋の隅に避難した。


「玲は怪我してないな。良かった、良かった」


 友仁は俺を床に下ろし、俺の体をくまなく観察する。そして俺にかすり傷一つないことを確かめ、胸を撫で下ろした。大袈裟だとは思ったが、友仁の泣きそうな顔を見て何も言えなくなった。


「本当に良かった。玲に何かあったら、俺……」


 安堵とは正反対のもう一つの感情。それを滲ませた友仁は、しつこく無事を確かめるために俺の腕を擦った。摩擦で熱を帯びた腕に、友仁の漠然とした不安が伝わる。


 失いたくない。自意識過剰とかではなく、友仁が俺に対してそう思ってくれているのだと感じた。友仁は俺を本当の息子、つまり友加と同等に想っている。俺を抱える強さが、そのすべてを物語っていた。


「お義父さん、ごめんなさい。俺のせいで」


「違うよ、玲。もとはと言えば、俺がここに連れて来たからだ。お前は悪くない」


「近藤さん、俺を庇って、あんな血まみれになって。俺が棚にぶつかったから……」


 つい今しがたのことが、遠い過去のように思える。呼び起こした過去の自分が、今現在の自分と同じ人間だという感覚もない。赤の他人の、知らない瞬間を見ているようだった。


 それでも、自分を責める声が聞こえる。己の内側から発生した、罵詈雑言の嵐。俺の心を目がけ猛威をふるう。


「それは、近藤が執拗に話しかけたからだろ? あいつは興味のあることに一直線になるタイプだから、それが怖かったんだよな」


「たしかに、近藤さんに迫られて怖かった。でも、俺の目の色が灰色じゃなければ、そもそも興味ももたれなかった」


 近藤は、俺の瞳が宝石みたいだと言って食いついてきた。なら、もしこの目が一般的な黒や茶色だったら。近藤の興味を引かないから、こんなことにはならなかった。


「だとしてもだ。玲は望んで、灰色の瞳になったわけじゃないだろ。お前のせいじゃない」


「違うよ。俺がもっと、自分が周りからどう見えているのかを理解するべきだった」


 珍しい目の色をした子どもが、すぐ傍にいる。手を伸ばせば届く距離なのだから、この絶好のチャンスを逃す選択肢はない。俺はしっかりと、自分の外見とそこに紐付く感情の流れを理解しなければならなかった。


「変えられるところは変えて、防げることは防がないといけない。それが出来なかった、俺のせいだよ」


「玲……」


「お義父さんが俺は悪くないって思っても、俺が俺自身を赦せない。ごめん、ほんとに」


 俺は言葉を失った友仁を置いて、部屋を出て行く。その足で止まることなく研究所を後にし、森林の中ほどで建物を振り返る。もう二度と、ここに立ち入ることはない。


 俺は近藤の回復を祈り、心の中で謝罪をする。また後日、ちゃんと謝罪の手紙を書こう。そうしたら、手紙は友仁に預けて彼から渡してもらおう。直接手渡そうとしたら、今日と同じことになる気がした。


 俺は自分を赦せない。結局、逃げているではないか。自分の罪から目を背けて、のうのうと生きていこうとしている。赦せないから、自分で自分を罰し続けるしかない。そう心に誓う。


 こうして俺は、自分を責める生き方を学んだ。


ーーーーー


 あのときを完全に思い出した俺は、一筋涙を流す。理由のない涙を拭い、俺は友仁に向き直った。


「変わりませんね、俺。昔から」


「そうだね」


 友仁は、ひどく落ち着き払っている。俺はそんな友仁の凪いだ心なら、受け止めてくれるだろうと思った。今まで隠していた、あのことを懺悔しよう。


「お義父さん。最後に一つ、謝らせてください」


 背後で人が立ち上がる気配を感じ、俺はそう切り出した。友仁も居住まいを正し、さっと聞く姿勢になる。


「同音異義語です。『お義父さん』と『お父さん』。どちらも『おとうさん』と聞こえるのに、そこに含まれる関係性は変わってくる」


「血の繋がりを意識しているかどうか、だね」


「はい。あなたが俺を、実子として育てようとしてくれていたことは知っています。でも俺にとっての『お父さん』は、あなたではありません」


 俺はゆっくりと息を吸った。


「ごめんなさい。『お義父さん』」


 友仁のブラウンの瞳が揺れる。ようやく、俺にどう呼ばれていたのかを察したのだろう。日常会話で相手がどの漢字を使って会話しているのかは、推測するしかない。そこに自分の希望が入り込む余地は、充分にあった。


「あなたを騙すような真似を、ずっとしていました。俺は、自分のこういうずる賢いところも赦せない」


「玲! お父さんは……」


「もう面会、来なくて良いですよ。お義父さん」


 義父が何かを言う前に、俺は立ち上がり部屋を出る。閉じた扉の向こうで彼が何を思っているのか、それもまた、俺が推測するしかないのだった。


ーーーーー


 妹が帰って来た。朝川愛意(あい)は、白いベッドで眠る妹の頬を撫でる。ようやくだ。この五年間、どれほどこのときを待ちわびたことか。


 自分の中の小さな妹とは似ても似つかない姿なのに、不思議と涙があふれて止まらない。懐かしい。妹の肌に触れるこの感触が、痛いほどに懐かしい。震える指先で妹の髪を梳かす。肩までの長さだったボブは、丁寧に切りそろえられたロングヘアになっている。


 寝ているので正確には分からないが、身長だって私と同じくらいまで伸びたのではないか。あどけない幼女から、大人びた少女に変貌したように感じる。この変化を、間近で見届けたかった。どうしようもない願望ばかりが、浮かんでは消えていく。


 由命界(ゆうめいかい)総合病院の、荒牧(あらまき)(みなと)陣内(じんない)(なぎさ)。あの二人は、私の妹を攫った奴と事故に遭わせた奴は別人だと言っていた。でも、それらすべての罪を配流玲が背負った。何があったか真実はまだ確定していないが、あの二人が大切な存在を守るために嘘を吐いたというなら、それを見過ごすことは出来ない。


 たった一人の妹を、事故に遭わせた奴、攫った奴、閉じ込めた奴。こいつらが同じ人物でも、違う人物でも何でも良い。みんなみんな、寧音の人生を奪ったことには変わりないのだから。憎んで恨んで、赦すことはない。直接寧音に手を出した奴だけでなく、そこに加担した奴も同様だろう。


「待っててね」


 もう一度寧音に触れ、私は窓の外を眺める。カラスがこちらを睨み、飛び去って行った。あの鳥のように、寧音にも夢に向かって飛び立つ人生を送ってもらいたかった。


 今からでも、遅くはないだろうか。


 赦せないものは赦せない。だが、真実を知ろうともせずに人を恨む自分は、寧音の姉としてふさわしくはない。だから、真実を追求しよう。あの二人を訝しみながら、あの二人と協力していこう。私は、真実を知りたい利己主義者なのだ。

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