閑話 ミヒル・ヴュルフ=クショフレールの独白 後
傍迷惑な姪と、大切な友人を同時に失ったことは、私に安堵と喪失感をもたらした。
愚痴を語りあえる相手を失ってしまった、と思っていた矢先、乳母のマノンが乳飲み子を抱えてやってきた。
見たこともないような、鮮やかなミモザ色の髪と瞳を日の光に輝かせ、赤ん坊はきゃらきゃらと笑った。
そういえば、二人の間には子供が生まれていたのだった、と思い出した私は、どれだけ姪に興味がなかったのかという話になる。
姪の産んだ子供は男の子で、名前はヨドクス・ゲストだという。
オスフェデア風に呼ぶのならヨドクス・ギュエストになる。
ヨドクスはオスフェデア王国の古い王の名前で、息子にオスフェデアらしい名をつけることで、姪と夫のアルフがこの国に定住する意思を示したのだろう。
これまでは姪に関わりたくなかったので、貸した家を訪れることもなく、半年にもならない赤ん坊と出会う機会はなかった。
赤ん坊を育てたことも、望んだこともない私は、ふっくらとした血色のいい頬や、小さなカエデの葉っぱのような手に触れる勇気はなかった。
乳母を引き受けてくれたマノンは、私が家の管理を任せている夫妻の娘になる。
彼女の父親で元小作人のヘニー・ブルは、数年前に罹患した流行病の後遺症で、利き腕に痺れが出てしまい、満足に働けなくなった。
地主男爵家のクショフレール家で得られる仕事の大半は体力勝負で、片手ではできない。
長らくクショフレール家のために働いてくれたヘニーに、当時の当主であった義父は早めの引退を進めたが、足腰が立つ間は働きたいと本人が言うので、引退を先伸ばしすることになった。
働きたいという意思は尊いもので、小作人の鑑として讃えられることだ。
しかし、父は代わりの仕事を見つけられずにいた。
専門知識をもたない小作人に、畑を耕す以外の仕事を与えた前例がなく、老人のように座ったままできる手仕事を与えるのは、長く働いてくれたことへの感謝の気持ちが伝わらない、と義父は頭を悩ませていた。
その頃の私は、実働隊が本格的に活動を始めたおかげで、家に帰る暇もないほど多忙を極めていた。
ずっと母と祖父にとって邪魔な存在だった私は、学院を卒業した後に義父との共同研究の特許で稼いだ、私個人の財産で土地と家を買っていたが、管理を任せる相手が必要だと思っていた。
へニーは私より十歳近く年上で、子供の頃から知っている真面目な男だ。
数少ない、私に対して誠実な態度をとってくれた人でもある。
勝手に引き抜いた人参をかじりながら、坊ちゃんは悪くありませんよ、と彼に慰められるのは、いつも祖父に罵られて母に詰られた時だった。
彼の妻と娘なら信用できるだろう、と義父に頼んで、敷地内の管理を夫妻とその娘に頼むことになった。
私自身がほとんど家に帰れず、客を招くこともないので、敷地内に管理人の家を建てさせた。
それから数年が経ったころ、姪夫妻が私の元へやってきた。
相変わらず多忙で実働隊本部に詰めることが多かった私は、私の家を姪夫妻に貸すことにした。
管理は任せっきりで必要な通達は手紙で済むので、帰らなくても問題なかった。
見知らぬ国での生活も、人の良いブル夫妻がいてくれれば過ごしやすいだろう、と配慮をしたつもりだ。
へニーの娘のマノンは結婚していて、姪と同時期に娘を産んでいた。
家の管理を長く任せていて、信用に足る人物だと知っていたからこそ、仕事と生活の負担にならない程度で、と又甥の乳母を頼むことになった。
姪夫婦が傭兵として戦場に出かけて不在の間、マノンは自分の娘とヨドクスに乳を含ませ、片手間に母と父の手伝いをしていた。
マノンの夫も小作人で、畑仕事に出かけているので、日中は不在だ。
専任の乳母としての知識はもたず、小作人の妻でしかなかったマノンは善良な母親だった。
姪夫妻の葬儀が終わるのを待っていてくれた彼女は、きゃらきゃらと笑うヨドクスを抱っこしたまま、親なしになった赤ん坊をどうしたら良いか、と聞いてきた。
いくらマノンがヨドクスを自分の娘と同じように扱っていても、彼女は乳母で、母親ではない。
このまま親なし子にしてしまうのは可哀想、と泣きながら訴えるマノンに、私は何も答えられなかった。
姪ともっと話し合いをしていれば、歩み寄っていれば良かったのだろうか。
◆
数日の内に戦争が終わり、国中がお祭り騒ぎに包まれる中で、私はヨドクスにとって一番良い未来を考えた。
この時の私は、クショフレール家の人間ではあっても、当主ではなかった。
当主である義父は引退を望んでいたが、異父弟は私と揉めるのを拒み、私は話し合いの席に着くことを拒んでいた。
幼い頃は母と祖父の影響を受けていた異父弟は、学院に行き、地主男爵家の当主となるべく学んで行く途中で変わっていった。
なぜかは知らないが、私に尊敬の目を向けるようになったのだ。
私を追い落としたくないと言って、当主になってくれない異父弟に困惑しか覚えられなかった。
しかし、この時は弟がそう思っていてくれていたことに感謝した。
たとえヨドクスに情を持っていなくても、私と同じように親の愛情を知らないまま、どこかが欠けたままの大人にさせたくはなかった。
とりあえず手元に置いておいて、愛情を与えてくれる誰かを探すことを、方針として決めた。
ヨドクスを養子にするため、私は義父と異父弟と話し合い、名前だけの当主になった。
私よりもずっと有能な異父弟に、代官としての実権(当主という肩書き以外)をすべて渡して、名前だけのクショフレール地主男爵になった。
婚姻する気も血を残すつもりもない私が死ねば、当主の名前も異父弟のものになる。
何も問題はない。
そして、ヨドクスを養子にするための手続きをしている時に、あいつらが現れた。
サヒーラ傭兵団。
ヨドクスの父、アルフ・ゲストが団長をしていた流れの傭兵団。
凄腕の傭兵を数多く抱えていて、金さえ払えば大概の汚れ仕事を請け負う、少数精鋭の戦闘集団。
傭兵団の顧問だと名乗る女、信頼できない目をした私以上の狂人、アウローラ・アンヌンツィアータ。
あの女がアルフの遺言書として、ヨドクスを育てる仕事を受けているという旨の書状を持ってきたのだ。
傭兵団の運営や今後については事細かに書かれている書状だったが、ヨドクスについては〝生まれた子供の育成は、顧問のアウローラ・アンヌンツィアータに一任する〟としか書いてなかった。
これはヨドクスに限らずに、傭兵団の団員の子供全員が該当するのだと言う。
金をかけて調べてもらったが、アンヌンツィアータの持ってきた遺言書は本物としか思えないでデキで、傭兵団の子としてヨドクスを国外へ連れ出すという。
どこで、どれだけの期間、どんな風に育てる、という指定が全くない遺言書であっても、ゲスト夫妻が亡くなっているので破棄するだけの根拠が得られない。
下手に騒ぎ立てると、イルギジャラン帝国のサイクス伯爵家に勘付かれる可能性もある。
何よりも貴族の血を守ることを重んじる帝国の貴族が、平民の血が混ざったことを喜ぶはずがない。
伯爵家にヨドクスを引き取りたいと言われたら、認知されていない大叔父(祖父の兄弟)よりも祖父の方が、後見人として相応しいと判断される可能性は高い。
素直にヨドクスを手放すべきかとも思ったが、姪とアルフが〝オスフェデアの英雄〟と称えられている状況を利用し、バルに交渉役を派遣してもらうことにした。
自分だけでなんとかしようと意固地にならずに、バルに頼ったのは正解だった。
養子にはできなかったが、ヨドクスが成年になるまでの後見人として認められた私は、傭兵団と養育環境についての交渉を始めた。
一切の干渉をされたくないと渋る傭兵たちに、ヨドクスの出生証明書を見せて、オスフェデア王国国民である乳児を後見人の許可なく国外に連れ出すことは、乳幼児誘拐になると脅した。
その上で国内での養育を条件に金をちらつかせ、人の住まない森の中に住居を建てて、すべての必要物資をこちらで用立てることで黙らせた。
大金を見せたことにより、彼らはこちらの条件を最低限受け入れた。
この森は私が実働隊に入るまで、農作物の育成環境からの収穫量増加の試験運用や、農薬などの研究をしていた個人私有地だ。
本当なら隔離するような真似はしたくなかった。
だがアンヌンツィアータは、そこだけは決して譲らなかった。
金に汚くて戦うことしかできそうにない彼らが、ヨドクスを不衛生な環境で餓死させる可能性を考えて、貴族家専門の使用人を何人も契約したが、一日と持たずに追い出されることが続いた。
仕方なく最新型の使用人型魔術具を用立て、壊したら弁償させる契約を傭兵団の阿呆どもと結んで、家事だけに従事させることになった。
自動魔術人形の運用記録を介して、ヨドクスが好きな食べ物は分かっても、どんな性格なのか、どんな子に育っているのかを知ることはできない。
アンヌンツィアータとの契約で、自分たちが育成している間は接触しない、としたことを後悔した。
あの女が養育係として連れてきた傭兵たちは、人とは思えない存在感を持っていた。
氏素性が不確かな者しかいない流れの傭兵団の団員たちが、血の繋がりのない赤ん坊を大事に育てるとは思えない。
しかし要求を飲んでいなければ、あの女はヨドクスを連れて国外に逃げていただろう。
もしそうなったらあの女は止められない、今でもその思いは変わらない。
定期的に使用人から送られてくる運用記録を、毎日のように読み返して心配している内に、いつのまにか私は、自分が本当の父親になったような気がしていた。
結婚も子供も望んでいなかったのに。
祖父と孫ほどに年が離れているのに。
こんな私にも、人並みに誰かを大切に思う心があったらしい。
記憶の中では顔も姿も乳児のままの又甥を、いつか抱きしめてやれたら、お前を大切に思っている者はいるよ、と伝えてやれたらと、ただ、そう思った。
◆
私の元に、ヨドクスが森を出た、と通達が来たのは突然だった。
安全のために、とヨドクスの身につけさせていた結界用魔術具が、森に数カ所設置されている魔物用の観測機に干渉して私に通信が入った。
今までもヨドクスが森の中を散策しているのは知っていた。
異なる場所の観測機が干渉を検知するたびに通信が入り、森の外縁部に向かっていることを知ってしまうと、焦るしかない。
慌てふためいたが、私には森の中の一人の子供を捕らえるすべはない。
実働隊にかかりきりで森の敷地を使用していないから、と特務近衛衛兵団の教練に森の外縁部を使用する許可を出していたことが功をそうした。
王族に貸しを作るというより、バルに頼まれたからでしかなかったが、偶然、この時も教練をしていた近衛衛兵団がヨドクスを保護してくれた。
結界系の魔術具がヨドクスにとって意味がないと、私は知らなかった。
ヨドクスの身柄は実働隊本部へ運ばれた。
何が起きているのかを知る必要もあるし、何よりもヨドクスに会いたかった。
それなのに、私は約十二年ぶりに見るその姿が、思っていた以上に幼いことに驚きつつも、どう声をかけて良いのか分からなくなってしまった。
あんなに何度も、ヨドクスと話す内容を考えたというのに。
育ったヨドクスの顔立ちは、父親にそっくりだった。
幼い子供のようにふっくらとした丸顔と、瞳が大きく眉尻が下がっているせいで年齢以上に幼く見える顔立ち。
深い森の中で育ったからか肌は白いが、病的ではない。
手足が細く華奢な体格をしていても、弱々しくは見えない。
簡易的な健康診断の結果は異常なしだったが、魔力測定の結果は人とは思えない数値が出ていたので、見た目で侮ることはできない。
「……」
物心がついてから、ずっと顔見知りのみに囲まれて暮らしてきたのだ。
そう思うと、警戒する野生動物のような反応も可愛く思える。
「わたしはバーレンティン・ハーへ、この実働隊の総隊長を務めている。
さて、それではまず、金の話をしよう。」
体重だけなら明らかに倍以上のバルが、恐ろしいと言われる厳つい笑顔を見せても、ヨドクスは怯えて泣き出しだりはしなかった。
ただ、じっと、満開のミモザ色の瞳を開いて、バルを観察していた。
そして私はこの後、後悔し続けることになる。
ああ、どうしてもっと、この子を手元に置くために戦わなかったのだろう、と。
私が汚名と泥もかぶって耐えていれば、この子は人として扱えないモノにならずに済んだかもしれないのだ。




