第1章・第5話「初乗り、血の鱗」
石造りの天井から滴り落ちた水滴が、俺の頬を叩いた。
カビと埃が混ざったような、地下特有の重苦しい空気が鼻を突く。
最悪だ。
俺は、トランクを枕にしていた首筋の凝りを手でさすりながら、ゆっくりと身体を起こした。
硬い寝床には、タクシーの深夜勤務明け、営業所のソファで仮眠した時のような、取れない疲れだけがこびりついている。
薄暗い貯蔵庫の隅。
そこでは、セフィラが自分の膝を抱えて丸まっていた。
彼女の銀髪が、アニマの澱みに反応して、不気味なセピア色の光を微かに放っている。
「……セフィラ。調子はどうだ?」
「……最悪だよ、おじさん。耳鳴りが止まらない。世界が、どんどん『不味く』なってる」
セフィラは耳を押さえたまま、顔を上げずに答えた。
創造神である彼女の体調は、そのまま世界の支配権(SIC)のバロメーターだ。
彼女の苦しそうな声を聞くたびに、このセピア色の空の下にある現実が、刻一刻と破局へ向かっていることを思い知らされる。
ギィィ、と頭上で古い床板が鳴った。
「起きたか、坊主。生きてるなら、さっさと上がってこい」
ガルトの声だ。
俺はトランクを掴み、重い身体を引きずるようにして階段を上がった。
一階の酒場は、夜明け前だというのに、すでに数人の荒事師らしき連中が集まっていた。
泥だらけの服、錆びた剣。誰もが不機嫌そうに、泥のようなスープを啜っている。
ガルトはカウンターで、一本の錆びたナイフを磨いていた。
俺が近づくと、彼はそのナイフを無造作に放り投げてきた。
「……なんだ、これは?」
「食い扶持を稼ぐための道具だ。裏の路地裏に、ブラッドバイパーが入り込んでやがる。一匹仕留めて、鱗を持ってこい。そうすりゃ、今夜のスープ代くらいにはなる」
ガルトの視線が、俺の細い腕を射抜く。
試されてるな。
俺はこの錆びたナイフを手に取り、その重心を確かめた。
酷い出来だ。
「まあ、そんなもんだな。……初乗り(メーター)は、もう入ってるしな」
「死にたくなけりゃ、昨日の言葉を忘れんなよ。魔獣に重心な道理は通じねえ」
ガルトの警告を背中で受け流し、俺は酒場の扉を開けた。
◇
外は、濃いセピア色の霧に包まれていた。
変だ。
昨夜よりも、空気が重い。
粘り気のある熱が肌にまとわりつき、深呼吸をするたびに肺の奥がチリチリと焼けるような不快感に襲われる。
城壁外の貧民街。
そこは、建物の間を縫うようにして、ゴミと泥が堆積した迷路のような場所だった。
俺は足音を殺し、一歩ずつ進んだ。
神域で百年間繰り返してきた「型」。
それは無意識のうちに、俺の歩幅を一定に保ち、周囲の微細な変化を捉えようとする。
カサリ。
右前方、積み上げられた壊れた樽の陰で、何かが動いた。
来た。
俺はナイフを構え、姿勢を低くした。
タクシーの運転手として培った「観察眼」が、対象の動きを解析し始める。
霧の中から現れたのは、血のように赤い鱗を持つ巨大な蛇――ブラッドバイパーだった。
全長は三メートルを超えているだろうか。
黄色い瞳が、獲物を定めた悦びに細まり、二叉の舌がチロチロと熱を測るように空気を打っている。
……不気味だな。
俺は蛇の「重心」を読もうとした。
攻撃の起点となる、筋肉の収縮。
視線の向き、首のしなり。
だが。
読めない。
蛇の身体は、どこにも力が溜まっていないように見えて、同時に全てが攻撃の準備を終えているように見えた。
人間なら、拳を引けば肩が動く。
足を踏み込めば腰が沈む。
けれど、この化け物には、そんな「最短ルート」の予測を許す前兆が一切なかった。
「……おじさん、危ない!」
セフィラの鋭い叫びと同時に、赤い影が爆ぜた。
速い!
俺は、神域の型に従って、反射的に左へ回避しようとした。
だが。
変だ。
蛇の首は、物理的な慣性を無視して、空中で直角に曲がった。
俺の「理想の型」による回避位置を、あざ笑うかのように。
牙が、目前に迫る。
鱗が擦れ合う、金属的な音が鼓膜を刺した。
死ぬ。
脳内が、真っ白に染まった。
前世、フロントガラスの向こう側で意識を失った時とは違う。
もっと野生的で、剥き出しの、生物としての「終わり」が、冷たい鱗の熱となって首筋を舐めた。
――泥を這いずれ、坊主!
ガルトの怒鳴り声が、記憶の底から跳ね上がってきた。
俺は、整った「型」を捨てた。
右足の踏み込みも、腕の構えも、全てを投げ出した。
ただ、タクシーで正面衝突を避けるために全力でハンドルを切るような、無様で、けれど必死な「緊急回避」。
グチャリ。
俺は、腐った水たまりが溜まった泥の中に、顔から突っ込んだ。
最悪だ。
鼻腔に泥の臭いが入り込み、視界が泥水で濁る。
けれど、その不格好な一回転が、俺の首を蛇の牙から数ミリだけ遠ざけた。
背後の石壁に、ブラッドバイパーの牙が突き刺さり、火花が散る。
生きてる。
俺は泥を吐き出しながら、低く這うようにして立ち上がった。
全身が泥まみれだ。
下級貴族としての礼服も、百年の修行で培った「達人」としての自尊心も、今は何の意味も持たない。
だが、その瞬間。
俺の視界から、余計な「ノイズ」が消えた。
人間相手の戦法。
騎士たちが語る、美しい加護の理。
そんなものは、この泥の街には存在しない。
「……そういうことか。なるほどな、ガルト」
俺は、膝立ちのままナイフを握り直した。
ブラッドバイパーが、壁から牙を引き抜き、再びこちらを向く。
その瞳に宿っているのは、先ほどまでの「余裕」ではない。
獲物が予測外の動きをしたことへの、純粋な苛立ちだ。
蛇が、再び身体をしならせる。
今度は、逃げない。
俺は、泥の中に両手を突き、地の底から這い上がってくる「熱」を掌で感じた。
アニマの澱み。世界の歪み。
この不快なチリつきは、同時に俺の肉体にとって、最強の「ガソリン」にもなり得る。
カチリ。
骨の芯で、小さな音がした。
神域での記憶が、この泥の感触と同期する。
蛇の鱗が、逆立っている場所が見えた。
首の付け根。
不自然に一枚だけ色が違い、アニマが脈動している一点。
逆鱗。
「セフィラ、耳を貸せ。……行くぞ」
「……分かってるよ、おじさん! 我も、もう我慢の限界だ!」
セフィラが、俺の肩を強く踏みつけた。
俺の全身の毛穴から、透明なアニマが吹き出した。
それは「量」ではない。
極限まで圧縮された、一撃必殺のための「設計図」だ。
俺の右腕が、泥を切り裂いて前に出る。
身体が、外側へと拡張される感覚。
まだそれは、形を持たない光の残滓に過ぎない。
けれど。
カチリ、カチリ、カチリ。
連続する接続音が、泥だらけの路地裏に鳴り響いた。
俺の拳が、ブラッドバイパーの赤い鱗に触れる。
その瞬間、俺は「魔獣」という理不尽な法則の、最初の一枚を剥ぎ取る手応えを得た。
◇
【実績:初めての魔獣討伐(着手) を獲得しました】
【内面:無力感からの微かな脱却の予兆 を獲得しました】
【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
「初乗り、血の鱗」
世界の崩壊(SIC低下)に伴い、耳鳴りに苦しむセフィラ
不穏なタイムリミットが刻まれる中、おじさんはガルトから手渡された錆びたナイフ一本を手に、貧民街の迷路へと足を踏み入れました。
そこに現れたのは、巨大な赤蛇「ブラッドバイパー」
前世で培った観察眼をもってしても、物理の慣性を無視して直角に曲がる魔獣の「重心」は読めず、完璧だったはずの神域の型があざ笑われるかのように崩されます。
迫る牙、剥き出しの死。その瞬間、おじさんの脳裏に響いたのは「泥を這いづれ」というガルトの鉄の教えでした。
プライドも、美しい型もすべて投げ打ち、泥水に顔から突っ込む無様な「緊急回避(急ブレーキ)」
しかし、その泥塗れの視界から一切のノイズが消え去った時、おじさんは魔獣という異形の法則を、自らの技術へと『翻訳』する最短ルートを見出します。
世界の歪みそのものをガソリンに変え、骨の芯で連続して鳴り響く「カチリ、カチリ、カチリ」という同期音
ステータス1のおじさんが、ついに理不尽の逆鱗へと拳を叩き込みます――!
泥にまみれてなお加速していくおじさんの初乗り
ここからの大逆襲をぜひ、応援、レビューなどで一緒に見届けていただけると大変励みになります。
第6話もよろしくお願いします!




