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第1章・第4話「泥の味、鉄の教え」

 階段を下りるたびに、湿ったカビの匂いと、安酒の鼻を突く酸臭が濃くなっていく。

 足元の石段はすり減って中心が凹み、そこには茶色く濁った水が溜まっていた。


 地上ではあんなに騒がしかった魔獣の咆哮が、ここまでは届かない。

 代わりに聞こえるのは、地下独特の重苦しい静寂と、奥の方で鳴っている食器がぶつかる乾いた音だけだ。

 セピア色の光は届かず、壁に掛けられた煤けたランプが、弱々しく室内を照らしている。


 最悪だ。


 俺はトランクを握り直し、最後の一段を飛び越えた。

 店内の空気は粘り気を帯び、肌を刺すアニマのチリつきが、城壁内とは比較にならないほど鋭い。まるで、排気ガスの充満した地下駐車場に閉じ込められたみたいに、呼吸をするだけで肺の奥がざらつくのを感じる。


 カウンターの端。

 そこに、あの「違和感」の主がいた。


 ガルト。

 片腕を失い、ボロボロの服を纏った大男だ。

 だが、その背中から立ち上る威圧感は、泥だらけのこの街にはあまりに不釣り合いだった。


「……客か」


 男が振り返る。

 その双眸は、酒で濁っているようでいて、俺の重心の僅かな揺れさえも見逃さない鋭さを秘めていた。

 

 来た。


 俺はタクシーを止める時のように、相手の出方を伺いながら一歩を踏み出した。


「……看板に誘われてな。一晩、寝かせてほしいんだが」


「ここは宿じゃねえ。酒場だ。……それとも、そのトランクの中身を全部酒に変える気か?」


 ガルトの声は、ひび割れたアスファルトを歩くような、ざらついた響きをしていた。

 俺はトランクをカウンターの横に置き、ポケットから数枚の硬貨を取り出した。

 父から投げつけられた、あの屈辱の青銅貨だ。


「交渉(商談)といこう。俺には加護がない。城壁内の宿からは乗車拒否……いや、入店拒否された身だ。あんたのところなら、この程度の『チップ』でも、隅っこに置かせてくれるんじゃないかと思ってな」


 ガルトの視線が、俺の手元に落ちる。

 

 変だ。


 男の筋肉が一瞬だけ強張った。

 それは青銅貨の安っぽさへの失望じゃない。俺が「加護なし」と言ったことへの、何か深い場所にある共鳴のような、微かな震えだ。


「……おじさん、このおじさん、怖ーい。目が笑ってないよ? 今のうちに逃げる? ほら、我が背中押してあげようか?」


 影の中からセフィラが顔を出し、俺の肩をツンツンと突きながら囁いた。

 彼女の銀髪がランプの光を吸い込んで、そこだけが別の法則で動いているように揺れる。


 うるさい。


 俺は無視してガルトを見据えた。

 沈黙が三拍。

 地下の重苦しいアニマが、俺たちの間で火花を散らしているような錯覚。


「……ふんっ。勝手にしろ。ただし、地下の貯蔵庫だ。カビの匂いで肺を腐らせても文句は言うなよ、坊主」


 ガルトが顎で店の奥を示した。

 交渉成立だ。


 俺はトランクを引いて、案内された席に腰を下ろした。

 椅子はガタついていて、座り心地は最悪だったが、泥の道を歩き続けた足には、タクシーの休憩所のベンチよりもマシに思えた。


 しばらくして、ガルトがトレイを持って現れた。

 置かれたのは、石のように硬そうなパンと、具材が底に沈んだ薄いスープだ。


「食え。それがここでの『一流のサービス』だ」


 俺は、何も言わずにスープを口にした。

 

 ……泥の味がする。


 前世、営業所の休憩室で食べた、誰が作ったかも分からない冷めた弁当や、深夜のコンビニで買った味の濃すぎるおにぎり。

 それらと同じ、生きるためだけに腹に詰め込む「燃料」の味だ。


 懐かしいな。


 鼻の奥がツンとしたのは、スープの熱気のせいだと思いたい。

 俺は硬いパンをスープに浸し、ゆっくりと噛み締めた。

 一口ごとに、空っぽだった腹に、ズシリとした生活の実感が溜まっていく。


「……坊主。お前、さっきの門で何て言われた?」


 ガルトが、カウンターを拭きながらボソリと聞いた。


塵芥級ダスト。……数字は『1』だ。誰が見ても、魔獣の餌にしかならない数値らしい」


 俺はおちゃらけた笑いを作って答えた。

 ガルトの手が、一拍だけ止まった。


「数値、か。……城壁内の連中が信じてる、あのクソったれな物差しだな」


 ガルトは布巾を放り投げ、俺の正面に座った。

 彼から漂う安酒の匂いが、より一層濃くなる。


「いいか、よく聞け。魔獣ってのはな、人間とは違う。お前が壁の内側でだか何だか知らねえが、そこで磨いた『人間相手の型』なんて、あいつらには通用しねえ」


 俺の動きを、この男は見抜いていたのか。

 

 驚いた。


 俺が石碑に触れた時のアニマの揺らぎか、あるいは歩き方の癖か。

 この片腕の男は、俺が隠している「技術ソフト」の存在を、本能で嗅ぎつけている。


「人間には『重心』がある。次に右へ行くか左へ行くか、視線や肩の揺れを見れば分かる。だが、魔獣にそんなもんはねえ。あいつらはアニマの澱みそのものだ。重心を読ませないまま、法則の外側から噛みついてくる」


 ガルトが、自分の欠けた右腕を指差した。


「俺の腕を食ったのは、お前の重心を読ませる暇も与えない、ただの『暴力』だった。……お前がその全ステ1の体で生き残りたいなら、まずはその綺麗すぎる『型』を捨てろ。泥を這いずり、魔獣の不気味さを骨に刻め。……それができないなら、明日にはあの門に戻って、エリアとかいう女の袖を掴んで泣きつくんだな」


 ……厳しいな。


 だが、その言葉には、城壁内の騎士たちが語る高潔な正義よりも、ずっと確かな「重み」があった。

 魔獣戦。

 人間相手の技術ソフトを、いかに魔獣という異形の法則ハードへ翻訳するか。

 それが、俺がこの泥の街で最初に解決しなければならない「最短ルート」だ。


「……まあ、そんなもんだな。泥の味には、もう慣れたよ」


 俺は、スープを飲み干して立ち上がった。

 

 地下の貯蔵庫。

 そこに置かれた、埃を被っただけのベッド。

 

 俺はトランクを枕にして、横たわった。

 セフィラが俺の顔の上で、透けた体でくるりと回る。


「おじさん、また大変なところに来ちゃったね。でも、我が付いてるから大丈夫だよ。明日、一緒に魔獣さんに会いに行こうね」


「……ああ。メーターは、もう止まらないからな」


 俺は目を閉じた。

 

 カチリ。

 

 骨の芯で、小さな音がした。

 

 酒場の外。

 貧民街の路地裏、セピア色の霞が最も濃い場所で。

 

 粘り気のある熱を帯びた、何かが獲物を求めて蠢く気配がした。


 明日。

 俺の第3の人生、最初の「初乗り」が、泥の匂いと共に始まる。


 ◇


【知識:貨幣感覚や貧民街のルールの把握 を獲得しました】

【あとがき】

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


「泥の味、鉄の教え」


城壁内の偽りの平穏を脱したカイトがたどり着いたのは、セピア色の澱みが肺を焦がす地下の安酒場。

そこで待っていたのは、右腕と、かつての栄光のすべてを失った男・ガルトでした。


おじさんが手渡した、父からの屈辱の青銅貨

そして、差し出された泥の味がするスープ


前世の深夜のコンビニや営業所で、生きるためだけに腹へ詰め込んだあの「燃料の味」を思い出しながら、おじさんは静かにこの街の現実を噛み締め、生活の実感を掴んでいきます。


しかし、ガルトが突きつけたのは「魔獣には重心がない」という、これまでの人間相手の武道ロジックを全否定する冷酷な事実でした。型を捨て、泥を這いずり、異形の法則を骨に刻めという鉄の教え

「……まあ、そんなもんだな」とおちゃらけながらも、骨の芯で「カチリ」と鳴るシステム


いよいよ次回、全ステータス1のおじさんが、魔獣という理不尽の塊を相手に、百年の設計図アーマチュアをどのように『翻訳』し、最短ルートを叩き出すのか――。

泥の匂いと共に、初乗りのメーターがいよいよ動き出します!


カイトとセフィラの、泥泥で泥臭い(けれど圧倒的な)逆襲の始まりを、ぜひ応援、レビューなどで一緒に並走していただけると本当に嬉しいです


第5話もよろしくお願いします!

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