第1章・第3話「夜明けの門」
石造りの床を、俺の古いトランクの角がかすかに打つ。
深夜の静寂がまだ残る廊下に、その乾いた音が冷たく反響した。
窓の外、空は夜明けだというのに、濁ったセピア色に染まっている。
日の光が差し込んでいるはずなのに、世界はまるで古い写真の底に沈んだみたいに色彩を失っていた。神威庁の塔から響く鐘の音は、かつてないほど重く、湿り気を帯びている。
最悪だ。
肺の奥までセピア色の空気が入り込んでくるような、重苦しい朝。
俺は玄関ホールへと続く最後の一段を下りた。そこには、俺がここを去るのを見届けようとする者は誰もいなかった。父も、使用人も、この没落した屋敷の空気そのものも、俺という「不良債権」が消えるのを、沈黙という冷淡な処理で済ませようとしている
扉を開け、外の空気を吸った。
石畳の上に落ちる城壁の影が、巨大な時計の針のように街を切り裂いている。
だが。
屋敷の門の前、セピア色の霞の中に、一人の人影が立っていた。
銀色に輝く髪が、不吉な空の下で、そこだけが別の法則で動いているように鮮やかだった。
エリアだ。
彼女は騎士団の訓練服のまま、じっとこちらを見つめていた。
瞳の周りがわずかに赤くなっている。一晩中、ここで待っていたのだろうか。
面倒だな。
俺は足を止めた。
トランクを持つ手が、少しだけ重くなった気がした。
「……本当に行くのね、カイト」
エリアの声は、震えていた。
かつて庭で木剣を振るっていた時の、あの凛とした響きはどこにもない。
「まあ、そんなもんだな。メーターがもう限界なんだ。次の客……いや、次の居場所を探さなきゃならない」
俺はおちゃらけた笑いを作って、トランクを揺らしてみせた。
エリアが一歩、前へ出た。
その瞬間だった。
彼女の右手が、反射的に俺の袖を掴もうと宙を泳いだ。
けれど、指先が俺の服に触れる寸前、彼女の視線が自分の腰に下がった。
そこには、中級貴族フォレスター家の証である、意匠の凝らされた剣が下がっている。
カチリ。
剣の鍔が鞘に当たる小さな音がした。
エリアの手は、俺を掴む代わりに、その剣の柄をぎゅっと握りしめた。
タクシーの運転手をやっていた頃、タクシーを降りる直前の客が、忘れ物を確認するようにカバンを抱え直す、あの「未練を断つ仕草」と同じだ。
彼女は、俺という個人を追いかけることよりも、騎士として「カイトを守れるだけの力を持つ自分」であることを、無意識のうちに優先したのだ。
変だな。
悲しくはない。ただ、自分たちの間に、言葉では埋められないほど巨大な「加護」という名の深い溝が、いつの間にか穿たれていたことを再確認しただけだった。
「あたし……もっと強くなる。騎士団に入って、ランクを上げて。そうすれば、カイトをこの家に、城壁の内に呼び戻せる権限が持てるから」
エリアの言葉は、まるで自分自身に言い聞かせている呪文のようだった。
「期待してるよ、騎士様。その頃には、俺もどこかで立派な溝掃除屋にでもなってるさ」
俺は彼女の横を通り抜けた。
振り返らなかった。背中で、エリアが一度だけ俺の名前を呼ぼうとして、言葉を飲み込む気配がした。
「おじさん、また逃げようとしたね? あの子、泣いてたよ」
影の中から、セフィラの呆れたような声が届く。
彼女は俺の肩に乗ると、銀髪を揺らしながら耳を塞いだ。
「我、耳鳴りがすごいの。ここ、空気が死んでる。早く行こう、おじさん」
◇
街の中等部を抜け、南へと向かう。
突き当たりにそびえ立つのは、高さ二十メートルを超える巨大な黒鉄の門。
境界の門
石造りの巨大な壁は、空高く、そして左右へとどこまでも伸びている。
その巨大な門の前には、城壁外へ向かう労働者たちが、沈黙の列を作っていた。
前世のラッシュ時の交差点よりひどい。けれど、そこにあるのは熱気ではなく、ただ凍りついたような諦念だった。
列が進む。
門の入り口には、二人の聖騎士が立ち、通過する者の腕にある「加護」を検知器に当てさせていた。
「次」
無機質な声に促され、俺は前へ出た。
騎士の持っている検知器が、青白く光る。
「カイト・クラウス。……家籍抹消。没落者だな」
騎士が、俺の顔と書類を交互に見た。
周囲の労働者たちの視線が、一斉に俺の腕に集まる。
俺は無言で、検知器の台座に腕を置いた。
ピピッ、という甲高い拒絶音がホールに響いた。
台座の魔石が、俺のアニマを吸い上げようとして、すぐに見放したように暗転する。
『全ステータス:1。加護、なし』
検知器の横にある掲示板に、その無慈悲な数字が公に映し出された。
「……塵芥級。いや、数値的にはそれ以下か」
騎士の一人が、鼻を鳴らした。
後ろに並んでいた労働者たちから、くすくすと下卑た笑いが漏れる。
「没落した挙句に全ステ1かよ。門の向こうで魔獣の餌になるのが最短ルートだな」
最悪だ
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳内に、前世で「無能」と怒鳴り散らしてきた客の顔が重なった。
だが、俺の指先は、トランクの取っ手を握ったまま、一ミリも震えていなかった。
カチリ
骨の芯で、小さな音がした。
数値は1。だが、俺の体内にある百年の設計図は、この場にいる騎士たちの重心の崩れも、門の蝶番の磨耗具合も、全てを「把握」している
まあ、いいか
俺は、嘲笑の中を平然と歩き出した。
「おじさん、かっこいい! ほら、我も後ろで『あっかんべー』してあげたよ」
セフィラの陽気な声が、殺伐とした空気をわずかに緩ませる。
彼女だけは、この数値の無意味さを知っているのだ。
巨大な鉄の門が、重厚な音を立てて開いた。
門の向こう側から吹き込んできたのは、城壁内の石の匂いではない。
泥と、カビと、そして安酒の鼻を突くような――「生」の臭いだった。
一歩、足を踏み出す。
グチャリ、と靴の底が泥を掴んだ。
驚いた。
足元には、整備された石畳なんてどこにもない。
ただ、多くの人間に踏み固められただけの、ぬかるんだ土の道。
見上げる空は、城壁内よりもずっと濃い、血の混じったようなセピア色に染まっている。
ここが、境界の門の向こう側。
貧民街。
城壁に背を向け、俺は歩き出した。
道端には、虚ろな目をした人々が泥にまみれて座り込んでいる。
アニマの澱みがひどい。空気が粘り気を持ち、呼吸をするたびに肺がチリチリと焼ける。
だが。
俺には、この理不尽な場所が、あの屋敷よりもずっと「自由」に見えた。
ここでは誰も、高貴な家名や加護のランクなんて気にしていない。
ただ、今日を生き延びるために、泥を啜り、泥を掻き出しているだけだ。
「……おじさん。あそこじゃない? 我の言ってた『物好きな男』の店」
セフィラが、路地の奥にある一本の看板を指差した。
泥だらけの通りに、不自然な角度で傾いた看板。
掠れた文字で書かれたその店からは、独特の酒の匂いと、そして——。
変だ。
俺の観察眼が、店の中から漂う「違和感」を捉えた。
他の住民たちの泥臭いアニマとは違う、鋭利で、重厚な、けれど半分だけ欠けてしまったような、不完全な力の残滓。
酒場の入り口、影の中に、一人の男が座っていた。
片腕を失い、それでも隠しきれないほどの剣気が、彼の周囲のアニマを静かに震わせている。
ガルト。
俺の第3の人生における、最初の「障害物」か。
あるいは、最短ルートへの「ナビゲーター」か。
俺はトランクを握り直し、泥を跳ね上げながら、その酒場へと足を進めた。
城壁の外、セピア色の空の下で。
俺のメーターは、今、本気で回り始めた。
◇
【実績:貧民街への到達 を獲得しました】
【内面:自分には何もできないという無力感の表出 を獲得しました】
【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
「夜明けの門」
見送る者もない没落した屋敷の朝。門の前で待っていたのは、涙をためた幼馴染のエリアでした。
彼女が俺の袖を掴む代わりに剣の柄をぎゅっと握りしめた瞬間、おじさんの観察眼は、それが「未練を断つ客の仕草」と同じであることを見抜きます。
加護という名の埋められない溝を背に、カイトは振り返ることなく歩き出しました。
そして、境界の門で突きつけられる『全ステータス:1』への周囲の嘲笑。
魔獣の餌になると罵られても、おじさんの指先はトランクの取っ手を握ったまま一ミリも震えません。
なぜなら、百年の設計図はすでに、門の磨耗も、騎士たちの重心の崩れもすべて「把握」しているから
泥を掴む靴底、血のように濃いセピア色の空
たどり着いた貧民街の酒場で待っていたのは、片腕を失いながらも圧倒的な剣気を放つ男・ガルト
【実績】と【内面】という不穏なログが刻まれる中、おじさんの本当のメーターが、いよいよ本気で回り始めます
次話からは、この隻腕の男ガルトとの出会いによって、カイトの「全ステ1のデタラメな最強技術」がどのようなルートを描き出すのか、本格的な物語が動き出します!
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次話もよろしくお願いします!




