第1章・第2話「今夜の話」
深夜の廊下は、昼間よりもずっと冷え込んでいた。
石造りの壁からは湿ったカビの匂いが漂い、足元の絨毯はすり減って、踏みしめるたびに床板の軋む音が鼓膜に刺さる。
窓の外を見れば、月は濁ったセピア色の霞に覆われていた。
朝の儀式から、アニマの澱みはいっそうひどくなっている。肌にまとわりつくような、ねっとりとした不快な熱気。神威庁の塔が放つ赤い明滅が、遠くの地平線で心臓の鼓動みたいに脈打っていた。
最悪だ。
俺は、重い足取りで父の書斎へと向かっていた。
この「呼び出される」感覚。前世でタクシー会社の上司に、客からの理不尽なクレームを理由に「明日から来なくていい」と告げられたあの日の朝と同じだ。
理由なんてどうでもいい。
相手が求めているのは、解決ではなく「排除」なのだ。
書斎の大きな扉の前に立つ。
意匠だけは凝らされているが、よく見れば金メッキは剥げ、扉の隅には小さなひび割れが走っている。
この屋敷そのものが、没落という最短ルートをひた走る、手入れの行き届かないオンボロの車両みたいだった。
コン、コン。
俺は、感情を殺してノックした。
「……入れ」
中から聞こえてきたのは、紙をめくる音と、低く冷淡な父の声だった。
扉を開けると、室内はさらにひんやりとしていた。
部屋の中央、巨大な机の向こう側に、父が座っていた。
ランプの明かりに照らされたその顔は、八年前に母を見捨てた時と、驚くほど何も変わっていない。眉間に刻まれた深い皺、何かを値踏みするような神経質な目。
父の視線が俺を通り抜け、背後の壁を打った。
そこに、俺という「息子」の存在はなかった。
「儀式の結果は、聞いた」
父が、一枚の書類を机の上に置いた。
羊皮紙に刻まれた紋章と、公的な刻印。
そのタイトルを読んだ瞬間、胃の奥が氷を流し込まれたみたいに冷たくなった。
『家籍抹消申請書』
驚いた。
追放される予感はあったが、まさか当日の夜に、これほど完璧な「処理」を用意しているとは思わなかった。
このスピード感。タクシーの深夜割増料金を計算する時より、ずっと効率的で、事務的だ。
「全ステータス1。加護なし。……それがお前の、この世界における『価格』だ」
父は俺を見ようともせず、羽根ペンを置いた。
「クラウス家は、もう限界だ。これ以上の負債を抱えるわけにはいかない。お前という『不良債権』を養うアニマも、金も、この家には残っていないんだ」
「……分かっています」
俺は、短く答えた。
怒りはなかった。
ただ、この世界が持つ徹底した「選別」の冷酷さに、改めて吐き気がした。
母の時もそうだった。
加護がないから。数値が足りないから。
だから、死ね。だから、消えろ。
そのロジックには、人間の情が入り込む余白なんて一ミリも存在しない。
「城壁内の居住権も、この書類の提出と同時に喪失する。明日の朝、境界の門が開くと同時に、この屋敷から出ろ。……二度と、その顔を見せるな」
父が書類を俺の方へ滑らせた。
その時だった。
変だ。
書類を離す直前、父の指が一拍だけ、不自然に止まった。
タクシーの客が、目的地を告げる直前に見せる「迷い」の間の取り方。
ほんのわずかな、重心の揺れ。
俺の観察眼が、その違和感を逃さなかった。
父の指先は、羊皮紙の端を微かに、けれど強く押し付けていた。
まるで、その書類を差し出すことへの抵抗があるかのように。
だが、それは一瞬のことだった。
「……何か、言い残すことはあるか」
父はすぐに指を離し、再び無表情に戻った。
その声には、先ほどまでの冷徹な事務作業の響きしか残っていなかった。
俺は、その問いに答える代わりに、書類を手に取った。
羊皮紙は驚くほど軽かった。
14年間の家族としての記憶。母の温もり。エリアとの時間。
それらすべてを無価値にするための紙切れにしては、あまりにも重みがない。
「……いいえ。今まで、お世話になりました」
俺は、定型文を口にした。
おちゃらけた冗談も、反論も出てこなかった。
「まあ、いいか」
……そんな言葉さえ、この冷え切った空気の中では、どこかへ消えてしまった。
俺は一礼し、書斎を後にした。
背後で扉が閉まる音が、この家との縁が完全に断たれた合図のように響いた。
◇
自室に戻ると、そこにはセフィラが浮いていた。
「あー、おじさん。おつかれさま。……顔、真っ青だよ?」
セフィラは、俺のベッドの上で胡坐をかき、銀髪を弄りながら言った。
彼女の姿が、少しだけいつもより透けて見える。
「……おじさん、って年じゃないだろ。まだ14歳だ」
「中身は50歳のおじさんでしょ。……ねえ。今のパパ、最後に指が止まってたね。我にも見えたよ。何か言いたかったのかな?」
「さあな。メーターの故障だろ。……それより、セフィラ。屋敷の様子はどうだ?」
俺は、部屋の隅にある古いトランクを引っ張り出した。
「うーん、お墓みたいだね。豪華な石と、高い家具。でも、アニマが全然流れてない。みんな、凍りついたみたいに死んでる。……我が作った世界なのに、こんなの寂しすぎるよ」
セフィラが、部屋の隅にある豪奢な彫刻を指さして吐き捨てた。
お墓、か。
確かに、彼女の言う通りだ。
この屋敷にいる人間は、誰も未来を見ていない。
過去の家名と、神々が定めた加護のランクという、古びた地図だけを頼りに生きている。
「……なら、ちょうどいい。お墓参りは、今日で終わりだ」
俺は、荷造りを始めた。
持っていくものは最小限でいい。
着替えが二着。母の形見の小さなナイフ。
そして、神域での100年修行でボロボロになるまで使い倒し、この肉体に刻み込んだ「型」の感覚。
荷物を詰め込みながら、俺は脳内で「最短ルート」を計算していた。
明日の朝、門が開くと同時に屋敷を出る。
まずは、城壁外の貧民街へ。
そこには、俺のような「負債」を買い取ってくれる物好きな男がいるという。
「おじさん、本当にいいの? 幼馴染の女の子……エリアちゃんには、何も言わなくて」
セフィラが、窓の外を指さした。
隣のフォレスター家の屋敷。
エリアの部屋の窓には、まだ明かりが灯っていた。
カーテン越しに、彼女が落ち着かない様子で部屋を歩き回る影が見える。
胸の奥が、チリリと痛んだ。
今の俺が彼女に会って、何を言えるだろう。
全ステータス1。家籍抹消。追放。
「騎士としてあたしが守ってあげる」と言った彼女に、惨めな敗北の報告をするのか?
……無理だな。
「あいつには、あいつの人生がある。俺のメーターに、あいつを巻き込むわけにはいかないんだ」
俺は、窓のカーテンを閉めた。
しばらくして、隣の屋敷の明かりも消えた。
深夜の静寂が、いっそう深くなる。
セピア色の澱みの中で、外の世界からは時折、魔獣の咆哮が地鳴りのように響いてくる。
神威係数(SIC)の低下。
世界の崩壊が、確実に加速している。
「おじさん、我、耳鳴りがすごいの。……誰かが、世界の支配権(株)を、無理やり引きちぎってる音がする」
セフィラが耳を押さえ、俺の影の中に潜り込んだ。
「ああ。分かってるよ」
俺は、ベッドに横たわった。
明日、俺は城壁の外へ出る。
泥と魔獣と、理不尽が跋扈する、本当の地獄へ。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
神域での100年。
あの音のない、光のない場所で、俺はただ一人、この瞬間のために拳を握り続けてきたんだ。
カチリ。
暗闇の中で、指先を曲げる。
骨の芯で、小さな、けれど確かな音がした。
メーターは、もう回り始めている。
行き先は、絶望のその先。
最短ルートの入り口(門)まで、あと、数時間だ。
◇
翌朝。
まだ夜が明けきらぬ薄闇の中、俺はトランクを手に、屋敷の勝手口から外へ出た。
冷たい風が、頬を撫でる。
ふと、視線を感じて振り返った。
二階の書斎の窓。
そこには、暗いガラスの向こうに、じっとこちらを見下ろす影があった。
父か。
それとも、別の誰かか。
俺は、その影に背を向け、霧に包まれた街路へと歩き出した。
夜明けの門には、きっと、誰かが待っている。
それが、この世界が俺に用意した、最初の「障害物」なのか。
それとも、最後の「未練」なのか。
確かめるために、俺はアクセルを踏み込んだ。
【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
「今夜の話」
父から手渡されたのは、あまりにも軽くて冷酷な『家籍抹消申請書』
ステータスが1だから、加護がないからという理由で、社会の歯車からもあっさりと弾き出されてしまったカイト
ですが、おじさんの観察眼は見逃しませんでした。書類を差し出す父の指先が一瞬だけ見せた、不自然な「迷い」の時間を
そして、暗闇のなかで響く「カチリ」という確かな研研の音。
家名も、お墓のような屋敷も、すべてを置いて城壁の外へと飛び出すカイトのトランクには、百年の結晶たる「最強の技術」が詰まっています。
幼馴染のエリアに告げぬまま向かう、夜明けの門
そこに待つのは、果たして誰なのでしょうか
次話からは、いよいよ城壁の外、魔獣と理不尽が跋扈する本当の地獄――もとい、おじさんの「本当の自由」が始まります!
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