第1章・第1話「雨のフロントガラス、セピアの空」
神威庁の塔の中は、ひどく冷えていた。
石造りの高い天井に、儀式を待つ少年少女たちの話し声が反響して、まるで巨大な墓場に閉じ込められたような気分になる。
窓の外、空は濁ったセピア色に染まっていた。
朝だというのに、夕焼けが腐ったような色が街を覆っている。神威庁の塔の先端が、ドクン、ドクンと不気味に赤く明滅し、そのたびに肌がチリチリと焼けるような不快な熱気が押し寄せてくる。
神威係数(SIC)の低下。
この世界が「バッドエンド」に向かって坂道を転げ落ちている証拠を、ここにいる連中は「加護の神々しさが溢れている」なんて勘違いしている。
最悪だ。
俺は列に並びながら、大きく息を吐いた。
この「順番待ち」の感覚、前世で雨の夜、駅のタクシー乗り場で客を待っていた頃と全く同じだ。
メーターが回る音の代わりに、神威庁の巨大な鐘が重苦しく響き、俺の肺を泥で埋めていく。
「カイト……大丈夫。きっと、神様は見ててくれるよ」
隣に立つエリアが、俺の顔を覗き込んできた。
彼女の瞳には、祈るような光が宿っている。
期待。信頼。そして、自分だけが「水」の加護を賜ってしまったことへの、無自覚な憐憫。
エリアの手が、俺の袖を掴もうとして空を切った。
彼女は代わりに、腰に下げた訓練用の剣の鍔を、執拗に親指で擦り始めた。
彼女の指先の震えから、俺への保護欲が溢れ出しているのが分かる。
面倒だな。
「……まあ、そんなもんだな。期待しないで待ってろ、騎士様」
俺は、おちゃらけた笑顔を貼り付けて答えた。
本心を言えば、今すぐにでもここを抜け出して、タクシーの休憩時間みたいに路地裏で煙草でも吹かしていたい。
だが、列は確実に進む。
ホールの中央、金縁の装飾が施された「神威の石碑」の前に、一人の少年が立った。
ゼルド・ヴェインズ。
上位貴族の息子であり、この場にいる全員が「今日の主役」だと認めている、才能の塊だ。
彼が石碑に手を触れた瞬間、ホール全体が爆ぜるような、鮮烈な「赤」に染まった。
「火属性・ランクA! さすがゼルド様だ!」
周囲から地鳴りのような歓声が上がる。
ゼルドはこれ見よがしに顎を引き、俺の方をチラリと見た。
その視線には、自分より下の存在を「動く背景」としてしか認識していない、純粋な傲慢さが宿っている。
ゼルドは俺と目が合うと、鼻を鳴らして列を外れた。
「……次。カイト・クラウス」
神官の声が響く。
ホールの空気が、一瞬で「温度の低い嘲笑」に塗り替えられた。
クラウス家。没落寸前の負債貴族。その長男である俺が、これといったアニマの片鱗すら見せていないことは、貴族街の連中なら誰でも知っている。
俺は、石畳を一段ずつ踏みしめて前へ出た。
カチリ。
骨の芯で、何かが鳴った。
神域での百年の修行。その記憶が、この脆弱な14歳の肉体の奥で、獲物を狙う獣のように目を覚ます。
俺は無表情のまま、冷たい石碑に右手を置いた。
瞬間、石碑が俺のアニマを吸い上げようと脈動した。
変だ。
石碑の中に、俺の回路が入り込んでいく。
神域でセフィラに叩き込まれた、アニマを「型」に変換する設計図が、世界の根幹にある巨大なエネルギー源と、一瞬だけ同期した。
腕の奥に、数値では測れないほどの「熱」が走った。
火でも水でもない。もっと根源的な、世界を書き換えようとする暴力的なまでのアニマの潮流。
……けれど。
石碑に浮かび上がったのは、あまりにも虚しい、たった一行の「真実」だった。
『全ステータス:1』
会場が、一瞬の沈黙の後、爆発したような笑いに包まれた。
「1だって! 赤ん坊でももっとあるぞ!」
「さすがクラウス家だ。没落のスピードだけじゃなく、ステータスも最底辺とはな!」
ゼルドの嘲笑が、とりわけ高く響いた。
エリアの顔が、見るに堪えないほど青ざめている。
最悪だ。
俺は石碑から手を離し、指先を軽く曲げた。
ハンドルを握る時のように、俺の指は「次のルート」を求めて微かに動く。
数値は1。だが、俺の技術は今、この場所にある全ての法則を上書きする準備を終えている。
「おじさん……大丈夫? ほら、耳貸して。我、耳鳴りがすごいの。ここ、空気が腐ってる」
肩の上で、セフィラが耳を押さえて顔を顰めた。
彼女の姿が、いつもより薄く透けて見える。
SICの低下が、彼女という「神」を内側から食い破ろうとしている。
俺は沈黙したまま、踵を返した。
ホールの出口。
そこには、俺を名前で呼ぶことすら止めた男――父が立っていた。
父の瞳は、俺を「息子」ではなく、処理の決まった「不良債権」として見ている。
「……カイト」
父が口を開いた。
その声には、怒りすら入っていない。
「今夜、書斎へ来い。話がある」
それだけを告げると、父は一度も俺を振り返ることなく立ち去った。
俺は廊下を歩き、開け放たれた大扉から外の空気を吸った。
空がセピア色に濁り、不吉な沈黙が広がっている。
神威庁の鐘が、まるで葬列の合図のように、腹の奥まで重く響いた。
「……まあ、そんなもんだな」
俺は、おちゃらけた独り言を呟いた。
背後で、金縁の黒法衣を纏った一人の神官が、俺の背中をじっと見つめているのに気づいた。
その眼差しは、周囲の嘲笑とは明らかに異質だった。
儀礼的な無表情の奥に、何かを「鑑定」するような、あるいは「禁忌」の目撃を確信したような、鋭い光。
俺は、気づかないふりをして歩き出した。
人生のメーターが、音を立ててリセットされる。
行き先は、ここじゃない。
俺の第3の人生。その「本当のメーター」が、今、不吉なセピア色の空の下で、静かに動き始めた。
セピア色の霧が立ち込める夜、カイトが14年間過ごした屋敷で、ひとつの「終わり」と「出発」が告げられます。
よろしければ、この老いた運転手の次なる運行を見守っていただけると嬉しいです。
次話もよろしくお願いします!
【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
「雨のフロントガラス、セピアの空」
いよいよ始まった加護儀式。
会場を包むきらびやかなアニマの光とは裏腹に、おじさんの目には世界が「バッドエンド」へと坂道を転げ落ちている不吉なサイン(SICの低下)がありありと見えていました。
そして突きつけられた、前代未聞の『全ステータス:1』
周囲からの激しい嘲笑を浴びながらも、おじさんの指先はすでに「世界の法則を上書きする最短ルート」を捉え、静かに次のギアへと手をかけています。
しかし、没落寸前の実家からの冷酷な呼び出し。父の「今夜、話がある」の中身とは一体……
次話は「第1章・第2話」です。




