序章・第3話「十四年の断片、あるいは儀式の朝」
鼻を突いたのは、懐かしい「雨」の匂いだった。
アスファルトを叩く激しい雨じゃない。もっと土と、古い石の湿り気が混ざった、むせ返るような匂いだ。
ゆっくりと目を開けると、視界の端で木製の棒が規則的に揺れているのが見えた。
……天井。
いや、これは「揺りかご」の天蓋か。
俺は、自分の手を見つめた。
驚いた。
白くて、小さくて、節くれだったハンドル凧も、煙草の黄ばみもない。
赤ん坊。
神領域で過ごした百年の記憶が、このあまりにも頼りない肉体に収まっている事実に、脳が軽い拒絶反応を起こして揺れる。
「あ、おじさん起きた? おつかれ、無事に着岸だね」
視界の外から、聞き慣れたおちゃらけた声が降ってきた。
顔を横に向けると、揺りかごの縁に肘をついて、退屈そうに銀髪を揺らすセフィラがいた。
この世界では彼女は俺にしか見えない「守護霊」みたいなものらしい。
「……セフィラ。ここは?」
「ヴェルディア王国のクラウス家。おじさんは、この家の長男『カイト』として生まれ変わったんだよ。ほら、見て。あっちが新しいママだよ」
セフィラの指さす先、扉が開いて一人の女性が入ってきた。
優しそうな、けれどどこか疲れの見える瞳。
彼女が俺を抱き上げた瞬間、温かい体温が伝わってきた。前世でタクシーの冷たいシートに座り続けていた俺には、その温もりだけで涙が出そうになった。
「カイト……私の可愛い、カイト」
その声を聞いた時、俺の「第3の人生」が、本格的にメーターを回し始めた。
◇
それからの数年間は、退屈で、けれど平和な時間の切り売りだった。
俺は「カイト」として成長した。
歩けるようになると、庭の隅でこっそりと神域の「型」をなぞった。
だが、この肉体は驚くほどアニマを通さない。
最悪だ。
どれだけ完璧に型を踏んでも、空気がカチリと鳴ることはない。
数値にすれば全ステータス「1」。
魔力測定の魔石を握っても、道端の小石のように静まり返ったままだ。
周囲の視線が、年を追うごとに冷たくなっていくのを肌で感じた。
タクシーのバックミラー越しに見てきた、不機嫌な客の視線と同じだ。
「期待のハズレ」を見る目。
父上――クラウス家の当主は、俺が四歳になる頃には、俺と目を合わせることすら止めた。
彼にとって、俺は「家の格を落とす不良債権」でしかない。
「おじさん、またそんな顔してる。おむつは卒業したんだから、もっとシャキッとしてよ」
浮いているセフィラが、俺の頭の上に乗っかってくる。
うるさい。
「……分かってるよ。俺は『無能』なんだろ。この世界じゃ、それが真実だ」
「真実は一つじゃないって、我が教えたでしょ? おじさんの技術は百年前から最高級。あとは、この世界がそれを認める『器』を用意するのを待つだけだよ」
セフィラの言葉は、いつもどこか他人事みたいに明るい。
だが、彼女の瞳が時折、不吉に赤く明滅するのを俺は見逃さなかった。
空の色が、少しずつセピア色に濁り始めている。
世界の支配権(SIC)が削られている証拠だ。
鳥たちが鳴き止む時間が、日に日に長くなっている。
◇
八歳の誕生日の直後。
俺の「まあ、いいか」という防御壁が、初めて粉々に砕け散る事件が起きた。
母上が、倒れた。
原因は流行り病だ。
本来なら、王都の診療院にあるアニマ治療器にかければ、数日で治る程度のものだった。
だが、診療院の門は開かなかった。
「……申し訳ございません。神威恩寵選別法第十二条に基づき、加護なき者の立ち入りは制限されております」
白装束を纏った神威庁の役人が、冷徹な声で告げた。
雨が降っていた。
あの、タクシー運転手として死んだ夜と同じ、冷たい雨だ。
馬車の中でぐったりと横たわる母上の手を、俺は必死に握っていた。
すぐ隣には、父上もいた。
だが、彼は役人と目を合わせることなく、ただ無表情に城壁の彼方を見つめていた。
「父上……! なぜ何も言わないんですか! 母上が、死んでしまう……!」
「……カイト。これは『法』だ。神々の恩寵を得られなかった者に、国のアニマを割く余裕はない。没落寸前の我が家が、これ以上の『負債』を抱えるわけにはいかないんだ」
父上の声には、怒りも悲しみもなかった。
ただ、不愉快なクレームを処理する時の、事務的な響きしかなかった。
俺は、その時初めて理解した。
この世界は、最初から俺たちのような「弱者」を救うつもりなんてないんだ。
加護という名の「格付け」によって、命の価値を勝手に選別し、切り捨てていく。
前世の社会も理不尽だったが、この世界はもっと残酷だ。
「おじさん、手が震えてるよ。……我を、呼ぶ?」
影の中からセフィラが囁く。
彼女の力を借りて、この場にいる役人を叩き潰し、強引に門を通ることもできたかもしれない。
だが、俺は握った拳を震わせながら、それを飲み込んだ。
今の俺に、何ができる?
全ステータス1。
神域で培った体術も、この脆弱な肉体では数秒も維持できない。
ここで暴れれば、母上は「反逆者の身内」として処刑されるだけだ。
「……いい。セフィラ、いいんだ」
俺の声は、雨音に消えた。
その三日後、母上は息を引き取った。
最後に彼女が俺の頬を撫でて、「カイト、自由に生きてね」と笑った顔を、俺は一生忘れないだろう。
俺は決めた。
もう、この世界の「ルール」には期待しない。
俺は俺のやり方で、大切なものを守れる場所を探す。
それまでは、徹底的におちゃらけた「無能」として、この理不尽な世界をやり過ごしてやる。
◇
母の死から数ヶ月後。
暗い淵に沈んでいた俺を、無理やり外へ引きずり出した奴がいた。
「――ねえ! カイト、起きてるんでしょ!」
窓から響く元気な声。
振り返ると、隣のフォレスター家の庭で、木剣を振るう少女が見えた。
エリアだ。
俺と同い年。けれど、俺とは正反対の存在。
彼女には、神々に愛された「水」の加護があった。
「エリア、うるさいな……。今、いいところなんだよ」
「どうせ昼寝でしょ? ほら、降りてきなさいよ! あたしの新しい技、見てほしいんだから!」
エリアの瞳は、いつも眩しいほどの光を宿している。
俺は、ため息をついて庭へ降りた。
彼女が木剣を振るう。
その瞬間、彼女の周囲のアニマが、鮮やかな青い光となって渦巻いた。
水。
淀みのない、圧倒的な「量」の暴力。
木剣が空気を斬る音が、澄んだ水音のように響く。
凄いな。
観察眼が、彼女の才能を無慈悲に分析する。
重心のブレがない。アニマが肉体の一部として、完全に同期している。
これが、この世界の「勝者」の姿だ。
エリアは剣を振るい終えると、汗を拭いながら俺に駆け寄ってきた。
「どうだった? 今の!」
「……ああ、凄かったよ。さすがエリアだな」
「もう、心のこもってない返事! カイトだって、ちゃんと練習すればきっと……」
エリアの言葉が途切れる。
彼女は、俺のステータスが「1」であることを知っている。
彼女の瞳に、かすかな「憐憫」が混じったのを俺は見逃さなかった。
それは悪意じゃない。純粋な、善意からの可哀想。
それが、一番キツかった。
「あたしが、もっと強くなるから。そうすれば、カイトのこと、あたしが守ってあげられるでしょ?」
エリアは、俺の袖をギュッと掴んで言った。
その瞬間、俺の中にあった「タクシー運転手としてのプライド」が、小さく悲鳴を上げた。
客に何を言われても、道が渋滞していても、俺はハンドルだけは離さなかった。
誰かに運んでもらうんじゃなく、俺が運ぶ側だったんだ。
「……まあ、そんなもんだな。期待してるよ、騎士様」
俺は、おちゃらけた笑顔を貼り付けた。
エリアは少し不満そうに、けれど嬉しそうに笑った。
彼女は俺を「守る側」として定義し、俺は彼女に「守られる側」を演じる。
それが、この14年間で固まった、俺たちの立ち位置だった。
◇
そして、運命の朝が来た。
14歳の誕生日。
下級貴族の子弟として、神威庁の塔で「加護儀式」を受ける日。
ここで正式なランクが刻印され、俺の人生の「行き先」が公的に決定される。
窓の外を見ると、空は相変わらず濁ったセピア色をしていた。
変だ。
昨夜よりも、さらに空気が重い。
肌をチリチリと焼くような、アニマの澱み。
神威庁の塔の先端が、SICの低下に反応して不気味に赤く明滅している。
神威庁の鐘が鳴った。
ボォーン、ボォーンと、腹に響くような、葬列を思わせる重い音だ。
「おじさん、時間だよ。……覚悟はいい?」
セフィラが、俺の影から顔を出した。
彼女の姿も、どこか薄く透けて見える。
世界の終わりが、すぐそこまで来ている。
「覚悟も何もない。メーターは最初から『1』で止まってるんだ。あとは、その現実を世界中に見せびらかすだけだろ」
俺は、鏡の前で身なりを整えた。
クラウス家の紋章が入った、古びた礼服。
鏡の中の俺は、14歳の少年の顔をしていた。
けれど、その瞳の奥には、50年の諦念と、100年の研鑽を隠した、老いたタクシー運転手の影が宿っている。
「……行くか」
俺は、部屋の扉を開けた。
廊下には、冷ややかな顔をした使用人たちが並んでいる。
その視線の温度をタクシーの車内温度計のように測りながら、俺は一歩を踏み出した。
行き先は、絶望の宣告。
そして、その先にある「本当の自由」。
俺の第3の人生、第1章が、今、ここから始まる。
【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
「十四年の断片、あるいは儀式の朝」
カイトとして過ごした14年間。温かかった母の死、そして幼馴染のエリアが向けてくる、悪意のない純粋な「憐れみ」
この世界の歪んだルールを嫌というほど味わったおじさんは、おちゃらけた無能を演じながら、静かに爪を研いできました。
そしていよいよ、運命の「加護儀式」の朝がやってきます。
次話からは、いよいよ本編「第1章・第1話」へと突入します!
神威庁の塔で突きつけられる「全ステータス1」の冷酷な数字
周囲が嘲笑し、エリアが青ざめる中、カイトを「不良債権」として見る父から告げられる「今夜、話がある」の言葉
セピア色の空の下、カイトが14年間眺め続けた景色が、もう見られなくなる夜の話が始まります。
よろしければこの物語の本当のスタートを追いかけていただけると嬉しいです。
第1章もよろしくお願いします!




