第3章・第21 話「債権回収の足音、実体のない一撃」
その足音には、生物特有の「迷い」が一欠片もなかった。
ガチ、ガチ、ガチ、と。
石畳を叩く金属音は、正確なメトロノームのように等間隔で、こちらとの距離を詰めてくる。
変だな。
俺の観察眼が捉えているのは、接近する音だけではない。
音の主が踏みしめるたび、背後の空間に走っていた不自然な湾曲やページの捲れが、アイロンをかけたように平坦に伸ばされている。歪んでいた迷宮が、冷酷な定規で引き直されたような「正しい直線」へと書き換えられていくんだ。
最悪だ。
深夜の大型倉庫、棚卸しの際に在庫の数を確認しに来る冷徹な監査官。そいつを前にして、帳簿に載っていない「余計な在庫」を見つけられた時のような、逃げ場のない嫌な汗が背中を流れる。
「……おじさん、来ちゃう! 隠れて、あいつ……この場所に『いない』ことになってるよ!」
俺の影に潜んだセフィラの震える声。
闇の奥から現れたのは、白銀の装甲を纏った、人型の「虚無」だった。
闇の奥から現れたのは、白銀の装甲を纏った、人型の「虚無」だった。 姿形は王都の聖騎士に似ている。だが、その隙間からはアニマの光すら漏れていない。代わりに溢れているのは、文字の断片のような黒いノイズだ。
気味が悪い。
俺はエルフの少女を左腕で庇いながら、右の拳を静かに構えた。
「エリア、下がれ。……俺が時間を稼ぐ」
「ダメよ、カイト! あたしだって——」
「いいから最短ルートで待ってろ! ……初乗り(ファーストコンタクト)は、俺の仕事だ」
地の型。
俺は、神域で百年間繰り返してきた踏み込みを開始した。
カチリ。
骨の芯で、鋭い接続音が鳴る。
右腕にのみ局所展開された霊殻の装甲。それは岩石のような重厚さを伴って俺の肉体を拡張し、確実に「そこにある」実体を持って監査人の胸元へと突き出された。
ドォォォォォォンッ!
……え?
驚いた。
渾身の拳が、監査人の身体を抵抗なく通り抜けた。
手応えが、ゼロだ。
壁を殴った衝撃も、肉を打つ感触もない。
俺の拳は、まるで霧の中を薙いだように虚空を通り過ぎ、勢い余って前のめりに重心を崩した。
最悪だ。
タクシーのハンドルを切っても、タイヤが地面に接地していない。路面が、最初から「存在しない」かのような感覚。
監査人は表情のない顔をゆっくりと俺に向け、その指先を無造作に突き出した。
「——対象外、資産。……消去プロトコル、実行」
ガッ……!
肺の奥が、氷を詰め込まれたように凍りついた。
回避はした。型を崩さず、最短の挙動で相手の突きを躱したはずだ。物理的な接触は、一ミリもなかったはずなんだ。
それなのに。
俺の霊殻の右肩が、まるでそこだけ「最初からなかった」かのように、欠落していた。
装甲が砕けたのではない。アニマが散ったのでもない。
ただ、俺の肩を構成する座標データが、監査人の指が触れた瞬間に「消去」と上書きされたんだ。
不快だ。
衝撃フィードバックの代わりに、俺の神経を襲ったのは「認識の欠如」という奇妙な吐き気だった。右肩から先の感覚が、霧散していく。
「カイトッ!」
エリアが叫び、水の霊殻を纏って飛び出してきた。
蒼い剣筋が監査人の首を刈り取ろうとするが、それもまた空しく虚空を滑り、彼女はバランスを崩して俺の隣に膝を突く。
「……ダメ、当たらない! 剣が、水が……あたしの全部が、あいつを『通り過ぎて』しまう!」
「エリア、落ち着け……! あいつは物理的に動いてるんじゃない。……システムの計算で、俺たちの位置を弾き出してるんだ」
俺は欠落した肩のアニマを無理やり「空白」で補填し、右腕の形を保ち続けた。
監査人の動きを追う。 歩くという動作の「過程」がなかった。一歩ごとに、数センチ先の座標へと自らの位置データを直接書き換えているような、不気味な瞬間移動だ。
……変だな
俺の観察眼は、その不自然な挙動の裏側に潜むわずかな「ラグ」を捉えていた。あいつが位置を書き換える瞬間、一分の一秒以下の「演算時間」が発生している。
あいつが位置を書き換える瞬間、一分の一秒以下の「演算時間」が発生している。
この迷宮そのものが古い帳簿なら、あいつはそこに書き込みをするペンだ。
書いている間、ペン先は紙に固定されていなきゃいけない。
「……セフィラ、あいつの『重心』……いや、データの書き換え位置を教えてくれ。……あんたのナビなら、読めるだろ」
「……無理だよおじさん! あいつ、神様のアドレスさえ無視して動いてるもん! ……あ、でも……待って。……あいつが足を下ろす一瞬だけ、迷宮のノイズが一点に集まってる……!」
セフィラが俺の脳内に、白銀のグリッドマップを展開した。
監査人の周囲。規則正しく並んだ数字の羅列の中に、一箇所だけ赤く点滅する「読み込みエラー」の点。
「エリア! あいつが足を下ろす瞬間、そこが『不渡りの起点』だ! ……そこに、あんたの『水』を叩き込め!」
「水? でも、すり抜けるのに……」
「ただの水じゃない! ……『記憶』だ! ……その場所にアニマがあったという事実を、あんたの属性で一瞬だけ凍りつかせろ!」
エリアが目を見開き、そして力強く頷いた。
彼女の水の神アクアとの共鳴が、かつてないほどに深く、澄んだ音を立てる。
カチリ
「——凍りつけ、過去の記録!」
エリアが地面に剣を突き立てた。
蒼い流体のアニマが、監査人が次に踏み出すはずの「座標」へと先行して駆け抜ける。
驚いた。
実体を持たなかったはずの白銀のグリッドが、彼女の水に触れた瞬間、青白い氷の結晶となってガチガチと「物質化」し始めた。
監査人の足元。
書き換えようとしたデータが、水という媒体を得て、この世界に無理やり「定着」させられる。
「……エラー。……座標の固定を、検知。……処理速度の、低下……」
監査人の動きが、初めて止まった。
来た。
一秒。
システムのバグが修正されるまでの、わずかなフリーズ時間。
俺は、泥の型を右腕に集中させた。
地の型の質量と、エリアから流し込まれた水の記憶。それが俺の「空白の株」の中で、相手の管理権限を食い破るための「ウイルス」へと変質する。
俺は一歩、踏み込んだ。
最短ルート。
「……お前の『管理権限』は、今ここで不渡りだ。……この客の運賃、俺たちが肩代わりさせてもらうぜ」
俺の泥の拳が、凍りついた監査人の胸部装甲に触れた。
ドォォォォォォォォォォォォンッ!
物理的な破壊音じゃない。
それは、コンピュータのハードディスクが物理的に砕け散るような、耳障りな電子の悲鳴。
俺の「空白」が、監査人の持つ管理コードを強引に上書きし、その存在定義を「未登録のゴミデータ」へと書き換える。
「——致命的、エラー。……債権回収に、重大な……支障……」
監査人の身体が、端から砂時計の砂のように崩れ、灰色のノイズとなって消えていく。
勝ったのではない。
一時的に、システムの「除外リスト」にあいつを放り込んだだけだ。
「カイト、今のうちに!」
「ああ……分かってる!」
俺は膝を抱えて固まったままのエルフの少女を、右腕の霊殻ごと抱え上げた。
……重い。
ただの少女の重さじゃない。
千年分の負債という名の、星の重圧が腕にのしかかる。
その瞬間。
ビィィィィィィィィィィィィン!!
迷宮の天井から、これまでの静寂を嘲笑うような、耳を劈く警報音が鳴り響いた。
最悪だ。
周囲の白銀の書架を見やる。 その隙間から、一つ、また一つと、「監査人」の冷酷な足音が重なって聞こえてきた。
一体じゃない
俺たちが「在庫」である少女に手をつけたことで、この迷宮全体のシステムが、本格的なデバッグを開始したらしい。最短ルートの出口が、脳内の地図で不吉に赤く点滅し始めていた。
「……おじさん、逃げて! あちこちから、いっぱい来ちゃう! ……これ、全部に捕まったら、もう『存在ごと削除』されちゃうよ!」
セフィラの絶叫が、脳内のナビを真っ赤に染め上げる。
「エリア、走れ! ……バックはしない、最短ルートで営業所まで飛ばすぞ!」
「ええ! ……あたしが、あんたたちの背中を全部凍らせて守ってあげるわ!」
俺たちは、背後に迫る無数の「正しすぎる足音」を置き去りにし、白銀の迷宮を、全力で逆走し始めた。
不渡りの営業所、聖域内部編。
どうやら、ここからの運行は、信号無視上等のカーチェイスになりそうだ。
メーターは、もう止まらない。
俺は左腕に抱えた少女の「重み」を、かつてハンドルを握りしめたあの日の誇りへとすり替え、闇の奥へと駆け抜けていった。
【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
「債権回収の足音、実体のない一撃」
物理的な攻撃が一切通じない、白銀の監査人。その正体は、この迷宮そのものを「正しい数値」へと書き換えるための、冷徹なペンでした。
「対象外、資産。消去プロトコル、実行」
回避さえも「存在の欠落」として処理される絶望的な状況。しかし、カイトとエリアは、エリアの「水(記憶)」とカイトの「空白」を組み合わせることで、監査人の演算に「物理的なラグ」を生じさせました。
システムを欺き、監査人を一時的に「除外リスト」へ放り込んだカイトたち
しかし、彼らが少女を救い出した代償はあまりにも重いものでした。
迷宮の至る所から響き渡る、複数の「正しすぎる足音」
それは、聖域の全システムがカイトたちという「不法滞在者」を排除するために起動した、本格的なデバッグの開始合図でした。
「おじさん、逃げて! これ、全部に捕まったら、もう『存在ごと削除』されちゃうよ!」
戦うか、逃げるか。そんな選択肢すら与えられないほどの圧倒的な数。
しかし、カイトは左腕に抱えた少女の「重み」を燃料に変え、迷宮を全力で逆走します。
最短ルートでの逃走劇、という名の死線を越えるカーチェイス。
聖域という本店での「経営再建」は、ここから信号無視上等のスピードへとシフトします。
果たして彼らは、この無数の監査人の追撃を振り切り、安全なドックへと帰り着くことができるのか?
物語はここから、さらに加速していきます!
ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
皆様の評価や熱いレビューが、カイトたちの走る道のりを守る防護壁になります。
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