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第3章・第20 話「旧株主の亡霊、エルフの影」

 一歩踏み出した瞬間、重力の重心が数センチ、横へズレた気がした。

 背後にあるガルトの「出張所」は、わずか十歩も歩いていないはずなのに、振り返れば深い銀色の霧の向こう側に、数キロ先にある蜃気楼のように遠のいている。

 ……最悪だ。

 深夜の大型倉庫、警備員が巡回をサボるほどに広大で、積み上げられたコンテナがどこまでも続いているような、あの果てしない「在庫」の海に放り込まれた気分だった。

 

 見上げる天井は存在しない。

 あるのは、虚空に向かって真っ直ぐに伸びる白銀の書架。

 その棚を埋め尽くしているのは紙の束ではない。アニマが極限まで圧縮され、物理的な「記録」として固定された、透明な結晶の背表紙たちだ。

 

 鼻を突くのは、何千年も風を通していない図書館の、あの埃っぽい紙の匂い。

 そして、アニマが静止している場所特有の、肺を刺すような極低温の静寂だった。

 

「……カイト、気をつけて。……あたしの水の霊殻が、さっきから勝手に表面を波立たせてる。……空間そのものが、あたしたちを『異物』として書き換えようとしてるみたい」

 

 半歩先を行くエリアが、声を潜めて警告を発した。

 彼女は重厚な甲冑を脱ぎ、今はガルトが調整した機動性重視の革製ジャケットを纏っている。だが、その腰に下げた黒鉄の剣の周囲には、青白い水の神威が絶えず膜を張り、周囲の「浸食」を必死に拒んでいた。

 

 俺も、右腕を軽く握った。

 「空白の株」の奥底で、ドクン、ドクンと心臓とは別のリズムが刻まれている。

 門番から買い戻した支配権の残高。

 それが、この広大な迷宮に充満する「負債」のアニマと反発し合い、腕の神経をチリチリと逆なでしてくる。

 


 右前方の書架に視線を走らせた。 一見すれば整然と並んでいるように見えるが、俺の観察眼は、その配置に潜む不自然な「渋滞」を敏感に捉えていた


……変だな


 そこだけ空間がページを捲るように僅かに湾曲し、距離感が消失している。一メートル先に見える本棚が、実際には十メートル先にある。タクシーのハンドルを切る前に、まずこの「最短ルート」を狂わせる悪質なナビを読み解く必要がありそうだ

 

「……おじさん、だめ……。あっち、見ないで。……あそこに、我の……星の古い記憶たちが、ゴミみたいに捨てられてるの……」

 

 俺の背中に顔を押し当て、セフィラがガタガタと震えている。

 実体化した彼女の小さな手の冷たさが、上着越しに伝わってきた。

 

「……セフィラ、耳を貸せ。……俺がハンドルを握ってる限り、あんたをあんなゴミ箱に放り込ませたりはしない。……目的地は、まだ先だろ?」

 

「……うん。……でも、不味いよ。……空気がどんどん『未決済』の匂いでいっぱいになってる」

 

 不快だ。

 不渡りを出した会社の経理室に忍び込んだ時のような、あの脂汗が出るような重苦しさ。

 

 俺たちは、捲れた空間の隙間を縫うように、慎重に奥へと進んだ。

 道端……いや、通路の隅に、何かが落ちている。

 

 驚いた。

 それはゴミではない。

 銀色に淡く発光する、石像のような質感の「塊」だった。

 

「……何かしら、これ。……アニマの結晶?」

 

 エリアが足を止め、剣の先でその塊をそっと示した。

 

 俺は腰を落とし、対象を観察した。

 


 通路の隅に転がっていたのは、膝を抱えて丸まった少女の形をした「塊」だった。 尖った耳に、細長い手足。人間じゃない。王都の帳簿をいくら捲っても一度として出てこなかった種族——エルフだ


だが、そこには生身の体温も、死体の臭いさえもなかった。


……変だ


俺は、無意識に伸ばしかけた手をその直前で止めた

 

 観察眼が、対象の「重心」を捉えられない。

 少女の形はしているが、それはそこに「存在」しているのではなく、古いモニターの映像が静止画として画面に焼き付いている(フリーズしている)ような、ひどく不安定な像だった。

 

「……カイト。……これ、生きてるの?」

 

「……いや。……『固定』されてるだけだ。……邪神の帳簿に、ただのデータとしてな」

 

 俺は、神域で百年間磨き上げた体術の構えを取った。

 地の型。

 対象が不測の動きを見せた瞬間、その存在定義を拳で粉砕するための「制動」

 

 だが、俺の神経が捉えたのは、かつてないほどの無力感だった。

 

 相手に呼吸がない。

 筋肉の収縮もない。

 一秒後、どちらに倒れるか、どちらに動くか。そんな物理法則に基づいた予測を、この少女の姿をした「ノイズ」は一切受け付けていなかった。

 

 俺が100年かけて手に入れた「最短ルート」は、相手に重さがあり、形があることが前提だ。

 だが、この目の前の亡霊は、俺が拳を振るうという物理的な過程プロセスを読み飛ばして、そこにただ「記録」として居座っている。

 

 タクシーのハンドルを切っても、タイヤが地面を掴んでいない。

 氷の上の空転

 俺の技術ソフトが、世界の法則ハードを上書きするための取っ掛かりを見失っていた。

 

「……ああ……、ああ……。……おじさん、見て。……この子、泣いてる。……声、聞こえないけど、ずっと叫んでるよ……」

 

 セフィラが、俺の影からふらふらと這い出し、その石化したエルフの少女へと指を伸ばした。

 

「おい、セフィラ! 触るな、何が起きるか……」

 

 俺の制止が届くより早く、セフィラの指先が、少女の額に触れた。

 

 瞬間

 

 ——キィィィィィィィィィィィィン!!

 

 耳の奥を、細い針で掻きむしるような暴力的な不協和音。

 

 俺の視界、白銀の迷宮の色彩が、一瞬だけ反転した。

 

 見えた。

 少女の身体の周囲に、びっしりと書き込まれた真っ黒な「数字」の羅列が。

 

『未決済残高:魂の総量(全量)。債権者:邪神本店。保証人:王国・帝国合同庁。摘要:1000年前の二重取引、担保物件につき移動禁止』

 

 最悪だ。

 

「……おじさん。……翻訳するね。……この子は、エルフ。……我の昔の株主だった一族の、最後の一人。……1000年前、あいつら……王様と皇帝が……自分たちが生き残るために、邪神に『支払い』をしたの。……その代金アニマとして差し押さえられたのが……この子たちの魂だったんだよ……」

 

 セフィラの瞳から、青白い光の雫が溢れ、床の銀の煤へと消えていった。

 

 彼女の指が触れた場所から、エルフの少女の「データ」が僅かに溶け出した。

 石のようだった少女の唇が、震えるように動く。

 

「……タ……ス……ケ……テ……。……マダ……ハライ……オワッテ……ナイ……」

 

 その声は、鼓膜を揺らす音波ではない。

 星の支配権を奪い合っている、冷酷なシステムの通信ログとして、俺の脳内に直接「読み込まれた」テキストだった。

 

 不快だ。

 一千年も前に終わったはずの契約を、未だに利息アニマを払い続けるための部品として、生きたまま固定し続けているなんて。

 

 俺は、エリアが縫ってくれた上着を握りしめ、喉の奥の熱を押し殺した。

 

「……エリア。……俺たちは、どうやら想像以上に趣味の悪い営業所わくせいに迷い込んじまったみたいだな」

 

「……ええ。……王都の、あの綺麗な街並みの下に、こんな死者の山が積み上げられていたなんて。……あたし、今、自分の持ってる剣が、血の臭いがしてたまらないわ」

 

 エリアの水の霊殻が、激しい怒りに呼応して沸騰するように震えている。

 

 その時だった。

 

 ——ガチ……。ガチ……。ガチ……。

 

 背後の通路。

 どこまでも続く白銀の書架の影から、不気味なほど規則正しい「音」が響いてきた。

 

 それは軍靴の音ではない。

 巨大なコンパスを石畳に叩きつけているような、硬質で、冷酷で、一切の迷いがない「測定」の音。

 

 俺の観察眼が、その音の主が近づくたびに、迷宮の空間そのものが「正しいグリッド」へと矯正されていくのを捉えた。

 

『……おじさん、逃げて。……来た。……あいつ、この迷宮の在庫を数えに来たんだ。……邪神本店の、監査人だよ……!』

 

 セフィラの声が、再び影の中へと消えた。

 

 俺はエルフの少女の肩に、震える左手を添えた。

 助ける方法は、まだ分からない。

 俺の物理的な拳は、まだこの「実体のない負債」を殴り飛ばす型を持っていない。

 

 だが、最短ルートの出口だけは、俺の脳内の地図の中で不吉に赤く点滅し始めていた。

 

 ……客が来たな。

 

 俺は闇の奥から現れる、その「正しすぎる足音」の主を見据えた。

 不渡りの営業所、聖域内部。

 その最初の「検収」が、今、始まった。

【あとがき】

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


「旧株主の亡霊、エルフの影」


聖域という迷宮に足を踏み入れたカイトたちが見たのは、かつてこの星を支配していた者たちの成れの果て――データとして「固定」された亡霊たちでした。


中でも、エルフの少女に刻まれていた「1000年前の二重取引」という真実

自分たちが生き残るために、他種族を邪神への「支払い(アニマ)」として差し出したかつての王と皇帝

その利息として、彼女たちは魂を石のように凍りつかされ、システムの一部として搾取され続けていたのです。


「助けて……マダ、ハライオワッテナイ……」


タクシーの運転手として、これまで数々の「目的地」を運んできたカイトにとって、このあまりに救いのない光景は、喉の奥が焼けるような憤怒の対象でした。


しかし、物理的な力を持たない「亡霊」に対し、カイトの拳は空を切ります。

最短ルートさえ見つけられない圧倒的な「ハードウェアの不一致」

そんな無力感に苛まれるカイトの背後に、冷徹な「測定音」が迫ります。


『……おじさん、逃げて。……あいつ、この迷宮の在庫を数えに来たんだ』


迷宮の在庫を数える者――邪神本店の監査人。

王都の監査人とは次元の違う、この迷宮そのものを正しく矯正する「正しすぎる足音」が、カイトの前に立ちふさがります。


「不法滞在者」としてこの聖域に踏み込んだカイトたちは、この「検収」をどうやって誤魔化し、切り抜けるのか。

あるいは、この腐敗しきった帳簿を、物理的に叩き割るルートを見つけるのか。


物語は、この星の根源的な負債の記録に真っ向から挑む、真のバイアウトへと突入します。

ここまでお付き合いいただいた皆様、本当にありがとうございます。

カイトたちが描く「最高の青空」への道のりは、まだ始まったばかり


皆様の評価やレビューが、カイトの走る道のりを照らす最高の大陸地図になります。

次回の更新も、どうぞよろしくお願いします!

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