第3章・第19話「不法滞在の聖域、仮眠の終わり」
まぶたの裏側に、嫌な残像がこびりついていた。
白銀の閃光、物理法則を無視した巨大な剣、そして右腕に流れ込んできた、星一つ分の重たすぎる「支配権(SIC)」の熱
……最悪だ
過積載のトラックを無理やり山道で走らせた後のような、全身のネジが緩んで、骨の一本一本がバラバラになったような重だるさが、意識の浮上を邪魔している。
ゆっくりと、まぶたを押し上げる。
視界に飛び込んできたのは、高く、不気味なほど真っ直ぐな石造りの天井だった。
……変だな
そこは王都の神威庁でも、地下の車庫でもなかった。
鼻を突くのは、古い紙を何千年も放置した時のような、乾いた埃の匂い。そして、アニマが極限まで濃縮された場所特有の、パチパチと肌を刺すようなオゾンの残り香。
「——あ。おじさん、起きた?」
すぐ側で、聞き慣れた間の抜けた声がした。
視線を横に向けると、そこには石棺の縁に腰をかけ、退屈そうに足をぶらぶらさせている銀髪の少女——セフィラがいた。彼女の姿は、以前よりずっと鮮明で、実体としての「重み」を持ってそこに座っている。
「……セフィラ。……ここは、どこだ」
口を開こうとして、自分の喉が驚くほど乾いていることに気づく。声は掠れ、エンジンの焼き付いた排気音のような音しか出なかった。
「聖域の入り口だよ。おじさん、丸二日も寝てたんだから。もうね、メーターが故障してそのまま廃車になっちゃうんじゃないかって、エリアちゃんが半泣きで心配してたよ?」
「……二日だと?」
俺は上半身を起こそうとして、右腕に鋭い違和感を覚えた。
激痛ではない。
だが、俺の「全ステータス1」という空白の器の中に、以前にはなかった「何か」が居座っている。
俺は、自分の右腕をじっと見つめた。 肉体的な欠損はないし、筋肉の弛緩もない。だが、その奥底では、心臓とは別の冷徹で巨大なリズムが脈打っていた。
ドクン、ドクン、と。
それは、門番から強引に買い戻した「星の支配権」の残高のようなものだった。俺の「空白」が、邪神側の帳簿から切り離された膨大なエネルギーを、未登録の伝票として無理やり呑み込み、俺の身体の中に一時保存し続けている。
……不快だ。
自分の知らないところで勝手に回っているメーターほど、運転手にとって信用できないものはない。
「カイトっ!? 起きたのね!」
石柱の陰から、エリアが飛び出してきた。
彼女の姿を見て、俺は一瞬だけ目を丸くした。
かつての白銀の甲冑も、青い聖騎士の装束もそこにはない。動きやすさを重視した、泥汚れに強い茶色の革製ジャケットと、短く切り揃えられたパンツスタイル。腰には、騎士団の剣ではなく、この聖域の探索用にガルトが調整したであろう、無骨な黒鉄の剣を下げている。
「……ああ。……少し、仮眠が長引いたみたいだな」
「少しじゃないわよ! 呼吸が止まりかけたんだから! ……でも、よかった。本当によかった……」
エリアは俺の枕元に駆け寄り、その白い指先で俺の頬をそっと確かめた。彼女の指は温かく、わずかに震えている。
……悪いことをしたな。
タクシーの運転手は、客を不安にさせるような停車の仕方をしちゃいけない。
「……親父は、どうした」
「ガルトなら、外よ。……あの門番の残骸、ほとんど一人で解体して、この場所に『営業所』を作っちゃったんだから」
エリアに支えられながら、俺はふらつく足取りで「寝床」——石棺のベッドから這い出した。
一歩踏み出すたびに、右腕の「胎動」が身体の芯を揺らす。
聖域の入り口。
そこは、二日前まで俺たちが死闘を繰り広げていた場所とは思えないほど、整然と「改装」されていた。
門番がいた巨大な双開きの扉は、その半分が強引に溶接され、厚い鉄板と瓦礫で補強された「防壁」へと作り替えられている。その周囲には、アニマを物理的に遮断する特殊な鉱石が埋め込まれ、王都側からの追跡を拒絶する完璧な「車庫」が構築されていた。
驚いた。
部屋の隅には、ガルトが組み立てたであろう、ろ過機能付きの簡易キッチンと、修理用の大型工具が並ぶ作業台がある。
カン、カン、カン、と。
外から響くタガネの音。
俺はエリアと共に、防壁の隙間から外を見上げた。
そこには、失われた左腕だけで巨大な魔石を運んでいるガルトの背中があった。
「……起きたか、不渡り息子。営業停止の罰金、高くつくぞ」
背中を向けたまま、親父が野太い声を響かせた。
「……ああ。……随分と立派な営業所だな、親父。看板はどこだ」
「看板なら、そこだ」
親父が顎で示したのは、聖域の内側へと続く第二の門の横に立てられた、一本の黒い石柱だった。
そこには、門番の装甲を削り出して作られたプレートに、こう刻まれていた。
『不渡りの営業所・聖域出張所(ヴォイド・ターミナル:ブランチ)』
……笑えない冗談だ。
だが、今の俺たちには、この「不法滞在」という身分が一番よく似合っている。
俺は周囲をもう一度、観察した。
見上げた王都の空には、以前よりも鮮やかな青みが戻っていた。俺が無理やり買い戻した支配権の反映だろう。
……だが、清々しさは微塵もなかった。 俺の視線は、吸い寄せられるように、開かれた聖域の深淵——その闇の奥へと向かっていた。
そこから漂ってくるのは、王都のそれとは違う、もっと「古くて、重い」アニマの沈殿物だ。
「……おじさん。……聞こえる?」
セフィラが俺の影に潜り込み、耳を塞ぎながら震える声で囁いた。
「……あの闇の奥から。……誰かが、ずっと泣いてる。……我が、ずっと前に捨てちゃった……旧い株主たちの悲鳴だよ」
セフィラの指差す先。
そこには、白銀の書架が地平線まで続く「帳簿の迷宮」が広がっていた。
その隙間を、化石のように固まったエルフやドワーフの影が、意思のないデータのゴミのように、無数に浮遊しているのが見える。
……不快だ。
王都を救って、メーターを止めるつもりだった。
だが、この聖域という名の広大な「本店」に一歩足を踏み入れれば、そこには邪神が千年以上かけて積み上げた、天文学的な数字の負債が山積みになっている。
俺たちが買い戻した青空なんて、この膨大な帳簿の、たった一ページ分の余白に過ぎないんだ。
「……エリア。……飯はあるか。一番、腹にたまるやつを頼む」
「……ええ。ガルトが作った、不味い干し肉のスープならあるわ。……行くのね、あの奥へ」
「ああ。……不渡りの残高が、俺の腕でうるさく脈打ってやがる。……これを精算しないことには、今夜も安眠できそうにないからな」
俺は、エリアが差し出した不味そうな保存食を、迷わず受け取り、口に運んだ。
泥のような味が、空っぽの胃袋に火を灯す。
右腕の拍動が、一際強く跳ねた。
……アイドリングは終わりだ。
俺は脳内の地図を広げ、真っ暗な聖域の深淵へと、新たな最短ルートの検索を開始した。
営業再開。
不渡りの営業所、聖域内部編。
その第一便のメーターが、今、不穏な静寂の中で静かに動き始めた。
【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
「不法滞在の聖域、仮眠の終わり」
激戦の果てにたどり着いたのは、聖域という名の「本拠地」でした。
王都の青空を取り戻し、一息ついたのも束の間。
カイトの身体には門番から引き継いだ「支配権」という名の新たな重荷が刻まれ、その拍動は、この星が抱える終わりのない負債を告げています。
「ここから先は、誰の許可もいらねえ。俺たちが、この店の新しい経営者だ」
そんな覚悟を刻むように、ガルトの手によって聖域の入り口には『不渡りの営業所・聖域出張所』の看板が掲げられました。
しかし、そこに広がるのは、王都のそれとは比較にならないほどの膨大な「帳簿の迷宮」
邪神が千年以上かけて奪い、化石のように固めた無数の種族たちの魂。
カイトたちが守った王都の青空は、この膨大な負債の記録の中の、ほんの一行に過ぎなかったのです。
「不渡りの残高が、俺の腕でうるさく脈打ってやがる」
立ち止まる暇はありません。
カイトの右腕に刻まれた拍動は、次の不渡りを決済せよという警報か、あるいは新たな「ロング予約」の始まりか。
泥のような干し肉のスープを胃に流し込み、カイトは再び、闇の奥へと続く最短ルートを検索し始めます。
王都編完走、そして聖域編へ。
ここから物語は、邪神が管理するこの世界の根源へと切り込んでいく、真の「経営再建」のフェーズへと突入します。
ここまでお付き合いいただいた皆様、本当にありがとうございました。
王都というターミナルを過ぎ、いよいよ聖域という「本店」でのバイアウトが始まります。
ここからのカイトたちの「不法滞在」に、引き続きご期待ください!
皆様からの熱い感想や評価が、カイトたちの走るエンジンを冷やしてくれる最高のガソリンです。
次回の運行も、どうぞよろしくお願いします!




