第3章・第11話「負債の正体、邪神の監査」
地下拠点の入り口から這い出した瞬間、俺はあまりの眩しさに目を細めた。
昨日まで俺たちの視界を奪っていた煤けた鉄の空はどこにもなく、そこには残酷なまでに澄み渡った青が広がっている。
……ようやくまともな視界になったってわけだ。
だが、その青空の下、営業所の入り口には、俺の予想を遥かに超える「渋滞」が発生していた。
「あ、あの! あなたが『不渡りの救世主』様ですか!?」
「娘が、神威恩寵選別法で治療を拒否されていた娘が、急に空気が綺麗になった途端、息を吹き返したんです! お礼を言わせてください!」
「これからはあなたが王都を治めるのですか!? どうか、我々に配給の継続を!」
次から次へと投げかけられる言葉の礫に、俺は思わず一歩後退りした。
入り口を塞ぐように押し寄せているのは、ボロボロの服を着たヒューマンの民衆だ。
神威庁がバイアウトされ、支配権の一部が俺たちの手に渡ったことで、彼らを縛っていた「汚い規律」が一時的に消滅したらしい。
……やれやれ。救世主なんて、俺の柄じゃないんだがな。
俺は頭を掻き、押し寄せる彼らをタクシーの客を捌くような手つきで制した。
「おいおい、落ち着け。……まず、俺は王様でもなけりゃ、救世主でもない。ただのタクシー運転手だ。……悪いが、うちは完全予約制なんだよ。そんなに一気に乗られても、定員オーバーでタイヤがパンクしちまう」
「タクシー……? 運転手……?」
民衆がポカンと口を開け、互いの顔を見合わせる。
その隙に、俺は隣で苦笑いしながら人波を整理しているエリアに視線を送った。
彼女は既に騎士の鎧を脱ぎ捨て、ガルトの作業場から持ってきたらしい動きやすい旅装を纏っている。
背負った剣だけが彼女の過去を物語っているが、その瞳に宿る光は、かつての義務感で濁ったものとは比較にならないほど力強かった。
「……カイト、諦めなさい。あなたがあんな狼煙を打ち上げて、神威庁の門を粉砕したところを、みんな見ていたんだから。……今は、この『渋滞』をどうにかするのが、あなたの仕事(ルート選び)じゃない?」
「あんたも言うようになったな、エリア。……ったく、チップも出ない運行はガラじゃないんだが」
俺は軽口を叩きながらも、民衆の「絶望の残滓」が消えつつあることを肌で感じていた。
だが、俺の観察眼は、彼らの背後、抜けるような青空の中心に居座る「違和感」を、一瞬たりとも見逃していなかった。
青空の真ん中に、黒いインクを落としたような小さな「歪み」。
それは雲一つない風景の中で、そこだけが物理的に「欠落」しているように見えた。
……嫌な予感がするな。
ヴェスターが最後に残した「不吉な請求書」が、どうやら速達で届いたらしい。
その瞬間だった。
音が、消えた。
ついさっきまで俺を取り囲んでいた民衆の喧騒も、風の囁きも、遠くで聞こえる鳥の鳴き声も。
まるで、世界の音声データの出力先が物理的に引き抜かれたような、絶対的な沈黙。
……来たか。
俺の心拍が跳ね上がり、霊殻の起動キーを握る指先が、アニマの共鳴でチリチリと熱を帯びる。
「……おじさん。……おじさん、だめ……。あれ、怖い。……あたし、あんなの、知らない……」
俺の背中に隠れるようにして、セフィラが震える手で俺のシャツを掴んだ。
創造神である彼女がここまで怯えるのは、神威庁の最深部で「上位者の指」を見た時以来だ。
いや、あの時よりも、もっと冷たく、機能的な「圧」が空から降り注いでいる。
空の「歪み」が、ゆっくりと物理的な亀裂となって裂けた。
そこから、一筋の灰色の光が地上へと伸び、神威庁の塔の目と鼻の先——王都中央広場へと音もなく降り立つ。
砂煙が舞うこともなく、着地の衝撃すら殺されたその光の跡。
そこに立っていたのは、巨大な魔獣でも、異形の怪物でもなかった。
身体を包むのは、この世界の金属では再現不可能な、流動的な銀の衣。
陶器のように滑らかで、感情の欠片も読み取れない無機質な顔立ち。
そして、その背中には、アニマの結晶で編まれたような三対の光の翼。
……監査人、か。
あいつからは、血の匂いも、怒りも、殺意すら感じられない。
ただ、不採算部門の整理に来た本社のエリート社員のような、凍てつくほど事務的な冷たさだけが漂っていた。
監査人は手に持った「光の帳簿」のようなものを無造作に開くと、視線を一度も俺たちに合わせることなく、空中に指を滑らせた。
『……対象領域、王都ロイヤル・ヴェルディア。……支配権(SIC)の不当な流出を確認。……システムの基幹に重度のクラッキング形跡あり。……修復コスト、および今後の維持期待値を算出……』
その声は、広場全体に響き渡っているはずなのに、誰の耳にも届いていないような、異質な周波数を伴っていた。
監査人の周囲で、空間の色彩がノイズのように点滅し、地面の石畳がデジタルデータの欠落のように、四角い破片となって空へと溶けていく。
……あいつ、立ってるだけで世界を「解体」してやがるのか。
「……おい、エリア。……客たちを下がらせろ。……これ以上、あいつの近くにいると、存在自体を『削除』されるぞ」
「……え、ええ! みんな、離れて! 早く!」
エリアが状況の異常さを察し、民衆を強引に避難させ始める。
俺は一歩、監査人の方へと踏み出した。
肺に流し込まれる空気が、まるで液体窒素を吸わされたように冷たく、喉を焼く。
『……算出完了。……当該資産の残存価値は、清算コストを下回る。……資産価値、ゼロ。……これより、全資産の消去を伴う、強制的な債務整理を開始する』
監査人が初めて、その感情のない瞳で俺を捉えた。
その視線は、人間を殺そうとする者のそれではない。
ただ、使い古されたボロ雑巾をゴミ箱に捨てる時のような、あまりに自然で、あまりに絶対的な「事務処理」の視線だった。
「……勝手な査定だな、おい。……オーナーが不在だからって、現場の許可なく勝手に廃車を決めんじゃねえよ」
俺は霊殻の換装キーを強く、強く握りしめた。
カチリ、カチリ、カチリッ!
静寂を物理的に食い破る、重厚な接続音。
アニマが俺の周囲で結晶化し、黒銀の装甲が俺の肉体を拡張していく。
だが、昨日あれほど万能に思えた「空白の株」の力が、目の前の監査人が放つ「無」の領域に触れた途端、まるで安物のライターの火のように頼りなく揺らいだ。
……最悪だ。
タクシー運転手としての経験が、最悪のルートしか表示してくれない。
あいつは、戦う相手じゃない。
この世界の「理」そのものを武器にして、俺たちの存在権を直接買い叩きに来た、本物の死神だ。
『……抵抗は、管理効率を低下させる。……速やかな清算を。……最初の消去対象は、支配権(SIC)の流出源である——貴公だ』
監査人が光の指先を俺に向ける。
その瞬間、俺の足元の空間がガラスのようにひび割れ、虚無の闇が俺の足を飲み込もうと口を開けた。
営業再開早々、とんでもない借金取りが現れやがった。
だがな、俺はまだ、この街に住む客たちに、目的地までの領収書を切っちゃいないんだ。
俺は、消えゆく地面を蹴り、無慈悲な監査人の喉元へと、全力のアクセルを踏み込んだ——。
【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
「負債の正体、邪神の監査」
戦いの翌日、王都に訪れた束の間の平穏を突き破るようにして現れた「監査人」。
それは、邪神の本隊から派遣された、この星の「清算人」でした。
彼らが使っているのは、剣や魔術ではなく「デリート」という事務的な権限。
「不当な流出」としてカイトの存在そのものを消し去ろうとする監査人を前に、カイトの持つ「空白の株」すらも、その前では頼りなく揺らぎます。
「勝手な査定だな、おい。……オーナーが不在だからって、現場の許可なく勝手に廃車を決めんじゃねえよ」
これまで数々の理不尽をバイアウトしてきたカイトですが、今回は「世界の理」そのものを相手にした、かつてないほど無茶な運行の始まりです。
果たしてカイトは、この絶対的な「債務整理」の強襲をいかにして切り抜けるのか——。
この街に生きる人々の目的地を守るため、あるいは単に、自分の運転を邪魔されたプライドのために。
カイトの命懸けのアクセルが、再び王都の広場で唸りを上げます。
第12話、さらなる絶望的状況での加速にご期待ください!
いつも応援ありがとうございます。
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次回の運行も、どうぞよろしくお願いします!




