第3章・第12話「債務不履行の反撃」
踏み込んだ足元から、石畳がデジタルノイズのように砕けて消えていく。
視界の端々で四角い破片が虚無の闇へと吸い込まれ、俺の鼓膜は絶対的な無音という暴力に晒されていた。
……最悪だ。
前世で、ブレーキの利かないタクシーに乗せられて廃車場へ直行させられているような、救いようのない絶望感が鼻を突く。
監査人が、感情の欠片もない動作で俺の方へと光の指先を向けた。
その指先から放たれたのは、熱も衝撃も伴わない、ただ「そこにある存在」を強制的に否定する灰色の光。
俺の肉体の一部であったはずの空気が、服が、そして霊殻の装甲が、光に触れた瞬間に四角いノイズとなって「消去」され始める。
ミシミシと、俺の存在そのものが帳簿から消し込まれるような、嫌な感触が魂の奥底に響く。
だが、その光が俺の心臓部——「全ステータス1」という加護の核に触れた瞬間。
……滑った。
監査人の放ったデリート命令が、俺という存在を認識できずに空を切るような、奇妙な手応え。
観察。
奴の「消去」は、対象を厳密に定義することで成立している。
何者であるか、どれほどの価値があるかという「確定した数値」を座標にして、それを消し去る命令を下しているんだ。
だが、俺の魂は「空白の株」——どこにも定義されず、誰の所有物でもない、何者にも割り振られていない「バグ」そのものだ。
消去の光は俺の装甲を撫でながら、まるで宛先不明で戻ってきた督促状のように、虚空へと霧散していく。
……ハッ、悪いな。
俺という車両は、あんたたちの管理用コンピュータには登録されてないんだよ。
「おじさん、今だ! あたしがアニマの波長を固定する! 消されないように、ぎゅって抱きしめてるから!」
霊殻の深層から、セフィラの震えながらも必死な声が届いた。
彼女が俺を「存在」という座標に繋ぎ止めるチューナーとして機能し、俺の空白を「不確定な意志」として強固に固めていく。
監査人の動きに、コンマ数秒の明確な「硬直」が走った。 ……来た。 俺はその隙を見逃さず、消えゆく地面を思い切り蹴り、奴の懐へとさらに深く滑り込んだ。
「はあぁぁぁッ!」
横合いから、エリアが放った一撃が監査人の銀の衣を叩いた。
彼女の剣には、アニマの量という数値では測れない、民を救おうとする泥臭い執念が乗っている。
それは監査人の効率的な計算式には存在しない、極めて「非合理な変数」。
監査人の三対の翼が不自然に揺らぎ、その絶対的な事務処理に、わずかコンマ数秒の「処理落ち(ラグ)」が生じた。
「……あんたの帳簿には載ってないかもしれないが、俺たちはここで確かに『生きてる』んだよ。……勝手にゼロだと決めつけんじゃねえ」
俺は、霊殻の全アニマを右拳に集中させた。
カチリ、カチリ、カチリッ!
耳の奥で鳴り響く重厚な接続音。
地の型。
神領域で100年間、何万回、何億回と繰り返した、重力そのものを拳に乗せるための設計図。
星の根幹から引き出したエネルギーが、俺の「空白」を埋め尽くし、絶対的な「質量」へと変換されていく。
俺の拳が、監査人の無機質な、陶器のような顔面を正面から捉えた。
ドゴォォォォォォンッ!
無音の空間に、物理的な破壊音だけが、世界の法則を突き破って鳴り響いた。
衝撃が監査人の頭部を粉砕し、奴が纏っていた銀の衣に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
デリート領域という「神の計算式」が、俺の不渡りの一撃によって、物理的にへし折られた瞬間だった。
俺の拳が、奴の無機質な面を真っ向から捉えた。最初の一撃が深々と的中し、維持されていた法則が、内側からガラガラと崩壊していく感触が拳を通じて伝わってくる。 ……ざまあみろ。 砕け散る銀の破片がノイズのように舞う中、あの不遜な監査人の身体が、衝撃に耐えかねて大きく仰け反るのを俺は見逃さなかった。
奴の顔面に走った亀裂からは、血液ではなく、眩いばかりの光のデータが溢れ出している。
王都を「資産価値ゼロ」と断じた奴の帳簿を、俺の拳が物理的に「書き換えた」のだ。
モノクロームだった世界に、一瞬だけ鮮やかな色彩がフラッシュバックするように戻ってくる。
だが、監査人は倒れなかった。
観察。
砕かれた頭部。
そこから漏れ出す光が、意思を持つかのように蠢き、欠落した部分を埋めるように再構成を始めている。
『……イレギュラー。……予測モデルの修正を申請。……損傷の自己修復を開始。……当該資産の清算を「強行」に移行する』
監査人の声が、今度は俺の脳内に直接、金属を擦り合わせるような不快な音と共に響いた。
奴の背後にあった三対の光の翼が、血のように真っ赤な色に染まり、広場全体を包む冷気が、今度は俺の魂そのものを凍りつかせようと膨れ上がる。
……まだ、倒産させるには足りないってか。
俺は、フィードバックとして返ってくる右拳の激痛を無視し、再び重心を低く落とした。
アニマの残量は、決して多くない。
だが、メーターはまだ「止まれ」とは言っていない。
修復を終え、より禍々しい「消去」の力を集約させ始めた死神を見据え、俺は再び、不渡りのためのアクセルを底まで踏み抜いた——。
【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
「債務不履行の反撃」
「存在するだけで世界を消去する」という、あまりに無慈悲な監査人。
そのデリートの光を、「空白の株」であるカイトは泥臭く、しかし力強く弾き返しました。
監査人の計算式に存在しない「バグ」として。
そして、エリアという「非合理な変数」を乗せて。
カイトの拳が叩き込んだのは、単なる打撃ではありません。
それは、世界を資産として管理しようとする邪神の理論に対する、タクシー運転手からの強烈な「不渡り」の意思表示でした。
しかし、監査人はただのシステムではありませんでした。
砕けてもなお再構成され、より禍々しい力を帯びて立ち上がる姿は、まさに終わりなき借金取りの恐怖。
「……まだ、倒産させるには足りないってか」
血の滲むような激痛とアニマの枯渇の中、カイトは再びアクセルを踏み込みます。
彼を突き動かすのは、領収書を渡せていない客たちの未来のため。
そして、何よりもこの「理不尽な営業所」を潰されたくないという意地です。
果たしてこの絶望的な債務整理を、カイトたちはどうやって踏み倒す(バイアウトする)のか。
物語はここから、さらに激しい物理法則のぶつかり合いへと突入します。
次話の更新も、どうぞ見届けていただけると幸いです!
皆様からの熱い応援やレビューが、カイトたちの走りを支える最強のガソリンです。




