第2章・間話1「白銀の揺らぎ、泥の真実」
指先が、何かに触れた。
あたしはベッドから身を起こし、暗闇の中で自分の指を見つめた。
白く、汚れひとつなかったはずの指先が、どろりとした黒い油のようなもので汚れている。
視線を壁に向けると、聖騎士団の象徴である純白の石壁から、まるで傷口から流れる血のように、真っ黒な煤が染み出していた。
気持ち悪い。
あたしはシーツで指を拭ったが、その煤は粘りつくような嫌な感触を残したままだ。
窓の外からは、夜を切り裂くような神威庁の鐘の音が聞こえてくる。
けれど、それはいつもの神々しい調べじゃない。
ひび割れた鐘を無理やり叩いているような、腹の底をざわつかせる不協和音。
カイト
あたしの脳裏に、あの日、崩壊した監獄の入り口で見せた彼の顔が浮かんだ。
全身を泥と血にまみれ、瀕死の男を背負っていた、あのみすぼらしいドブネズミのような姿。
なのに、その瞳だけは、あたしの知る誰よりも冷たく、そして澄んでいた。
「あたしの言う『法』が、どれだけの犠牲の上に成り立っていたか、その観察眼で確かめるんだな」
彼の突き放すような声が、耳の奥で何度も繰り返される。
あの時、あたしは彼を「逮捕」することで「保護」しようとした。
でも、違ったんだ。
彼は最初から、あたしが見ていたものよりも、ずっと深くて暗い「泥」の正体を知っていたんだ。
あたしは騎士の外套を羽織り、物音を立てずに部屋を抜け出した。
中庭に面した回廊を走っていると、階下から重々しい金属の擦れ合う音が響いてきた。
変だ
こんな深夜に、何の訓練だろう。
あたしは回廊の陰に身を潜め、中庭を見下ろした。
そこにあったのは、騎士団の訓練機(霊殻)じゃない。
巨大な水槽のような形をした、鈍色に光る無骨な機械。
その表面には、あたしたちが聖典で「禁忌」と教えられてきた、アニマを強制的に抽出するための紋様が刻まれていた。
「……急げ。夜明けまでに、第三区のヒューマン居住区に設置を完了させろ。アニマの『焦げ付き』を埋めるには、この程度の回収では足りんのだ」
冷徹な声が聞こえた。
驚いた。
そこに立っていたのは、あたしの父であり、騎士団を統べる団長、アルベルトだった。
父の白銀の甲冑も、月光を浴びて黒い影を帯びている。
あたしが憧れ、守りたいと願ってきた「白銀の正義」が、あの真っ黒な煤と混ざり合っていく。
「魔獣対策……なんですよね、お父様?」
あたしの声は、自分でも驚くほど震えていた。
父は、あたしの存在に気づいても、表情一つ変えなかった。
ただ、不良債権を処分する時のような、冷たく事務的な視線を娘に向けただけだ。
「エリアか。……これは『投資』だよ。この王都を維持するために、価値なき者から余剰なアニマを回収する。神々の加護を維持するための、当然の権利だ」
不快だ
「権利」なんて、そんな綺麗な言葉で誤魔化さないでほしい。
父が言っているのは、カイトが言っていた「搾取」そのものじゃないか。
あたしの足元まで、壁から漏れ出した煤が広がってきた。
この煤の正体は、きっと誰かの、声にならない絶望の成れの果てなんだ。
あたしは、自分の纏っている騎士の制服が、急に鉛のように重く、そして耐えがたく汚らわしいものに感じられた。
「……あたし、カイトを追いかけます」
「ならん。お前はフォレスターの名を汚した。謹慎していろと言ったはずだ」
「法が……お父様の言う正義が、こんな泥まみれのものだとしたら」
あたしは一歩、後ずさった。
「あたしは、あたしの剣を……誰を叩き潰すために抜けばいいのか、自分で確かめにいく!」
返事を待たず、あたしは駆け出した。
背後で父が何かを命じる声がしたが、もう耳には届かなかった。
兵舎を抜け、城壁の影を飛び越える。
最悪だ。
王都の空気は、今まで感じたことがないほどに「不味い」。
油が焼けるような不快なチリつきが、あたしの肌を刺してくる。
でも、カイトの言った「地下の匂い」だけは、この街のどこかから、あたしを手招きするように漂ってきていた。
夜明け。
セピア色に染まっていた空の端から、刺すような鋭い青白い光が差し込んできた。
あたしは古いマントを頭から被り、白銀の甲冑の輝きを隠した。
騎士としてのあたしは、今、ここで一度死んだ。
待っていて、カイト。
あたしはもう、守られるだけの女の子じゃない。
あたしは、あんたと一緒に……この腐った世界の帳簿を、全部ぶち壊してやるんだから。
あたしは、迷いなく地下水路へと続く、暗い入り口へと飛び込んだ。
◇
【エリアの内面:騎士としての正義への疑念、カイトへの共鳴 を獲得しました】
【第2章・間話1 あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
「白銀の揺らぎ、泥の真実」
王都の象徴であるはずの聖騎士団。
その中枢でエリアが見たのは、神々しい正義の裏側に隠された、おぞましい「投資」の光景でした。
父である騎士団長アルベルトが口にした冷酷な言葉は、エリアがこれまで信じ、守り抜こうとしていた「白銀の世界」を、真っ黒な煤で塗りつぶします。
「守られるだけの女の子」であったエリアは、自らの信じる正義の剣を折ることで、騎士としての自分を捨てました。
彼女が最後にたどり着いたのは、カイトたちが潜む汚れた地下水路。
異なる場所にいた二人が、同じ「腐敗」を目の当たりにし、同じ「絶望」を抱えて地下の闇で合流しようとしています。
騎士という鎧を脱ぎ捨て、泥にまみれる覚悟を決めたエリア。彼女がカイトの前に現れた時、王都の均衡はどう崩れるのか。
物語は、カイトの戦いとエリアの決意が交差する、次なる局面へと大きく動き出します。
騎士の矜持を捨てた少女の、静かな、しかし確固たる宣戦布告。
皆様からの応援、レビューが執筆の原動力です。
カイトたちの運行と、エリアの決断、ぜひこの先も見届けていただけると幸いです!




