第1章・第12話「空っぽの地下、紅の決意」
視界を焼くのは、セピア色の霧を切り裂く暴力的なまでの「白」だった。
ガルトの酒場の入り口。
そこには、泥にまみれた貧民街にはあまりに不釣り合いな、白銀の装甲と黄金の意匠を纏った聖騎士たちが立ち並んでいた。
彼らが掲げる盾から放たれる光は、この世界の「正義」を物理的な質量に変えたような、重苦しい圧迫感を持って路地を支配している。
最悪だ。
俺は壁の影に身を潜め、荒い呼吸を殺した。
肺の奥が、聖騎士たちが放つ高純度のアニマにあてられて、チリチリと焼けるように痛む。
トランクを握る指先が、自分のものじゃないみたいに冷たい。
ガルト。あの片腕の親父はどうなった。
酒場の入り口からは、泥の匂いも安酒の臭いも消えていた。
代わりに漂ってくるのは、鼻を突くような「清潔な鉄」の匂い。浄化という名の、一方的な蹂躙の跡だ。
「……おじさん。あの中、すごく『不味い』。ガルトの匂いが、もう半分くらい消えちゃってるよ」
カイトの胸元で、セフィラが震えながら囁いた。
彼女の銀髪は光を失い、その身体は背景のレンガが透けて見えるほど希薄になっている。
「……分かっている。セフィラ、そのまま隠れてろ。……最短ルートを、叩き出す」
俺は、聖騎士たちの配置を観察した。
タクシーの運転手として、ラッシュ時の交差点のわずかな「隙間」を見つけるのと同じだ。
変だ。
正面の守りは鉄壁だが、裏路地へ続く小さな勝手口に続くルートだけが、不自然なほどに「薄い」。
一度でも貧民街の路地を走れば気づくような、あまりに露骨な死角だ。
罠だな。
あいつらは、俺が戻ってくるのを分かっている。
「空白の株」を手に入れた泥だらけの異分子を、袋のネズミにするための、わざと空けられた招待席だ。
だが、そこを通るしかない。
俺のメーターは、もう引き返せる場所を通り過ぎている。
俺は風の型を極限まで絞り、音を立てずに泥の地面を滑った。
聖騎士たちの視線の「間」を縫う。
光の檻が俺の背中を舐めるが、その焦点が合う前に、俺は勝手口の扉へと飛び込んだ。
◇
階段を下りるたびに、心臓が嫌な拍動を刻んだ。
いつもなら鼻を突くはずのカビと酸っぱい酒の臭いが、完全に消え去っている。
代わりに、地下の空気は極寒の冬のように冷え切り、聖アニマ教会の「法」を象徴する白光の残滓が、煤けた壁を無機質に照らしていた。
一階の酒場に辿り着いた瞬間、視界に入ったのは「終わり」の光景だった。
椅子は砕かれ、カウンターは真っ二つに叩き割られている。
ガルトがいつも磨いていた薄汚れたグラスは、床の上で粉々になり、泥水の溜まった床で虚しく光を反射していた。
空っぽだ。
客の一人も、騒がしい荒事師たちの罵声もない。
あるのは、ただの「死んだ空間」だけだった。
「……ガルト!」
俺の声が、窓のない地下に虚しく響いた。
いない。
カウンターの奥、ガルトの定位置だった場所には、血の混じった泥の足跡が幾重にも重なっていた。
あの大男が、一本の左手で抗い、そして引きずられていった軌跡が、あまりに生々しく床に刻まれている。
驚いた。
俺の心の中にあった「まあ、いいか」という、あらゆる理不尽をやり過ごすための防衛壁が、音を立てて崩壊していくのが分かった。
五十年の人生を使い潰され、百年の静寂に耐え、それでも俺を繋ぎ止めていた、タクシー運転手としての「諦念」という名のブレーキが、今、完全に焼き切れた。
最悪だ。
俺は、震える手でカウンターの裏側をまさぐった。
そこには、俺が預けたはずの「汚れた帳簿」はなかった。
当然だ。あいつらの目的は、最初からこれだったのだ。
だが、その代わりに。
砕かれた棚の隙間に、一枚の小さな金属片が落ちていた。
カチリ。
それを指に触れた瞬間、骨の芯から懐かしい音が響いた。
それは、ガルトがかつて操っていた霊殻「断腕」の、回路の一部だった。
彼が最後の瞬間に、俺のために残した、あるいは奪い取らせた、この世界の理不尽への「逆転の設計図」
その裏側には、血のついた指先で、殴り書きのようなメッセージが記されていた。
『――ハンドルを離すな』
……ああ、分かっている。
俺は、その金属片をポケットにねじ込んだ。
膝の震えが止まっていた。
肺の奥の熱は、もはやアニマのせいじゃない。
怒りだ。
前世で、理不尽に頭を下げ続けた自分。
今世で、母を救えず雨の中で立ち尽くした自分。
そして今、唯一の居場所を壊された自分。
それらすべてが、俺の中で一つの巨大な「熱量」となって、アニマを加速させていく。
「おじさん……顔。すごく、怖いよ」
セフィラが俺の顔を覗き込み、声を震わせた。
彼女の瞳に映る俺は、もはや十四歳の少年でも、おちゃらけた運転手でもなかった。
「セフィラ。……行こう。もう、メーターは止まらない」
俺は、おちゃらけた笑いを完全に捨てた。
声は驚くほど静かだったが、その響きには、この世界の物理法則そのものを叩き潰すような、鋼の硬度が宿っていた。
背後で、重厚な金属の靴音が響いた。
階段の上。
白いマントを翻し、一人の神官が姿を現した。
金縁の黒法衣。あの儀式の場で、俺を「塵芥」として切り捨てた、あの冷徹な男だ。
「……誘いに乗るとは。やはり、神々の恩寵を汚す『異物』だったか。カイト・クラウス」
男の背後には、剣を抜いた聖騎士たちが並んでいた。
エリアは、そこにはいなかった。
観察眼が、神官の瞳の奥にある、確信に満ちた「選別」の意志を捉える。
「エリアは、このことを知っているのか?」
「彼女は今、特務任務の事後報告で王宮にいる。……君のような不浄な存在が、聖騎士の未来を汚す必要はない」
……そうか。
あいつを遠ざけて、俺をここで「処理」するつもりか。
俺は一歩、踏み出した。
カチリ。
音が、鳴り止まない。
骨の芯から。地面の底から。
この世界の、バッドエンドへと向かう歯車を逆回転させるための、巨大な接続音が地下室に充満していく。
「俺の目的地は、お前らの帳簿には載っていない場所だ」
俺は右拳を握り込んだ。
指先から吹き出した白銀のアニマが、激しい怒りに呼応して結晶化し、俺の肉体を核として巨大な「質量」を肉付けしていく。
霊殻
それはもはや、エリアを守るための不器用な力じゃない。
この理不尽な世界の、その喉元に食らいつくための、復讐者の牙だ。
「どけ。……ここは、通行止めだ」
白光が爆ぜた。
俺の一撃が、聖なる光に包まれた地下室の沈黙を、完膚なきまでに粉砕した。
◇
【内面:初めての本気の怒りの表出 を獲得しました】
【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
「空っぽの地下、紅の決意」
ガルトの酒場へ戻ったカイトを待っていたのは、安酒の臭いではなく、徹底的に浄化された「死んだ空間」でした。
かつての居場所を蹂躙され、ガルトが引きずり去られた痕跡を目の当たりにした瞬間、カイトを繋ぎ止めていた「運転手としてのブレーキ」が完全に焼き切れます。
そこに残されていたのは、ガルトが最後に託した霊殻の断片と、不器用で熱いメッセージでした。
『――ハンドルを離すな』
地下室へと乗り込んできた神官たちが告げたのは、エリアを遠ざけ、カイトをここで「処理」するという冷徹な宣告
しかし、その時、カイトはもう、ただの貧民街の少年ではありませんでした。
怒りを燃料に加速するアニマは、もはやエリアを守るための不器用な力ではなく、この世界の喉元に食らいつくための「復讐者の牙」となって結晶化します。
「どけ。……ここは、通行止めだ」
初めて見せた本気の怒りが、地下室を支配していた聖なる光を完膚なきまでに粉砕しました。
これまで「計算ミス」として追われていたノイズが、今、システムそのものを破壊する「エラー」として牙を剥きます。
メーターはもう止まらない。
地獄の果てまで突き進む、おじさんの第3の人生
この巨大な包囲網を、カイトはどう切り抜けるのか――
魂を削りながら突き進むこの過酷な逆転劇を、ぜひ応援、レビューなどで一緒に見届けていただけると大変励みになります。
第13話もよろしくお願いします!




