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第1章・第11話「霧を裂く遁走、追跡者の爪」

 地下書庫のひんやりとした静寂が、一瞬で熱を帯びた殺意に塗り替えられた。


 背後の闇から響く、重厚な金属の靴音。

 それは無秩序な貧民街の足音とは違う。訓練され、規律に縛られ、迷いのない「排除」の音だ。


 最悪だ。


 俺はトランクの取っ手を握り直し、腐った沼のような緑色の霧が立ち込める地上へと這い出した。

 呼吸をするたび、喉の奥に鉄サビを流し込まれたような感覚が走る。視界は五メートルも利かない。アニマの澱みが服の隙間から入り込み、肌を無数の針で刺してくる。


 来た。


 霧の向こう側。

 音もなく、白い閃光が爆ぜた。


 驚いた。


 それはただの魔法じゃない。アニマを極限まで圧縮し、特定の空間ごと「消失」させるための高位加護――神威庁の執行官が使う『審判の光』だ。

 俺の観察眼が、光の粒子の集束点から、一秒後の「空白」を読み取る。


 俺は、おちゃらけた冗談を言う暇もなく、テラの型を捨ててウェントの型へと意識を切り替えた。


 カチリ。


 骨の芯で、小さな、けれど鋭利な接続音が響いた。

 霊殻アーマチュアを全展開する余裕はない。そんなことをすれば、昨日削られた魂の残量が底をつき、俺は走ることもできない抜け殻になる。

 

 だから、最小限だ。

 俺は、自分の四肢の先数センチだけが「風」に溶ける感覚をイメージした。


 シュンッ、という風切り音と共に、俺の体が横へとスライドする。

 直後、さっきまで俺が立っていた場所の地面が、音もなく円筒状に削り取られた。爆発音さえない。ただ、物質そのものが否定されたような不気味な空白。


「……逃がさん。カイト・クラウス」


 霧の奥から、歪みのない、機械のように平坦な声が届いた。


 変だな。


 家籍を抹消され、ドブネズミのように貧民街へ沈んだはずの俺の名前を、あいつは迷いなく呼んだ。

 タクシーのバックミラー越しに、指名手配犯の顔写真を確認した時のような、嫌な確信が背筋を走る。

 没落した「出来損ない」を、この国はまだ監視し続けていたのか。


「お、おじさん……! 胸のあたりが、すごく不味いよ! あの人、人間じゃないみたいに冷たい!」


 セフィラが、俺の胸元で震えながら囁いた。

 彼女の姿は、霧に溶けかけるほど薄く、透けている。実体を持たない彼女ですら、この追跡者が纏う「法の暴力」に怯えているのだ。


「……セフィラ、黙ってろ。舌を噛むぞ」


 俺は、トランクを抱えたまま駆け出した。

 目的地はガルトの酒場。最短ルートは、この緑の霧に隠された迷路のような路地裏。


 背後で、再び光が集束する気配。

 今度は一つじゃない。三つ、四つ。

 広範囲を網状に焼き尽くすつもりだ。


 面倒だな。


 俺は、前世で経験した「ラッシュ時の新宿大ガード下」の渋滞を思い出していた。

 あそこを抜けるには、強引な加速も急ブレーキも必要ない。ただ、他車の視線の動きを読み、アクセルを一定に保ちながら、隙間を縫うようにして「滑る」だけでいい。


 カチリ、カチリ。


 一撃ごとに、俺の身体が最小の予備動作で光を回避していく。

 ある時は頭を数センチ傾けるだけで、ある時は石畳を滑るようにして。

 

 ウェントの型は、音を置き去りにする速度ではない。

 それは、周囲のアニマの「流れ」に逆らわず、その隙間に同化する技術だ。

 

 俺の身体は、霧の中を流れる風そのものになっていた。

 追跡者の放つ『審判の光』は、俺の残像さえ捉えることができず、腐った建物の一部を虚しく消し去るだけに終わる。


「……なぜだ。加護なき『全1』が、なぜ予測アルゴリズムを外れる」


 追跡者の声に、初めて僅かな「揺らぎ」が混じった。

 

 驚いた。


 あいつらは俺を、ただの「逃亡者」ではなく、修正されるべき「計算ミス」として見ている。

 既存の管理システム(Layer A)からすれば、俺という存在は、画面に映るはずのないノイズのようなものなのだろう。


 路地を曲がり、崩れかけたレンガの壁に手をついた瞬間。

 俺の足元に、一本のアニマの「糸」が伸びているのが見えた。


 変だ。


 それは敵の魔法ではない。

 貧民街の泥の中に、不自然に隠された――ガルトが使っていた「仕掛け」と同じ波長。


「……そういうことか。おじさん、あそこ! あの汚い壁を蹴って!」


 セフィラの叫びと同時に、俺は壁を蹴った。

 

 ガラガラ、という音を立ててレンガが崩れ落ちる。

 だが、それはただの老朽化による崩落ではない。

 俺が特定のレンガを踏んだことで、壁の裏に仕掛けられていた「アニマの攪乱機」が起動したのだ。

 

 ドォォォン!


 凄まじい轟音と共に、緑の霧が一気に白銀のアニマに塗り替えられた。

 

 視界がホワイトアウトする。

 追跡者の『審判の光』の照準を狂わせるための、ガルト流の「目眩まし」だ。


「……助かった。最短ルートの案内人ナビにしては、気が利きすぎる」


 俺は白銀の爆光の中に滑り込み、あらかじめ頭の中に叩き込んでいた地図を頼りに、全力で走り抜けた。

 

 追跡者の気配が、一気に遠のいていく。

 

 数分後。

 俺は肩で息をしながら、ようやく見慣れたガルトの酒場の入り口へと辿り着いた。

 全身泥まみれ。トランクは重く、腕の感覚は麻痺しかけている。

 

 だが、俺は、酒場の前で足を止めた。

 

 呼吸が止まった。


 変だ。


 酒場の入り口、あの傾いた看板の周囲。

 霧が晴れているわけでもないのに、そこだけが不自然に「空っぽ」だった。

 

 アニマの気配がない。

 いや、すべてが一点に向かって、冷酷に、完璧に「包囲」されている。

 

 酒場の入り口を囲むようにして立っているのは、泥まみれの貧民街の住人ではない。

 白装束を纏い、黄金の意匠が施された盾を構えた――城壁内の聖騎士たち。

 

 そして、その中心。

 

 俺の観察眼が、見たくもなかった「最悪の客」の姿を捉えた。

 

 そこには、エリアと同じ騎士団の制服を着た、けれど彼女とは正反対の――腐敗した「法」を背負った男たちが、ガルトの酒場を「汚染源」として完全に封鎖していた。


「……おじさん。あの中、誰もいないよ」


 セフィラの声が、震えていた。

 彼女の指差す先、酒場の地下へと続く階段。

 

 そこから、漂ってきたのは――。

 安酒の臭いでも、カビの臭いでもない。

 

 冷たい、死のような鉄の臭いだった。


 最悪だ。


 俺はトランクを強く握りしめ、セピア色の空の下で、逃げ出すことを忘れて立ち尽くした。

 

 メーターは、まだ止まってくれない。

 だが、この先に待っているルートが、俺の想像したどんな地獄よりも「冷たい」ものであることだけは、タクシー運転手の勘が、痛いほどに告げていた。


 ◇


【力:属性:風の型による超速回避の端緒 を獲得しました】

【あとがき】

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


「霧を裂く遁走、追跡者の

地下書庫から持ち出した『汚れた帳簿』は、同時に神威庁の追跡者という名の「死神」を呼び寄せてしまいました。

追跡者が放つ、空間ごと消失させる『審判の光』

霊殻アーマチュアの残量がないカイトは、前世での渋滞を縫うようなプロの勘と、ウェントの型による超速回避で、追跡者の計算を狂わせながら泥の迷路を駆け抜けます。


ガルトの仕掛けた攪乱機による援護もあり、なんとか死線を潜り抜けたカイト。

しかし、安息の地であるはずのガルトの酒場に辿り着いた彼の目に映ったのは、聖騎士たちによる冷徹な「封鎖」と「汚染」でした。

安酒とカビの臭いは消え、代わりに漂う、死のような鉄の臭い。

ガルトはどこへ消えたのか。

そして、この冷たい包囲網の先にある、カイトの第3の人生最大の「詰み」とは――。


システムのノイズ(計算ミス)として排除されようとするカイトの運命は、いよいよ逃げ場のない聖域の深淵へと追い詰められていきます。


泥まみれになりながらもメーターを回し続けるおじさんの、あまりにも過酷な挑戦。


この絶望的な状況を、カイトがどのように切り拓いていくのか、ぜひ応援、レビューなどで一緒に見届けていただけると大変励みになります。


第12話もよろしくお願いします!

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