第1章・第10話「南端の静寂、禁忌の書庫」
南へ進むほど、空気の「味」が目に見えて悪くなっていった。
貧民街の喧騒は遠のき、代わりに聞こえてくるのは、足元から伝わる地鳴りのような咆哮だ。
霧は濁ったセピア色から、腐った沼のような不気味な緑色へと変質している。
呼吸をするたび、喉の奥に錆びた鉄の粉を流し込まれたような不快感が走り、肌は目に見えない無数の針で刺されているみたいにチリチリと痛む。
最悪だ。
俺は口元をボロ布で覆い、ガルトから渡された錆びた鍵をポケットの上から確かめた。
前世で、深夜の工業地帯を走っていた時のことを思い出す。
街灯もなく、ただ建物のシルエットだけが巨大な墓標みたいに並ぶ、あの「世界の果て」の感覚。
この場所には、生きている人間の気配が一切ない。
あるのは、世界の支配権を食い荒らし、吐き出されたカスのような澱みだけだ。
「……おじさん。耳鳴りが、もう限界。ここ、すごく『不味い』よ。誰かが、ずっと泣いてるみたいな音がする」
俺の影の中から、セフィラの掠れた声が聞こえた。
彼女の姿は、陽炎よりも薄く透けている。
「……分かってる。最短ルートで済ませる。セフィラ、もう少しだけ耐えてろ」
俺は、ガルトが言っていた「崩れた塔」の跡を見つけた。
驚いた。
それは建物というより、剥き出しになった世界の肋骨みたいに見えた。
黒ずんだ石材が不自然な角度で地面に突き刺さり、その隙間から、ドロリとしたアニマの煤が噴き出している。
その影。
瓦礫に埋もれるようにして、古びた鉄の扉があった。
俺は膝をつき、扉に積もった数百年の埃を払った。
現れたのは、聖アニマ教会の紋章。
神々が人間に加護という「投資」を行うための、厳格な承認印だ。
カチリ。
俺は錆びた鍵を差し込み、力任せに回した。
変だ。
手応えは驚くほど軽かった。
千年以上閉ざされていたはずの扉は、まるで俺が来るのを待っていたみたいに、滑らかに、そして音もなく奥へと開いた。
中から溢れ出してきたのは、光ではない。
肌を凍りつかせるような、圧倒的な「静寂」と「冷気」だった。
◇
地下へと続く階段は、完璧なまでに保存されていた。
壁にはアニマを増幅させる青い石が埋め込まれ、俺の足音に反応して、弱々しく、けれど冷徹な光を放ち始める。
地上での腐ったアニマとは違う。
ここは、高純度で、そして死んだように静かな「管理されたエネルギー」で満たされていた。
最奥のホール。
そこに、そいつは立っていた。
来た。
俺は、反射的に地の型を踏んだ。
ホールの中心。
アニマの光の中に浮遊していたのは、半透明の鎧を纏った騎士の姿だった。
肉体はない。
ただ、かつてこの場所を守っていた聖騎士の、歪んだ記憶とアニマが結晶化した「残影」だ。
「……許可なき者の……立ち入りを……禁ずる……」
ひび割れたレコードのような、感情の欠落した声。
残影が、半透明の長剣をゆっくりと構えた。
面倒だな。
俺はタクシーの運転席で、酔っ払いの客が振り上げた拳を見つめる時のような冷めた視線で、相手を観察した。
相手に重心はない。
アニマの揺らぎだけで、物理法則を無視した一撃を放ってくる「自動プログラム」だ。
だが、その回路は、俺の目には光る筋のように見えていた。
「セフィラ、霊殻は使わない。……今の俺の器じゃ、概念を燃やす余裕はないからな」
「……分かってる。でも、あいつ、速いよ」
残影が、音もなく床を滑った。
速い!
一瞬で俺の死角に回り込み、長剣が水平に閃く。
俺は、型を動かした。
霊殻を纏わない、純粋な肉体。
全ステータス1の、脆くて、けれど極限まで純化された「楔」。
カチリ。
骨の芯で、小さな、けれど澄んだ音が鳴った。
アニマの量は増えない。
だが、俺の技術が、世界の法則をほんの一瞬だけ、強制的に上書きする。
俺の左足が、残影の剣筋からわずか三ミリだけ外側に着地した。
驚いた。
残影の攻撃は、俺の服の端さえ掠めなかった。
タクシーのハンドルを僅かに切り、対向車のミラーを掠めるようにしてすれ違う、あの最短ルートの極限の感覚。
俺は空いた右手を、残影の胸部――アニマの回路が集中している核へと滑り込ませた。
「……駐停車禁止だ。さっさと消えろ」
俺の掌が、半透明の鎧に触れた。
爆発的なアニマの放出はない。
ただ、俺の「型」が、残影の不安定な構成を、論理的な一撃で分解した。
カチリ、カチリ。
回路の切断音が連鎖する。
聖騎士の残影は、悲鳴を上げることさえ許されず、硝子細工のように音もなく砕け散った。
光の粒子が、書庫の冷たい空気の中に溶けていく。
沈黙が戻った。
俺は肩で息をしながら、ホールの奥にある巨大な書架へと足を進めた。
そこには、皮剥ぎの羊皮紙で綴じられた、無数の分厚い本が並んでいた。
その一冊。
表紙も何もない、ただ黒い煤にまみれた「帳簿」を手に取った。
……重い。
それは歴史の重みじゃない。
そこに記された「冷酷な数字」の質量だ。
俺は、そのページを捲った。
驚いた。
そこには、ヴェルディア王国の建国から現在に至るまでの、アニマの「収支」が克明に記録されていた。
だが、その数字は異常だった。
神々が人間に投資したアニマの総量に対し、還流(返済)されている数字が、あまりにも少なすぎる。
「……そういうことか」
俺は、前世で学んだ「敵対的買収」という言葉の、本当の意味を理解した。
誰かが、意図的にアニマの還流を止めている。
ハイヒューマンたちに加護を貸し与え、その成果を世界に還元させず、自分たちの懐――あるいは「別の場所」へと横流ししているのだ。
アニマの横領。
星の支配権を、わざと暴落させ、バッドエンドへと誘導する巨大な背任行為。
「……おじさん、見て。一番下の、ここ」
セフィラが、震える指で帳簿の末尾を指差した。
そこには、最新のSIC(神威係数)の変動データと共に、俺も知る「ある名前」が記されていた。
神威庁、そして――。
「……誰だ」
俺の観察眼が、ホールの入り口、暗闇の中に潜む「鋭利な影」を捉えた。
変だ。
それは魔獣の臭いじゃない。
城壁内の、あの不快なまでに洗練された「追跡者」のアニマ。
帳簿を開いた瞬間、俺はこの場所の「アラート」を鳴らしてしまったらしい。
「おじさん、逃げて! すごく不味いのが、そこまで来てる!」
セフィラの叫びと同時に、背後の階段から、重厚な金属の靴音が響き始めた。
最悪だ。
俺は帳簿をトランクにねじ込み、闇の中へと駆け出した。
メーターは、まだ止まってくれない。
最短ルートの出口は、まだ霧の向こう側だ。
◇
【知識:世界の支配権システム(SIC/EC)の具体的な操作の証拠 を獲得しました】
【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
「南端の静寂、禁忌の書庫」
貧民街の最南端、腐った霧の向こう側に眠る「聖アニマ教会の地下書庫」。
そこは、かつての守護者の残影が自動プログラムとして徘徊する、侵入者拒絶の死地でした。しかし、カイトは【霊殻】という切り札を使わず、自身の「型」を極限まで純化させることで、概念を操る聖騎士の残影さえも「最短ルートの回避」で無力化します。
そして辿り着いた書庫の奥で、カイトが手にしたのは、ヴェルディア王国の歴史を綴った『汚れた帳簿』。
そこに記されていたのは、あまりにもおぞましい「世界の真実」でした。
神々からの投資であるアニマは還流されず、何者かによって意図的に横流しされていたのです。この世界が向かっているバッドエンドは、自然現象ではなく、巨大な組織による「意図的な背任行為」の果てにあるものでした。
帳簿を開いた瞬間、突きつけられたのは世界の深淵。
そして、その秘密を暴こうとするカイトの背後に、早くも洗練された「追跡者」の足音が迫ります。
世界の支配権を巡る巨大な闇を暴き出したカイト。
手にした証拠は、この腐敗したシステムを根底から覆すための「最強の武器」となるのか――
帳簿を手に、泥臭く、しかし誰よりも鋭く突き進むおじさんの第3の人生。
世界の理不尽を塗り替えるための「本当の反撃」の幕が、今大きく上がりました。
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