第1章・第9話「反動の対価、錆びた鍵」
一歩踏み出すたびに、泥が靴底を掴んで離さない。
霊殻を解いた後の肉体は、まるですべてのネジが緩んだ中古車のように頼りなかった。
指先が氷のように冷たい。
全身の毛穴からアニマが抜け落ち、代わりに鉛を流し込まれたような重苦しさが四肢に沈殿している。
神域での百年修行で培った「型」がなければ、今頃は泥の中に顔を突っ伏して、動かないメーターを眺めるだけの廃車になっていただろう。
最悪だ。
俺は震える膝を叱咤し、セピア色の霧が立ち込める路地を進んだ。
ふと、周囲の気配が変わったことに気づいた。
変だ。
いつもなら、泥だらけの労働者や虚ろな目をした住人たちが、煮え切らないアニマの澱みの中で蠢いているはずの路地だ。
だが、今は違う。
俺が通りかかると、開いていた窓がバタンと音を立てて閉まり、軒先に座っていた男が弾かれたように立ち上がって闇の中へ消えていった。
彼らの瞳に宿っているのは、感謝でも称賛でもない。
得体の知れない「バケモノ」に対する、剥き出しの恐怖と拒絶。
なるほど。
貧民街の連中にとって、騎士団を圧倒するような白銀の巨人は「救い」じゃない。
平穏(泥沼)の中に投げ込まれた、巨大な「災いの火種」でしかないのだ。
「……あーあ。おじさん、嫌われちゃったね。我の作った世界の住人、みんな性格が悪くなっちゃったのかな」
肩の上で、セフィラが消え入りそうな声で呟いた。
彼女の姿は、霧に溶ける寸前まで薄くなっている。
「……まあ、そんなもんだな。客に『お前の顔は見たくない』と降ろされるのは、前世でもよくあったことだ」
俺はおちゃらけた笑いを作ろうとしたが、顔の筋肉が強張って、歪な形にしかならなかった。
ようやく、ガルトの酒場の看板が見えた。
傾いた木の板が、セピア色の霞の中で幽霊のように揺れている。
◇
酒場の扉を開けると、安酒とカビの臭いが出迎えてくれた。
客は一人もいなかった。
カウンターの奥で、ガルトが一本の左手で古いグラスを磨いている。
彼は俺がトランクを床に置く音を聞いても、顔を上げなかった。
「……戻ったか、ドブネズミ。随分と派手な初乗り(ドライブ)だったじゃねえか」
ガルトの声は、ひび割れた石畳のように硬かった。
俺は答えず、一番近いスツールに身体を預けた。
背もたれに触れた瞬間、意識が遠のきそうになる。
ガルトが手を止め、カウンターの下から一本の瓶と、小さなグラスを取り出した。
ドロリとした、琥珀色の液体が注がれる。
「飲め。……『魂のガソリン』だ。今のてめえには、スープよりこっちが必要だろ」
俺は、震える手でグラスを掴み、中身を一気に煽った。
――焼ける。
喉から胃にかけて、暴力的なまでの熱気が駆け抜けた。
泥のように冷え切っていた血が、強制的に沸騰させられるような感覚。
驚いた。
虚脱感の奥で眠っていたアニマの回路が、この一杯で無理やり叩き起こされたのが分かった。
「……きついな。メーターが逆回転したかと思ったよ」
「フン。霊殻なんて禁忌に手を出しときながら、今更酒の強さに文句を言うな」
ガルトがカウンターを叩き、俺を正面から射抜いた。
その瞳には、かつて彼が操っていたという霊殻「断腕」の、昏い残火が灯っている。
「いいか、よく聞け。坊主。霊殻を纏うってことは、ただアニマを消費するだけじゃねえ。……己の魂を、世界という巨大な鋳型に無理やり押し込むってことだ」
……魂のリスク、か。
「型が完全であればあるほど、霊殻は強くなる。だがな、その代償として、お前の『中身』は削り取られていく。……俺の右腕がなくなったのは、魔獣に食われたからじゃねえ。霊殻という名のバケモノを維持するために、俺の魂が、右腕という『概念』を燃料として燃やし尽くした結果だ」
一言リアクションを飲み込む。
変だ。
タクシーのハンドルを握る指先が、無意識に自分の右腕を触っていた。
概念を燃やす。
数値に現れない「全ステ1」の俺が、なぜあんな質量を現出させられたのか。
その答えが、今、ガルトの冷徹な言葉によって輪郭を持ち始めた。
「お前が今日踏み抜いた一歩は、本来ならお前の寿命、あるいはお前の『カイト・クラウス』という存在そのものを削って叩き出されたものだ。……それを忘れんな。調子に乗ってアクセルを踏み続ければ、明日にはお前も、俺みたいに中身のねえ抜け殻になる」
……厳しいな。
ガルトの忠告は、城壁内の騎士が語る「加護の栄光」とは正反対の、泥まみれの真実だった。
「……おじさん、あっち。見て」
セフィラが、窓のない天井の先――城壁のある方向を指差した。
彼女の瞳が、警告の赤色に強く、不吉に明滅する。
「空気が、また変わったよ。城壁の中で、誰かが世界の支配権(株)を無理やり書き換えてる。……不味い。すごく不味いのが、こっちに来ようとしてる」
最悪だ。
門での一件。神官たちのあの「鑑定」する目。
俺という空白の株の出現が、既存のシステムを維持しようとする連中のブレーキを壊してしまったらしい。
ガルトはセフィラの声を聞いたかのように、カウンターの下へ手を伸ばした。
カチャ、と硬い音がして。
彼が差し出したのは、一本の古びた、錆びだらけの「鍵」だった。
「……なんだ、これは? 忘れ物のキーか?」
「俺の店での『正規ルート』は、ここまでだ。……明日から、お前にはここじゃない場所へ行ってもらう」
ガルトの左手が、鍵を俺の方へ滑らせた。
「貧民街の最南端、魔獣の咆哮が一番うるさい場所に、古い地下書庫がある。……そこには、聖アニマ教会が千年以上かけて隠し通してきた『汚れた帳簿』が眠っているはずだ」
驚いた。
この男は、俺を匿うつもりはないのだ。
むしろ、より深い世界の闇へと、俺を最短ルートで送り出そうとしている。
「お前が『全ステ1』のままで、あの巨人であり続けたいなら……その錆びた鍵の先にある、本当のバッドエンドを見てくるんだな」
俺は、錆びた鍵を手に取った。
重い。
霊殻の質量とは違う。
この世界の、バッドエンドが確定した未来の重みが、その金属片に宿っている気がした。
「……まあ、そんなもんだな。メーターは、最初から戻せない仕様だったしな」
俺はおちゃらけた独り言を呟き、鍵をポケットにねじ込んだ。
深夜の静寂。
地下酒場の外では、セピア色の霧がさらに濃くなり、世界の輪郭を溶かしていく。
俺の第3の人生。
泥を拭う暇もなく、次のシフトが強制的に始まった。
行き先は、聖域の深淵。
この世界の「帳簿」を書き換えるための、本当の反撃が、今、錆びた音と共に動き出した。
◇
【知識:霊殻の使用リスク(魂の摩耗)の理解 を獲得しました】
【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
「反動の対価、錆びた鍵」
覚醒の熱が引いた後のカイトを待っていたのは、戦場での勝利の余韻ではなく、周囲からの「バケモノ」を見る冷ややかな目と、魂を削り取られるような底知れぬ疲弊でした。
貧民街の住人たちにとって、カイトの放った力は救いではなく、平穏(泥沼)をかき乱す「災いの火種」に過ぎなかったのです。
ガルトの酒場で突きつけられたのは、魂を世界という鋳型に押し込む「霊殻」の残酷な真実。
それは、調子に乗れば明日にも自分を抜け殻にしてしまう、命懸けの禁忌でした。
それでも、カイトは安息を選ばず、再び地獄の入り口へ向かうことを決意します。
ガルトから託されたのは、かつての戦士が遺した「錆びた鍵」。
それは貧民街の最南端、聖教会が千年以上かけて隠し通してきた『汚れた帳簿』へと続く道でした。
「お前が『全ステ1』のままで、あの巨人であり続けたいなら……本当のバッドエンドを見てくるんだな」
神官たちの計算を狂わせ、システムを外側から書き換える「空白の株」となったカイトの運命は、いよいよ聖域の深淵へと潜り込んでいきます。
メーターは最初から戻せない仕様。泥を拭う暇もなく始まった、この世界の理不尽を塗り替えるための「本当の反撃」
加速するカイトの第3の人生を、ぜひ応援、レビューなどで一緒に見届けていただけると大変励みになります。
第10話もよろしくお願いします!




