第8話:深夜二時のコール音、繋がってしまった声
◆ 課長さん視点(37歳・嶋田)
「うわあああ……っ!」
あおいちゃんからの容赦ない、けれど甘すぎる返信画面を見て、俺は部屋の中で一人、頭を抱えてのたうち回っていた。
バレている。おじさんぶろうとして失敗したのが、二十一歳の女の子に完全に見透かされている。
おまけに『私も、嶋田さんのことばっかり考えてたよ』なんて、そんな破壊力抜群の言葉をあの笑顔で言われているところを想像してしまい、いよいよ脳のキャパシティが限界を迎えた。
三十七年の人生で、ここまで他人に翻弄されたことがあっただろうか。
早く何か返事をしなければ。これ以上無様なところを見せるわけにはいかない。
焦り、震える指先。俺は必死にスマートフォンの画面をタップした。
とにかく「すまない、慣れていなくて」と打とうとした、その弾みだった。
指先が、画面の右上にある、小さな『受話器のマーク』をかすめる。
――ピロリロン、ピロリロン……。
静まり返った部屋に、突然、軽快で、けれど今の俺にとっては地獄の底から響くような電子音が鳴り響いた。画面には『LINE無料通話』の文字と、あおいちゃんの青い髪のアイコンが大きく浮かび上がっている。
「な、なんだこれ!? どうやって消すんだ……っ!?」
パニックになりながら画面を連打するが、通話の発信は止まらない。
深夜二時。名前を教え合ったばかりの、十六歳も年下の女の子に、間違えて電話をかけてしまった。
不審者、ストーカー、深夜の迷惑男――最悪な単語が頭をよぎり、血の気が引いていく。
切らなきゃ、早く切らなければ。
そう思って画面の赤いボタンを探した、まさにその瞬間。
プツッ、と接続音がして、コール音が唐突に途切れた。
『……もしもし? 嶋田さん?』
スピーカーから聞こえてきたのは、機械の文字ではない、少し眠たげで、驚いたような、あおいちゃんの生の「声」だった。
◆ あおいちゃん視点(21歳・あおい)
ベッドの中で、スマホの画面を見つめながらニヤニヤしていた。
今頃、嶋田さんはあの地味なアパートの一室で、顔を真っ赤にしてパニックになってるんだろうな。からかいすぎちゃったかな。でも、本当に嬉しかったんだもん。
『嶋田さん:入力中……』の文字が、出たり消えたりしている。
愛おしさが込み上げてきて、ふふ、と枕に顔を埋めた、その時だった。
ブーッ、ブーッ、と手の中のスマホが激しく震え出した。
画面いっぱいに広がる、着信の画面。
発信元は――『嶋田さん』。
「ひゃっ……!?」
思わず、本当にベッドの上で飛び上がってしまった。
まさか、電話がかかってくるなんて思ってもみなかった。あのアナログで、LINEすら持ってなかったお堅い課長さんが、深夜の二時に、女の子に電話をかけてくるなんて。
「どうしよう、どうしよう……!」
急に現実の声で話す心の準備なんてできていない。
心臓が、さっきのメールの時の何倍もの速さで、ドクドクと肋骨を叩く。
出ない方がいいのかな。でも、嶋田さん、何か急用? それとも、私のメッセージに怒っちゃった……?
ぐるぐると頭の中で考えが巡る。画面の中で、震え続ける着信マーク。
これ以上待たせたら切れちゃう。私は意を決して、画面を右にスワイプした。
スマホを耳に当てる。
毛布にくるまりながら、緊張で声が震えないように、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……もしもし? 嶋田さん?」
◆ 課長さん視点(37歳・嶋田)
『……もしもし? 嶋田さん?』
耳元から聞こえてきたその声に、俺は完全に言葉を失い、ただ突っ立っていた。
屋上で話す時の少し張った声とは違う、深夜仕様の、少し低くて、柔らかい、あおいちゃんの生の声。それがダイレクトに鼓膜を震わせる。
「あ……す、すまない! 一ノ瀬さん……じゃなくて、あおいちゃん」
慌てすぎて、呼び方までトチってしまう。
「あの、違うんだ、今のはその……文字を打とうとしたら、指が滑って、その、受話器のマークに当たってしまって! 決して、こんな夜遅くに嫌がらせをしようとか、そういう意図では……!」
必死に、一息で弁明をまくし立てる。会社での謝罪会見だって、ここまで必死になったことはない。
情けない。本当に情けない。何がメーカーの課長だ。ただの、余裕のない滑稽なおじさんじゃないか。
彼女に幻滅されたかもしれない。そう思って、息を切らしながら次の言葉を待っていると。
受話器の向こうから、一瞬の静寂のあと。
『……ふふっ』
という、小さく息を漏らすような笑い声が聞こえてきた。
◆ あおいちゃん視点(21歳・あおい)
『あの、違うんだ、今のはその……指が滑って、その、受話器のマークに当たってしまって!』
耳元から聞こえてくる嶋田さんの声は、信じられないくらい早口で、必死で、ものすごく狼狽していた。
嫌がらせじゃない、変な意味じゃないって、一生懸命言い訳してる。
なーんだ、やっぱり間違い電話だったんだ。
そう思った瞬間、なんだか肩の力がふっと抜けて、それと同時に、愛おしさが限界を突破して笑いが込み上げてきた。
「……ふふっ」
『え……?』
「あはは! もう、嶋田さん面白すぎる! 指が滑って電話しちゃうとか、本当にLINE初心者じゃん!」
毛布の中で、私は声を押し殺して笑った。
電話がかかってきた時は心臓が止まるかと思ったけど、嶋田さんのあの必死な声を聞いたら、そんな緊張なんてどこかへ飛んでいってしまった。
『いや……本当に申し訳ない。夜遅くに、迷惑だったよな。すぐ切るから――』
少し落ち込んだような、いつもの「おじさん」に戻ろうとする声。
私は慌てて、ベッドの中で寝返りを打ちながらスマホを強く握りしめた。
「待って、切らないで」
『え?』
「……間違いでも、嬉しいよ。だって、嶋田さんの声、聞けたもん」
今度は、私が本音をぶつける番だった。
奇抜なメイクをしていない、パジャマ姿の私だから、こんな恥ずかしいセリフだって言えてしまう。
受話器の向こうで、嶋田さんが小さく、息を呑む音が聞こえた。




