第6話:酔えない琥珀色、午前一時の通知音
◆ 課長さん視点(37歳・嶋田)
プシュッ、と小気味いい音を立てて、缶ビールのプルタブを引き抜いた。
深夜一時半。誰もいない冷え切ったワンルームのアパートで、俺はスーツのズボンだけをスウェットに穿き替え、喉を鳴らしてビールを煽る。
冷たいアルコールが胃に落ちていく。いつもなら、これで一日の仕事のストレスが和らぎ、心地いい眠気が誘われるはずだった。
「……ダメだ。全然、酔えない」
缶をテーブルに置き、ソファに深く身体を沈める。
いくらアルコールを流し込んでも、脳裏にこびりついたあの鮮烈な『青』と、自販機の明かりの下で真っ直ぐに俺を見つめていた、あおいちゃんの笑顔が消えてくれない。
『嶋田さん』
彼女に初めて本名で呼ばれたときの、胸の奥がキュンとすくむような感覚。年甲斐もなく真っ赤になって、声を引きつらせて名刺を渡した自分の無様な姿。
思い出せば思い出すほど、胸の奥が熱くなって、酔うどころか頭がどんどん冴え渡っていく。
テーブルの上には、彼女が半ば強引にアプリを入れてくれたスマートフォンが置かれている。
画面は暗いままだ。
「明日、メッセージ送るから」と言っていた。だから、今夜はもう鳴るはずがない。分かっているのに、俺の視線は何度も何度も、その黒いガラスの塊へと吸い寄せられてしまう。
俺は本当に、どうかしてしまった。十六も年下の女の子に、ここまで狂わされるなんて。
自嘲気味に息を吐き、残りのビールを飲み干そうと缶に手を伸ばした、その時だった。
ピコン――。
静寂に包まれた部屋に、これまで聞いたことのない、軽やかな電子音が鳴り響いた。
暗かったスマホの画面が、パッと白く浮かび上がる。
◆ あおいちゃん視点(21歳・あおい)
「はぁ……心臓痛い……」
お風呂から上がって、パジャマ姿でベッドに飛び込んだ私は、うつむいたままスマートフォンを握りしめていた。
画面に表示されているのは、さっき作ったばかりの『嶋田さん』とのトーク画面。
メッセージの入力欄に文字を打っては消し、打っては消しを、もう三十分も繰り返している。
明日送るって言ったじゃん、私。
でも、どうしても明日まで待てなかった。
名刺を渡してくれたときの、嶋田さんのあの真っ赤な顔。
あんなに優しくてお堅そうな大人の人が、私の前でだけ、あんなに余裕を失くして子供みたいに真っ赤になってる。
それを思い出すだけで、私の胸の奥も、同じくらい熱くなって破裂しそうになる。
『嶋田 圭介』。
何度もその文字を指でなぞる。
おじさんのくせに、LINEも持ってないくらいアナログのくせに。
どうしてあんなに、私の心をぐちゃぐちゃにするのが上手なのよ。
「もう、いいや! 送っちゃえ!」
これ以上考えてたら朝になっちゃう。私は半ばヤケクソで、打ち込んだ短い文章の横にある、紙飛行機のマークを親指でタップした。
送信。
画面の上に、私の青髪のアイコンと、一言だけのメッセージが浮かぶ。
途端に、ベッドの上をごろごろと転がり回りたいくらいの羞恥心が襲ってきて、私は枕に顔を埋めて叫んだ。
◆ 課長さん視点(37歳・嶋田)
ビールの缶を握りしめたまま、俺は完全に凝固していた。
心臓が、ドクドクと不快なほどに自己主張を始める。
恐る恐る手を伸ばし、スマホを持ち上げる。
画面の通知欄には、あの青い髪のアイコン。そして、その横に短い文字列が表示されていた。
『一ノ瀬あおい:明日まで待てなかった!笑 嶋田さん、ちゃんとお家帰れた?』
たったそれだけの、短いメッセージ。
それなのに、俺の視界は激しく揺らぎ、飲み干したはずのアルコールが一気に身体を駆け巡ったような錯覚に陥る。
明日まで待てなかった、というその言葉の破壊力に、三十七歳の理性が、木端微塵に打ち砕かれていく。
「……本当に、ずるいな」
俺は、彼女に奪われたままのスマートフォンを見つめ、不器用な手つきで文字の入力欄をタップした。
会社でのビジネスメールなら、いくらでも丁寧な文章が書けるのに、液晶画面に『あおいちゃん』へ向けた言葉を打ち込もうとする指は、まるで初めて機械に触れる子供のように、小さく震えていた。




