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第5話:真っ赤な名刺と、おまじないの登録


◆ 課長さん視点(37歳・嶋田)

「あ……あっ……。本名だったんだ、あおいちゃん……」

 情けないことに、声が完全に引きつっていた。

 差し出された『一ノ瀬あおい』という本名の重みと、すぐ目の前にある彼女の真っ直ぐな瞳。それらが一気に押し寄せてきて、心臓の鼓動が耳の奥で爆音を立てる。

 自覚した瞬間、顔中から火が出るほど熱くなるのが分かった。

 年甲斐もなく、真っ赤になっている。三十七歳の男が、深夜の駐車場で、二十一歳の女の子の前で赤面しているのだ。不細工で、滑稽で、情けないことこの上ない。

 だけど、どうにもならなかった。

 赤面すればするほど、目の前で名刺を差し出しているあおいちゃんが、狂おしいほどに愛おしくて、視線を外すことすらできない。

 俺は震える手で、ポケットから革の財布を取り出した。

 中から、会社のロゴが入った地味なビジネス名刺を引き抜く。役員会議や取引先との商談で、何百枚と配ってきたはずのその紙切れが、今はまるで爆発物のように重く感じられた。

「これ……俺の職場と、俺の名前……」

 渡した名刺には『城南機械株式会社 営業部課長 嶋田 圭介』と印字されている。

 彼女が名刺の裏面のQRコードを見せてくれているのに対して、俺の提示したものは、あまりにもアナログで無骨な「大人の証明書」だった。

「あの、あおいちゃん……。俺、その、LINEとか……やってなくて……」

 情けなさに拍車をかけるような告白に、俺は顔を真っ赤にしたまま、乾いた苦笑いを浮かべるしかなかった。会社での連絡はメールか電話、プライベートでもSNSとは無縁の生活を送ってきたツケが、こんなところで回ってくるとは思わなかった。

◆ あおいちゃん視点(21歳・あおい)

「あ……あっ……。本名だったんだ、あおいちゃん……」

 引きつった声でそう言った課長さんの顔が、自販機の明かりの下で、みるみるうちに真っ赤になっていく。

 耳まで、首筋まで、隠しようがないくらいに真っ赤。

 あ、この人、本当に私のことでいっぱいいっぱいなんだ。

 いつもは大人の余裕ぶって、私の話を一歩引いて聞いてたくせに、名前を教えっこするだけで、こんなに余裕を失くして真っ赤になってる。

 それが、もう、信じられないくらいに愛おしかった。

 私の胸の奥が、ぎゅーっと苦しくなるくらい、課長さんのことが狂おしくなる。

「これ……俺の職場と、俺の名前……」

 差し出されたのは、ザ・サラリーマンって感じの、ちょっと硬い紙の名刺。

 『嶋田しまだ 圭介けいすけ』。

 それが、私の大好きな『課長さん』の、本当の名前。

「あの、あおいちゃん……。俺、その、LINEとか……やってなくて……」

 頭を掻きながら、申し訳なさそうに苦笑いする嶋田さん。

 連絡先を交換しようって雰囲気なのに、まさかの「LINEやってない」宣言。思わず、ぷっと吹き出しそうになっちゃった。

「もー、本当におじさんなんだから!」

 私は笑いながら、嶋田さんの大きな手から、彼が握りしめていたスマートフォンを半ば強引に取り上げた。

「おじさん、私が登録してあげるね」

 私の指先が彼の温かい手の平をかすめて、嶋田さんがビクッと肩を揺らす。

 私はスマホの画面を開きながら(ロックがかかってなくて、暗証番号を入力する画面でまた彼が真っ赤になった)、手際よくアプリをダウンロードして、アカウントを作っていく。

 私の名前は『あおい』。アイコンは、今の私のプライドである青い髪の自撮り写真。

 嶋田さんの友達リストの、たった一人の「最初の友達」に、私を登録した。

◆ 課長さん視点(37歳・嶋田)

「はい、できた! これでいつでも連絡できるね、嶋田さん」

 いたずらっぽく笑ってスマホを返してきたあおいちゃん――いや、一ノ瀬あおいさんは、私の名前を初めて本名で呼んだ。

 『嶋田さん』。

 会社で何百回と、嫌になるほど呼ばれてきたその苗字が、彼女の唇から零れ落ちた瞬間、世界で一番特別な響きに変わったような錯覚に陥る。

 手元に戻ってきたスマホの画面には、見慣れない緑色のアプリが開かれていた。

 友達画面の一番上に、鮮烈な青い髪でピースサインを作って笑う、彼女のアイコンがある。

「……ありがとう。一ノ瀬さん」

「んー、そこは今まで通り『あおいちゃん』でいいよ。私も、たまに『課長さん』って呼ぶし。その方が、なんか私たちの秘密基地って感じがして好き」

 あおいちゃんは自販機の横に自転車を停めると、そのハンドルに手をかけた。

 

「じゃあ、嶋田さん。明日、私からメッセージ送るから、ちゃんと見てよね? 既読スルーしたら怒るから」

「……ああ。がんばって使い方を覚えるよ」

 青い髪を夜風になびかせて、彼女は自転車を漕ぎ出していく。

 遠ざかっていく背中を見送りながら、俺は手の中のスマホを、まるで宝物でも握るようにじっと見つめていた。

 十六歳差の、名前も知らなかった女の子。

 それが今、俺のスマホの中で、確かに繋がっている。

 赤面した頬の熱さは、彼女が去った後も、夜風の中でいつまでも引きそうになかった。

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