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第4話:十六歳差の不条理、名前のない焦燥


◆ 課長さん視点(37歳・嶋田)

 ――俺は、どうかしている。完全にどうかしてしまっている。

 深夜一時。自宅のアパートに戻り、ネクタイを外しながら、俺は洗面台の鏡に映る自分の冴えない顔を凝視していた。

 三十七歳。目尻には年齢相応のシワがあり、白髪だってたまに見つかる。どこからどう見ても、くたびれた中年男だ。

 それなのに、頭の中はさっきまで屋上駐車場で一緒にいた、あの青い髪の女の子のことでいっぱいだった。

 二十一歳と、三十七歳。その差は、十六歳。

 彼女が生まれたとき、俺はもう高校生だった。彼女が成人式を迎えたとき、俺はすでに中間管理職として胃を痛めていた。

 生きている世界が違いすぎる。それ以前に、俺たちはまだ、お互いの本名すら知らないのだ。

「『あおいちゃん』と『課長さん』……か」

 ただのディスカウントショップの屋上で、たまたま雨宿りをしただけの関係。

 名前も、連絡先も知らない。もし明日、彼女が別の街へ行ってしまえば、もう二度と会うことすらできない、砂の城のような繋がり。

 それなのに、さっき彼女のボロボロの泣き顔を見たとき、俺の胸は張り裂けそうだった。

 「会いたくて来た」なんて、十六も年下の、名前も知らない女の子に言うセリフじゃない。完全に一線を超えている。犯罪的ですらある。

 翌朝、出勤して役員会議に出席している間も、俺は自分の「不謹慎な衝動」に対する自己嫌悪で、別の意味の胃痛に襲われていた。

◆ あおいちゃん視点(21歳・あおい)

「あおい、今日なんか調子いいじゃん。シャンプー、お客様が『気持ちよかった』って褒めてたよ」

「本当ですか!? ありがとうございます!」

 サロンの先輩にそう言われて、私はお辞儀をしながら、心の奥で小さくガッツポーズをした。

 

 昨日の涙が嘘みたいに、今日の私は絶好調だった。

 朝、鏡の前でいつも通り太く、鋭くアイラインを引いたとき、不思議と手が震えなかった。

 「私の青い髪、すごく好きだよ」

 頭の中で、あの落ち着いたおじさんボイスが再生される。あの言葉が、私の背中を支える見えない魔法の鎧になっていた。

 だけど、夜の営業が終わって、片付けをしている時間になると、今度は別のドキドキが胸を占領し始めた。

 昨日の夜、課長さん、すっごく変だった。

 いつもは「大人の余裕」みたいな顔をして、私のちょっと生意気な口調をニコニコ受け流しているのに、昨日は「会いたくて来た」なんて、真っ直ぐすぎる目で言うんだもん。

 思い出すだけで、サロンのタオルを畳む手が止まって、顔が熱くなる。

 私、課長さんのこと、ただの「話しやすいおじさん」だと思ってた。

 でも、あんな顔で見つめられたら……私だって、ただの『あおいちゃん』じゃいられなくなる。

 時計の針は、夜の十一時半を回ろうとしていた。

 私は急いで私服に着替え、いつものディスカウントショップへと自転車を走らせた。

 心臓の音が、ペダルを漕ぐ足に合わせて、どんどん速くなっていく。

◆ 課長さん視点(37歳・嶋田)

 もう行くべきではない。あそこは俺の居場所じゃない。

 そう自分に言い聞かせながら、仕事帰りの車を、俺はまたしてもあの屋上駐車場へと滑らせていた。

 理性の敗北だった。どうかしてると自覚しながらも、彼女のいない日常に逆戻りすることが、今の俺には耐え難かった。

 車を停め、自販機の前へ歩く。

 深夜零時。夜風がスーツの薄い生地を通り抜けていく。

「あ、課長さん……」

 いつもの定位置に、彼女はもういた。

 今日のメイクは完璧で、いつもの「強気で派手な女の子」に戻っている。だけど、俺と視線が合った瞬間、彼女はきょとんとした顔をして、それから少しだけ決まり悪そうに視線を泳がせた。

 昨夜、お互いの『仮面』を剥ぎ取ってしまったせいで、妙な緊張感が二人の間に漂っている。

「……あおいちゃん。お疲れ様。今日も、頑張ったみたいだな」

「うん。シャンプー、お客さんに褒められた。課長さんが、昨日、変なこと言うから……調子狂っちゃったじゃん」

 彼女は口を尖らせて、自販機のボタンを強めに押した。

 出てきたのは、缶コーヒー。それを、俺の手に「はい」と手渡してくる。

 手渡される瞬間、彼女の細い指先が、俺の手に微かに触れた。

 それだけのことで、三十七歳の心臓が、まるで思春期のガキのように跳ね上がる。

「なぁ、あおいちゃん」

 俺は、缶コーヒーの熱さにすがるように、ずっと思いつめていた疑問を口にした。

「俺たち、お互いの名前も、連絡先も知らないよな」

 あおいちゃんが、ハッとしたように目を見開いた。

◆ あおいちゃん視点(21歳・あおい)

「俺たち、お互いの名前も、連絡先も知らないよな」

 課長さんの声は、いつになく真剣で、どこか切なそうだった。

 自販機の明かりに照らされたその顔は、いつもみたいに「おじさん」として引いているんじゃなくて、一人の男の人として、私との距離に悩んでいるように見えた。

 十六歳も年下の、名前も知らない女の子。

 課長さんにとって、私はきっと、そういう「まともじゃない存在」なんだ。大人の人だからこそ、ちゃんと怒ったり、悩んだりしてくれてるんだ。

 それが分かった瞬間、愛おしさが胸の限界まで膨らんだ。

 

 私は一歩、課長さんの方へ足を踏み出した。

 いつもなら、ここでからかったり、生意気なセリフを言って逃げる。だけど、今夜は私も、この『名前のない関係』から一歩進みたかった。

「……じゃあ、教えっこしよ?」

 私は、自分の斜めがけバッグから、いつもサロンで配っているお店の名刺を取り出した。裏面には、私の個人のLINEのQRコードが印刷されている。

「私の本名は、一ノ瀬あおい(いちのせ あおい)。……課長さんは?」

 名刺を両手で差し出す私を、課長さんは息を呑むようにして見つめていた。

 ネオンの光の中で、課長さんの耳の辺りが、ほんのり赤くなっているのが見えた。

 おじさんのくせに、私より緊張してる。

 そんなの、ずるいよ。

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