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第3話:後編、三十七歳の暴走と、午前零時の不協和音

◆ 課長さん視点(37歳・嶋田)

「……あおいちゃん?」

 暗がりのフェンス際。冷たいアスファルトの上に膝を抱えてしゃがみ込む背中に、俺は思わず声をかけていた。

 びくり、と青い髪が跳ねる。

 ゆっくりと持ち上げられたその顔を見て、俺は胸を強く締め付けられた。

 いつもなら、こちらを威嚇するように太く跳ね上げられている黒いアイラインが、涙で真っ黒に滲んで崩れている。

 奇抜なメイクの『仮面』は完全にひび割れて、その奥から、言葉を失うほどに傷ついた二十一歳の少女の『素顔』が、ボロボロとこぼれ落ちていた。

「……なんで」

 あおいちゃんは、滲んだ目元をタオルのように袖でゴシゴシと擦りながら、掠れた声で言った。

「なんで、いるのよ。……今日、いないって思ったのに」

 泣き顔を見られたのが恥ずかしいのか、彼女はふいっと顔を背けようとする。

 いつもなら、ここで俺の脳内ブレーキが火花を散らすはずだった。一回り以上も年下の女の子が泣いている。下手に近づけば不審者だ、セクハラだ、お節介だ。

 だけど、気がつけば俺は、彼女と同じ冷たいアスファルトの上に、高級でもない仕事用のスーツのズボンが汚れるのも構わずにしゃがみ込んでいた。

 会社での俺なら、部下が泣いていれば「何があった?」「どう改善する?」と論理的な解決策を求めていただろう。

 でも、今の俺はただの『屋上の課長さん』だ。そんな冷たい言葉、この青い髪の特等席には必要ない。

 俺は、ディスカウントショップの自販機で買ったばかりの、まだ温かい缶ココアを、彼女の冷え切った手にそっと握らせた。

「どうしてって……あおいちゃんに、会いたくて来たんだよ」

 自分でも驚くほど、真っ直ぐな本音が口をついて出た。

◆ あおいちゃん視点(21歳・あおい)

「どうしてって……あおいちゃんに、会いたくて来たんだよ」

 耳を疑った。

 いつもネクタイを緩めて、一歩引いたみたいに優しい目で私を見ていた『課長さん』が。

 絶対に私に踏み込んでこない、大人のブレーキをかけていたはずのあの人が。

 私の隣に、スーツが汚れるのも気にしないでしゃがみ込んで、そんな子供みたいに真っ直ぐな言葉を言っている。

 手の平に押し付けられた缶ココアの温かさが、じわりと指先から心臓にまで染み渡っていく。

「……ばかじゃないの」

 私は膝に顔を埋めたまま、小さく毒づいた。

「おじさんのくせに、何言ってるのよ。……私、今、めちゃくちゃ不細工なのに」

 メイクは完全に落ちて、アイラインもマスカラもドロドロ。昼間、必死に張り合っていた『お洒落な自分』なんてどこにもいない。一番見られたくなかった、惨めで、ダサくて、弱虫な、ただの「見習い」の私がここにいる。

「不細工なんてこと、ないよ」

 課長さんの声は、夜風に混ざって驚くほど穏やかに響いた。

「会社じゃね、みんな仮面を被って働いてるんだ。俺も、あおいちゃんも。……だから、ここでくらい、その重い仮面、外したって誰も怒らないよ。俺しかいないんだから」

 その言葉を聞いた瞬間、あ、ダメだ、と思った。

 張り詰めていた心の堤防が、完全に決壊した。

「……今日さ、同期の子が、先にシャンプーの指名もらったの」

 私は膝に顔を埋めたまま、子供みたいにしゃくり上げて、堰を切ったように話し始めた。

「先輩には、やる気あんのって言われて……。私、青髪にして、メイクも派手にして、カッコばっかで中身がないって、そう思われてるのかなって……。すっごく、悔しくて……っ」

 昼間、誰にも言えずに戦闘服の中に隠していたドロドロした本音。

 課長さんは、遮ることも、アドバイスすることもなく、ただ「うん、うん」と静かに頷いて、私の拙い愚痴を全部、全部受け止めてくれた。

◆ 課長さん視点(37歳・嶋田)

 小さな肩を震わせて、あおいちゃんは泣き続けた。

 

 二十一歳の彼女が背負う焦燥や悔しさは、三十七歳の俺から見れば「若いなぁ」と微笑ましく思えるものかもしれない。だけど、今この瞬間、彼女が世界で一番傷ついていることは痛いほど分かった。

 何故なら、俺もかつて、何者にもなれずに夜の街で潰れそうになっていた夜があったからだ。

 しばらくして、彼女の涙が少しだけ引いた頃。

 あおいちゃんは赤くなった目で、手の中の缶ココアを見つめながらポツリと言った。

「……ごめん。おじさんに、こんな若い子の愚痴言っても、つまんないよね」

「まさか」

 俺は苦笑して、夜空を見上げた。

「俺なんて毎日、部下のミスの始末書書いて、上司の機嫌取って、中身がすっからかんになりそうな日々だよ。あおいちゃんみたいに、技術を磨いて、自分の『青』を持って戦ってる若者の方が、ずっと格好いいし、眩しいよ」

 あおいちゃんが、滲んだ目のまま、驚いたように俺を見た。

「本当に……?」

「本当さ。だから、自信を失くさないで。俺は、君のその青い髪、すごく好きだよ」

 また、ブレーキを踏み外したセリフを言ってしまった。

 だけど、もういい。今夜だけは、俺も『課長』の仮面を捨てて、ただの男として、目の前の愛おしい少女を全肯定してあげたかった。

 あおいちゃんは、少しだけ顔を赤くして、ふにゃりと――あの日、ゲリラ豪雨の車内で見せてくれた、あの最高の素顔で笑った。

「……課長さんってさ」

「ん?」

「ずるい。おじさんのくせに、たまにめちゃくちゃ格好いいこと言うんだから」

 彼女は缶ココアを一口飲むと、「ぷはっ」と小さく息を吐いて立ち上がった。

 崩れたメイクのままの顔は、夜のネオンに照らされて、どんな完璧な化粧よりも輝いて見えた。

◆ あおいちゃん視点(21歳・あおい)

「……よしっ」

 パンパン、とズボンの後ろを叩いて、私は課長さんを見下ろした。

 まだ地面にしゃがんだまま、ちょっと呆気にとられた顔をして私を見上げている。そのちょっと情けない顔が、やっぱり愛おしい。

 胸の奥のドロドロした塊は、ココアの甘さと、課長さんの優しい言葉のせいで、嘘みたいに溶けて消えていた。

「課長さん、ありがと。……私、明日からまた、超可愛い『最強のアシスタント』に戻るから」

 私は、わざと強気な口調で言った。

 明日また、あの地獄みたいなサロンに行く。アイラインを太く引いて、仮面を被って、また戦う。

 でも、もしまた仮面が壊れそうになったら。

 この屋上にくれば、私の『素顔』を待ってくれている人がいる。

「じゃあ、明日も早いから行くね。……あ、スーツ、お尻のとこ真っ黒になってるよ」

「えっ!? うわ、本当だ……明日、朝イチで役員会議なのに……」

 慌てて立ち上がって、自分のお尻を気にする課長さん。

 その姿が可笑しくて、私はもう一度、心から笑った。

「ふふ、お疲れ様、課長さん。……また、ここでね」

 階段へと走り出す。

 夜風に揺れる私の青い髪は、さっきよりも少しだけ、誇らしげに街灯の光を弾いていた。

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