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第2話:タオルの行方と、青いおまじない

◆ 課長さん視点(37歳・嶋田)

 あの日から、仕事が全く手につかなかった――というのは嘘になる。三十七歳の管理職ともなれば、私情で手を抜くことなど許されない。

 それでも、部下から上がってきた報告書に目を通している時、ふとデスクの引き出しに仕舞った「洗剤のサンプル」が目に入ったりすると、あのゲリラ豪雨の夜が頭をよぎった。

 『私、ずっと見てたもん。また、会えるといいね、課長さん』

 耳の奥で、あの悪戯っぽい、けれど少し掠れた声が再生される。

 二十一歳の女の子が放った、ただの気まぐれな一言。おじさんをからかって楽しんだだけだ。

 分かっている。分かっているからこそ、数日ぶりにディスカウントショップの屋上駐車場へ車を走らせる自分の手が、少しだけ汗ばんでいるのがひどく惨めに思えた。

 いつもの場所に車を停める。

 時刻は深夜零時前。自販機の前に、あの鮮烈な『青』を見つけた瞬間、胸の奥がドクンと跳ねた。

「あ、課長さん。お疲れ」

 車から降りて近づくと、彼女はすぐに気づいて振り返った。

 跳ね上げられた鋭いアイライン。夜のネオンを反射する、派手な青い髪。

 そこにあったのは、あの日車内で見たあどけない少女ではなく、いつも通りの「取っつきにくい、今風の女の子」だった。

 俺はほんの少しだけホッとして、同時に、ほんの少しだけ寂しさを覚えた。あの素顔は、やっぱり雨が見せた幻だったのかもしれない。

「あおいちゃん、お疲れ。……今日も遅かったんだな」

「んー。シャンプーの試験があってさ。あ、これ。あの時のタオル、ちゃんと洗ってきた」

 彼女から差し出された、お洒落なセレクトショップの紙袋。

 受け取ると、地味な我が家の洗剤とは違う、華やかで、どこか甘いシャンプーのような匂いが微かに鼻腔をくすぐった。

◆ あおいちゃん視点(21歳・あおい)

 数日ぶりに見るグレーのセダン。

 ドアが開いて、あのおじさん――『課長さん』が降りてきたとき、私は心の中で小さくガッツポーズをした。

 あの日、あんなに格好つけたセリフを言っておきながら、もしもう二度と来てくれなかったらどうしようって、実はちょっとだけ不安だったから。

「あ、課長さん。お疲れ」

 いつもの戦闘服。バッチリ決めた奇抜なメイク。

 昼間、理不尽に怒鳴る客や、厳しい先輩たちの前で「強い私」でいるための仮面。

 今日も一日、この仮面が私を守ってくれた。

 だけど、課長さんが私の目の前まで歩いてきて、その優しそうに垂れた目と視線が合った瞬間。

 パキパキに固まっていた仮面が、内側からふにゃりと溶けていくのがわかった。

「あおいちゃん、お疲れ。……今日も遅かったんだな」

 ああ、やっぱり。

 この人の前だと、私は頑張って「お洒落で強いお姉さん」を演じなくていいんだ。

 あの日、すっぴんを見られて大笑いしちゃったから、今更カッコつけても意味ないもんね。

「んー。シャンプーの試験があってさ。あ、これ。あの時のタオル、ちゃんと洗ってきた」

 私のサロンで使ってる、ちょっと高いシャンプーの香りを移しておいた。

 気付くかな。気付いて、私のこと、少しは思い出してくれたりしたかな。

 課長さんは紙袋を受け取ると、ふと、何かを堪えるように視線を泳がせた。

 ネクタイは少し曲がっていて、肩のあたりには、今日も一日お仕事を頑張ってきた男の人の哀愁が漂っている。

「なぁ、あおいちゃん」

「なーに?」

「俺、本当に会社じゃ『課長』なんだけど……なんで一発で分かったんだ?」

 少し困ったように笑うおじさんに、私は胸の奥がキュンとするのを感じた。

 そんなの、毎日見てれば分かるよ。

◆ 課長さん視点(37歳・嶋田)

「だって、いっつもすっごい疲れた顔して、ネクタイ緩めて車に座ってるもん。あれは絶対に、部下のミスを頭下げて身代わりになってきた『課長さん』の顔だよ」

 青い前髪の奥の瞳を悪戯っぽく細めて、あおいちゃんはケラケラと笑った。

 メイクはバッチリ施されているはずなのに、その笑顔は、あの日見た「素顔」そのものだった。

 ――参ったな、と思う。

 会社では、部下に「嶋田課長」と頼られ、上司からは「嶋田」と数字を詰められる。誰も俺の「疲れ」なんて気にも留めないし、俺自身、それを隠すのが大人のマナーだと思っていた。

 なのに、この一回り以上も年下の青髪の女の子には、最初から俺の『仮面の裏』が見透かされていたらしい。

「……手厳しいな。毎日必死に隠してるつもりなんだけど」

「ふふ。でも、そんなお疲れの課長さんが、私のこと『あおいちゃん』って呼んでくれるの、結構気に入ってるんだよ?」

 あおいちゃんは自販機の冷たい缶コーヒーを二つ買うと、そのうちの一つを俺の胸元にポン、と押し付けてきた。

「はい、お疲れ様の一本。今日、先輩に『青髪にするセンスはあるのに、技術が追いついてない』って言われちゃってさ。ちょっと凹んでたから、付き合ってよ」

 奇抜なメイクをしたまま、彼女は自販機の横のコンクリートの縁に、すとん、と腰を下ろした。

 手渡された缶コーヒーの冷たさが、夜風に吹かれた手の平にじわりと広がる。

 凹んでいる、と彼女は言った。

 管理職としての俺なら、ここで「若い部下を励ますための模範解答」をいくらでも並べられる。だが、今の俺はただの『屋上の課長さん』だ。

 俺は彼女の少し隣、けれど決して近すぎない絶妙な距離を空けて、同じように腰を下ろした。

◆ あおいちゃん視点(21歳・あおい)

 缶コーヒーのプルタブを引くと、カシャ、と静かな夜の空気に音が響いた。

 課長さんは、何も言わずに私の隣に座ってくれた。

 「若いんだから頑張れ」とか、「俺の若い頃はもっと厳しかった」とか、そんな説教じみたことは一切言わない。ただ、私のチクチクした空気を受け止めるみたいに、静かにコーヒーを口に運んでいる。

 その適度な距離感と沈黙が、驚くほど心地よかった。

「……あのさ、課長さん」

「ん?」

「この髪、変かな?」

 街灯の光に透ける、自分の青い毛先を指でつまんで見せる。

 サロンの先輩には「奇抜なだけで中身がない」って言われたみたいで、本当はすごく悔しかった。

 課長さんは、私の青い髪をじっと見つめた。

 その視線が、なんだか髪の毛を通して頭のてっぺんまで熱くしていくみたいで、私は少しだけ縮こまる。

「いや」

 課長さんは、優しく目を細めた。

「すごく、綺麗な青だと思うよ。夜のこの場所に、よく映えてる」

 あ、ダメだ。

 そんな真っ直ぐに褒められると思ってなかった。

 

 バッチリメイクをしてるはずなのに、顔がカッと熱くなるのがわかる。

 私は慌ててコーヒーを口に流し込んで、ごまかすように言った。

「な、何それ、おじさんのセリフっぽーい!」

「おじさんだからな」

 課長さんはおかしそうに肩を揺らした。

 その横顔を見つめながら、私は思った。

 明日も、あの地獄みたいに忙しいサロンの床を掃いて、先輩に怒られて、手がボロボロになるまでシャンプーをする日々が始まる。

 だけど、この青い髪を「綺麗だ」と言ってくれる人がここにいるなら。

 この『仮面』は、明日も私をちゃんと守ってくれる。そんな気がした。

◆ 課長さん視点(37歳・嶋田)

「……そろそろ、行くね。明日も朝早いんだ」

 コーヒーを飲み終えたあおいちゃんが、名残惜しそうに立ち上がった。

 空になった缶をゴミ箱に捨て、彼女は一度だけ俺を振り返る。

「タオル、使ってね。私のお店の、いい匂い仕込んどいたから」

「……ああ、ありがとう。大事に使うよ」

 じゃあね、と手を振って、青い髪を揺らしながら彼女は夜の闇へと消えていった。

 一人取り残された駐車場。

 俺は膝の上の紙袋から、返ってきた白いタオルを取り出した。

 鼻を近づけると、あの日、車内を満たしていたあの甘い香りが、今度ははっきりと優しく香った。

「大事に使う、か。……俺も、おじさん構文みたいなセリフを吐くなぁ……」

 誰もいない夜空に向かって、自嘲気味に呟く。

 三十七歳の、地味なメーカーの課長。

 ただ雨宿りをさせただけの、名前も知らない青髪の女の子。

 現実に戻れば、明日もまた退屈で胃の痛い日常が待っている。

 なのに、手の中にあるタオルの温もりと、鼻をくすぐる甘い香りのせいで、俺の明日は、いつもよりほんの少しだけ悪くないものに思えていた。

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