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第1話:ゲリラ豪雨と、青い水滴

第1話:ゲリラ豪雨と、青い水滴

◆ 課長さん視点(37歳・嶋田)

 夜の十一時半。お世辞にも綺麗とは言えないディスカウントショップの屋上駐車場は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。

 俺は愛車の運転席で、ネクタイを少し緩め、百円の缶コーヒーを口にした。

 昼間の俺は、地味な機械メーカーのしがない課長だ。

 上からの数字に追われ、部下のミスの身代わりになって頭を下げ、自分の感情にはとっくに頑丈な鍵をかけて働いている。そんな俺にとって、帰宅前のこの誰もいない駐車場だけが、唯一『ただの男』に戻れる避難所だった。

 もっとも、ここ最近は、完全な一人きりというわけでもない。

 少し離れた自動販売機の明かりの下。

 夜風に吹かれている、鮮烈な青い髪の女の子。

 遠目からでもわかる、跳ね上げられた鋭いアイライン。お洒落なのだろうが、どこかトゲトゲしくて取っつきにくい。深夜のこんな場所に一人でいるのだから、俺とは全く違う世界を生きる若者なのだろう。

 関わることなんて、あるはずがなかった。

 ――ピカッ、とフロントガラスの向こうで夜空が裂けた。

 地響きのような雷鳴が轟いた直後、バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨が屋上を襲う。

「うわ、激しいな……」

 ワイパーを動かしても前が見えないほどの豪雨。

 ふと自販機の方を見ると、彼女がいた。屋上には遮るものが何もない。彼女は傘を持っていないらしく、あまりの激しさに身動きが取れず、肩をすくめて立ち往生している。

 三十七歳の理性が、頭の中で警報を鳴らす。

 不審者だと思われるんじゃないか。余計なお節介だと言われるんじゃないか。

 だけど、雨に打たれる彼女の背中が、どうしようもなく小さく見えて――俺は気づけば、助手席のドアを内側から勢いよく開けて叫んでいた。

「乗ってください! 中へ!」

◆ あおいちゃん視点(21歳・あおい)

 最悪。今日の技術審査、また落ちた。

 先輩たちの「もっとセンス磨きなよ」って言葉が、頭の中でずっとリフレインしてる。

 昼間の私は、原宿の有名ヘアサロンの見習い美容師。

 お洒落で、明るくて、キラキラした『完璧なアシスタント』。でもその実態は、朝から晩まで立ちっぱなしで床を掃き、シャンプーをしすぎて手は真っ赤にあかぎれている。この青い髪も、バッチリ施した奇抜なメイクも、都会の荒波に押しつぶされないための、私なりの戦闘服――いわば『仮面』だった。

 夜、疲れ果てて抜け殻になった私は、この二十四時間営業のディスカウントショップの屋上に逃げ込む。ここで夜風に当たっている時だけ、仮面の裏の、本当の自分でいられる気がするから。

 それに……実は、もうひとつだけ楽しみがあった。

 少し離れた場所に、いっつも同じ時間に停まるグレーのセダン。

 中に座っているのは、いかにもお堅そうなスーツを着たおじさん。

 ネクタイを緩めて、ものすごく疲れた顔で缶コーヒーを飲んでいる。きっとあの人も、社会でボロボロに戦ってきた帰り道なんだろうな。

 話したこともない。名前も知らない。だけど勝手に『私の仲間』だと思って、毎日、密かに観察していた。

 そんなことを考えていたら、突然、頭の上から滝みたいな豪雨が降ってきた。

「きゃっ……!?」

 一瞬で服が肌に張り付く。あまりの痛烈な雨に足がすくんで動けない。どうしよう、戦闘服が台無しになっちゃう。

 絶望しかけたその時、バサッとドアが開く音が響いた。

「乗ってください! 中へ!」

 あのセダンの窓から、おじさんが必死な顔で叫んでいた。

 私はなりふり構わず、その車へと飛び込んだ。

◆ 課長さん視点(37歳・嶋田)

 バタン、と力任せにドアが閉まる。

 激しい雨音がこもり、車内には一気に濡れた服の匂いと、冷気が満ちた。

「す、すいません! いきなり叫んで……」

「ううん、ありがと……助かった……」

 俺は後部座席から仕事用の白タオルを引っ張り出し、「これ、使って」と手渡した。

「ありがと……」

 彼女がガシガシと雑に前髪をかき上げ、顔を拭く。

 その瞬間、俺は息を呑んだ。

 激しい雨のせいで、彼女のトレードマークだった鋭いアイラインも、濃いリップも、完全に洗い流されていた。

 タオルの端が、彼女のカラーしたての青い髪から滴る水で、ほんのり青く染まっている。

 ――あ。

 メイクの仮面を剥ぎ取られた彼女の素顔は、驚くほど幼く、そして、目眩がするほど可愛かった。

 彼女は自分の顔がどうなっているかも気づかず、水滴を滴らせながら「ぷはっ」と息を吐く。そして俺の顔を見て、目を丸くした。

「……ぷっ、あははは! 何それ、おじさん、私より濡れてるじゃん!」

「え? うわ、本当だ……ドア開けた時に盛大に浴びたな……」

 俺の髪からもボタボタと水が落ちていた。お互いにずぶ濡れ。そのあまりの惨めさと滑稽さに、どちらからともなく「ハハハ!」と大笑いしてしまった。

 張り詰めていた車内の空気が、一気に温かいものに変わる。

 一体、何歳なんだろう。

 不意にそんな疑問が浮かぶ。でも、三十七歳の理性が慌てて俺の胸にブレーキをかけた。

 聞けるわけがない。俺はただの通りすがりの男だ。いや、俺には関係のないことだ。

 俺は慌てて視線をフロントガラスへと逸らし、エアコンの温度を上げた。

◆ あおいちゃん視点(21歳・あおい)

 大笑いしたあと、ふっと静寂が訪れる。

 フロントガラスを叩く雨音が、少しずつ小降りになっていく。

 狭い車内。カーステレオから流れる深夜ラジオのぼそぼそとした声。

 おじさんは前を向いたまま、静かにハンドルを指で叩いている。

 私は膝の上のタオルを見つめた。白かったはずのタオルが、私の髪のせいで、少しだけ青くにじんでいる。

 このまま雨が止んだら、私は車を降りなきゃいけない。

 そしたらまた、ただの『すれ違うだけの他人』に戻っちゃう。

 会社で色々背負ってそうな背中。優しくて不器用なおじさん。……この心地いい空間を、ただの雨宿りで終わらせたくない。

 雨脚が、完全に弱まった。

「……そろそろ、止んだみたいだね」

 おじさんが、少し寂しそうに言った。

「うん。……本当に助かったよ、ありがとう」

 私は助手席のドアノブに手をかけた。

 ゆっくりとドアを開け、片足を外に出す。夜風が濡れた身体を冷やす。

 私は振り返り、おじさんの横顔を見た。

 最後に、少しだけ、この意地悪で優しいおじさんを揺さぶってみたくなった。

「ねえ」

「ん?」

「私、知ってたよ」

 おじさんが不思議そうにこちらを振り向く。

 私は、メイクの落ちた素顔のまま、これ以上ないくらい悪戯っぽく微笑んでみせた。

「課長さんがいつも、ここに車停めてること。……私、ずっと見てたもん」

 おじさんが、目を見開いて完全に固まる。その分かりやすい反応が、たまらなく愛おしい。

「じゃあね。――また、会えるといいね、課長さん」

 バタン。

 静かにドアを閉める。

 振り返らずに歩き出しながら、私は小さく「ふふっ」と笑った。

 胸の奥のモヤモヤは、いつの間にか綺麗さっぱり消え去っていた。

◆ 課長さん視点(37歳・嶋田)

 閉まったドアの向こう、夜のネオンに揺れる青い髪が、階段の方へと消えていく。

「……毎日、見られてた、のか……?」

 あおい。彼女は去り際にそう名乗った。

 車内には、微かに彼女のシャンプーの甘い香りだけが取り残されている。

 静まり返った運転席で、俺はガシガシと自分の濡れた髪を乱暴に拭いた。

 ダメだ。落ち着け。俺は三十七歳で、彼女はきっと、まだ二十歳そこそこだ。

 ただの気まぐれ。ただの雨宿りのノリだ。

 自分に何度もそう言い聞かせているのに。

 静かになった車内で、俺の心臓は、さっきの雷鳴よりもやかましく音を立て続けていた。

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