第11話:定時退勤のハイウェイ、約束の屋上へ
◆ 課長さん視点(37歳・嶋田)
「――よし、今日の分の決済はすべて終わりだ。お疲れ様」
時計の針が午後五時を回った瞬間、俺はデスクの上の書類を綺麗に整え、いつもなら絶対にあり得ないスピードで立ち上がった。上着を羽織り、鞄を手にする。
「えっ、嶋田課長、もうお帰りですか?」
デスクで残業の準備を始めていた高橋くんが、驚いたように声を上げて俺を見た。いつもなら部下が残っているうちは、率先して居残るのが俺のスタンスだったからだ。
「ああ、お疲れ様。悪いけど、先に帰らせてもらうよ! ちょっと……どうしても外せない用事があってね」
自分で言うのもなんだが、声が上ずっているのが分かった。胸の高鳴りを抑えるのがやっとで、自然と口元が緩んでしまう。
「残業の皆さんも無理しないでくれよ! 明日も仕事なんだから、程々にな!」
そう言い残し、俺は引き止める声を背中で聞きながら、足早にオフィスを後にした。エレベーターを待つ時間さえもどかしく、階段を駆け下りる。
駐車場に停めてあった愛車に乗り込み、シートベルトを締めながら、すぐにスマートフォンを取り出した。夕暮れの車内に、液晶の光がポツンと浮かび上がる。
画面を開き、昨夜から何度も見返した緑色のトーク画面へ、震える指でメッセージを打ち込んだ。
『あおいちゃん、今から行くよ』
送信ボタンを押すと、すぐに『既読』の二文字がついた。
『気をつけておいでっ!』
あおいちゃんからのテンポの良い、けれど温かい返信文。
助手席に投げ出したスマートフォンを見つめながら、俺はアクセルを踏み込んだ。バックミラーに映る自分の顔は、これから大好きな人に会いに行く、まるで十代の少年のように紅潮していた。
◆ あおいちゃん視点(21歳・あおい)
――ピコン。
手の中でスマホが鳴った。
『あおいちゃん、今から行くよ』
画面に表示された嶋田さんからのメッセージに、私は「あ、本当に定時で上がってくれたんだ」と思って、胸の奥がぎゅっと甘く締め付けられた。
『気をつけておいでっ!』
そう返信を送って、スマホをポケットにしまう。
夕方の風が少し冷たい、いつものビルの屋上。だけど、今の私にはその寒さなんて全く感じられなかった。
昼間、友達のマミに「上品な女性に見える」って言われた言葉が、ずっと頭の中でリフレインしている。
いつもの派手なつけまつげも、濃いアイラインもない。鏡で見た自分の顔は、なんだかすごく素朴で、少し気恥ずかしかった。
「嶋田さん、気づいてくれるかな……」
風に揺れる自分の青い髪に触れる。
あの人が「綺麗だ」と言ってくれたこの髪が、今のナチュラルなメイクにちゃんと馴染んでいるか、そればかりが気になって、さっきから何度もスマホの画面を鏡代わりにして確認してしまう。
ガタゴト、と遠くの道路から車の走る音が聞こえてくる。あの無数の光の中に、今、私に会いに必死で車を走らせてくれている三十七歳の課長さんがいる。
ただメッセージのやり取りをしただけなのに。ただ電話で声を聴いただけなのに。
昨日よりもずっと、嶋田さんの存在が私の中で大きくなっている。
「……早く、会いたいな」
屋上のフェンスに寄りかかりながら、私は迫る夜の気配と、もうすぐここへ現れる大好きな人の足音を、胸を弾ませながら待っていた。




