第2話:消えてしまっても、もう一度。
前回に引き続き、お読みいただきありがとうございます。
俺の病室は、少しの沈黙のあと、慌ただしい空気に包まれた。
ナースコールで駆けつけた医師や看護師たちによって、俺はいくつか簡単な検査を受けることになった。
「ご家族以外の方は、念のため一度廊下でお待ちいただけますか」
看護師の言葉に、ベッドの傍らで立ち尽くしていた銀髪の美少女――結愛ちゃん、と呼ばれていた彼女は、ビクッと肩を震わせた。
「……っ、はい」
彼女は俺の方を一度だけ振り返り、後ろ髪を引かれるようにして病室を出て行った。
その泣きはらした瞳が、なぜか俺の胸の奥をチクチクと刺す。
その後、行われた精密検査と問診の結果は、俺にとってにわかには信じがたいものだった。
「結論から言いますと、脳に物理的な損傷は見られません。ただ……」
白衣を着た年配の医師は、少し言いにくそうにカルテから目を上げた。
「事故の強いショックによる『逆行性健忘』の可能性が高いです」
「逆行性健忘、ですか」
「はい。結城くんの記憶は、中学三年生の冬、つまり高校受験を控えた時期で完全にストップしています。ここから今日までの約二年間が、すっぽりと抜け落ちている状態ですね」
現在、俺は高校二年生の冬なのだという。
その事実を聞かされても、不思議とパニックにはならなかった。
「……そっか。二年分も」
むしろ、隣で肩を落としている両親の姿を見て、申し訳なさの方が先に立った。
「父さん、母さん。色々と心配かけてごめん」
「バカ言え。お前が気にするな」
「そうよ。命があっただけでも十分なんだから……」
俺が謝ると、父さんは目を赤くして俺の頭を撫でた。
母さんも涙ぐみながら頷いている。
俺の記憶が中学生で止まっているということは、彼らからすれば『二年前の息子』に戻ってしまったようなものだろう。
どれだけショックだったか計り知れない。
「記憶は、戻るんでしょうか?」
「こればかりはなんとも言えません。明日ふと思い出すかもしれませんし、数年かかるかもしれない。……焦らず、少しずつ今の環境に慣れていくのが一番の治療になります」
医師の言葉に、俺は手の中に握りしめていた小箱に視線を落とした。
コートのポケットに入っていたらしい、小さな箱。
「ねえ、母さん。さっき泣いてた、結愛ちゃんって子……」
「えっ……」
「俺にとって、すごく大事な人だったんだよね?」
俺の問いかけに、両親は顔を見合わせ、言葉を詰まらせた。
頭では、彼女との出会いも、一緒に過ごした日々も、何一つ思い出せない。
だけど、俺の身体が、心臓が、彼女の涙をあんなにも悲痛に感じ取っていた。
この小箱を命懸けで守ろうとした。 それが何よりの証拠だった。
「……今日はもう、ゆっくり休んで。明日、またお見舞いに来るからね」
母さんは核心には触れず、優しく俺の布団を掛け直した。
【結愛視点】
冷たい病院の廊下。
パイプ椅子に座り、私は祈るように両手を組んでいた。
湊くんが助かった。
目覚めてくれた。 それだけで、神様に何度感謝しても足りないくらい嬉しい。
なのに……。
『えっと……君は、誰ですか?』
戸惑うような彼の言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。
ガチャリ、と病室のドアが開き、湊くんのご両親が出てきた。
「おじさん、おばさん……湊くんは?」
立ち上がった私に、湊くんのお母さんは悲痛な顔で頭を下げた。
「結愛ちゃん……本当にごめんなさい。あの子、ここ二年間の記憶がなくなっているみたいなの。あなたのことも……」
「……っ」
目の前が真っ暗になるような感覚だった。
私と湊くんが出会ったのは、高校の入学式。
つまり彼の中からは、私と過ごした記憶が、本当に一秒も残らず消え去ってしまったということだ。
「でも安心して。あの子が落ち着いたら、私たちからちゃんと話すから。結愛ちゃんが、あの子のすごく大事な彼女だって……」
お母さんが慰めるように私の肩に触れた。
けれど、私はハッとして、慌てて首を横に振った。
「ダメです! それだけは、絶対に言わないでください」
「え……?」
「湊くんは、すごく優しい人です。自分が私のことを忘れてしまったと知ったら、絶対に自分を責めて、無理をしてしまいます……!」
痛いほど、彼の優しさがわかるから。
自分が記憶喪失になった状況でも、彼はきっと「彼女を悲しませてしまった」と自分を責め、必死に『彼氏』として振る舞おうとしてしまうだろう。
そんな思いを、彼にさせたくない。
重荷になりたくない。
「でも、それじゃあ結愛ちゃんが辛すぎるわ……」
「大丈夫です」
私は、込み上げてくる涙をグッと飲み込み、無理やり口角を上げた。
「湊くんが生きていてくれるなら、それだけで十分です。だから……私から、もう一度好きになってもらいますから」
【湊視点】
両親が帰り、一人になった病室。
ふう、と息を吐いた時、控えめにドアがノックされた。
「……入っても、平気かな?」
ひょっこりと顔を出したのは、先ほどの銀髪の美少女だった。
さっきまでボロボロ泣いていたはずなのに、今はすっきりと綺麗な顔立ちで、どこか遠慮がちにこちらを見ている。
「あ、うん。大丈夫」
俺が頷くと、彼女はベッドのそばまで歩み寄ってきた。
間近で見ると、本当に息を呑むほど綺麗な人だ。
透き通るような白い肌に、蜂蜜のように温かい黄色の瞳。
こんな美少女と同じ高校に通っていたなんて、少し信じられない。
「……ごめんね、さっきは急に泣いちゃって。驚いたよね?」
彼女は、少しだけ頬を染めて、困ったように笑った。
「ううん。俺が全部忘れちゃってるから……悲しい思いをさせて、ごめん」
「ううん! 湊くんが謝ることじゃないよ。命が助かったんだから、それが一番だもん」
彼女は慌てて首を振り、そして、少しだけ姿勢を正した。
「あのね。私は、神崎結愛」
結愛。それが、彼女の名前。
「私は、湊くんの……同じクラスの、友達だよ」
そう言って、彼女はふわりと笑った。
誰もが憧れるような、完璧で美しい笑顔だった。
「友達……そっか。教えてくれてありがとう、神崎さん」
「結愛、でいいよ。……前も、そう呼んでくれてたから」
「わかった。これからよろしく、結愛」
俺が微笑み返すと、結愛は嬉しそうに、けれど一瞬だけ泣きそうな顔をして、小さく頷いた。
「うん。……よろしくね、湊くん」
彼女は友達だと言った。
それなら、ただの同級生のはずだ。
なのに、どうしてだろう。
彼女が「友達だよ」と無理をして笑った瞬間、俺の心臓は、悲鳴を上げるようにズキリと痛んだのだ。
(なんでこの子は、こんなに切なそうな顔で笑うんだろう——)
頭では何も覚えていない。
けれど、俺の身体だけが、彼女のついた優しい嘘に気づいているような気がした。
第2話をお読みいただき、ありがとうございました!




