第3話:彼女の痕跡。
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土曜日は、朝から慌ただしく過ぎていった。
ストレッチャーに乗せられ、MRIやCTなどの精密検査を一日がかりで受けることになった。
結果として、俺の脳には出血や腫れなどの物理的な異常は見られず、身体の打撲や擦り傷も幸い軽傷で済んでいた。
付き添ってくれていた両親は、医師からの「明日には退院して構いません」という言葉を聞いて、その場に座り込んでしまうほど安堵していた。
そして、日曜日の午前中。
「短い間でしたが、本当にお世話になりました。ご迷惑をおかけして、すみません」
ナースステーションの前で、俺は担当してくれた医師や看護師の皆さんに深く頭を下げた。
「いえいえ。湊くん、本当にしっかりしてるわね。退院しても、無理はしちゃダメよ?」
「はい。ありがとうございます」
俺が穏やかに返すと、看護師さんたちは少し頬を緩めて優しく手を振ってくれた。
そんな俺のやり取りを後ろで見ていた両親も、「中学生の記憶とは思えないくらい、あいつは昔から落ち着いてるな」と、少しだけホッとしたような顔で笑い合っていた。
車に揺られて到着したのは、見慣れた自宅兼、町工場だった。
車を降りると、微かに鉄の削りカスと機械油の匂いが鼻をくすぐる。
俺にとって、最高にホッとする実家の匂いだ。
「湊、とりあえずリビングで休むか?」
「ううん、自分の部屋に行ってみるよ。……少し、色々と確認しておきたいし」
俺がそう答えると、両親は顔を見合わせ、静かに頷いた。
「そうだな。急に色んな情報を見たら疲れるだろうから、自分のペースでゆっくりしなさい」
「お昼ご飯になったら呼ぶから、それまでベッドで寝ててもいいのよ」
両親は、記憶を失って混乱している俺に、あえて過干渉にならず、そっと見守るような距離感を保ってくれた。
その優しさが、今はたまらなくありがたかった。
階段を上り、自分の部屋のドアノブに手をかける。
カチャリ、と音を立てて開いた自室は、俺の記憶にある『中学三年生』の頃から、間取りや家具の配置はほとんど変わっていなかった。
少しだけホッとして息を吐き出し、部屋の中へと足を踏み入れる。
だが、細部を見渡せば見渡すほど、そこには確かな『違和感』が点在していた。
まず目に飛び込んできたのは、壁に掛けられたカレンダー。
そこに印字されている年は、俺の記憶よりも『二年』進んでいる。
さらに、勉強机の横にある本棚に目を向けると、中学生の頃にはなかった分厚い参考書や、難しそうな英単語帳がずらりと並んでいた。
背表紙には、俺が受験するはずだった志望校の名前が入ったノートもある。
「……そっか。俺、本当にあの高校に受かって、こんなに勉強してたんだな」
本棚の参考書に指で触れながら、ポツリと呟く。
他人の部屋に迷い込んだような感覚と、自分が確かにここで二年間を生きてきたのだという実感が、同時に押し寄せてきた。
ふと視線を下ろすと、勉強机の隅に、見慣れないマグカップが置かれていることに気がついた。
淡い水色に、可愛らしい星のワンポイントが入ったデザイン。
取っ手の形や模様の入り方からして、どう見ても『ペアのマグカップの片方』だ。
(……俺が自分で、こんな可愛いデザインのものを買うか?)
首を傾げながら、無意識に机の引き出しを開けた。
文房具が乱雑に入っている中、ふと、キラリと光る小さなものが目に留まった。
「……ヘアピン?」
指先でつまみ上げたのは、銀色の華奢な金具に、小さなトパーズ色のガラス玉があしらわれた、女の子用のヘアピンだった。
それは間違いなく、この部屋に俺以外の誰かが立ち入り、日常的に過ごしていたという痕跡だった。
ペアのマグカップ。そして、女の子のヘアピン。
俺は、ベッドの端に腰を下ろし、その小さなヘアピンを手のひらに乗せてじっと見つめた。
(俺、この空白の二年間で……彼女がいたのか?)
真っ先に脳裏に浮かんだのは、病院でボロボロと大粒の涙を流していた、あの息を呑むほど美しい銀髪の少女のことだった。
透き通るような白い肌に、蜂蜜のように温かい黄色の瞳。
『私は、湊くんの……同じクラスの、友達だよ』
彼女――神崎結愛は、確かにそう言って、切なそうに笑っていた。
けれど、俺の心臓は彼女の涙を見ただけで締め付けられるように痛んだし、小さなプレゼントの箱もあった。
そして今、俺の部屋には、彼女のものかもしれない痕跡が残されている。
もし、彼女が俺の彼女だったとしたら。
俺が全部忘れてしまったことで、どれだけ彼女を深く傷つけてしまっただろうか。
「……思い出せない」
靄がかかったように何も見えない自分の記憶に、俺は静かなもどかしさを抱えながら、ただ深く、ため息を吐いた。
――どれくらい、そうしていただろうか。 ふと壁掛けの時計を見上げると、時刻はすでにお昼の少し前を指していた。
「……とりあえず、下に降りるか」
考えても思い出せないものは仕方がない。
俺は手のひらのヘアピンをそっと引き出しに戻し、気持ちを切り替えるように立ち上がった。
ちょうどお腹も空いてきたし、両親がお昼ご飯の準備をしているなら手伝おう。
部屋を出て階段を降り、リビングへ向かおうとした、その時だった。
『ピンポーン』
不意に、玄関のインターホンが軽快な音を鳴らした。
「はーい、今出ます」
両親はリビングの奥にいるようだったため、俺がそのまま玄関に向かい、鍵を開ける。
「どちら様です――」
ガチャリ、とドアを押し開けた俺は、思わず言葉を失った。
「あ……湊、くん。……こんにちは」
冬の冷たい空気の中、そこに立っていたのは。
スーパーの買い物袋を両手に提げ、少しだけ頬を赤くしてはにかむ、神崎結愛だった。
第3話をお読みいただき、ありがとうございました!
中3の途中で記憶が止まっている湊にとって、自分の背が伸びていたり、部屋にある見慣れない高校の教科書を見たりするのは、浦島太郎のような不思議な感覚だったと思います。
でも、そんな戸惑いや寂しさを感じる時間も束の間。
さっそく、湊に会いたくてたまらなかった結愛ちゃんが家にやってきましたね!
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