第24話『死神の生まれた日』
投獄されてから三回目の食事はスープだった。
イザナの手枷は極端に鎖が短いため、受け取りは専らリセルが担当していた。
扉の覗き窓から素焼きの器を受け取り、こぼさないようにしゃがみ込む。二人分の食事にしては量も少ないため、そのほとんどはリセルに譲った。
リセルの肌はくすみ、目元はうっすらと青黒い。頬もやつれたような気がする。
短い食事を終えたあと、器を端に寄せ、彼女は壁に寄りかかったまま天井を見上げた。相変わらず、イザナたちは扉に近い場所に座り込んでいた。
「……わたしは体力がなくて、だめですね」
俯いたリセルは自戒を口にする。
「馬鹿なことを言ってないで、抜け出す方法を考えるのよ」
イザナも空腹で気力は落ちている感覚はあるが、身体への変化はない。腕が復活したことと同じ原理が働くのだろう。
「もう一度、扉に体当たりしてみますか?」
「……あたしたちだけの力では、厳しいでしょうね」
すでに試していたことだ。女二人ではびくともしない。肩を痛めただけだった。
イザナはリセルの向こう側を一瞥する。空の器は陶器だ。鈍器代わりにすることも考えたが、この粗末な容器では扉に打ち負けてしまう。
これまで出された食事はパンかスープのみだった。凶器になるようなフォークやスプーンが不要だからだろう。
「パルコダモス」
呼びかけるものの、返事はない。
耳を済ませると、寝息は聞こえてくる。まだ生きてはいるようだ。
初日こそ長々と話をしたが、以降の返事は途切れ途切れになっていた。彼とも協力できれば何か脱出の手が浮かぶかもしれないのだが。
リセルはずっと顔を曇らせたままだ。
イザナは柄でもないと思いながら、彼女に事実を告げることにした。
「でも、良かったわ」
「え……」
「ソニアたちはきっと逃げられたでしょうから。あなたのおかげね」
「わたしは何も……それにまだ無事と決まったわけじゃないですから」
イザナたちが捕まったあのとき、ソニアは子供たちと一緒に、彼女の部屋の地下に身を隠していたらしい。
昨日、捕まるまでの顛末をリセルから聞かされていた。彼女が捕まったのは、ソニアたちから意識を逸らすためにあえて表立って逃げたためだった。
「きっとソニアたちが捕まっていたら、ここへ連れてこられるわ」
あの立ち回りからもう三日が経つことになる。イザナたちと違い、彼女らがそれほど力を入れて捜索されているとも思えない。
「あなたが、あの子たちを救ったのよ」
だからそう暗い顔をするな、とまでは口にできなかった。
意図は伝わったのか、リセルの表情は複雑なものに変わり、小声で礼を述べてくる。返って気を遣わせただろうか。慣れないことはするものではない。
座りが悪くなって、イザナは話題を変えた。
「そういえば、あなた指輪を持っていたわね。他には何か持ってないの?」
イザナはネクロスの鎌ばかりか、腰に差していた愛用のナイフすらも取り上げられていた。だが、ただの市民に過ぎないリセルはおざなりな確認だけで済んだのかもしれない。
彼女は力なく首を振った。
「ほかは何も。わたしも猶予はありませんでしたから」
「まあ、そうよね」
持っていれば彼女の方から打診があったことだろう。
おもむろに手枷を壁にぶつけてみる。甲高い音が鳴り、骨までしびれが響いた。
リセルが血相を変える。
「ちょ、ちょっと何をやっているんですか」
「何って。手枷だけでも外れないかと思って」
もう一度打ち付ける。硬い石壁に金属がぶつかる鈍い音。手首にも痛みが返ってくる。だが我慢できないほどではない。
「やめてください。大怪我しちゃいますよ」
「怪我なんて、どうってことないわよ」
「そ、そうだとしても……音だってすごく響いてたから、看守の人たちにも聞こえてしまいます」
掠れた声で訴えてくるリセル。
渋々、イザナは振りかぶった両手を膝元に下ろした。手枷には引っかき傷のような跡ができていたが、破壊に至るまでにはあと何百回と叩きつけねばならないだろう。
「でも少しは無茶しないとこのままじゃジリ貧よ」
「そうだとしても、もう少し穏便な方法じゃないとすぐに見つかっちゃいますよ」
手枷は手首に沿うような形だが、正円ではない。鉄加工の難度を物語っている。鍵穴も然りだ。器用な盗賊なんかはこういう隙をついて解錠してしまうらしいが。
「髪留めでもあれば」
鍵代わりに使えそうだが、二人ともそういった洒落っ気とは無縁だ。お互いが同時にため息を吐き出した。
「ないものねだりしても仕方ないわね。……あったところで、解錠できるとも思えないし」
「そういえば、イザナさんは髪留めしないんですね。きっと似合うのに」
彼女の視線がイザナの頭頂部から腰のあたりまで上下する。
イザナは居た堪れなくなり、首を大きく振って肩から落ちた黒髪を払った。
「邪魔なだけよ。いつもなら適当に切ってるんだけど」
ここ数ヶ月はネクロスの鎌を探すことが先決だった。死ぬことを予定していたため、身なりなど気にすることがなかった。
リセルは途端に深刻そうな顔つきになる。
「わたし、イザナさんのこと何も知りません」
「別にいいでしょう、大した経験はないわ」
「でも、知りたいです」
切実な響きを伴っていた。閉ざされた空間が不安を煽るせいだろうか。いや、聖人アンテルスと関わりのあった死神の話を知って、ずっと考えていたのかもしれない。
イザナはため息をついた。どちらにしろ、逃げ出せる妙案がすぐに浮かぶわけでもない。
「いいけど、何から話せばいいのよ」
リセルの瞳に期待が満ちていくのを確認して、イザナはもう一度ため息をついた。
「生まれはどこなんですか?」
「ここよりもっと東よ。獣を狩ってたまに移動する、小さな集落で生まれたわ」
現在はどうしているのかは知らない。似たような生活を送る集落は他にもあるので、探すつもりもなかった。
「特別な力は、生まれたときから?」
「いいえ。そうではないわ」
最初はほくろか何かだと思っていた。腕に現れた黒点は少しずつ大きくなり、痣のようになり、模様を形成していったのだ。それは遅々とした速度で、数年をかけた醸成だった。
「だから、フォルトゥナの恩恵とは違う」
パルコダモスから話を聞いたとき、アンテルスと同じ力なのかと疑ったが、おそらく異質なものだ。
「そうでしょうか。フォルトゥナ様の恩恵については、まだわかっていないことも多いですし」
「もしそうなら、あたしはフォルトゥナを恨まなければならないけど?」
「……そうですよね」
再び沈んでいくリセルの横顔に、イザナは答えた。
「恩もなくはないわ。死ねない身体のおかげで頑丈になったし。もともとあたしは、そんなに体力がある方ではなかったの」
痣が模様のように変質し始めた十歳ぐらいの頃、イザナは明らかに他の子供たちよりも元気になった。病や怪我、獣たちに襲われて同世代の子供が亡くなる中、イザナは生き残れたのだ。
「自分の異常さに気づいたのは、十二か、三くらいのとき。獣に村が襲われて――」
移動が可能なテント型の集落では、猛獣が飛び込んでくるときがある。そのときはたまたまほとんどの男たちが出払っていた。数名が襲われ、イザナも狙われた。腹を空かせたヒョウで、大人に組み伏せられたように動けなかった。
「あれほど死を覚悟したことはなかったわ」
恐怖のあまり、夢中で暴れていると、いつの間にかそのヒョウは動きを止めて横に転がっていた。
大人たちはヒョウが狂っていたのだと結論付けたが、イザナには確かに自分が殺した実感があった。右腕にこびりついた熱が、いつまでも尾を引いていた。
「それじゃあ、やっぱりその力はイザナさんが生きるために与えられたものだと思います。イザナさんは、生きて成し遂げることがきっとあるんですよ」
「最初は、あたしもすごい力だと浮かれたわ」
当時を振り返ると、浅はかさに嘲りたくなる。
「自覚してからは、力の引き出し方を覚えようとしたけど、なかなか安定しなくてね。怪我もしょっちゅうやって。いきなり見せびらかそうと思って、完全に使えるようになるまでは大人たちに隠したわ」
胸の奥が少し苦しくなる。両親の顔がうっすらと浮かんだ。蔑んだような、憐れむような、自分たちを正当化するような表情が蘇る。
「イザナさん……?」
リセルが心配げに下から覗き込んでくる。
「ごめんなさい。それで、その不安定な状態のまま村の祭りが行われたのよ」
イザナは極力軽さを意識して、言葉を継いだ。
「風習でね、火にかけた櫓の周りで男女が踊るのよ。間抜けな話だけど、そのときにあたしの力が暴走してしまって」
リセルが短く息を呑んだ。
「相手は同い年の男の子だったわ。ちょうどフェリクスくらいかしら。踊りに誘われて、なぜか気が高ぶっていて、右手で触れた瞬間に……」
死んだのよ、と静かに締めるとリセルはまた「……ごめんなさい」と呟いて俯いてしまった。
「謝らないで。ただの昔話よ。それが初めて人を殺めた記憶」
最初に命を奪った相手は、何の罪もない少年だった。殺すと同時に、相手の記憶が流れ込んできた。そこで初めて、恐ろしい力なのだと悟った。
彼が亡くなって、自分も相手を慕っていたのだと知って、泣き続けた。
過去の自分の姿を思い浮かべていたのに、それが目の前のリセルと重なる。
「ちょ、ちょっと何を泣いているのよ」
「だって……イザナさんがあまりに……」
鼻をすすりながら、リセルが何度も謝ってくる。
「あとはほとんど話すようなこともないわ。あたしはそのまま何日か監禁されて、最終的には集落を追い出された。そこからはずっと一人でいたから、大したエピソードもないわ」
リセルがイザナの手を握ってくる。
「きっと……きっとイザナさんにはいつか、幸福がやってきます。だから、その子のためにも生きてください」
「馬鹿ね。その子のためにも、あたしが生きてるわけにはいかないのよ」
リセルは頑なに否定していたが、一方でイザナは話してしまったことを少し後悔していた。やはり自分も疲労が蓄積しているのだろうか。
それからはリセルも気を使って言葉を発しなかった。会話がなくなると眠気が忍び寄ってくる。
気づけば、イザナは風の吹く草原にいた。




