第25話『青い刻印』
乾いた風が、母親に結われた後ろ髪をなびかせる。
地平に沈む赤い太陽。そこから熱を奪ったように、櫓で炎が踊っている。酒を酌み交わして大笑いしている男たちと、赤ん坊の世話をする女たち。辺りを走り回る子供たちと対照的に、老人たちは隅の方でじっとしている。
イザナの隣には、控えめに笑う少年がいた。
同い年の異性は彼だけだ。
あと数年、成長してお互いが一人前になったら、きっと彼と同じ家で暮らすのだろう。他所の集落から招き入れて婚姻の相手とすることもあるが、自分たちは血縁も遠く、その世話は不要だ。
大人たちの何人かが太鼓を鳴らし、笛を吹いた。大人も子供も男女で手を取り合って櫓の周りに集まっていく。
その様子を見た少年が、すっと手を差し伸べてくる。心地の良い鼓動の高鳴りが、イザナの全身を包む。彼の手を取り、一歩を踏み出した。
だが。
右腕に熱が宿る。ふっと腕の中を異物が通り抜けた。
握っていた少年の手から、急速に力が抜けていく。それどころか体温さえも徐々に下がるのを感じた。どさりと倒れた音で、みんながこちらに注目した。
少年の親がやってきてイザナは脇に押しのけられた。ぐらぐらと視界が揺れ、立っていられなくなる。
突然、様々な景色が飛び込んできた。
それは視野を埋めつく夜空の星々であったり、馬上で上下する広い背中だったり、麦粥をかき込むところであったり……
驚いて目を閉じたが、次から次へと断片的な情景は止まることなく溢れ続ける。
へたり込み、頭を両手で抱えた。
「なに……これ」
幼い頃の自分の姿まで鮮明に浮かび上がってくる。匂いや温かさに加え、感情までが身体の内側に流れ込んできた。
瞬間的に、少年の記憶だと悟った。
そして彼が最後に残した記憶は、イザナと手を繋いだときの甘美な気持ちだった。
「やめて……やめて……!」
ほとんどひっかくようにして自分の右腕に爪を立てる。ぷっと血が浮き出て、腕から指先へと滴った。痛い。でも構わない。こんな右腕など――
なおも続けようとした左手をそっと掴まれる。女の手だ。
顔を上げると、今度は真っ白な空間にいた。
――自分を傷つけないで。
女の声。すぐ側から聞こえているのに、遠いようにも、近いようにも感じられる。
(あなたにはわからないわ……)
――その力を嫌っているのね。
(人殺しの力なんて何の役にもたたない)
――あなたはまだ力の半分も理解していない。
(理解?)
――それはあなたの才能だから。
(こんなものが才能なら、必要ない)
――ちゃんと向き合うのよ、あなたが持っている力と。
イザナはすべてが夢であることを薄々分かり始めていた。目覚めが近いことも。
(それよりあなた、アンテルスの言っていた……)
――私はあなたの側にいるから。
「待ちなさい!」
はっきりと耳に返ってくる自分の声で、イザナは現実に引き戻された。
傍らではリセルが不安げな面持ちでいる。
「大丈夫ですか……? ずいぶん、うなされていましたけど……」
「……ええ。問題ないわ」
軽く頭を振る。
まどろみの中の出来事は煙のようにまぶたの裏から消えていく。それを必死に繋ぎ止めようとイザナは硬く目を閉じる。
前半はときおり見る夢だ。細部は違っていても、だいたいは同じ事が起きる。平和な集落の風景と、消えていく命。
そこに割り込んできた女の声は、以前にも聞いた囁きと同じ人物のものだ。
鎌を引き抜いた日の夜、過去の光景が夢となって現れたことがある。ネクロスの鎌が自分に語りかけているのだと思っていたが、いまはあの鎌は遠く離れている。
それが何を意味するのか。
考え出すと、胸が苦しくなる。
呼吸が浅くなり、落ち着こうとして大きく息を吸う。だが不快な臭気が押し寄せてきて、余計に気分が悪くなるだけだった。
「イザナさん……!?」
清潔な場所で、新鮮な空気を吸いたい。喉元に苦いものがこみあげたが、なんとか耐える。
その頭をふいに引き寄せられた。
何か柔らかで、温かいものがイザナの顔を包んだ。耳元に響いてくる一定のリズム。心音だ。不思議と呼吸が穏やかになっていく。
「落ち着きましたか……?」
頭上からリセルが優しげに語りかけてくる。なぜか過去の風景が呼び起こされた。テントの中でわずかな明かりを背にして、母にも同じようにされていた気がする。
「キケルやプルクラがぐずったときも、こうすると静かになるんです」
子供扱いされたことが気恥ずかしくて、イザナはすぐに離れようとした。だが思いのほか強い力に押し戻される。
「大丈夫よ、もう離して」
「もう少しだけ、こうしていてください」
黴臭いこんな牢の中にありながら、イザナは言い知れる安堵を覚えていた。だがそんな気持ちを表に出すのは憚られて、いつもの口調で話題を変えた。
「あの女に会ったわ」
「……?」
イザナは夢に現れる女の存在について、リセルに話すことにした。彼女の腕を解いて、正面から向き合う。
リセルは静かに耳を傾けたあと、軽く握った拳を唇に当てた。
「イザナさんは、その方が当時の死神さんではないかと考えているんですね」
質問するというより、自分の考えを整理しているような呟きだった。
「そうよ。状況的にみて、そう考えるのが妥当だと思う」
過去の記憶についての確証はアンテルスがもたらしたものだが、当然、彼女に説明はしない。
「でも、その女の人が以前の死神さんなら、言っていることは正しいんじゃないでしょうか」
「それは向き合えってこと? この力にどんな使い道があるっていうのよ、人殺しのほかに」
リセルは左肩の裂けた袖に手を添えた。
「わたしはイザナさんに助けられてばっかりです。たしかに結果は……望んだようにならないかもしれませんけど、イザナさんに宿った力が、人を殺めるだけだなんて考えられないんです」
あくまでも、彼女はイザナを善なる存在としたいらしい。
「……あなたの悪いところだわ」
「本当のことです。皇帝陛下の前でだって、イザナさんが助けてくれなかったら」
「一度目はね。二度目は皇帝の気まぐれよ。たまたま鎖がちぎれて……」
そこまで口にして、イザナは引っかかっていたことを思い出した。
「鎖が、どうしました?」
リセルが怪訝顔になる。彼女は状況的にも覚悟を決めていたせいか、あのとき何が起きていたかを把握する余裕はなかったのだろう。
「そうだわ。あのとき、ドミティウスも驚いていた……」
鎖の断面は不自然に錆びついていて、用意周到そうなドミティウスがむきになって詰め寄ってきたのだ。つまりは、彼にとって想定外なことだったと考えられる。
興奮していて感じ取る余裕もなかったが、あの瞬間、右腕はどうなっていただろうか。
幼馴染を殺めてしまったときのように、鎖の切断もイザナが無意識で引き起こしたものだとしたら……?
自分の力について、たしかにイザナはちゃんと調べようとは思ってこなかった。目を背けてきた。ただ右腕が抜き身の刃になってしまった程度の認識でいた。
「試したいことがあるわ」
イザナはリセルから離れ、立ち上がった。目を瞑って、右手に集中する。
あのときは怒りと焦りで一杯だった。ただリセルを助けたかった。とても鎖を断ち切れないと悟ったと同時に、何かが作用したのだ。
イザナは内側に手を曲げ、指先で手枷に触れた。
鎖を破ったとき、どうしていただろうか。人を殺めるときとは違う感触だった。普段は生気を吸い込むような感覚がある。だがあのときは、感情が外へ噴き出していた。
手枷を破壊するイメージを描く。だが、反応はない。違う。破壊ではない。
人や動物と同じように死を受け入れなければならない。だがそれは内側への問いかけだ。鎖のときはもっと外へ意識が向いていた。自分を戒める鎖にさえ憎悪が吹き出ていたはずだ。
破壊や殺意でもなく、死を諭すように指先で手枷を撫でる。
右腕に熱が灯る。じんわりと温かい。目を開けると、痣が黒から青へと変色していた。
ぱき、という静かな音が牢に落ちる。手枷が地面に脱落していた。
「すごい……」
見守っていたリセルが感嘆を漏らす。破壊された手枷の断面は極端に錆びついていた。
感覚を忘れないうちに、イザナは他の枷も同じ要領で外していった。
ふ、と視界が揺れる。
「イザナさん……!」
「……ただの立ちくらみよ」
人を殺めるときには流れ込んでくる五感の勢いに蝕まれるが、物を破壊するときはそれとは違って、自分の内側から何かが欠けていくように感じる。
「でもこれなら、扉もきっと開けられるわ」
分厚い扉を睨むと、リセルも静かにうなずいた。




