21--三島兄妹の物語 5 トロッコ問題>
「あおいちゃん、あおいちゃん。」
朝の教室でゆかりちゃんがあおいちゃんに声をかける。
「ゆかりちゃん。ゆかりちゃん。 なんですか?」
「あのね、モーラーがまたあおいちゃんに会いたがっているの。」
あおいちゃんは少しだけ顔をしかめた。
「ゆかりちゃん、まだお兄さんのことを『モーラー』と呼んでるの?」
「私、まだまだ怒ってんだから。 私の怒りが収まるまではモーラーって呼ぶつもりよ。 でも、これはこれ、それはそれ。」
あおいちゃんはしげきお兄ちゃんのことを少しだけ、お気の毒に思った。
「それで、お兄ちゃんは何の御用なの?」
「それがね、モーラーったらあおいちゃんの価値観を知りたい、ってさ。」
「カニ缶?」
「そう、『カニ缶』、じゃなくて、あおいちゃんの価値観、だって。」
「なんで?」
「なんでも、『あおいちゃんの悟りに迫りたい』のだそうよ?」
「フへ〜ッ。 まあ良いけど。」
あおいちゃんは変な音を出しながらため息をついた。
「あおいちゃん、気を付けてね、モーラーったらまた何か良からぬことを考えているみたいよ?」
「良からぬこと?」
「うん。押し入れの奥から昔遊んでいたプラレイルを引っ張りだしていたわ。」
「…何をする気かしら? 昔みたいに一緒に遊んで御機嫌取り?」
「まさか! 幼稚園児じゃあるまいに。 でも、乙女心のわからないモーラーならあり得るかも… とにかく気をつけて油断しないでね。」
♫ ♫ ♫ ♫ ♫
「ゆかりちゃん、アソボ!」
次の土曜の午前中、あおいちゃんは三島さん家の玄関前で声を掛けた。
「はぁ〜い」
声の主はゆかりちゃんではなくしげきお兄ちゃんだった。あおいちゃんは思わず身構えた。
「いらっしゃい。あおいちゃん。さあ、上がって、上がって。」
「え〜っと?」
「ゆかりなら自分のへやに居るよ。」
しげきお兄ちゃんはあおいちゃんを二階へと促した。
「この部屋は?」
「ボクの部屋だよ。 あ! 扉は開けておくから、心配しないで」
「???《ゆかりちゃんの部屋じゃないんだ》」
何かわからないうちに、しげきお兄ちゃんの部屋の椅子に座らせられた。ゆかりちゃんがいうほど部屋は臭くなかった。《よかった,臭くなくて助かった》と思った。
勉強机の上には逆Y字型のプラレイルの線路がひいてあった。
「え〜と。あおいちゃん。トロッコ問題って知ってるかい? 倫理学の課題で、あおいちゃんの価値観を知るのに、一番適切だと思うんだ。」
唐突にしげきお兄ちゃんに質問された。
「リンリ学? う〜んとね。しらない。 鈴虫に関係するの?」
私は知ったかぶりせずに正直に答えた。
「違うって。倫理学。物事の善悪の判断の基盤となる学問だよ。いろいろなジレンマで、『本当の善きこと』を明らかにしようとする学問だな。」
高校生になると、小学生では習わないいろいろなことを知っているようだ。
「なるほど? で? このプラレイルはそのジレンマな課題ということ?」
「そのとおり、トロッコ問題というのはね、『制御できなくなったトロッコが暴走して来ているとして、このままでは5人の作業員がはねられて死んでしまう。でも、あおいちゃんはその作業員の手前の分岐のレバーを握っていて、それを動かせばトロッコは支線に入り、そこにいる1人の犠牲だけで済む。さて、あおいちゃんはレバーを引くかな?』トいう問題だよ。なにもしなければ、あおいちゃんには何の責任もない。でも5人が死ぬ。 ポイントを切り替えたら、死ぬのは独りだけだ。でも、そのひとりの死の責任はあおいちゃんのものだ。 さあ、あおいちゃんはどうする?」
「エッエッエッ??? 作業員の人たちに『逃げろー』って声を掛けるのは、ダメ?」
「う〜ん。それはこのトロッコ問題の想定に反しているな。この問題は
責任無い多くの犠牲と、責任ある1人の犠牲のどちらを選ぶか、だから…」
「そんなの選べないよ!」
あおいちゃんは叫びそうになった。
「どうする? ポイントを切り替える? 放置する?」
「エットォ….」
「どうする?」
お兄ちゃんはトロッコの電源スイッチを入れ,レールの上に置いた。ゆっくりとトロッコはポイントへと進んでいく。あおいちゃんは追いつめられた。
そのとき、部屋の入り口からゆかりちゃんが飛び込んで来た。
「ナニやってんだ! こンのバカ兄貴は。男子高校生が女子小学生を部屋に連れ込んだら、不審者事案よ、不審者事案! 『おまわりさ〜ん!こいつで〜す』よ。 う〜、臭い。 こんな奴は放っておいて、私の部屋に行きましょう。」
ゆかりちゃんはあおいちゃんの手を引いてお兄ちゃんの部屋から脱出した。
ゆかりちゃんの乱入に、しげき兄ちゃんはしばし呆然としていた。
《まいったな》と思った。
しばらくして,ジージーというトロッコのモーター音に意識を取り戻し、机の上のプラレイルを見た。 ひとりの人形も、5人の人形も倒れてはいなかった。しかし、ポイントのあおいちゃん人形はレール上に横たわり、それに乗り上げたトロッコを脱線させていた。
「そうきたかっ! 殆い! 殆ういよな。 まるでノルマル姫のようだ。 危機に瀕して、何も考えずにまず自分を犠牲にしようとする。 それが周りにどれほど大きな影響を、悲しみを与えるかもまったく考えずに。 植物の価値観に引きずられているのだろうな。 …あおいちゃんはこのモーラーがしっかりと護らなければならないな。」
モーラーは小さな声でそのようにつぶやいた。




