3.3 火の中を歩く男
「――で、そいつが、勇者だ」
男が杯を高く掲げた。
「顔なんて見てねえ。名前も知らねえ。だが俺は、勇者が魔族の英雄レノンを討ち取ったその瞬間を、この目で見たんだ。第八小隊で生きて帰れたのは俺だけだ。勇者がいなけりゃ、俺もあの火の中だった」
男は言い終えて、大きく息を吐いた。
一拍あって、隣卓から声が上がった。歓声だった。誰かが卓を叩き、別の誰かが手を打ち、それが店の半分まで広がった。奥の席の若い冒険者が立ち上がって拍手をし、連れに笑われて座った。
ナンシーは笑った。話の凄さに驚いた笑い方ではなかった。生きてここに座って、それを喋れていることを祝うような笑い方だった。
「生きて帰ってきたんだもの。今日はそれで十分よ」
男は少し困った顔をして、それから照れ隠しに酒をあおった。
その歓声の中で、アレイは黙っていた。
レノンを斬った一太刀は、たしかにあの日のいちばん綺麗な仕事だった。だが、綺麗な仕事は火が上がったあとに来た。火が上がる前に来ていれば、あの紙片の縦の列は短かった。
炎の中を歩いた、と男は言った。歩けたのは痛みを感じなかったからで、痛みを感じなかったのは薬が入っていたからだ。
その隣で、ヴァルターがようやく自分の卓へ意識を戻していた。
「……なあ」
「はい」
「ナンシーはああいうのが好みなのか」
「ああいうの、って」
「英雄だよ。火の中歩く奴だ」
ヴァルターは杯の縁を指で弾いた。
「俺様は火の中は歩かねえ。火があったら回り道を探す。それがシーカーの仕事だからな。……回り道を探す男は、モテねえのか」
「兄貴、それ誰に聞いてるんですか」
「誰にも聞いてねえよ」
「聞こえてますけどね」
ホステス二人が声を上げて笑い、ヴァルターは不機嫌そうに酒を飲んだ。
アレイは笑わなかった。杯を握って、その中の水面を見ていた。
隣卓では、男がまた身を乗り出していた。歓声で温まった声が、次の話へ入っていく。
「――でな、あの勇者様がどこを通ったか、それを俺は覚えてるんだ。あれがな、うまいんだよ。あの人の選び方は……いや、その前に一つ教えといてやる」
男の話は、そこで一度横へ逸れた。
「魔族ってのはな」
男は指を一本立てた。酔いで少し斜めに傾いた指だった。
「あんたら、話でしか知らねえだろ。角が生えてて、魔法が撃てて、それだけだと思ってる。違うんだ。あいつらは人間の作りをしてねえ」
卓の何人かが頷いた。
「レノンを見ただろ、って俺は言いたいんだよ。中隊が炭になった。あんな真似が人間の心でできるか? できねえだろ。俺の隊の連中がな、燃えながら助けてくれって言ってるのを、あいつは見てたんだ。見てて、火をもっと強くした」
誰かが唸った。ナンシーは何も言わず、男の杯へ酒を足した。
「それでな、これは前線じゃ知らねえ奴がいねえ話だが」
男は声を落とした。落としたつもりで、実際は充分に響いていた。
「魔族はな、人を食う」
男は杯を置いて、指を三本立てた。何の三本かは本人にもわからなかっただろう。
「檻に入れて、飯だけは食わせるんだ。太らせるためだよ。捕虜が飢えてるって話は聞かねえだろ? そりゃそうだ、痩せたら旨くねえからな」
「うへえ」隣卓の若いのが顔をしかめた。「じゃあ、行方不明の兵ってのは」
「察しろよ」
卓が沸いた。恐ろしさで沸いたのではない。恐ろしい話を安全な場所で聞ける、その具合のよさで沸いていた。
「それに、あいつらは痛みってもんを感じねえ。三百年も生きてりゃ、命なんざ勘定にも入らねえのさ。だから女も子供も平気で焼く。俺は前線で見てきたんだ」
――食わねえよ。
喉のところまで来ていた。
魔族の輸送隊が何を積んでいるかを、アレイは何度も見ている。干し肉と麦と、酸っぱい匂いのする漬物の樽だ。塩が貴重だから、肉は骨まで煮る。北は日照が足りないので麦の質が悪く、粥にすると灰色になる。あの粥の色を、アレイは知っている。焼き払った補給拠点で、まだ温かい鍋を蹴り倒したことがあるからだ。
子供もいた。角の隆起がまだ柔らかい、額のところが少し盛り上がっているだけの子供が、通りの端でこちらを見ていた。母親らしい女がその頭を抱えて、家の中へ引きずり込んだ。逃げる速さは人族とまったく同じだった。
どこで見た、と訊かれる。
誰から聞いた、と訊かれる。
なぜお前が知っている、と訊かれる。
答えは一つしかなく、その一つは口に出せない。だから間違った話に頷く役をやる。それが五年前に自分が選んだ生き方だった。
ヴァルターは体を斜めにして、隣卓を睨むように見ていた。
「なあ、あいつまだ喋ってんのか」
「喋ってますよ」
「もう終わりでいいだろ。魔族の英雄を斬った、勇者すげえ、終わり。それで済む話を三十分引っ張ってんじゃねえよ」
隣卓では、男が話を先へ進めていた。
「――でな、話は戻るが、今も勇者様はいるんだ」
その一言で、卓の空気が少し明るくなった。恐怖譚から英雄譚へ戻る合図のようなものだった。
「あの人は五年前に死んだ。名前も顔も、俺は知らねえままだ。だがな、志は途切れてねえ。今の勇者様がいるだろ。ジャスティン様だよ」
「ジャスティン様! 私、あの絵、部屋に貼ってます」
「あの人ねえ」
ナンシーが微笑んだ。
「お顔が綺麗だから」
「顔がいいだけじゃねえぞ。あの方は精霊様から直に授かった聖剣を持ってる。それを持って、魔族の英雄をまた斬るんだよ。だからな、俺は税を取られても文句は言わねえ。あの方に回るなら安いもんだ」
「決め文句、あれなんだっけ」
「知らねえのか。『その剣は、明日を照らす』だ」
男は誇らしげに言い、卓の何人かが復唱した。冗談半分の口調で、しかし半分は本気だった。
その絵は、南東の大市場の入り口の壁にも貼ってある。買い物のたびに前を通る。金の髪で、歯が白くて、剣を斜めに構えて笑っている男の絵だ。
ジャスティンという男が誰なのかは知らない。会ったこともない。ただ、聖剣がどこにあるかだけは知っている。南東の民家のベッドの下だ。埃をかぶって、たまに足で蹴って奥へ押し込む。あれは捨てても帰ってくる。売ろうとしても帰ってくる。ずっとあの部屋にある。
つまりポスターの男の腰にあるのは、鍛冶屋で作った綺麗な鉄だ。
本物を持って街を歩けば、この国と大聖堂が五年かけて作った紙芝居が、その日の夕方には全部ひっくり返る。
だから転がしてある。
(俺が死んでねえから、次の奴が選ばれねえ)
その理屈を、アレイはずっと前から知っている。知っていて、何もしていない。次の勇者が現れないぶんを、絵の中で笑っている男が埋めている。そして絵が埋めた場所へ、また誰かが送られていく。壁を作れ。道を作れ。時間を稼げ。撤退の合図は言わない。
「――でな」
男の声が、また一段上がった。
「さっき言った話に戻るが、俺が一番覚えてるのはそこなんだよ。あの勇者様の、道の選び方だ」
「道?」
「炎ってのは、均さねえんだ。厚いところと薄いところがある。素人には全部同じ赤に見えるが、違う。あの人は分かってた」
男は卓の上に指で線を引いた。酒の染みを地形に見立てて、火の位置と壁の位置を置いていく。
「ここが中庭、ここが外壁、で、こっちの角に見張り塔が崩れて残ってた。あの塔の脇だけな、火が薄かったんだ。俺たちが辛うじて逃げ延びたのもそこだ。あそこを通れば熱を食わずに敵陣の横っ腹へ出られる。だから勇者様も、あの塔の脇を選んで進んだんだよ。あの状況で一目でそれを見抜くんだから、あれが英雄ってやつの――」
「そっちは囮だ」
言ったのは自分だった。
アレイが気づいたのは、自分の声が卓に落ちてからだった。低く、平たく、なんの飾りもない声だった。普段の伸びた語尾がどこにもなかった。
塔の脇の火は、レノンが意図して弱めていた。逃げ場を一つだけ残しておけば、獣は必ずそこへ走る。走った先には濃い火線が二重に敷かれ、その裏に伏兵が伏せていた。あの脇道を選んだ部隊はどこも出てこなかった。だから正面の一番厚いところを抜けた。厚いところには誰も置かない。置く必要がないと思うからだ。
卓が静かになった。
男が指を止め、顔を上げた。目の焦点が、酔いの膜を一枚剥がしてアレイに合った。
「……あんた、なんて」
「え?」
「そっちは囮だ、って言ったろ」
「言ったか?」
アレイは杯を持ち上げ、中身を一気に流し込んだ。喉が焼けた。焼けてくれて助かった。
「……なんとなく、そう思っただけだ。逃げ道が一個だけ空いてるときはさ、たいてい罠だろ。迷宮でもそうだ。楽な道が一本だけ残ってたら、そこにゃ何かいる」
「……迷宮の話か」
「迷宮の話だよ。三層で死にかけたばっかなんだ、俺は」
シドがすぐに割って入った。
「そうそう、この兄貴この前エビの巣に突っ込んだんですよ。人の言うこと聞かねえ小娘の護衛でね」
「エビか」
「エビです。だから兄貴、火より水が怖いんですよ。ザリガニのトラウマで」
卓が笑った。男も笑った。酔いと、まだ喋り切っていない武勇伝の熱が、その笑いに引っ張られていった。
「まあ、なんだ。あんたの言うことも分かる。戦場は罠だらけだ。だがな、あの人は違うんだ。あの人はそういうのを全部見抜いてたんだよ。だからな――」
男は同じ話を、もう一度最初から語り直し始めた。塔の脇の火が薄かった話に戻り、そこを勇者が選んだ話に戻った。訂正されたことを、その頭はもう記憶していなかった。
アレイは黙って杯を握った。
握った指が、思ったより強く曲がっていた。木の杯が軋んで、自分で気づいて力を抜いた。喉の奥がまだ熱い。酒のせいだと思いたかった。五年前の火が、今日ここまで上がってきているような気がした。
「アレイ」
「あん?」
「飲みすぎだぞ、お前」
「……ああ」
「珍しいじゃねえか。お前が黙って飲む日なんて、金がねえ日だけだ」
アレイは笑った。今度は口の端だけでなく、なんとか声も出た。出せたことに自分で少し安心した。
隣卓では、男が三度目の「炎の中を歩いてきた」を語っていた。
その声を聞きながら、アレイは残った酒を舌に乗せた。味は戻ってこなかった。
男の武勇伝が四度目に入るころ、連れの一人が卓を叩いて立ち上がった。
「もう朝になるぞ。明日ギルドだろ」
「明日は昼からだ」
「昼から行けねえ顔してんだよ、お前は」
笑い声とともに椅子が引かれ、勘定書きが回された。男は財布から札を抜きながら、まだ喋っていた。塔の脇の火が薄かった話を、金を数える手つきのまま繰り返している。誰も聞いていなかったが、それで困る様子もなかった。
立ち上がるとき、男は少しふらついて、アレイたちの卓の背にもたれかかった。
「悪いな」
「いいよ」
「……あんた、なんだっけ。迷宮の人か」
「三層で死にかけた男だ」
「そうか」
男はそれきり、アレイの顔を覚えるつもりもなさそうに笑った。酔いで潤んだ目の底に、まだ火が残っているのが見えた。今夜あれだけ大声で語り倒しても、抜けきらない量の火だった。
「気をつけろよ。楽な道が空いてるときはな、たいてい罠だ」
「……ああ」
自分がさっき言った言葉を返され、アレイは頷いた。男はそれが自分の考えだと思い込んだ顔で、仲間の肩を掴んで出口へ歩いていった。扉が開き、夜明け前の冷えた空気がひと息だけ店に入った。
ナンシーは扉の外まで出て、男たちを送った。戻ってくると、空いた卓の杯を重ね、灰皿を下げ、卓の上の酒の染みを布で拭いた。
それから、こちらの卓へ来た。
「お待たせしちゃったわね」
ヴァルターの背筋が、音を立てそうな速さで伸びた。
「別に待ってねえよ。俺様は連れと話してたからな」
「そう。ずっと隣を見てたって聞いたけど」
「誰が言った」
「言ってません」
シドが即答した。
ナンシーは笑って、ヴァルターの杯に酒を注いだ。それからシドに、シドについていたホステスに、順に注いだ。手つきに急ぐところがなく、瓶の口が縁に当たる音も鳴らなかった。
最後に、アレイの前へ来た。
ナンシーは木の縁に指の跡が薄く残っているのを見て、それから、アレイの横顔を見た。
何も訊かなかった。
「はい、どうぞ」
瓶を傾ける。アレイの指が少し緩んで、杯が卓に置き直された。注がれる音が、思ったより長く続いた。多めに入れられたのだと気づいたのは、ナンシーが瓶を戻してからだった。
「……悪いな」
「水もいる?」
「……いる」
水の杯が、酒の隣に並べられた。それだけだった。何があったのか、なぜ黙っているのか、体調が悪いのか、そういうことは一切訊かれなかった。
「ヴァル」
「あ?」
「今日は来てくれてありがとう」
ナンシーはそう言って、屈んだ。
頬に、短く柔らかいものが触れた。
音は、ほとんどしなかった。それでも卓の全員が聞いた気がした。
ナンシーは何も付け足さず、身を起こして次の卓へ歩いていった。行きかけて、一度だけ振り返った。ヴァルターへではなかった。アレイの、まだ水に手をつけていない指のあたりに目を落とし、それから顔へ上げて、少しだけ目を細めた。言葉は乗っていなかった。労いなのか、確認なのか、アレイには分からなかった。分からないまま、頷き返した。
ナンシーは頷きを受け取って、行った。
卓に残されたヴァルターは、まだ動かなかった。
「兄貴」
「……」
「兄貴」
「触るな」
「触ってませんよ。自分で触ってるでしょ、さっきから三回」
ヴァルターの手が、自分の頬に当てられていた。位置を確かめるように、指の腹で軽く押している。押して、離して、また押した。四回目だった。
「今日ずっと隣ばっか見てた甲斐がありましたねえ」
「見てねえ。情勢の話をしてたんだ」
「情勢の話で頬が赤くなる人、初めて見ました」
「酒だ」
「そういうことにしときます」
ホステスが笑い、ヴァルターは怒らなかった。怒る代わりに、卓の上の勘定書きを引き寄せて、自分の分と他人の分を足し始めた。数字を数える声が、いつもの半分の速さで、上機嫌に間延びしていた。
「アレイ、今日は俺様が出してやる」
「……なんだって?」
「聞こえたろ」
「ヴァル、お前、明日死ぬんじゃねえのか」
アレイは笑った。声はちゃんと出た。それから水を飲み、注がれた酒を口に入れた。
わずかに、苦味が分かった。
喉の奥の熱はまだ残っていたが、火のせいなのか酒のせいなのか、もう区別がつかなくなっていた。区別がつかないのは都合がいいことだった。五年前と同じだ。
窓の隙間が、うっすらと白んでいた。
ヴァルターは勘定書きを持ったまま、また頬に指を当てていた。五回目だった。




