4.1 地の底で太鼓を聴く
冒険者ギルドの換金窓口は、いつも並んだ列の長さだけで一日の景気がわかる。
その日は列が短かった。つまり、誰も大した物を持ち帰っていないということだ。窓口の職員は退屈そうに秤の皿を指で弾き、革袋から出された小銭を数えている。
「……三千二百ペル」
「はい」
シドは差し出された銅貨を、両手で受け取るふりをしながら、実際には片手でざらりと掴んでポーチへ落とした。数える気にもならない。
スライムの核が四つ、それも半分は潰れていた。潰れた核は値が落ちる。落ちるとわかっていて、それでも殴りすぎてしまうのは、要するに腕が悪いのである。
そばの壁にもたれて煙を吐いていたアレイは、その後ろ姿をぼんやり眺めていた。隣ではヴァルターが、買い取り相場の貼り紙を舌打ちしながら読んでいる。
「三千かよ。宿代出るのか、あれ」
「出ねぇだろ。だから昼はギルドの残り物なんだよ、あいつは」
「かわいそうだなァ」
「お前も先月そうだったぞ」
シドは受け取った袋を掌の上で二度弾ませ、それからため息のような笑いをこぼした。
愛想を向ける相手も、慰めてくれる先輩も、その瞬間には近くにいなかった。誰にも聞かせるつもりのない、ただ口から漏れただけの独り言だった。
「……剣一本掲げて拝まれてるだけで儲かる商売、羨ましいなあ。俺もそっち鞍替えしようかな」
言ってから、自分でくすりと笑った。要するに自分が弱いという話を、遠回りに笑いものにしただけの軽口である。ポスターの勇者様の白い歯を思い出して、あんな顔で笑えたら金も女も寄ってくるんだろうな、と。それだけのことだった。
換金窓口の脇を、三人組が通りかかっていた。
洗い立ての外套、磨かれた金具、腕には十字の刻印を入れた革の腕輪。
この街の冒険者の中では場違いなほど身なりが整った一団で、ギルドの連中が「お行儀のよい教会の連中」と呼ぶ、パーティ「チャーチズ」だった。
足が止まったのは、まず一番小柄な女だった。
「――今、なんて言った」
声は高くなかった。むしろ低く、静かで、それゆえによく通った。列に並んでいた数人が振り返る。
シドが顔を上げると、ローブの下から自分を見上げている大きな瞳とぶつかった。身の丈は自分の肩ほどしかない。人形のような顔立ちのくせに、その目にはひとつも甘さがなかった。
「あ、いや、聞こえてました? すんません、あの、独り言なんで」
「聞こえたから訊いている。もう一度言ってみて」
「えー、いやあ、俺スライムに三回負けてるんですよ、マジで。今日も四つ潰しちゃって値切られて。だからまあ、剣が上手い人は偉いなあって、そういう」
「そういう話ではないでしょう」
ローレンは一歩も退かなかった。「拝まれてるだけ、と言った。剣一本掲げて。――誰のことを言ったの」
シドの背中を、じわりと嫌な汗が伝った。空気を読むのは早い。早いから、もう遅いこともわかる。
この手の相手には、自虐が効かない。自分を落として笑わせる手が使えないのだ。彼らは笑いに来たのではなく、裁きに来ている。
「誰のことでもないですよ。ほんとに、ただ自分がしょぼいって話で」
「なら、なぜ勇者様の話だとわかったの」
「商売って言い方が悪かったです。すいません、そこは謝ります」
「謝る前に、意味をわかっていなかったのね」
細身の男が、少し離れた位置で盾を背負い直した。前へ出るでもなく、止めるでもなく、腕を組んで様子をうかがっている。
年は二十代の半ば、口の端には笑いの癖が残っているのに、今はそれを使わなかった。彼の視線は、シドではなく、自分たちのリーダーへ向いていた。
そのリーダーが、静かに前へ出た。
三十を越えたあたりの、がっしりした体つきの男である。槍の柄を肩に担ぎ、目元は穏やかで、声も荒れていない。それが逆によくなかった。
「若いの。名前は」
「シド、っす」
「シド。私たちは今朝、四層で足を折った男を担いで上がってきた。三日ぶりに水を飲ませて、腿の骨を接いで、教会まで運んだ。金は一ペルも受け取っていない」
「……すごいっすね。それはほんとに、頭が下がります」
「拝まれているだけだと言ったな」
「言いました。すいません」
「その男が名を呼んで泣いたのは、我々の懐ではない」
イアンの声には、まだ怒鳴りが混じっていなかった。ただ、担いだ槍の柄を握る手だけが白くなっていた。
彼にとってその軽口は、勇者信仰を茶化されただけではなかった。ギルドの階段を上がるたび背中に投げられる笑い声――行儀がいいだけの、口先だけの、教会の連中――それと同じ音に聞こえたのだ。二重に、腹に来ていた。
窓口の列が、いつのまにか静かになっていた。誰も止めない。ギルドではよくあることで、よくあることだから誰も損をしたくない。
シドは笑顔のまま、逃げ道を探した。無い。詰められている。壁と、窓口と、三人。頭の中で、それでも軽口の候補を三つ並べた。三つとも通用しないと即座に切り捨てた。
「あー」
割り込みとしては、あまりに気の抜けた声だった。
列の後ろから、長袖を袖ぐりまで着崩した男が、猫背のままふらりと割って入った。だらしのない立ち姿のせいで、実際の背丈より二回りも小さく見える。目つきは半分寝ていた。
「悪いな。そいつ、俺の連れなんだわ」
イアンの視線が移った。それだけで、シドの前の空気がわずかに緩む。
アレイは、庇う言葉を吐かなかった。胸を張ることも、頭を下げることもしなかった。ただ、頬をかきながら、思いついたことをそのまま口にした。
「腹が減るとよォ、人間、頭がバカになるんだ。こいつは今日三千二百ペルだ。飯二回で消える。神様が半分でも面倒見てくれりゃ、こんな下品なこと言わずに済むんだけどなァ」
「――貴様」
「あ、いや、責めてるんじゃねぇんだよ。あんたら偉いって話だよ」
アレイはへらへらと手を振った。
「偉い人が施しをやってんだろ? だったらこいつも施しの範囲だ。腹が減った奴が舌を滑らせただけだ。それでいいじゃねぇか」
ローレンの眉がわずかに動いた。反論の形を探すような、一瞬の間があった。彼女はこの男を知っていた。ギルドでいつも壁にもたれて煙を吐いている、冴えない薬中。腕の見えないところに包帯を巻いた、役立たず。相手にする価値もない。
だからこそ、その口から出た「神様が半分でも面倒見てくれりゃ」という言い方は、イアンの中で最も触れられたくない場所を、ぬるい指で撫でた。
槍の柄が肩から下ろされた。
「その言い方は、我らの神を安く見ている」
「そんな大したこと考えてねぇよ。俺も腹減ってんだ」
イアンは槍を使わなかった。それは彼の中の最後の分別だった。
代わりに、左の拳が飛んだ。
打点は頬骨のやや下、元十字軍騎士の、体重の乗り方を知っている拳である。アレイの首がぐるりと回り、猫背の身体は換金窓口のカウンターへ肩からぶつかり、そのまま床へ落ちた。並んでいた小銭の皿が跳ね、銅貨が石床に散った。
ギルドが、一拍だけ静まった。
「兄貴!」
シドが駆け寄ろうとするのを、床のアレイが片手で軽く払った。倒れた姿勢のまま、口の中に溜まった血を、ぺっと横に吐く。
「……いってェ」
そして、笑った。恨みも、怒りも、痛みへの抗議さえ乗っていない、間の抜けた笑いだった。
「うわ、本職の拳だ。あんた強ぇんだなァ」
イアンの拳が止まった。空振りしたような、奇妙な虚しさが手の中に残った。
殴られた者が、殴られたことを何ひとつ受け取らない。恐れも、憎しみも、屈辱も返ってこない。ただ床に転がって笑っている。
周りの冒険者たちが、押し殺した笑いを漏らし始めた。笑われているのはアレイだ――「またあの薬中がやられてる」――だが、そう見えている光景の中で、槍を担いだ男の姿だけが、妙に大きく浮いていた。
「イアン」
細身の前衛が、ようやく口を開いた。マーティンは腕を組んだままで、それを解こうともしなかった。声には、止めたいというより、止めなかった自分への居心地の悪さが混じっていた。
「……もういいだろ。人が見てる」
「……そうだな」
イアンは短く答え、槍を肩へ戻した。落ちた銅貨を、一枚だけ拾い上げ、窓口のカウンターへ静かに置いた。
「若いの。飯が食えなくなったら、南西の教会へ来い。施しはやっている。舌の使い方は、そこで覚えろ」
シドは反射的に頭を下げた。頭を下げながら、この人には二度と近づかないと決めていた。
三人が去っていく。ローレンは一度だけ足を止め、床の男を振り返った。頬が腫れ始めているのに、当人はまだへらへらしている。血の混じった唾を袖で拭く仕草にすら、痛みへの敬意がない。
――どうして、こんな相手を殴ってしまうのか。
彼女の中に生まれたのは同情ではなく、もっと落ち着かないものだった。正しさを言いに行ったはずが、拳が出た瞬間から、正しさの側がどちらだったのかが、ぼやけている。
それでも彼女は口を開かなかった。開けば、リーダーの背中を後ろから押すことになる。教団の看板は、三人でひとつだ。
ローレンは目を伏せ、二人の後を追った。
人波が戻り、換金窓口の列がまた動き出す。誰も何も起きなかったかのように、秤の皿が鳴った。
ヴァルターは、壁際から一歩も動かないまま、相棒が起き上がるのを眺めていた。手にはまだ相場の貼り紙が握られている。
「殴られ損じゃねえか」
「うるせぇなァ」
アレイは頬を押さえながら立ち上がった。
「お前も止めろよ」
「止めたら俺様が殴られるだろうが。誰が得すんだ」
「相棒だろ」
「相棒だから、ちゃんと立てるかどうか見ててやったんだよ」
ヴァルターは貼り紙を折りたたんでポーチへ突っ込み、ようやく肩をすくめた。
「相手をよく見ろよ。腕輪の刻印、大聖堂の出向組だ。あそこと揉めると、依頼の回りが悪くなる。殴られて済むなら安いもんだ」
「安いって言い方、もう少し優しく言えねぇもんなの?」
「言えねえな」
シドが散った銅貨をせっせと拾い集め、両手を差し出した。
「兄貴、これ、詫びっす」
「いらねぇよ」
アレイは目もくれずに歩き出す。
「腹が減ってんのはお前だろ」
「……いや、あの、ほんとすいませんでした。俺が余計なこと言ったんで」
「本当に余計なことしか言わねぇ奴だよ」
口の中はまだ鉄の味がしていた。頬骨の下が、脈に合わせて熱く鳴っている。ジョグを一本吸えば忘れられる程度の痛みだ。アレイはそう見積もり、実際にそれ以上は考えなかった。
三人の背中は、すでに階段の上へ消えていた。
その背中の中では、まだ何も終わっていなかった。イアンは階段を上がりきるまでに、二度、拳を握り直した。あの薄笑いも、周囲から漏れた笑い声も、彼の耳の奥に残っていた。教会の連中は口だけだ――そう思われたままでは、いられない。
証明する場所は、地上にはない。
マーティンは何も言わず、盾の紐を締め直した。ローレンは依頼板の前を通るとき、リーダーが足を止めて何を見ているのかに気づいて、静かに息を詰めた。
八層。行方不明者。危険度、高。
それはまだ、板に貼られた一枚の紙にすぎなかった。
噂というのは、ギルドの酒場では酒よりも安く出回る。
三日のあいだに、それは「八層で地鳴りがする」から「八層で地竜を見た」まで育っていた。
「地竜だぞ、地竜。まともな記録なら十五層より下の化け物だ」
「見たってのは誰だよ」
「知らねえ。だが爪痕は本当だ。八層の岩壁が、こう――削られてんだ。人の背丈より上を」
昼過ぎの酒場で、アレイは煮込みの皿に顔を近づけたまま、その手振りを横目で見ていた。三日前に殴られた頬骨の下は、腫れが引いて黄色く沈み、噛むと少し鈍く鳴る。それだけの話である。
「地竜ってのは、うまいのか」
「知らねえよ」
ヴァルターは向かいで、指先の埃を払うように会話を数えていた。
「八層に降りる奴が今週から半分だ。相場が動くぞ。八層の素材が細るってことは、七層の売値が上がる」
「そういう話しかしねぇのな、あんた」
「そういう話をしてるから、お前がツケで薬を吸えるんだ」
夕方、二人は北東部の坂を下った。地上スラムの臭いは日が落ちてから濃くなる。焼いた油、湿った布、それと甘い煙。地下へ続く階段の三段目に腰かけて、センジュはもう待っていた。
「来た来た、待ってたよ二人とも、ほんと早いね、話が早い人は好きだよ俺は」
「用件」
「用件、うん、用件ね。人探し。八層のボンゾ」
ボンゾ。八層に住み着いて十年以上になる、背の低い、いつも湿った革帽子をかぶった男である。アレイは二度、ヴァルターは五度か六度、荷上げの中継で顔を合わせている。体が臭くないか自分の脇の下を嗅ぐのが癖だった。
「十日、連絡が来ない」
センジュは早口のまま、声の高さだけ落とした。
「七層との受け渡しも、地上への便りも、全部止まってる。あの人、金にはだらしないけど便りは切らさない人でしょ。だから困ってる人が何人もいてね。で、俺を通すと丸く収まるって話になったわけ」
「最後の便りは」
「これ」
差し出された紙片は、上等な羊皮紙でもなんでもない、包み紙の裏だった。炭で書かれた字が途中で切れている。
――八層、南の坑、地の音が変わった。爪痕、上。獣が上がって来ている。目印を打ち直す。誰も入れるな。急いで上へ知ら
「知ら、で終わってる」
ヴァルターが紙を指で弾いた。
「途中で書くのをやめたな」
「やめたか、やめさせられたか」センジュは肩をすくめた。
「ボンゾは偶然見たんじゃない。迷宮の様子が変だと気づいて、下から追ったんだよ。それで、探索者が入らないように目印を打ち直しに戻った。……そこまでは分かってる。そこから先が真っ白」
アレイは煙草を巻き始めた。
「で、その紙を持って、ギルドに行ったのか」
「行ったよ。八層行方不明者、危険度高、って板に貼られてる。あれの元ネタは俺」センジュは自分の鼻を指した。
「でもギルドの依頼はモグラの名前を書かない。書けないんだよ、あの人は登録がないから。ギルドが探すのは『取り残された冒険者』。ボンゾは荷物扱い」
「で、俺たちは荷物を探せってか」
「そう。あと、確認だけしてほしい」
ヴァルターが指を一本立てた。
「先に言っておく。地竜を殺す仕事じゃねえよな」
「違う違う、絶対違う。討伐なんて誰も頼まない、頼めるわけがない」
センジュは両手を振った。
「見て、痕跡を拾って、生きてるか死んでるか、それだけ。無理そうなら引き返していい。持ち帰るのは情報だけ。それでいい」
「報酬」
「一人六十万。半金は今」
巻き終えた煙草に火をつけながら、アレイは頬の内側を舌でなぞった。六十万。アンブロシアが五回分で六万、家賃が七万、飯が一食八百。数えると、それは思ったほど大きい数字ではない。危険な仕事の値段というのは、いつもそういうふうにできている。
「誓いの印はねぇんだよなァ」
「あるわけないでしょ、こんな話」
センジュは笑った。
「だから信用でやってるの。俺は逃げないよ。逃げたらこの街で息ができない」
「それがいちばん確かな担保だな」
ヴァルターは革袋を受け取り、重さだけで額を確かめた。
「行く。ただし段取りは俺様が決める」




