4.2 地の底で太鼓を聴く
翌日は準備に使った。北西部で油と楔と縄、干し肉と塩、それに骨接ぎ用の板を余分に。ヴァルターは投げ用の礫と鳴子を買い込み、値切って、店主に舌打ちされた。
道具屋の裏で、アレイは長袖の裾を引っぱりながら手を出した。
「五回分」
「六万」
「ツケ」
「ツケ」
ヴァルターは小袋を放った。
「言っとくが、六層より下でお前が薬を切らすと、俺様が死ぬんだ。切らすなよ」
「切らすと俺も死ぬんだよ」
中央の大穴には、いつもより多く見物人がいた。地竜の話を聞きつけた連中である。検問の職員は二人の冒険者証を眺め、届け先を書かせ、「八層まで下がるのか」と眉を寄せた。
「七層までだ」とヴァルターは答えた。書類の上ではそれで正しい。
ヴァルターの選ぶ道は、いつも遠回りで、いつも何にも出会わない。二日目の夜、六層の壁際で膝を抱えて眠り、三日目の朝に七層へ落ちた。
七層のモグラはペイジという名の、痩せた女だった。案内料は八万。値は動かなかった。
「ボンゾのとこか」
ペイジは金を数えもせずに懐へ入れた。
「十日前だよ。あいつが上がって来て、南の坑を塞げって言ってきた。あたしは塞いだ。それから戻らない」
「音は」
「聞こえる」ペイジは天井ではなく、足元を指した。「下じゃない。同じ層で、こう、遠くで太鼓を叩くみたいな。あたしの層の岩が、時々、ぱらぱら落ちるようになった。十年ここにいて、初めてだ」
彼女は分岐を三つ飛ばし、水の落ちる罠を迂回し、魔物の縄張りの端を舐めるようにして、半日で二人を境界まで導いた。八層へ落ちる竪穴の縁に、白い塗料で丸が描かれている。ボンゾの印だった。
「ここまで」ペイジは縄を投げ下ろしながら言った。「あたしは下は知らない。知らない層で案内料を取ったら、モグラは死ぬ」
「戻りは」
「一日待つ。二日目には塞ぐ。悪く思うな」
「まっとうだ」
ヴァルターは頷いた。
八層の空気は、七層より乾いていた。埃が舌に乗る。松明の火先が、時々、理由もなく横へ倒れる。
降りきった先の通路で、ヴァルターは膝をつき、壁の低い位置を掌でなぞった。
「あった」
刻みが三本。真ん中の一本だけが下向きに伸びている。
「ボンゾの癖だ」ヴァルターの声が、少しだけ低くなった。
「三本で『道』、真ん中が下向きなら『行くな』。上向きなら水場だ。……こいつ、新しいぞ。刻んだ縁が欠けてねえ」
「打ち直したってやつか」
「打ち直して、上へ知らせに行こうとした。その途中で書くのをやめた」
アレイは松明を掲げ、通路の先へ向けた。天井が、思っていたより高い。いや、高いのではない。上のほうの岩が、抉れてなくなっているのだ。三本の平行な溝が、壁の上部を舐めるように走っていた。人の背丈より、さらに二つ上。長さは、松明の光の届く端まで途切れない。
ヴァルターは何も言わなかった。かわりに礫の袋の口を開け、鳴子を手元へ移した。
そのとき、足の裏から、遠い太鼓が来た。
埃が天井から落ち、松明の炎がまた横へ倒れた。二人は同時に息を止め、音の方向を数えた。南だった。ボンゾが塞げと言った側である。
南の坑へ向かう通路は、途中から急に広くなっていた。
広がったのではない。削られたのだ。壁の角が丸く落とされ、天井の一部が抉れて、そこだけ岩の色が新しい。松明を近づけると、削り跡の底に細かい粉が溜まっていた。指で拭うと、ざらついて乾いている。
「柔らかいところを選んで掘ってやがる」
ヴァルターは天井を見上げたまま言った。
「石工より賢いぞ、こいつは」
「そういうのは褒めるもんじゃねぇだろ」
「褒めてねえ。値をつけてるんだ」
二十歩ほど進んだところで、ヴァルターが足を止め、壁の低い位置へ松明を寄せた。
また刻みがあった。今度も三本、真ん中は下向き。その下に、細かい字が続いている。ボンゾの字だった。
――南の坑、塞いだ。だが上がってくる。天井を掘る。誰も入れるな。急いで上へ知ら
「知ら、だ」ヴァルターの声が乾いた。「紙と同じところで切れてる」
「同じ文句を、あちこちに書いてたってことか」
「そういうことだ。上へ知らせるより先に、目印を打つほうを選んだんだな。あいつは自分が間に合わねえと思ってた」
さらに先で、通路の壁際に引きずり跡があった。革の背負い袋が、留め紐を裂かれた格好で転がっている。中身は空だった。
乾いた薬草の屑と、砕けた燐光石のかけらが少し。血はない。帽子もない。
「ボンゾのだ」
「だろうな」アレイは袋を持ち上げ、また置いた。「持ち主の分は、ねぇんだな」
「あるほうがまだ良かったぜ」ヴァルターは礫の袋の口を締め直した。「死体があるなら、報告して帰れる」
その先で通路は崩れていた。天井が落ち、岩が斜めに積み上がって、上のほうにだけ人ひとりが這える隙間が空いている。隙間の向こうから、風が来た。埃を含んだ、生ぬるい風だ。
風に混じって、音が来た。
太鼓ではない。人の声だった。
ギルドの板に貼られていた、あの一枚。八層で仲間を置いて逃げ帰った二人組の届け。取り残された男の名は書いてあった。位置は「南寄りの広間」と書いてあった。危険度は高、報酬は安い。三日、誰も受けていなかった。
「行きます」とイアンは職員に言った。「他に受け手がいないのなら、なおのことです」
七層までは順当に降りた。八層に入ってからは、マーティンが盾を前に、イアンが槍を中段に構え、ローレンが灯りと聴取を担って、教本どおりに進んだ。
倒れた探索者の血の跡を二度見つけ、二度とも死体ではなかったことを、三人は良い兆しだと言い合った。
広間へ入る直前、ローレンが足を止めた。
「イアンさん。壁の振動が、さっきから一定じゃありません」
「魔物か」
「わかりません。ただ、術の触りが悪いんです。魔力の通りが、砂を噛むみたいで」
「戻るか?」
マーティンが盾の陰から振り返った。冗談めかしたつもりの声が、少し高かった。
「俺は別に、格好悪くても生きて帰るほうが好きだぜ」
イアンは答えなかった。答えの代わりに、広間の中央へ松明を向けた。
人がいた。うずくまって、両腕で頭を抱えている。届けにあった名を呼ぶと、その男は顔を上げた。生きていた。
三人が広間へ踏み出した。イアンの足が、床の一段低いところへ落ちた。
そこは床ではなかった。埃をかぶった、灰色の岩肌の背中だった。
地が鳴った。
持ち上がったのは天井の高さまでだった。通路二本分の幅を持つ胴。四肢は短く、太い。鼻先には岩を割るための角質の楯があり、前肢の爪は三本、どれも人の腕より長い。目は小さく、白く濁って、ほとんど閉じている。見ていない。聞いている。
「マーティン、前!」
「もう出てる!」
盾が最初の一撃を受けた。受けた、というのはマーティンの言い方であって、実際には盾ごと横へ飛ばされ、壁に叩きつけられて跳ね返った。それでも彼は立った。立って、また前へ出た。
ローレンの光の矢が三本、地竜の首の側面で潰れた。鱗ではなく岩だった。硬いのではない。厚いのだ。
「効きません! 皮の下がありません!」
「口だ」イアンが叫んだ。「口を開けたときに――」
地竜は口を開けなかった。かわりに、前肢を振り上げずに横へ薙いだ。爪先が床を掘り、掘った岩ごと三人へ叩きつけられた。
「イアン、逃げろ!」
「まだだ!」
それが答えだった。取り残された者を確かめもせず引くのか、教会の連中は口だけだと言われるのか、その二つがイアンの頭の中で同じ重さを持っていた。彼は槍を構え直し、爪の間合いへ踏み込んだ。
踏み込んだ先で、救助対象の男がもう動いていないことに、イアンはまだ気づいていなかった。
マーティンは、リーダーの背中が前へ出るのを見た。見て、盾を捨てた。捨てないと間に合わなかった。
体で押した。イアンの脇を抱えて、横へ倒した。
爪はイアンの左肩から先を刈り取り、勢いを殺さないままマーティンの腹を裂いた。革と鎖の下で、何かが一度で終わる音がした。
そして天井が落ちた。
崩れた岩の隙間を這い抜けたとき、アレイの目に最初に入ったのは、光だった。白い、細い、震える光。聖術の灯りである。それが広間の隅で、瓦礫の山にすがりつくようにして揺れていた。
小柄な人影が、片手で光を保ち、もう片手で岩を掻いている。あの日ギルドで「今、なんて言った」と切り込んできた娘だった。
瓦礫の下から、腕が一本出ていた。もう一方の袖は、肩の少し下から空だった。血が岩の窪みへ溜まって、松明の色で黒く見えた。
広間の中央では、灰色の山が息をしていた。呼吸のたびに床の埃が跳ね、そのたびに壁からぱらぱらと石が落ちる。地竜は前肢を床に置いたまま、頭をゆっくりと左右に振っていた。音を探している。
その前肢のすぐ手前、爪の届く内側に、男が仰向けに倒れていた。細身の、若い男。腹の上に両手が置かれていて、その手が置かれているというより、押さえているのだと分かるまでに、アレイは一拍かかった。
男の指が、わずかに動いた。
「……生きてるぞ、あれ」
「見えてる」
ヴァルターは膝を落とし、瓦礫の陰から広間の輪郭を舐めるように見ていた。声は低く、平らだった。
「柱が二本、右の脇道が細い。あいつの肩は入らねえ。娘と埋まってるほうは動かせる。……あの真ん中の一人は、無理だ」
「無理か」
「三歩で爪が届く。俺様が近づいた瞬間に音で来る」
アレイは長袖の裾を引いた。手の甲が松明の熱でうっすら赤い。頬骨の下の痣が、噛みしめた拍子に鈍く鳴った。
「ヴァル」
「言うな。分かってる」
「三分だ」
アレイは懐へ手を入れた。
「三分、あいつをあそこから動かすな」
アンブロシアは、粉のうちが一番静かだ。
アレイは瓦礫の陰に膝をつき、小袋の口を開けた。ナイフの腹に白を落とす。量は数えない。数えると惜しくなる。鼻から一息に吸い上げると、喉の奥に金属の味が下りてきた。
それだけだ。それだけで、あとの三分はただの人間として過ごすことになる。
「入れた」
「百八十秒、お前が数えろよ。俺様は数えてる暇がねえ」
ヴァルターがこちらを見ずに礫の袋から握りを出し、掌の中で重さを確かめた。
「一」
言った瞬間に、ヴァルターは瓦礫を離れていた。
礫は地竜の頭を狙わない。頭の向こう、二十歩先の壁を狙う。
乾いた音が壁で跳ねた。灰色の山が、その音のほうへ頭を振った。前肢が持ち上がり、床へ落ちる。落ちた場所で岩が砕け、埃が腰の高さまで立った。
「十四」とアレイが言った。
ヴァルターは柱の裏から柱の裏へ、腰を落として移った。走らない。足の裏を石に置いてから体重を乗せる。それでも砂を踏む音がして、地竜の頭がわずかにこちらへ寄る。
二本目の柱の根に、鳴子を縄で括った。縄を伸ばして三本目の柱の陰へ回り、そこで引く。
かしゃかしゃと安っぽい音が鳴った。地竜は迷わずそちらへ突進した。柱に鼻先の楯が当たり、柱が根から折れて、天井の一部を連れて落ちた。
落ちた岩が、倒れているマーティンの足元まで転がって止まった。
「三十九」アレイの声が少しだけ低くなった。「ヴァル、寄せるな。あいつらの上に落ちるぞ」
「分かってる」返事は柱の向こうから来た。息が上がっている。「奥へ引く。奥の壁は厚い」
瓦礫の山の側では、ローレンが両手を岩の隙間へ差し込んでいた。
聖術の灯りは、もう指の先ほどの大きさしかない。魔力の通りが砂を噛む。祈りの言葉を三度たどり直して、ようやく光がイアンの肩の切れ目へ届いた。
血の出方が変わる。噴くのが滲むに落ちた。それだけで彼女の背中は汗で濡れた。
「イアンさん。聞こえますか。イアンさん」
瓦礫の下で、目が開いた。
「……マーティン、は」
ローレンは答えなかった。答えの代わりに、岩の角に肩を当てて押した。動かない。二度目で指の幅だけ動いた。
「マーティンはどこだ」
「動かないでください。腕が」
「腕は分かっている」イアンは首を捻った。捻った先の視界に、広間の中央が入った。
若い前衛が仰向けに倒れている。腹の上に両手がある。盾はない。捨てたのだ。捨てなければ間に合わなかったから捨てたのだ。
「……私が退かなかったからだ」
「今それを言わないでください」
「私が退かなかったからだ」
イアンは同じ言葉を繰り返した。声の芯が抜けていた。
]
「八十二」
アレイは瓦礫の縁から目を出したまま数えていた。
やることがない。剣は膝の上にある。今抜いても、この剣はシラフのなまくらだ。三歩を詰めれば爪が来る。爪が来れば、こちらが腹の上に両手を置く側になる。分かっている。分かっているから座っている。
それでも、マーティンから目を逸らさなかった。
若い男は、時々指を動かした。動かすというより、痙攣に近い。二度、口が開いた。何か言っているらしいのだが、地竜の呼吸と落石の音に混じって届かない。
「九十七」
中央で、マーティンの首がわずかにこちらへ傾いた。
目が合った。
合ったと思ったのは、たぶんアレイの都合だった。あの若い男は三日前、ギルドで詰め寄る仲間の背中を見ながら、一度も止めに入らなかった男だ。
今、その顔には表情らしいものが残っていない。ただ口の端が、笑いに使う形へほんの少し動いた。
そのまま止まった。
「――百二十」
数字だけは切らさなかった。
西の壁際で、ヴァルターは油の小瓶を割った。
匂いではない。割れる音のためだ。地竜が音へ寄る。寄った肩が壁に当たり、壁から石が落ちて、その落ちる音でまた頭が振れる。音の中に音を混ぜて、獣を同じ場所で回し続ける。
三度目に、寄せすぎた。
爪が横へ薙いだ。ヴァルターは柱の根へ倒れ込んで転がり、転がった先で背負い袋の紐が引っかかった。引きちぎって離れる。太腿の外側を岩の破片が削いだ。熱いと感じたのは数秒後だった。
「アレイ! 何分だ!」
「百五十一」
「三十秒早く効け!」
「注文つけんな」
ローレンが最後の押しでイアンの体を岩の下から半分引き出したとき、彼女はようやく、瓦礫の陰に人がいることに気づいた。
知った顔だった。着崩した長袖、猫背、ぼんやりした目つき。三日前、ギルドで殴られて笑っていた薬中の男である。
その男の手には、白い粉のついたナイフがあった。
ローレンの喉が、意味のない音を出した。ここは八層で、目の前で仲間が死んでいて、この男は座って数を数えていて、そして薬をやっている。理解できる並びではなかった。
「……何をしているんですか」
「百七十」男は中央を見たまま答えた。「もうちょい待て」
「マーティンが」
「知ってる」
「まだ生きて――」
「もう死んだ」
言い方に何も乗っていなかった。慰めも、詫びも、責めもない。乾いた石を置くように言った。
ローレンは中央を見た。動いていた指が、動いていなかった。
「百八十」
数え終えた男が、ゆっくりと立ち上がった。
立ち上がる途中で、その背が伸びた。猫背が消えた、というより、押し上げられた。首筋に筋が浮き、歯を剥いて食いしばる音がローレンの位置まで届いた。瞳孔の定まらない目が大きく開かれ、松明の光を二つ映して、それでも何も見ていないように見えた。
男の手の中で、安物の剣の柄が軋んだ。
「――遅ぇんだよ」アレイは誰にでもなく言った。「三分は、長すぎる」
かん、固いもの同士を打ちつけた音がした。
広間の中央で、灰色の山が、ゆっくりと頭を持ち上げた。
音のほうへ、と地竜は頭を振った。
新しい音は、剣の腹を岩へ叩きつける音だった。
アレイは瓦礫の陰から出て、広間の床を鳴らしながら歩いていた。三歩ごとに剣を石へ打ちつける。かん、かん、と安物の刃が悲鳴を上げる。折れてもいい。折れないと思っているから折れない。
「おい」
声が喉から出てくる時、自分の声とは思えないほど大きかった。
「おい、てめェ。こっちだ。耳しかねェんだろ。だったらこっちを聞け」
灰色の山が、真正面から向いた。白く濁った目が二つ、何も映さずにアレイを捉えた。前肢が持ち上がる。人の腕より長い爪が三本、風を裂いて横へ来た。
アレイは踏み込んだ。




