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4.3 地の底で太鼓を聴く

 ローレンの位置からは、その一瞬が理解できなかった。


 爪が男の胴を通り抜けたように見えた。次の瞬間、乾いた音がして、爪の一本が根から切り落ちて床に転がった。岩と同じ質量の音を立てて転がった。


 あの安物の剣で、である。


 地竜が初めて声を上げた。呼吸でも唸りでもない、洞窟いっぱいの低い悲鳴だった。


 頭が下がる。


 下がった鼻先の楯へ、男は剣を上から叩き込んだ。角質が割れる音は、木を割る音に似ていた。


 通路二本分の胴が、後ろへ退がった。


「右だ!」


 柱の陰からヴァルターが吠えた。太腿から血を流したまま、腕は迷わず右を指している。


「脇道! 三十歩先で詰まってる、瓦礫だ! 抜けろ、そこしかねえ!」


「詰まってんならどけりゃいいだろ」


 アレイはそう言って、走った。




 右の脇道は、人が肩を斜めにして通る幅しかない。奥で天井が落ち、岩が人の背丈ほど積み上がって道を殺していた。


 アレイは足を止めなかった。止めずに、上から下へ振った。


 岩が切れた。


 断面は磨いたように平らで、切られた側が滑って落ちた。二度、三度。四度目で蹴った。蹴られた岩が向こう側へ崩れ、湿った風が細く流れ込んできた。


「通ったぞ」


 振り向いた顔を、ローレンは見た。歯を剥き、口の端に泡が溜まっている。瞳孔は定まらないまま見開かれ、首筋には見てはいけないものを見たような筋が浮いていた。


「娘。先に入れ」


「イアンさんが」


「入れ」


 声に押されて、ローレンは体を横にして隙間へ入った。入りながら振り返った。




 瓦礫の縁で、イアンは自分の名を呼ぶ声を聞いた。

 右腕の袖を掴まれ、首の後ろの襟ごと引かれた。失った側の肩が岩に擦れ、息が止まるほど痛んだ。それでも体は岩の下から出た。


 出た拍子に、引き上げた男の顔が目の前に来た。


 着崩した長袖。猫背ではない背。乾いた血と埃。そして左の頬骨の下に、黄色く沈んだ痣がある。

 三日前、自分が拳で作った痣だった。


「あ」とイアンは言った。それだけだった。


「歩けねェなら黙ってろ」


 男はイアンの体を担ぎ、脇道の口へ押し込んだ。背後で床が鳴った。地竜が突進していた。




 鼻先の楯が脇道の口へ当たり、岩が内側へ砕けて降った。肩は入らない。ヴァルターの言った通りだった。


 だが胴が壁を押し、押された壁が天井を連れて崩れた。

 広間の中央に、上から石が落ちた。二度、三度、そして一度に大量に落ちた。埃が隙間まで吹き込み、松明が消えかけた。


「マーティン!」


 ローレンが叫んだ。名前だけを叫んだ。


 埃が薄れたとき、中央には何もなかった。地竜の爪の内側にあった若い前衛は、盾のあった場所ごと、灰色の岩の下に消えていた。


 ローレンは隙間へ手を伸ばした。伸ばした手首を、ヴァルターが掴んだ。


「もう墓だ」と彼は言った。「掘れねえ墓だが、墓だ」




 細い道を這って、崩れた通路の隙間へ戻るまでに、どれだけかかったのかローレンには分からなかった。


 イアンを運んだのは薬中の男だった。米俵のように担ぎ、狭いところでは引きずった。引きずられるイアンは何も言わなかった。ただ一度、掠れた声で「なぜ」と言った。返事はなかった。


 背後で地鳴りが続いていた。獣は同じ場所を回り、壁を掘り、天井を掘っている。上へ上がろうとしている。ヴァルターは何度も天井を見上げ、そのたびに歩みを速めた。


「ボンゾは」とアレイが言った。声はまだ大きすぎた。


「袋しか出てねえ」ヴァルターは前を見たまま答えた。「それで報告になる」


「なるかよ」


「なるんだ。金は情報に出る」




 七層へ落ちる竪穴の下に着いたころ、男の歩き方が変わった。


 肩が落ちた。首の筋が消えた。剣を持つ手が開いて、なまくらが石の上に落ちた。誰も拾わなかった。


「二十八分だ」ヴァルターが縄を投げ上げながら言った。「よく持たせた」


「……ヴァル」


「言うな。分かってる」


 上でペイジの声がした。縄が二度引かれ、まずローレンが上がり、次にイアンが縄で縛られて引き上げられた。片腕のない男の体は、途中で二度、岩に当たった。


 最後に残ったアレイは、壁に背を預けて座り込んでいた。両手が震え、汗が乾いた埃と混ざって縞になっている。目は開いているが、何も見ていない。


「立てるか」

「無理だ」

「知ってた」


 ヴァルターは相棒の胴へ縄を回し、結び目を二重にした。それから上へ向かって叫んだ。


「引け! 重いぞ、荷物だ!」


 荷物と呼ばれた男は、抗議もせずに宙へ持ち上がった。


 竪穴の底に、なまくらの剣だけが残った。ヴァルターは舌打ちをして拾い、腰へ差してから、最後に自分で縄を掴んだ。


 下の八層では、まだ太鼓のような地鳴りが鳴っていた。




 大穴の検問所には人が並んでいた。地竜の噂を確かめに来た暇な連中と、それを売りに来た情報屋と、いつもの荷馬車である。担架に載った片腕の男が担ぎ上げられてくると、列がざわりと割れた。


「教会だ」と誰かが言った。「聖衛兵呼べ、大聖堂の連中だぞ」


 ローレンは自分の足で歩いていた。埃で灰色になったローブの下からシャツの襟が覗いていた。彼女はそれをきちんと直そうとして、指が震えていることに気づき、やめた。


 イアンは担架の上で目を開けていた。天井のない空を見ていた。数日ぶりの光が眩しくて、彼はしばらく何も言わなかった。




 教会の治療室で、聖術師たちがイアンの左肩を診た。切断面は乱暴だが、止血が早かった、と年配の治療師が言った。


「誰が止めた」


「私です」ローレンが答えた。


「よくやった。半刻遅れていれば死んでいる」


 ローレンは頷いた。それから、言うべきことをもう一つ持っていることに気づいた。瓦礫から引き出したのは自分だが、そこから先を運んだのは別の人間だ。


 地竜の爪を切り落とし、岩を切り開き、イアンの襟を掴んで引き上げた男がいる。白い粉を鼻から吸って、歯を剥いて、口の端に泡を溜めていた男だ。


 彼女は口を開いた。


「イアンさんを瓦礫から出したあと、退路を――」


「シーカーが道を作った」


 イアンの声だった。掠れていたが、はっきりしていた。


「ヴァルターという男だ。地形を読んで、獣が入れない脇道を選んだ。私たちはそこから出た」


 治療師が頷いた。記録官が筆を走らせた。

 ローレンはイアンを見た。イアンは天井を見ていた。目を合わせようとしなかった。


「イアンさん」


「事実だ」


「それは、事実の半分です」


「半分でいい」


 イアンは初めて、そこで顔を横へ向けた。左肩には何もない。包帯だけが盛り上がっている。


「ローレン。私は迷宮で、退くべきところを退かなかった。マーティンが盾を捨てたのは私のせいだ。それは報告書に書く。書かなければならん」


「はい」


「だが、あの男に助けられたとは書かん」


「なぜ」


「あれは薬をやっていた」


 イアンの声は静かだった。静かなだけに、逃げ場がなかった。


「迷宮の中で、私の前で、鼻から吸った。あんなものの力で人が救われたと書けば、教団は何と言う。あの力は神の恩寵ではない。あれは――」


 言葉が途切れた。


 ローレンは待った。イアンが続きを持っていないことが分かった。彼は、三日前に自分が拳で殴った男の頬の痣を思い出している。引き上げられたとき、目の前にあったあの黄色い沈んだ色を。


 あれを自分がつけたのだと認めることは、殴った理由も、退かなかった理由も、盾を捨てた男の理由も、全部並べて数え直すことだ。片腕を失ったばかりの男に、それをやる余力はなかった。


「私は間違えた」とイアンは言った。「だが、あそこで間違えたことにしてくれ。ギルドで間違えたことにはしないでくれ」


 ローレンは何も言わなかった。


 言い返す言葉は持っていた。持っていたが、この部屋には記録官がいて、扉の外には教団があって、床の上には片腕を失った上官がいて、八層の岩の下には二十三歳の前衛が埋まっている。


 そのどれも、彼女の言葉一つで動くものではなかった。


 彼女は代わりに、水差しを取ってイアンの口元へ運んだ。




 ギルドの掲示に、その日のうちに一枚貼られた。


 八層行方不明者捜索依頼・失敗。対象死亡。受注パーティ「チャーチズ」、死亡一名、重傷一名。八層に大型未確認種の出現を確認。八層以下への潜行を当面禁ずる。


 その下に小さく、救出に協力した冒険者としてヴァルターの名が書かれていた。アレイの名はなかった。


「おい、ヴァル。お前八層にいたのか」

「教会の連中を引っ張り出したんだってな」

「地竜見たのか? どんなだった?」


 ヴァルターは酒場の椅子に座り、右の太腿に巻いた布を隠すように足を組んで、酒を一杯もらった。


「見たさ。通路二本分の胴だ。目はほとんど見えてねえ。音で来る」


 彼は指で卓を二度叩いた。


「だからな、八層で走るな。喋るな。金物を落とすな。それだけ覚えとけ。俺様が言うんだから安いもんだろ」


 冒険者たちは笑い、彼の話を持って別の卓へ移っていった。


 誰も、その場に四人目がいたことを聞かなかった。片隅の卓で、着崩した長袖の男が突っ伏して眠っていた。汗をかき、時折震えていた。ギルドの誰かがそれを見て言った。


「またキメて寝てんのかよ、あいつは」


 ヴァルターは訂正しなかった。訂正すれば、なぜあの男が地竜の前に立てたのかを説明しなければならない。説明できるものは何もなかったし、説明する義理もなかった。手柄は安い。手柄で相棒の首が売られるくらいなら、いくらでも自分の懐に入れておけばいい。


 彼は自分の名が書かれた貼り紙を一度だけ見上げて、鼻を鳴らした。


「まあ、次の依頼の回りは良くなるな」




 地下スラムへ降りる階段の下で、センジュは待っていた。


 ヴァルターが革の背負い袋を差し出すと、センジュはそれを両手で受け取り、留め紐の裂けた口を指で開いて、中を覗き込んだ。乾いた薬草の屑と、砕けた燐光石のかけらが底に残っているだけだった。


「……ボンゾのだ」

「そうだ」

「本人は」

「出てねえ」


 ヴァルターは言った。


「血もなかった。帽子もなかった。あれば持って帰ってる」


 センジュは袋を持ったまま、しばらく黙っていた。いつもの早口は出てこなかった。


「壁に彫ってあった」


 アレイが階段の段に腰を下ろしたまま言った。声はまだ枯れていた。


「同じ文句をあちこちにな。誰も入れるな、急いで上へ知ら、で切れてる。全部同じところで切れてやがる」


「打ちながら歩いたんだな」


「そうだろ」


「……あいつ、逃げりゃよかったんだよ」


 センジュは袋を胸に抱えた。


「地の音が変わったって最初に言ったのはあいつだ。誰よりも早く気づいて、誰よりも下にいて、それで目印を打ち直しに戻った。誰も入れるなって。あーあ。」


「情報にはなった」


 ヴァルターが言った。


「八層は当面立入禁止だ。ギルドが板を出した。獣は上を掘ってる。それは伝わった」


「伝わったから、あいつが生きてることにはならないでしょ」


「ならねえ」


 センジュは残りの金を数えて渡した。一人六十万ペルの後半分である。数え終わってから、彼は袋をもう一度見て、それを自分の足元へ置いた。


「誰の依頼だった」


 とアレイが聞いた。


「ボンゾを探せって言ったのは誰だ」


「言えないよ」


 センジュは笑った。いつもの明るさが、少し薄かった。


「言えないけど、まぁ袋一つで納得する客じゃない。次に何か言ってくると思う。その時はまた、俺を通してくれよ。俺を通すと丸く収まるからさ」


「収まってねえだろ、今」


「言うなよ」




 その夜、南東部の民家で、アレイは床に転がっていた。


 ベッドまで三歩の距離が越えられなかった。離脱の三日目は、痛みよりも重さが来る。腕が石で、胸が石で、瞼まで石だった。天井の木目を見ていた。


 木目の中に、盾を捨てた若い男の顔があった。腹を両手で押さえて仰向けになり、最後に口の端を少し笑いの形にした顔である。目が合ったように見えたが、あれは合っていなかったのかもしれない。


 アレイは目を閉じた。


 ベッドの下で、埃をかぶった何かが、いつもそこにあるように黙っていた。


 彼は手を伸ばさなかった。代わりに懐を探り、乾いた葉の残りを見つけて、紙に巻いた。火をつける手が二度失敗し、三度目でついた。甘い煙が天井へ上がっていく。木目がゆっくりと溶けて、ただの木目になった。


「……腹減ったな」


 誰もいない部屋で、彼は呟いた。




 三日後のギルドは、いつもの列の長さに戻っていた。


 シドは換金窓口で二千八百ペルを受け取り、両手で拝むふりをして、職員に「今日も生きてます」と報告した。職員は笑わなかった。


 振り返ると、八層の貼り紙がまだ残っていた。死亡一名、重傷一名。教会の連中の名前が並んでいる。シドはそれを読んで、口笛を吹くのをやめた。


「兄貴、八層こわいっすね」


 通りかかったヴァルターに言うと、ヴァルターは「行かなきゃいいだけだ」と答えた。


「アレイの兄貴は?」


「寝てる」


「またっすか」


「まただ」


 シドは笑った。彼は何も知らなかった。自分が窓口で漏らした一言が、どこへ転がって、どこで岩の下敷きになったのかを、この先も知ることはなかった。




 南西部の教会の裏で、ローレンは井戸の縁に腰かけていた。


 膝の上に、書きかけの報告書がある。イアンの口述をそのまま写したものだ。地形を読んだシーカーの働きにより退路を得た。前衛マーティン、殿を務め殉職。指揮官の判断の遅れについては別紙。


 そこまでは全部本当だった。


 書かれていないことも、全部本当だった。


 彼女は羽根ペンの先を見つめ、それから、報告書の余白に小さく一行だけ書いた。誰に提出するでもない一行である。


 ――なまくらの剣で、岩が切れた。


 書いてしまってから、彼女はそれを指で強くこすった。インクは乾きかけていて、消えずに滲んだ。滲んだまま残った。


 鐘が鳴った。夕の祈りの時刻である。ローレンは立ち上がり、胸の前で十字を切り、いつものように短い祈りを唱えた。唱え終わってから、もう一つだけ、教義にない言葉を足した。


「あの人にも、いちおう」


 それが誰のことなのか、彼女自身にもうまく整理できていなかった。


 地の下では、まだ何かが上へ向かって掘っていた。誰もその音を聞いていなかった。

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