↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/24

3.2 火の中を歩く男


 壁の門を抜けたのは、月が薄い夜だった。


 外側には道がない。斥候が残した石の目印だけを頼りに、第八小隊の十二人は谷筋を伝って北へ歩いた。誰も喋らなかった。鎧の擦れる音を殺すため、留め具の隙間へ布を噛ませてある。呼吸だけが列になって進んだ。


 前哨基地跡は、思っていたより大きかった。


 魔族が数十年前に捨てたという石造りの砦で、外壁の半分が崩れ、見張り塔は上半分をどこかへ落としていた。中庭には朽ちた荷車の骨組みと、何に使うのか分からない鉄枠が転がっている。屋根のあった場所には空が入り込んでいて、その空が白みかけていた。


 仕事は簡単だった。見つかることである。


 小隊は物資を焼いた。持ち込んだ油を撒き、残されていた木材と自分たちの余分な食糧まで火にかけた。煙は高く立った。高く立てるために燃やしたのだから当然だった。年長の兵が「もったいねえな」と呟き、誰も返さなかった。


 煙が二本目に達したころ、敵が来た。


 魔族の小部隊である。数は十に足りない。それでも、最初の一撃で人族側の右翼が半分に折れた。魔族の魔法は矢のように飛んでこない。空気が一度膨らんで、それから内側へ落ちる。落ちた場所にいた者は、鎧ごと形を失った。


 当初の計画では、接触したら位置を変える手筈だった。小刻みに動き、崩れた壁を盾にして、損害を抑えながら時間だけを削る。そのために伝令役が一人、常に隊の後ろへ置かれていた。


 その伝令が、最初の十数える間に死んだ。


 喉から上が消えていた。背負っていた合図用の筒も一緒に消えていた。それで退路の確認も、上級司令部への報告も、同時に途絶えた。第八小隊は、この時点で誰にも見られていない部隊になった。


 あとはもう、計画ではなかった。


 矢が尽きれば、味方の死体から矢筒を外した。水筒も外した。剥がせるものは剥がした。死んだ者から装備を取ることに、三人目を過ぎたころから誰も手間取らなくなった。


 負傷者が出た。腹をやられた若い兵と、脚を潰された年長の兵である。運べば全員の足が止まる。止まれば全員が死ぬ。置いていけば、敵が来る。


 誰も、置いていくとは言わなかった。


 瓦礫の陰へ二人を寄せて、水筒を渡して、それから前へ進んだ。若い兵が名前を呼んだ。誰の名前だったのか、男は今も思い出せる。思い出せるのに、その場では振り返らなかった。






「――で、俺たちはな、うまく釣り出してやったのさ」


 男は掌で卓を叩いた。笑っていた。


「煙を二本立てて、わざと壁の外へ出て、矢を撃って引っ込む。あいつら気位が高いからな、舐められると出てくる。狙い通りだ。狙い通りだったんだよ」


「頭がいいねえ」と隣卓の連れが言い、離れた席の客が「機転が命綱だな」と続けた。


 ナンシーは頷いた。頷いてから、男の杯へ酒を足した。まだ半分残っていた。それでも足した。


 男の指先が、細かく震えていたからである。


 彼女はそのことを口にしなかった。震えているね、とも、大丈夫、とも言わなかった。ただ杯の水面を上げて、男の手が持ち上げる理由を一つ作ってやった。


 アレイは、その手元を見ていた。


 置いてきた、とは男は言わなかった。釣り出した、とだけ言った。言い方の選び方に、五年ぶんの練習が入っている。何度も語ったのだろう。語るたびに、言わない部分が滑らかに削れていったのだろう。


 ――俺もそうだ。


 助けを求める声を背中に置いて、前へ走ったことがある。一度ではない。あのときは、そうすることが最短だったからだ。最短で敵の中核へ届くことが、最も多くの命を救うと教えられていた。理屈は通っている。今でも通っている。


 通っているのに、埋まらない。


 薬代のために迷宮へ潜り、ジョグを吸って笑い、腹一杯食って寝る。それで大抵のことは押し流せた。押し流せないものだけが、酒場でこうして他人の口から出てくる。


「兄貴、これ食っといたほうがいいですよ。腹に何か入れないと、酒だけ回りますよ」


 シドが、串の皿をそっとアレイの前へ押した。


「……悪いな」

「兄貴が奢ってくれるって話でしたっけ」

「言ってねえよ」


 その隣で、ヴァルターは自分についたホステスの話を半分も聞いていなかった。


「――でね、あたし迷宮って一度も見たことなくて」

「ああ。うん。まあ、見るもんじゃねえよ、ああいうのは」


 返事だけを置いて、視線は隣卓へ戻る。ナンシーが、震える手のために酒を足したこと。何も訊かずに足したこと。それがどれほど手の込んだ優しさなのか、裏社会で生きてきたヴァルターにはよく分かった。分かるからこそ、余計にたまらなかった。


「……あの女はな、ああいうところがいいんだ」

「兄貴、口に出てますよ」

「出してんだよ」





 やがて、音が止んだ。


 魔族の小部隊が、崩れた外壁の外へ下がっていく。撃ち合いの最中に、である。第八小隊の生き残り六人は、それで理解した。


 場所を空けたのだ。


 中庭の向こう、朝の薄い光の中に、一人が歩いてきた。


 背は高くない。淡い銀の髪を後ろで括り、鎧というほどの鎧も着ていない。額に一対、皮膚がわずかに盛り上がったような角がある。


「――あれだ」


 小隊長が言った。声が変わっていた。


「あれだ。当たりだ」


 同時に、この場にいる誰も帰れないことも決まった。男は、後になってそれが魔族の英雄レノンだと知った。あのときは名前も知らなかった。


 レノンは詠唱をしなかった。片手を持ち上げただけ。そして一度だけ、背後を見た。


 前哨基地跡の奥では、魔族の兵たちが慌ただしく動いていた。担架のようなものに載せた負傷者と、補給用の荷車を、崩れた門の外へ押し出している。射線から逃がしているのだった。


 レノンはそれを確かめ、彼らが門を抜けるのを待ってから、手を振り下ろした。


 空が、下りてきた。


 炎というより、天井だった。中庭の端から端まで、崩れた外壁の外まで、光と熱が一続きの層になって落ちてきた。石が鳴った。空気が消えた。息を吸おうとして吸えず、吸えないまま肺の内側が熱くなるという、聞いたことのない痛みが来た。


 第八小隊だけではない。同じ陽動のために周辺へ配置されていた部隊も、隊列ごと火の中に入った。中隊規模である。数百人が、たった一人の一度の魔法で、燃える地形に変わった。


 炎に包まれた者は、すぐに死ねる者ばかりではなかった。


 鎧が熱を抱え、抱えたまま皮膚に貼りついた。金具を外そうとして指の側が先に駄目になった。助けてくれ、という声はいくつも上がって、そのどれも煙と爆音に呑まれた。武器を捨てて走る者がいた。仲間を押しのけて、崩れた石の陰へ身体を捩じ込む者がいた。隊列を組め、と叫び続けるだけで一歩も動かない士官がいた。


 男は、走った。


 誰かが自分の脛当てを掴んだ。その手を振りほどいた。倒れている味方の背中を踏んだ。踏んだ感触がまだ柔らかかったことを、男は知っている。


 そのことは、武勇伝では一度も語らない。


 語らないから、五年経ってもそこだけが柔らかいまま残っている。





「――こう、だ」


 男は両腕を大きく広げ、それから頭の上でぐしゃりと合わせた。


「空が落ちてくるんだ。手を上げただけだぞ。壁沿いに並べてた中隊が、丸ごと消えた。丸ごとだ。俺の隊だけじゃねえ、両隣も、後ろの弓隊も、全部」


 店の一角が、静かになった。


 誰かの杯の氷が溶けて崩れる音が、はっきり聞こえるほどだった。冒険者たちは魔物の話には慣れている。数十人がまとめて死ぬ話にも慣れている。だが、それを一人がやったという話には慣れていない。


「……鎧が、な」


 男が言いかけて、そこで止まった。


 ナンシーは急かさなかった。もっと聞かせて、とも言わなかった。杯の位置を男の手のすぐ横へ寄せて、それから黙っていた。話の続きが出てくるまで待つというのが、彼女の待ち方だった。


 その静けさの中で、アレイの耳は酒場を聞いていなかった。


「……アレイ?」


 ヴァルターだった。隣卓を見ていたはずの目が、一瞬だけこちらへ来ていた。


 アレイの顔色が、店の暗い灯りの下でも分かるほど白い。汗が首筋に一本、変な角度で光っている。長い付き合いだ。この男が薬でおかしくなっているときの白さと、そうでない白さの違いくらいは分かる。


「飲みすぎ――」


 言い終わらなかった。


 隣卓で、ナンシーが男の肩へそっと手を置いたのである。落ち着かせるための、ごく短い接触だった。男は大きく息を吐き、掌で顔を拭って、それから照れたように笑った。


 ヴァルターの心配は、その瞬間に嫉妬へすり替わった。


「……肩。肩に置いたぞ、今。見たか。置いたよな」

「置きましたね」

「なんで俺様の肩には置かねえんだ?」

「兄貴の肩、置く前から力入ってますもん」


 シドはそう言って、自分についたホステスへ首を傾けた。


「いやしかし、すごい話ですよねえ。中隊が丸ごとって。俺なんかね、火球一発で靴底が終わりますよ。この前、駆け出し向けの実習で味方の魔法使いが暴発させて、逃げたら片方だけ焦げてて。片方だけって間抜けでしょ、両方なら諦めもつくのに」


 ホステス二人が笑った。ヴァルターが「お前は靴の心配してろ」と言い、それにも小さく笑いが起きた。卓の温度が、ぎりぎりのところで戻った。


 アレイは、笑わなかった。


 笑おうとして口の端を動かしたが、そこから先へ運ぶものが見つからなかった。串を一本取って、噛んで、味が分からないまま飲み込んだ。


「兄貴、うまいですか、それ」

「……ああ」


 嘘だった。何も分からなかった。


 隣卓では、男が息を整え終えて、また身を乗り出していた。声に張りが戻っている。


「――で、そこからなんだよ。ここからが本題だ。あの火の中をな、逆に歩いてくる奴がいたんだ」






 男は、崩れた石段の下に転がっていた。


 背中の熱がまだ残っていた。息を吸うたびに喉の奥で何かが剥がれる音がした。顔を上げれば火だった。中庭も、外壁の切れ目も、その向こうの平地も、全部が火だった。逃げ道というものが、地形ごとなくなっていた。


 だから、逆に歩く者が見えた。


 人はみな火から離れる方へ走っている。倒れ、転び、燃えながらそれでも遠ざかる方へ這っている。その流れの中に、一人だけ、向きの違う影があった。


 最初は味方だと思わなかった。魔族だと思った。人間が炎へ向かって歩くはずがない。


 だが影は普通の男だった。兜もなく、鎧もほとんど着ていない。外套は裾が焼けていた。顔は炎に阻まれよく見えない。手には剣が一本、ただの剣に見えた。ただ一つだけ、火の色を吸わなかった。周りのすべてが赤いのに、その刃だけが赤くならなかった。


 男は目が離せなかった。


 剣士は火の中を跳んだ。火線を越え、燃えた荷車の骨組みを越え、着地の音もほとんど立てずに敵陣の内側へ落ちた。


 魔族の猛者たちが立ちはだかった。三人だったか、五人だったか、男には数えられなかった。剣士の間合いに入った者から、一太刀で鎧ごと縦に割れた。唐竹割りというのは訓練場で聞く言葉で、実際にやれる人間がいるとは思っていなかった。


 斬られた者が倒れる前に、剣士はもう次の相手を通り抜けていた。


 レノンが火勢を上げた。


 それまでの火は、逃げ道を焼く火だった。今度の火は、一点を潰す火だった。剣士の周囲の空気そのものが白く光り、石が溶けた。囲いの残骸が、砂糖のように形を失った。


 男は、そこで剣士は死んだと思った。


 誰でもそう思う。人が入って出てこられる火ではない。実際、白い光の中に人影は見えなくなった。


 男は目を閉じた。閉じた瞼の裏が赤かった。


 剣士は布が燃えて、髪の端が燃えて、それでも歩いていた。燃えていることに気づいていないような歩き方だった。痛みという言葉を、どこかに置き忘れてきたような。


 レノンが、初めて後ろへ下がった。


 男は、そのときのレノンの顔を覚えている。恐れてはいなかった。驚いていた。何か計算違いを見つけた者の顔だった。


 一瞬だった。


 男はよく、この部分を長く語る。長く語るが、実際に見たのは一瞬だ。


 剣士の腕が、下から上へ動いた。あるいは上から下だったかもしれない。斬撃の軌跡は見えなかった。見えたのは、レノンの立っていた姿勢が、途中で二つに分かれたことだけだった。


 同時に、火が止まった。燃え続けるはずのものが、燃え続けなくなった。壁のような炎が、支えを抜かれた布のように落ちて、あとには黒い地面と、白い煙と、動かないものだけが残った。


 剣士は倒れたレノンを一度見下ろし、それから顔を上げて歩いていった。誰にも何も言わなかった。男の方を見もしなかった。


 男は石垣の陰から出られなかった。膝が動かなかったのだ。立てるようになったとき、あたりには誰もいなかった。


 後になって男が耳にしたのは、作戦成功の報せと、戦死者の名を並べた簡単な紙片だけだった。紙は一枚だった。第八小隊の欄に、十一人分の名前が縦に並んでいた。帰還者は一人だった。


 なぜ自分だけが残ったのか、男は今も説明できない。


 説明できないから、代わりに勇者の話をする。あの一太刀の話をしていれば、瓦礫の陰に置いた若い兵の名前を思い出す隙間がなくなる。踏んだ背中の柔らかさを、口が塞がっているうちは思い出さなくていい。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。