3.1 火の中を歩く男
冒険者ギルドの掲示板前は、いつも通り安い依頼と高い口喧嘩で混み合っていた。
アレイは壁にもたれ、ぼんやりと依頼票の並びを眺めていた。眺めていただけで、読んではいない。文字が目に入っても頭に届かない程度に気が抜けている。隣ではヴァルターが、換金票を指で弾きながら早口に数字を数えている。
「兄貴たち、いいとこで会いましたよ」
人の隙間から、そばかすのある細長い顔がにゅっと出てきた。黒髪のつんつん頭。駆け出しのシドだ。
「よお、シド。今日はスライムに勝てたか?」
「兄貴、一生ネタにするつもりでしょ。三回負けてるのは事実ですけど」
シドはへらりと笑って、両手を軽く広げた。相手を立ててから自分を落とす。この男の得意技だ。
「で、なんだ。金貸してくれって話なら聞かねえぞ」
「逆っすよ。この前の運搬で小銭が入ったんで、また飲みいきましょうよ〜。俺、兄貴たちに奢られる才能はあるけど、奢る才能もちょっとはあるんです」
「ちょっとってのが正直で気に入った」
ヴァルターは換金票を折り畳んでポーチに突っ込んだ。
「どこ行く気だ」
「そこはもう、グリーンデイなんてどうですか」
シドの言い方は、ごく自然だった。自然すぎるほどだった。アレイは薄目のまま、この若造はわざと言っているな、と思った。ヴァルターがあの店のナンバーワンホステスに入れ込んでいることは、ギルドでは皆知っている。
「……まあ、悪くはねえな」
ヴァルターの声が半音だけ下がった。落ち着き払った大人の声を作ろうとして失敗している。アレイは何も言わず、あくびをひとつした。
「アレイ、行くぞ」
「奢りなら行く」
「奢りとは言ってねえだろ」
「兄貴、そこはツケでいいですよ」
シドがすばやく口を挟む。
「ツケって言葉、この街で一番丸く収まる言葉ですから」
ヴァルターが鼻で笑って歩き出す。その足取りはいつもより速かった。
グリーンデイは、冒険者向けラウンジとしてはやたら小綺麗な店だった。壁には染みひとつなく、灯りは酒の色に合わせて低く落ちている。血と鉄の匂いを持ち込む客を、それでも受け入れるための温度に保たれた空気があった。
店に入る直前、ヴァルターは立ち止まって襟を直し、髪をひと撫でし、ベルトのポーチの位置を几帳面に整えた。
「なあヴァル」
「なんだ」
「お前、迷宮潜る時よりちゃんとしてんな」
「迷宮で死んでも誰も文句言わねえが、ここで格好悪いと一生言われるんだよ」
「深いっすね」
「うるせえシド」
三人はボックス席へ通された。柔らかいソファに沈み込みながら、アレイは薄い煙草の煙と甘い香油の匂いを吸い込む。悪くない。ジョグの煙が恋しくなる程度には悪くない。
やがてホステスが二人ついた。ヴァルターの隣に一人、シドの隣に一人。ヴァルターは腕を背もたれに広げ、豪快に酒を頼み、笑いを取った。取ったが、視線はまったく別のところにあった。
隣の卓だ。
そこには冒険者らしき男が三人ほど座っていて、その一番奥に、栗色の髪を高く結い上げた女がいた。体の線が出る薄いドレス。まっすぐに相手の目を見て微笑む柔らかな眼差し。
ナンシーだ。
「……よお」
ヴァルターが誰にでもなく呟いた。
「今日は、あっちか」
「兄貴、指名しなかったんですか」
「先客がいたらどうしようもねえだろ。俺様はな、順番を守る男なんだ」
「かっこいい台詞のくせに、目が全然こっち向いてないですよ」
「見てねえよ」
「今、二回瞬きするあいだに三回見ました」
ホステスたちが笑い、ヴァルターが杯を乱暴に置いた。シドはすぐに氷を足し、つまみの皿を卓の中央へ寄せ、「兄貴の武勇伝、姉さんたちにも聞かせてやってくださいよ」と話題を投げる。器用な男だ。空気が沈む前に必ず何かを差し込んでくる。
アレイは自分の酒を、誰に注がれるでもなく手酌で注いだ。特に不満はない。誰かに構われるより、こうしてぼんやり座っている方が性に合っている。長袖の下の腕を軽く掻き、杯を口へ運ぶ。安い酒だが冷えている。それで十分だった。
――そのはずだった。
「――だからよ、あんたらは知らねえだろうけどな」
隣卓の男の声が、一段大きくなった。酒が回った人間特有の、周囲へ聞かせるための声量だ。
「俺は前線にいたんだ。壁の、本物の前線だ」
アレイの手が、わずかに止まった。
「へえ」
ナンシーの声が続く。柔らかく、急かさず、ただ相手の言葉に隙間を作るような相槌だった。
「壁って、本当にあんなに高いの?」
「高いなんてもんじゃねえ。見上げても終わりが見えねえのさ。あの向こうに何がいるか、あんたら想像もつかねえだろ」
周りの客が笑い、囃す。ナンシーは笑わなかった。ただ男の目を見て、酒を注いだ。
「それで、どうしたの?」
アレイは杯を卓に置いた。置く音が、自分でも思ったより硬く鳴った。
「兄貴、なんです? 酒弱くなりました?」
シドがすぐに気づいて茶化してくる。
「……いや」
アレイは頬を緩めた。ヘラヘラした、いつもの顔を作る。
「なんでもねえよ」
嘘だった。
店の空調はよく効いていて、香油は甘く、ソファは柔らかい。それなのに、首の後ろの皮膚だけが、じわりと嫌な熱を持ち始めていた。五年ぶんの埃をかぶって、ベッドの下に転がしてあるはずのものが、急に近くで音を立てたような感覚だった。
隣の卓では、男がいよいよ本題に入ろうとしていた。
「俺はな」
男は酒をひと息にあおって、卓へ杯を戻した。木の天板が鳴る。
「俺は見たんだ。勇者様が、魔族の英雄レノンを討ち取った瞬間をな」
どよめきが起きた。隣卓の連れが「またその話か」と笑い、しかし笑いながら身を乗り出す。離れた席の客までが首を回した。誰もが知っている名前が二つ、同じ息の中で並んだからだ。
「レノンって、あの……一人で軍を焼いたって?」
「そうだ。一人でだ。中隊が丸ごと消えた」
ナンシーは驚きも疑いも顔に出さず、ただ男の目をまっすぐに見て、空になった杯へ酒を注いだ。氷が鳴る音がやけによく通る。
「それで、どうしたの?」
男は喉を鳴らして酒を含み、遠くを見る目をした。酔いの角度がひとつ変わった。
「五年前だ。俺は、プリンス鎮守府の第八小隊にいた」
プリンス鎮守府はメタリカ共和国の北端、壁沿いに置かれた拠点である。石と鉄と兵の汗で組み上がった、砦とも街ともつかない場所だった。
兵士たちは、人族に勇者という切り札があることを知っている。子どもの頃から歌で聞き、教会で聞き、酒場で聞いてきた。だが顔は知らない。勇者は敵地の内側で仕事をする部隊に属し、その所在も名も、一般兵には決して降りてこなかった。夜番の火のそばで、誰かが「勇者様は身の丈が三メートルあるらしい」と言い、別の誰かが「馬鹿を言え、女だって噂だ」と返し、それで話は終わる。名前を知らない味方というのは、兵にとってはほとんど空想と同じだった。
その年の作戦は、大きかった。
数ヶ月をかけて斥候と密偵が壁の向こうへ潜り、魔族の部隊配置、補給路、放棄された前哨基地跡の状況までを洗った。壁際には侵入と陽動のための部隊がいくつも並べられ、命令書は分厚く、しかし各小隊に渡される紙は薄かった。
第八小隊に下ったのは、たった数行である。
「壁を越えて魔族領内の前哨基地跡へ入り、そこに敵を誘き寄せ、足止めせよ。」
それだけだ。
意味は分かる。敵を誘き寄せれば、他の地点は薄くなる。薄くなった隙を、名も知らない勇者の部隊が通る。通って、本来の破壊工作をやる。
つまり第八小隊は、囮である。
成功しても戦果は勇者部隊の名で書かれ、失敗すれば敵の主力に踏み潰される。どちらにしても紙の上には残らない役目だった。
「勇者が通る道を作れ」
出撃前、小隊長はそう言った。歳の食った、声の低い男だった。
「時間を稼げばそれで勝ちだ。稼げ」
誰かが訊いた。いつまで、と。
小隊長は答えなかった。援軍が来るのか。撤退の合図は何か。狼煙か、笛か、それとも誰かが生きて戻って伝えるのか。何も告げられなかった。ただ「稼げ」だけが残った。
兵たちはそれで理解した。これは、自分たちを帰すために組まれた作戦ではない。
だが逆らえば臆病者の札が貼られる。札が貼られれば、残した家族への補償も、村へ届く名誉も消える。死ぬのは自分一人だが、削られるのは家ごとだ。だから誰も何も言わなかった。
その代わりに、軽口を叩いた。
一番若い新兵が「帰ったら酒場でいっぱい奢ってください」と言い、年長の兵が「お前の分は水で薄めとくよ」と返した。誰かが恋人へ書いた手紙を胴当ての内側へ押し込み、誰かが靴紐を三度結び直した。帰ったら何を飲むか、どこの女がいいか、そういう話だけを、出発の直前まで念入りに続けた。
死にたくないとは、誰も言わなかった。言えば本当になる気がしたからだ。
「――俺たちはな」
男は杯を高く掲げた。声が誇りで震えていた。震えているものの正体を、本人はもう区別できていないようだった。
「俺たちは、勇者様の道を作るために選ばれたんだ!」
隣卓の客が「おおっ」と声を上げ、離れた席の冒険者までが杯を持ち上げた。勇敢な兵士へ、と誰かが言った。前線へ、と誰かが続けた。店の低い灯りの中で、いくつもの杯が持ち上がる。
ナンシーは笑いすぎなかった。男の誇りをそのまま受け止めるように、静かに酒を満たした。男の手が杯の縁で少し滑るのを、彼女はさりげなく支えた。
アレイは、自分の杯を見ていた。
選ばれた、と男は言った。だが降りてきた紙には、いつまで持てとも、どこで退けとも書かれていなかったのだろう。それは選抜ではない。配置だ。地面に敷かれた石を、誰が選ばれた石だと呼ぶのか。
――俺は、その道を歩いた。
名前も知らなかった。どの部隊がどこで何を焼いて、何人残って、それが自分の踏む地面をどう作ったのか自分は一度も考えなかった。考える必要がないように作戦は組まれていて、考えないほうが速く走れた。速く走ることが仕事だった。
「兄貴、あっちの卓ばっか盛り上がってますね」
ヴァルターは聞いていなかった。厳密には、聞いてはいたが処理していなかった。彼の視線は男の武勇伝ではなく、その男へ酒を注ぐナンシーの手元、そして肩が触れそうな距離に固定されていた。
「……近すぎねえか、あれは」
「仕事ですよ」
「分かってる。分かってんだよ、俺様は」
「顔に書いてないだけで、目に書いてありますよ」
シドは笑いながら手を挙げ、氷と新しい酒を頼み、卓の真ん中の皿を寄せ直した。それからわざと大きめの声で言った。
「じゃあこっちも一杯やりましょう。勇者様のために、ってやつですね」
ホステス二人が調子を合わせて杯を掲げ、ヴァルターも渋々それに続く。乾杯の音が、隣卓の歓声にきれいに混ざった。
アレイは少し遅れて杯を持ち上げ、誰の目にも触れない角度で口をつけた。冷えた酒が喉を通っていくのに、首の後ろの熱だけが引かない。
「兄貴、飲みっぷり悪いですよ」
「……酒がうまいんだよ。ゆっくり飲むタイプなんだ、俺は」
「初めて聞きましたよ」
隣の卓では、男が身を乗り出して次を語り始めていた。壁を越えた夜のことだ。




