2.3 木のうろに美しさを見る
三層の宿営地は、水場のそばの岩棚だった。
迷宮に慣れた連中が代々使っている場所で、床に焚き火の煤が層になって残っている。三層まで戻れば、もう二層と一層があるだけだ。歩きの話でいえば、あとは半日。誰でもそう思う場所であり、だからこそ人が油断して死ぬ場所でもある、とヴァルターは言った。言いながら、この男は結局ここで休むことに決めた。矛盾ではない。危ない場所を知っている人間は、危ない場所で油断しないという理屈だ。
荷を下ろして、火は焚かず、乾いた携行食を噛んだ。
噛んでいる途中で、味がしないことに気づいた。
塩と脂と麦の混ざったものだ。旨いはずはないが、味がないというのは別の話だ。舌ではなく、その手前が働いていない。
アレイは内ポケットに手を入れた。
麻袋を出して、口を開けて、逆さにした。
膝の上に落ちたのは、葉の屑と、茎の切れ端と、粉だった。
「……あー」
声が出た。
一本ぶんない。半分ぶんもない。指で寄せて集めても、巻き紙の上に薄く敷けるだけだ。それでも巻いた。巻いて、火を移して、吸った。
紙の味しかしなかった。三口で終わって、指が熱くなった。
荷を削れとヴァルターは言った。要らないものは全部置いていけと言った。アレイはその言葉に従い、換えの布と、二本目の水袋と、それから――どういう頭の働きをしたのか――ジョグの巻き数を、三泊ぶんではなく二泊ぶんで見積もった。行きに吸って、待ちながら吸って、帰りに吸えばいい。そういう計算をした覚えがある。計算をした頭が、すでにキマっていたという話だ。
余裕だ、と自分は言った。あのとき確かに言った。
「なんか言ったか」
岩棚の向こうでヴァルターが顔を上げた。背負い袋を枕の位置に置いて、その上に腕を乗せている。あの中に木箱がある。寝ている間も箱から離れない置き方だ。
「なんも言ってねえ」
「腹でも壊したか」
「壊してねえよ」
言わなかった。
言えば、確実に馬鹿にされる。馬鹿にされるのはいい。だが、そのあとで「じゃあ帰るまで我慢しろ」と言われるのが分かっていた。正しいことを言われるのが、いま一番きつい。
アレイは横になって、目を閉じた。
眠れなかった。
眠れないだろうと思っていたので、驚きはなかった。ジョグは身体を壊す薬ではない。壊すのは習慣だ。二年か三年、寝る前に必ず吸ってきた男の身体は、吸わないと寝られない身体になっている。それだけの話で、それだけの話が一晩を長くする。
石の冷たさが背中の一点だけに集まって、そこが痛くなって、寝返りを打つと今度は肩に集まった。天井のどこかから水が落ちる音が、間隔を数えられるくらい規則的に響いた。数えた。三十六まで数えて、数えている自分に腹が立って、やめて、また数えた。
朝が来たのかどうかも分からないまま、ヴァルターが起きた。
「行くぞ」
「おう」
立ち上がったとき、足の裏が他人のものみたいだった。
二層は、人が増える。
一層と二層は初心者と薬草採りの領分で、この時間帯には駆け出しのパーティが下りてくる。三人組が向こうから来て、ヴァルターが片手を上げ、向こうも上げた。それだけで擦れ違う。上りと下りは互いに情報を交換するのが作法だが、荷を持っている人間は喋らないのが作法だ。
アレイは、その擦れ違いに苛立った。
理由はない。若い連中の声が大きいとか、装備が新しいとか、そういうどうでもいいことに神経が引っかかって、引っかかったところから熱が出る。頭の後ろのほうが常に軽く痛んでいて、指先が落ち着かない。何かを摘まみたい。何かを巻きたい。手が仕事を欲しがっている。
あと半日だ。半日で地上に出て、荷を渡して、四十万を受け取って、その足でヴァルターから買えばいい。それが最短で最も賢い。
賢い道筋が、頭の中にきちんと並んでいる。
並んでいるのに、指がポケットを探っていた。
革紐で口を絞った小袋が、内ポケットの奥に入っていた。
キノコだ。
八層の骨場で採れたやつだ、とヴァルターは言った。当たれば数時間飛ぶ、外れりゃ何も起きん、とも言った。相場一万五千の、賭けの品。
アレイはキノコに苦い記憶がある。三年ほど前に一度試して、そのとき見たのは、自分の腹から縄が引き出されていく光景だった。誰かに引かれている、と思い込んだ。思い込んだ時点で終わりだった。腹を押さえて壁際にうずくまったまま、丸一日、水も飲めなかった。
あれはアレイの頭の問題だ。分かっている。悪いのはキノコではなく、悪いほうへ転がる癖のある自分の頭だ。
だが、今日は違うだろう。
四日前に朝から吸ったジョグは、数年に一度もない当たりだった。世界がまるごと美しく見えた。あの日の続きが、まだどこかに残っている気がした。残っているところに落とせば、悪いほうへは転がらない。
どうか効いてくれよ。
願いながら、アレイは前を見た。
ヴァルターの背中は五歩先にある。分岐の手前で灯りを右に振って、壁の刻みを確かめている。その動作の間、この男の視線は完全に壁にある。
アレイは小袋の紐を歯で緩めた。
指を入れると、乾いた紙みたいなものが触れた。房を一つ摘まみ出して、口に放り込む。
噛むと、湿った土と、埃と、わずかな甘さがした。旨いものではない。喉に引っかかりながら飲み下したところで、ヴァルターが灯りを戻した。
「こっちだ」
「おう」
声は普通に出た。
効かない。
二十分ほど歩いた。何も起きない。
頭の痛みは変わらず後頭部にあって、指はまだ何かを摘まみたがっている。舌の奥に土の味だけが残っている。
外れか。
外れなら、一房ぶんの土を食っただけということになる。それはそれで馬鹿な話だが、馬鹿な話で終わるならまだいい。問題は、いま口の中に残っているこの土の味が、期待の残骸として舌に貼りついていることだった。
効くまで時間がかかる。ヴァルターはそう言った。時間がかかるというのは、どれくらいだ。半刻か。一刻か。地上に出るまで半日ある。半日待って何も来なかったら、その半日は完全に無駄になる。
量が足りなかっただけかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間に、指がもう袋に入っていた。
「ええい、ままよ」
二房。今度は噛む回数を減らして、水で流した。
歩いた。
来ない。
壁が壁のままで、灯りが灯りのままで、ヴァルターの背中が背中のままだ。何ひとつ変わらない。変わらないことが、だんだん腹立たしくなってきた。ジョグが切れているせいで元から機嫌が悪い。機嫌が悪いところに、効かない薬という侮辱が重なる。
三房。
このあたりで、数えるのをやめた。
やめたというより、数える必要を感じなくなった。一つ食って効かないなら二つ、二つで効かないなら四つ。頭の中の計算は非常に単純明快で、非常に間違っていた。間違っていることに気づく部分は、ジョグの切れた頭ではもう働いていなかった。
一層への昇り口が見えたときには、袋を振っても何も落ちてこなかった。
指を突っ込んで内側を撫でて、粉を舐めた。
空だ。
「……あー」
また声が出た。三層で麻袋を逆さにしたときと、同じ声だった。
「なんだ」
ヴァルターが振り返った。
アレイは空の袋を握り込んで、袖の中に押し込んだ。
「なんもねえ」
「顔色が悪いぞ」
「寝てねえだけだ」
「寝ろよ。地上に出たら好きなだけ寝られる」
「そうだな」
ヴァルターは背負い袋を揺すって、重心を確かめて、また前を向いた。この男は勘が鋭い。鋭いが、いま鋭さの全部を箱と道に使っている。相棒の顔色は、優先順位の三番目か四番目だ。
助かった、とアレイは思った。
思った直後に、足元の石畳の目地が、わずかに動いた気がした。
気がしただけだ。
アレイは首を回した。骨が鳴った。鳴った音が、いつもより長く尾を引いた。
一層への昇り口は、すぐそこにある。
一層は、迷宮でいちばん退屈な階層だ。
壁は削られ、床は踏み固められ、通り道の左右には空の木箱や壊れた台車が寄せてある。魔物はほとんど湧かない。湧いてもスライムだ。地上から下りてきた駆け出しが、ここで初めて「迷宮に入った」と言うために存在するような場所だ。
その退屈な壁が、脈を打っていた。
最初は灯りの揺れだと思った。ヴァルターの提げた灯りが歩調で揺れて、その明暗が壁の凹凸に影を作る。それだけの話だ。理屈は通っている。理屈が通っている間はまだ大丈夫だった。
だが、灯りを止めても壁は動いた。
削り跡の一本一本が、内側から押されるように盛り上がって、また沈む。ゆっくりと、規則的に。息を吸って、吐いている。石が息をしている。石が息をするわけがない、と考えた部分と、しているじゃねえかと見ている部分が、頭の中で並んで座っていた。並んで座って、どちらも譲らなかった。
「やべえ」
声が出たかどうか、自分でも分からなかった。
出たとしても、その声は自分の耳に戻ってくるまでに妙な回り道をした。喉で鳴って、頭の後ろへ抜けて、それから外側からもう一度入ってくる。二重に、三重に。同じ言葉が少し遅れて何度も届く。
足を動かした。
一歩が、長かった。
踵が石を離れて、爪先が石に着くまでの間に、いくつも考えごとができた。今日の献立のことを考え、三年前の縄のことを考え、それは違うと思い直し、袖の中の空袋のことを考え、それから足が着いた。長い一歩だった。長すぎる一歩だった。
次の一歩は、逆だった。
まばたきをしただけで、通路が四つぶん進んでいた。壊れた台車が背後にある。さっき前にあったはずのものだ。通ったのなら、通った覚えがあるべきだ。覚えはなかった。景色が飛んだ。フィルムを何枚か抜き取られたように、あいだが無い。
「アレイ」
名前を呼ばれた。
その音は、井戸の底から響いてきた。井戸の底で誰かが鐘を叩いて、鐘の音が「アレイ」という形をしているような呼び方だった。長く伸びて、壁で折り返して、また戻ってきて、最後に細くなって消えた。
振り向くと、ヴァルターがいた。
五歩先。いつもの位置だ。背負い袋の膨らみもいつも通りだ。この男は変わらない。この男だけが変わらない。世界のあらゆるものが呼吸をはじめた中で、ヴァルターの輪郭だけが硬く、はっきりと閉じている。
その事実に、アレイは異様なほど安心した。安心しすぎて、涙が出そうになった。涙が出そうになった理由が分からなくて、それがまた面白くなった。
「なんだよ」
自分の返事も、やはり遅れて届いた。
「なんだよ、じゃねえ。お前、さっきから壁を撫でてんだよ」
手を見た。
右手の指先が、壁の削り跡に触れていた。触れているだけではなく、ゆっくりと上下に動いていた。いつからやっているのか、まったく心当たりがなかった。
指の下で、石が温かかった。
石は冷たいものだ。迷宮の壁は年中冷たい。それは知っている。だが指が伝えてくるのは、生き物の腹に触れているときの温度だった。指を離すと、離した場所に指の形の窪みが残って、それが数拍かけて元に戻った。
「……ヴァル」
「なんだ」
「壁って、あったかいもんだったか」
沈黙があった。
沈黙の長さも測れなかった。一瞬だったかもしれないし、その間に季節がひとつ変わったのかもしれない。
「お前」
ヴァルターの声が近くなった。
「なにキメた」
「……」
「キノコか」
「一房だけだ」
嘘をつくつもりはなかった。ただ、口が勝手に一番都合のいい数字を選んだ。
「一房で壁が温かくなるか」
「なるかも、しれねえだろ」
「袋出せ」
袖から引きずり出された空袋を、ヴァルターは指で開いて、逆さにして振った。何も落ちてこなかった。振っている手の動きが、視界の中で残像を七枚くらい引いた。虹色の残像だった。とてもきれいだ、とアレイは思った。
「一袋、全部か」
「……効かなかったんだよ」
「効いてんじゃねえか、今」
「今は効いてる」
ヴァルターが何か言った。長かったと思う。内容はほとんど入ってこなかった。言葉が音の粒に分解されて、粒がひとつずつ壁に当たって跳ね返って、跳ね返ったものが色をつけて戻ってきた。怒っている音は赤かった。呆れている音は緑がかっていた。音に色があるという発見に、アレイは心を打たれた。
「歩けるか」
「歩ける」
「歩けないだろ」
「歩ける。歩けるって思えば歩ける」
その言葉を口にしたとき、頭のどこかで小さな警鐘が鳴った。
鳴ったが、警鐘の音もまた美しく、しばらく聞いていたくなる音だった。
三年前の縄のことを思い出せば、たぶん今日は終わりだ。腹に手を当てたら、そこに何かがあると思ってしまう。だから腹に手を当てるな。触るな。考えるな。
考えるな、と考えたことが、すでに半分敗北だった。
だが救われたのは、いま頭を占めているものが恐怖ではなく、色だったことだ。
昇り口の向こうから、光が来ていた。
坑道の出口だ。地下スラムの灯りだ。安物の油と魔石灯と焚き火の混ざった、汚れた黄色い光。それが、アレイの目には尾を引いて見えた。
一本一本の灯りが、虹色の長い尾を引いて空中に線を残していた。誰かが灯りを持って歩けば、その軌跡がそのまま帯になって残り、しばらく消えなかった。帯と帯が交わったところで新しい色が生まれた。名前のない色だった。名前がないので、名前をつけようとして、失敗して、笑った。
「笑うな。気味が悪い」
ヴァルターの手が肩を掴んだ。掴まれた場所から、温度が波になって広がって、腕の先まで届いて、指の関節から抜けていった。
押されるように歩いた。
昇りきると、坑道だった。
崩落したままの梁が斜めに刺さり、その隙間から地下スラムの空気が流れ込んでくる。人が住む場所の匂いだ。煙と、汁物と、汚水と、油。その匂いのひとつひとつが、輪郭を持って鼻の奥に入ってきた。匂いにも形があった。
人がいた。
坑道の口には、いつも誰かがいる。座って賭けをしている男が二人。積み上げた木箱に腰かけて煙を吸っている女。奥の暗がりに、動かない人影がいくつか。
その全員の輪郭が、溶けていた。
男の肩が、隣の男の腕とつながっていた。境目がなかった。境目がないというより、境目が絶えず入れ替わっていた。どちらがどちらの一部なのかを、二人は交替で担当していた。女の吐いた煙は、女の髪と同じ物質だった。同じ物質でできているのだから、髪が煙になって流れていくのは当然のことで、当然のことなのに誰も気にしていないのが不思議だった。
石畳が膨らんだ。
足を置いた場所が沈み、隣が盛り上がる。歩くたびに床が応えてくる。呼吸をしている。この街も呼吸をしている。迷宮が一つの巨大な生き物の食道だという噂を、誰かが酒場で言っていた。いま自分は、その喉を通って外へ吐き出されたところなのだ。吐き出されたのだから、吐き出された側からすれば、自分はもう要らないものだったということになる。
その考えは、なぜか少しも悲しくなかった。
要らないもの、というのは、ずいぶん自由な立場だ。
「アレイ。こっち見ろ」
声が来た。ずっと遠くから。深い井戸の底から。
見た。
ヴァルターの顔があった。顔の中に、たくさんの顔があった。今のヴァルターの顔と、四日前に食堂でチキンの衣を避けた顔と、いつか誰かの話をしないと決めたときの顔が、同じ位置に重なって、順番に浮き上がってきては沈んだ。この男は時間の全部を一度に持ち歩いている。誰もがそうなのだろう。今まで気づかなかっただけだ。
「歩けるな。歩け。荷を渡すまで、俺の横から離れるな」
「わかった」
「わかってねえ顔してんだよ」
「わかってる」
自分の声が、また外から入ってきた。
何歩か歩いた。
あるいは、何百歩か歩いた。距離が測れない。前に見えた曲がり角が、いくら歩いても近づかず、そのくせ次のまばたきでもう通り過ぎていた。時間が均一に流れていない。濃いところと薄いところがあって、濃いところを歩くと足がひどく重く、薄いところは景色ごと抜け落ちる。
靴音が鼓動になった。
自分の足音だと思っていた音が、いつのまにか胸の内側で鳴っていた。あるいは胸の音が足元で鳴っていた。どちらでも同じだった。区別する理由が、もうよく分からなくなっていた。
自分の手を見た。
袖から出ている手首に、点が並んでいる。痕だ。古いものと新しいものが混ざっている。それがいま、光っていた。ちいさな星のように、規則的に明滅していた。
きれいだ、とアレイは思った。
きれいだと思ってしまったことに、頭のずっと奥のほう——今日ほとんど働いていない部分——が短く抗議した。それはきれいなものじゃない。それはお前が削られてきた跡だ。
抗議は、色のついた音に飲まれて消えた。
袖を下げた。手が勝手にやった。習慣というのは、正気を全部失ってからも最後に残る。
「ヴァル」
「なんだ」
「俺、いまどこにいる」
返事があった。
返事の意味は、届かなかった。
届いたのは、声が持っていた形だけだ。それは硬くて、まっすぐで、頼りになる形をしていた。だから、それでよかった。
アレイは笑って、歩いて、次の一歩を置いた場所で、世界がまるごと別の絵に入れ替わった。
どこかに木があった。
地下スラムに木などない。あるはずがない。だが、あった。太い幹に、黒く深いうろがひとつ空いていて、そのうろの中で色が渦を巻いていた。名前のない色だ。さっき生まれた、あの色だ。
美しい、とアレイは思った。
そう思ったところから先の記憶は、どこにもなかった。
目が覚めた。
朝だ、と分かるまでに、しばらくかかった。
まず光があった。光には尾が引いていなかった。ただの光だった。灰色の空から落ちてきて、瓦の縁と、干した布の裾と、割れた樋の口を照らしているだけの、どうしようもなく普通の光だった。
次に匂いが来た。汚水と、焦げた油と、犬。形はなかった。輪郭も持っていなかった。ただ臭いだけだった。
アレイは、それを少し寂しく思った。
自分が地面に座っていることに気づいた。座って、背中を何かに預けている。振り向くと、木だった。
半分枯れた木だ。幹の途中で枝が折られていて、切り口から灰色の菌が輪を作っている。地上スラムのはずれ、水汲み場の裏手。こんなところに木が生えているのを、アレイは今まで一度も意識したことがなかった。
幹の下のほうに、黒い穴があった。
うろだ。
拳がひとつ入るくらいの穴で、縁が湿って腐っており、内側で蟻が列を作って出入りしている。奥は暗い。渦を巻いてもいない。色などどこにもない。名前のない色も、名前のある色も、何ひとつ入っていない、ただの穴だった。
アレイは、その穴をしばらく見た。
見て、それから顔を手で覆った。
「起きたか」
声がした。ひとつぶんの距離から、ひとつぶんの遅れもなく、まっすぐ届いた。
ヴァルターが、水汲み場の縁石に腰かけていた。背負い袋はない。代わりに膝の上に革の巾着を置いて、両手で口を締めたり緩めたりしている。すっかり身軽で、湯を使った顔をしていた。
「……ヴァル」
「四回目だぞ、その顔」
「なにが」
「起きて俺の名前呼ぶの。三回とも、そのあとまた木を見に戻った」
アレイは口の中を探った。乾いている。舌の裏に土の味が残っていた。あの湿った埃みたいな味だ。
「……荷は」
「渡した」
「いつ」
「昨夜だ。お前がそこで根を張ってる間に」
ヴァルターは巾着を軽く放った。膝に落ちてきたそれは、思ったより重かった。手のひらに紙と金属の混ざった感触があって、それだけで大きさが分かる。
「三十八万」
「四十万だろ」
「二万は俺の取り分だ」
「なんの」
「運搬費だよ。八十キロの荷物を坑道口から水汲み場まで引っ張った」
「八十もねえよ」
「あるんだよ。喋る荷物は重いんだ」
アレイは反論の言葉を探して、途中で諦めた。頭の後ろが鈍く痛む。指先が落ち着かない。世界がまともな輪郭に戻ったせいで、戻ってきたものはぜんぶ不快だった。
「ヴァル。ツケって言葉はさあ」
「言うなよ、そのくだり」
「もっと優しく言えねぇもんなの」
「優しく言ったら払わねえだろ、お前は」
ヴァルターは腰のポーチから細く巻いたものを二本抜いて、片方を差し出した。
アレイは手を伸ばして、途中で止めた。
「金は」
「別料金だ」
「……いくらだ」
「四千」
「二本で?」
「一本で」
アレイは黙って巾着から札を引き抜いて、渡した。
火をもらって、吸った。煙が喉を通って、胸の底に落ちて、そこでゆっくりほどけた。それだけで、後頭部の芯にあった鈍い痛みが半歩だけ後ろへ下がった。まだ効いてなどいない。効くのは三分ほど先だ。それでも、これから効くと分かっているという事実だけで、人間はここまで楽になれる。
情けない話だな、とアレイは思ったが、その思考も長くは続かなかった。
「センジュはいたのか」
「いたよ。ちゃんと立ち会って、ちゃんと数えて、ちゃんと払った。あいつはああいうところは正確だ」
「相手は」
「顔は見なかった。見に行かなかった」
ヴァルターは煙を横に吐いた。
「箱を置いて、金を数えて、背中を向けた。それだけだ」
「早いな」
「早いに越したことはねえ。荷を渡したあとに世間話する奴が、いちばん間抜けだ」
その言い方が、少しだけ硬かった。
アレイは煙を挟んだまま、横目でヴァルターを見た。この男は、危ないと思えば必ず足を止める。止まったときに何かを喋るわけではないが、口の端の力み方が変わる。今のは、それに近い。
「なんかあったか」
「なにも」
「なにもって顔じゃねえ」
「なにもねえよ。無事に渡した。金は出た。仕事は終わりだ」
ヴァルターは膝を叩いて立ち上がり、それ以上は言わなかった。この男が黙るのは、言わないと決めたときだけだ。だからアレイも、それ以上は訊かなかった。訊いて名前を知ってしまえば、それは自分の中に入ってくる。
「で」
ヴァルターが言った。
「お前、自分がなにしてたか覚えてるか」
「……歩いてた」
「そのあとだ」
「覚えてねえ」
「一晩中、その穴を見てた」
アレイは、うろを見た。蟻がまだ出入りしている。
「見て、なんて言ってた」
「『美しい』」
ヴァルターは指で煙の灰を落とした。
「二百回くらい言ったぞ。誰に言ってるわけでもなく、ずっとだ。俺が戻ってきてもまだ言ってた。水売りの婆さんが拝みに来たからな。木の神様が降りてると思ったんだろ」
「……やめろよ」
「やめねえよ。四十万よりこっちの話のほうが長く使える」
アレイは膝に肘を置いて、煙を吸った。
効きはじめていた。石畳の目地の線が少しやわらかく見えて、水汲み場の水音が耳の奥で丸くなる。ちょうどいい高さだ。壁は呼吸しない。灯りは尾を引かない。世界はきちんと閉じたまま、少しだけ機嫌がいい。
これでいい、とアレイは思った。
もう一度、うろを見た。
濡れた腐り木の縁。蟻の列。奥にある、ただの暗がり。
昨夜の自分は、この中に色を見た。名前のない色を見て、心を打たれて、たしかに美しいと思った。その感覚だけは、まだ胸の内側に薄く残っている。残っているのに、いま同じ穴を見ても何も起きない。
美しくはなかった。
それだけのことだった。
「帰るぞ」
ヴァルターが言った。
「三日寝ろ。次の仕事の前に」
「次があるのか」
「センジュは、次があるって顔をしてた」
アレイは立ち上がった。腿の裏が張っていて、踵が熱い。四日ぶんの疲れが、ようやく順番に届きはじめている。
歩き出す前に、袖口を引き下げた。手首の痕が布の下に消える。もう光ってはいなかった。
振り返らずに、水汲み場を抜けた。




