2.2 木のうろに美しさを見る
冒険者ギルドの食堂は、朝でも夜でも同じ顔をしている。
天井が高く、窓が小さく、油の煙が抜けきらないまま梁のあたりに溜まっている。長机が縦に何列も並び、そこに前の晩から居座っている連中と、これから潜る連中が入り混じって座る。
手前の卓では四人がカードを配っていて、奥では誰かが突っ伏して寝ていた。背中の防具をつけたまま寝ているから、まだ帰る気はないのだろう。
脂と麦と、焦げた肉と、安い香草の匂い。
アレイは扉をくぐったところで一度立ち止まり、その匂いを鼻から思い切り吸い込んだ。
最高だった。
匂いにすら味があった。舌の上に何も乗っていないのに、もう先払いで美味い。空気が食えるなら、この食堂の空気は一杯八百ペルで売れる。
「注文」
カウンターに肘を乗せると、鍋を掻いていた女将が振り向いた。丸太みたいな腕に、二の腕まで火傷の痕がある。
「ドラゴンバーガー。ポテト。フライドチキン、多いほうで」
「金あんのかい」
「あるある」
アレイは財布から札を抜いて、カウンターの木の上に並べた。五万ペルの死体から、順番に切り分けていく。女将はそれを一枚ずつ指で数えて引き寄せた。
「それと、ビール」
「朝だよ」
「キンキンに冷えたやつ」
女将は何も言わずに、地下へ通じる床の蓋を蹴った。下働きの少年が這い出てきて、水滴のついたジョッキを持ってくる。
ぬるいのを出されたら暴れるところだが、そのジョッキは白く曇っていた。
アレイは奥の壁際の席に座った。
それから、待った。
普段のアレイは待てない。料理が出るまでの十分で腹の底から苛立ちが湧いて、指で机を叩き、舌打ちをして、しまいには厨房へ怒鳴りに行く。
実際、去年ここで一度、皿が出るのが遅いという理由だけで椀を壁に投げつけて、女将に椅子で殴られた。
その苛立ちが、今日はどこにも湧いてこない。
待つのが気持ちいい。
腹の中の獣は完全に目を覚まして、内側から肋を押していた。喉が渇いて、唾が湧いて、下顎のあたりが勝手に動く。
それが不快ではない。むしろ楽しい。
この空腹は、これから来る飯を最高にするための下地だ。塩みたいなものだ。
腹が減っていない人間が食うバーガーなど、ただのパンだ。
だから今、俺はいちばん美味い状態に自分を仕上げている。
アレイは背を丸めて、ジョッキの表面を伝う水滴を眺めた。滴が一つ、ゆっくり下りていって、途中で別の滴と合流して、急に速度を上げて机に落ちた。
それを三回も見た。
「よぉ」
声がして、向かいの椅子が引かれた。ヴァルターだった。
革のプレートを要所だけ留めた、使い込みの軽装。ベルトにはいつものように小さなポーチが並んでいる。今日は大荷物を背負っていないから、潜る予定ではないのだろう。
「よお、ヴァル」
「今日は珍しく早いじゃねぇか」
「起きたんだよ。朝に」
「朝に?」
ヴァルターは眉を上げて、アレイの顔を覗き込んだ。それから、ジョッキと、机の上の何もない場所を順に見て、鼻から息を吐いた。
「まあいい。……この前はありがとな」
アレイは目を上げた。
「なにが」
「エビだよ。あの嬢ちゃんの件」
「ああ」
アレイは首を回した。
「あれか」
「あれだ。正直、詰んだと思ったからな。あの袋小路は俺の判断ミスだ。逃げ道を一本しか読んでなかった」
「読めてただろ、細道は」
「細道は読んだ。奥が壁ってのは読めてなかった」
ヴァルターは指で机を撫でて、それから声を落とした。
「お前が出てくれなきゃ、二人ともあそこで甲殻の中身になってた。……嬢ちゃんも、俺も」
珍しく素直だった。
この男は損をした話をするときだけ素直になる。得をした話をするときは、必ず一枚多く嘘を挟む。
「気にすんな。腹が減ってたんだ」
「その一吸いがいくらだ」
「一万二千」
「だろ。それでお前の取り分が五万で、寝込みで二日飛んで、身体が減る」
「勘定に含めろって言ってたのはお前だろ」
「言ったな」
ヴァルターはにやりと笑って、ベルトのポーチの一つを開けた。
「だから、赤になった分だ。いいもんやるよ」
机の上に、革紐で口を絞った小さな袋が置かれた。
アレイは指で引き寄せて、紐を緩めて中を覗いた。乾いた匂いが上がってくる。土と、蜜と、かすかに腐葉の匂い。灰茶色に縮んだ傘が、房のまま何本も詰まっている。
キノコだった。
迷宮浅層の骨場に胞子を植えて育てる、夢喰い茸の乾物。効くまでに時間がかかる。当たれば数時間、世界の裏側が見える。
外れれば、ただ苦い木の屑を食っただけで終わる。採れた場所で効き目がまるで違うから、玄人でも読めない。
要するに博打だ。
一袋一万五千ペル。赤字の補填としては、まあ、悪くない。
「上物だぜ。八層の骨場で採れたやつだ。俺は試してねえけどな」
「試してねえのかよ」
「俺は明日も明後日も働くんだよ」
アレイは袋の口を絞って、上着の内ポケットに滑り込ませた。ジョグの麻袋の隣に、ことりと収まった。
「ま、お互い様だろぉ〜」
アレイは椅子の背に体重を預けて、両手を広げた。
「いいもんありがとな」
「気色悪い声出すな」
朝から美しい世界を歩いて、これから最高の飯が来て、その上に思いがけず土産までついた。
今日はもう、間違いなく当たり日だ。三日前の自分は床の上で虫みたいに転がって呻いていたのに、世の中というのはこういう風にちゃんと帳尻を合わせてくれる。
「はいよ」
女将の下働きが、両手で盆を運んできた。
机に置かれた瞬間、アレイの視界からヴァルターが消えた。
厚い木皿の中央に、ドラゴンバーガー。粗い麦のバンズが上下に重なって、その間から、分厚く焼いた肉がはみ出している。
黒く焦げた縁から脂が滲んで、下のバンズにもう染み始めている。輪切りの玉葱、酸っぱい漬け菜、赤い辛味の垂れ。
横には太切りのポテトが山になって、粗塩がまだ溶けきらずに白く粒立っている。別皿に、衣を厚くまとったフライドチキンが六本。
立ち上る蒸気が、アレイの顔にかかった。
あ、と思った。
いい匂いというものが、これほど暴力的なものだとは、シラフの人間は知らないだろう。
アレイは両手でバーガーを掴んだ。掴んだ時点でもう指の間に脂が伝った。
それから、口を開けた。
一口だった。
顎の限界まで開いて、上から被せるように噛み下ろす。バンズが潰れ、肉の繊維が裂け、脂と垂れが口の中で混ざって舌の上に落ちる。
噛むというより、押し込むという動きだった。
半分が消えた。
美味いという言葉は間に合わなかった。味の情報が舌から脳へ届くより先に、喉が勝手に開いて、それを受け入れていた。
噛んだのは三回か四回。あとは飲んだ。
バーガーが、飲み物になっていた。喉を通っていく塊の輪郭まではっきり感じて、その通過そのものが快感だった。食道が幸せになるという体験が、この世にはある。
そして間を置かずに、右手がジョッキを掴んだ。
冷えた麦酒を、喉の奥へ直接落とす。冷たさが、口に残った脂を全部さらって胃へ押し流していく。泡が鼻の裏を刺して、目の奥が一瞬白くなった。
ぐび、ぐび、ぐび。
ジョッキを机に戻したとき、中には泡の膜だけが残っていた。
「ぷはァ……」
アレイは天井を仰いだ。梁に溜まった煙が、ゆっくり渦を巻いている。
完璧だった。
朝の計画が、一つも狂わずに全部叶った。こんな日は数年に一度もない。
残った半分のバーガーを口に押し込み、ポテトを三本まとめて掴んで、噛みながらチキンの骨を摘み上げる。塩と脂と衣の音が、耳の中で連続して鳴った。手が止まらない。止める理由がない。
向かいでヴァルターが、椅子を少し引いていた。
飛んでくる衣を避けたのだろう。
「……お前、もうキマってんのか?」
ヴァルターが、椅子の背に肘を掛けたまま言った。
アレイはチキンの骨を口から引き抜いて、皿の縁に置いた。骨はきれいに白かった。
「なんでわかる」
「目だよ。あと、飯の食い方だ。お前が噛まずに飲んだ回数、俺は数えてる」
「数えるなよ、そういうの」
「まだ昼にもなってねえぞ?」
アレイはポテトを二本掴んで、塩の粒ごと口に放り込んだ。
「時間なんて関係ねぇよ」
塩が舌の縁で溶けた。溶ける瞬間まではっきりわかる。
「今日は最高の朝だったんだ。朝からいい風が吹いてて、水売りのバケツが光ってて、パンの匂いがして、犬が寝てた。全部よかった。そういう朝に吸わないやつが、いつ吸うんだよ」
「犬が寝てた」
「寝てた」
ヴァルターは口の端を歪めて、それから短く息を吐いた。呆れるのを途中でやめる、というのがこの男の癖だ。呆れきると説教になり、説教は金にならない。
「まあいい。どうせ明日には抜ける」
「抜ける?」
「それより仕事だ」
その一言で、食堂の音が少しだけ遠くなった。
妙なもので、アレイの身体はこの言葉に反応する。どれだけキマっていても、どれだけ多幸感の底に沈んでいても、「仕事」という単語だけは芯まで届く。届くように出来上がってしまっている。金は薬で、薬は金だ。輪の一方を引かれれば、もう一方が必ず動く。
アレイはジョッキを持ち上げて、空だと気づいて置いた。
「今回は太いヤマなんだろうなぁ?」
語尾が伸びた。自分でも伸びていると思ったが、直す気にはならなかった。
「安心しろ。センジュ経由だ」
アレイは眉を上げた。
センジュ。地下スラムの、あの早口の若造だ。南方の血が入った細い顔で、いつも笑っていて、人の肩に手を置くのが早い。
会うたびに「その話、俺を通すと丸く収まるよ」と言う。実際、あの男を通した仕事で不払いになったことは一度もない。危ない仕事しか持ってこないが、危ない仕事の値段だけは正確につける。
スラムの顔役の使い走りから始めて、今は自分の名前で仲介をしている。人脈だけで飯を食っている人間の顔つきをしていた。
「センジュか。あいつまだ生きてんのか」
「あの手のやつが一番長生きするんだよ。手を汚さねえからな」
「で、内容は?」
ヴァルターは机の上に肘をつき、身を乗り出した。声の高さを一段下げる。ここは冒険者ギルドの食堂で、隣の卓ではカードが配られていて、誰も他人の話など聞いていないが、それでも下げる。裏の人間の礼儀だ。
「荷上げだ」
アレイはポテトを噛む口を、一度だけ止めた。
荷上げ。
正規のルートを通さずに、迷宮の出土品を地上へ上げる仕事だ。ギルドの検問所も税関も通らない。地下スラムの最奥にある崩落坑道――かつての事故で放置されたまま、公権力が不介入を決め込んでいる穴を使って、下から上へ、品物だけを吐き出させる。
関税を逃れたい品。台帳に載せられない品。載せた瞬間に持ち主が変わってしまう品。
どれも共通しているのは、運ぶ側が中身を知らなくていい、ということだった。むしろ知らないほうがいい。知っていると、値段の意味がわかってしまう。値段の意味がわかると、余計なことを考える人間が必ず出る。だから依頼主は最初から教えない。
アレイはチキンの二本目を摘み上げた。衣が指先で割れて、白い身から蒸気が出た。
「いくらだ」
「一人、四十万」
もう頭の中で勘定が回りはじめていた。今日の頭は数字を嫌わない。むしろ、勘定のほうから勝手に寄ってくる。
四十万ペル。
家賃が七万。一般人の月収が二十万前後。アンブロシアが五回分で六万。
つまり、アンブロシアをひと月まるごと、遠慮なく吸って、なお余る。ジョグなら――ジョグの本数まで数えかけて、アレイは途中でやめた。数えると惜しくなる。
先日の護衛依頼が、二人で十万だった。あれの八倍だ。
「四十万」
「四十だ。前金なし、上げ切って渡した場所で現金。センジュが立ち会う」
「太いな」
「太い理由があるんだろうな」
ヴァルターはそう言って、それ以上は考えない顔をした。この男の賢さはそこにある。太い理由を突き止めようとしない。突き止めた人間から順番に消えていくのを、この街で何度も見ているのだろう。
「日時は?」
「明日の日没。集合は地下スラムの坑道入り口」
「明日か」
「明日だ。文句あるか」
アレイは肩を回して、椅子の背に寄りかかった。
「ねぇよ。明日は暇だ。行程は?」
「三泊四日。六層まで降りる」
アレイはチキンの骨を噛んだまま、視線だけ上げた。
六層。
並以上の探索者なら、魔物を避けて進めば片道二日で着く。ルートも湧く魔物も解明されきっていて、避け方の知識が十分に出回っているからだ。裏を返せば、六層までは「知識で行ける」階層だということでもある。
そして六層より下は、途端に難易度が上がる。だからこそ、あの階層は境目として使われる。上から降りてくる人間と、下から上がってくる人間が、ちょうど落ち合える限界の深さだ。
「バケツリレーか」
「そういうことだ。俺たちは六層から上のぶん。下から誰かが上げてくる。渡す先は坑道の口で、そこから先は俺たちの仕事じゃねえ」
「降りて、受け取って、帰る」
「それだけだ。寄り道なし、掘りなし、狩りなし。出土品を拾っても持ち帰るな。荷を増やすなってのが条件だ」
弾丸だ。往復四日で六層まで降りて戻る。寝るのは最小限、火を焚くのも最小限、素材も無視。
行きと帰りに歩くことしか許されていない。稼ぎのいい仕事にはたいてい、こういう味気なさがついてくる。
だが、味気ないのは悪くない。味気ない仕事は、たいてい死なない。
「六層までは俺が読む。避けられる。避けられねえのは……お前が起きてればいい」
「起きてるよ」
「本当に起きてろよ。三泊だぞ。配分間違えるな」
その一言に、アレイは内ポケットの重さを思い出した。麻袋がある。ジョグの葉が、あと数本ぶん。それと、さっき貰ったキノコの袋。
三泊四日。四日ぶんの葉。足りるか。
足りる、とアレイは思った。今日の頭は、なんでも足りると答える。
「余裕だ」
「その顔で言うな」
ヴァルターは立ち上がって、ベルトのポーチの位置を直した。
「荷は削れ。要らねえもんは全部置いてけ。俺は水と縄と灯りだけで組む」
「わかってる」
「わかってねえ顔だ」
言い残して、ヴァルターは長机の間を抜けていった。カードを配っていた卓の男が何か声をかけ、ヴァルターが片手を上げて応えた。あの男は誰とでも一言ずつ交わす。あれが人脈というものの作られ方だ。
アレイは残ったチキンの骨を並べて、それから皿を見た。
皿は、空だった。
バーガーの跡に赤い垂れがひと筋残っているだけで、ポテトの山も、六本あったはずのチキンも、どこにもない。塩の粒だけが白く散っている。
いつ食い終わったのか、まったく覚えがなかった。
条件を聞いているあいだに、手が勝手に終わらせていたのだろう。四十万という数字を噛みながら、身体は別のものを噛んでいた。
アレイは指についた脂を舌で舐めて、それから袖で拭った。
空になった皿の上で、油の膜が光っていた。天井の小さな窓から入った光が、そこに一筋だけ落ちている。
それが、やけに綺麗に見えた。
「……最高だ」
誰にも言わずに、アレイは呟いた。
潜って二日、たどり着いた六層は静かだった。
静かというのは、音がしないという意味ではない。どこかで水が落ちている。遠くで何かが石を擦っている。壁の向こうを何かが移動している気配が、断続的に伝わってくる。だが、そのどれもがこちらに向かってこない。六層の静けさとは、そういう種類の静けさだ。
「ここだ」
ヴァルターが灯りを腰の高さで止めた。
合流地点は、天井が斜めに落ち込んだ小さな窪みだった。かつては通路だったのだろうが、途中で崩れて袋状になっている。三方が石で、一方だけが道に開いている。座って待つのに向いていて、囲まれたら終わりだ。裏の受け渡しに使われる場所というのは、だいたいこういう作りをしている。
アレイは壁に背を預けた。
二日で六層まで下りきった足が、ようやく持ち主に文句を言いはじめている。寝たのは通算で四時間ほどだ。火は一度も焚いていない。乾いた携行食を噛んで、水で流して、また歩いた。
それでも身体は動いた。動くようには作られている。動かなくなるのは、薬が切れたときだけだ。
内ポケットに手を入れる。麻袋の膨らみを指で確かめた。数えるほどしか残っていない。今は吸わない。ここで吸う馬鹿はいない。
「来たぞ」
ヴァルターが言った。
道の向こうから、灯りが一つ近づいてきていた。灯りの揺れ方が妙だった。歩幅が短く、上下しない。まるで床の凹凸を全部覚えている歩き方だ。
現れたのは、小柄な男だった。
年齢がわからない。四十にも六十にも見える。服は元の色が判別できないほど汚れていて、継ぎ当てが継ぎ当ての上に縫われている。背中には籠のようなものを負い、腰には短い鉈が一本。武器と呼べるものはそれだけだった。
六層に住み着いている人間。モグラだ。
アレイは反射的に、鼻から息を吸った。
臭くなかった。
この見た目でこの深さに住んでいるなら、獣の巣のような臭いがしていて当然だ。だが男からは、湿った石と、乾いた草の匂いしかしなかった。汗の臭いも、脂の臭いもない。
匂いは魔物を呼ぶ。深いところで長く生きている人間は、まず自分の匂いを殺す。生き延びるための作法だ。汚れているのと臭いのは、この場所では別の話だった。
「ヴァルターだな」
モグラの声は、思ったより高かった。人と喋る回数が少ない人間特有の、掠れた高さだ。
「そうだ。荷物を預かる」
「センジュの札を」
ヴァルターがポーチから小さな木片を出して見せた。モグラはそれを灯りに近づけ、裏返し、縁を親指の爪で撫でて、返した。
それだけだった。名乗りもしないし、握手もしない。モグラは背中の籠を下ろすと、上に被せた布を剥がした。
中から出てきたのは、木箱だった。
小ぶりだ。両手で抱えられる。アレイが想像していたよりずっと小さい。四十万ペルという数字から勝手に膨らんでいた像が、その場でしゅっと縮んだ。
だが、造りは異様だった。
板の合わせ目が見えない。四隅は黒い金具で締められ、上蓋の周囲には蝋で封がしてある。蝋の上には何かの印が押されていて、その印の縁が、灯りを当てるとわずかに光の色を変えた。魔法がかかっている。それも、素人が趣味でかけたものではない。
ヴァルターが受け取り、片手で持ち上げて、すぐに両手に持ち替えた。
「重いな」
「見た目よりな。落とすなよ」
「落としたらどうなる」
「知らん」
モグラは即答した。
「壊れんとは思う。だが、壊れたときのことは俺の話じゃない」
ヴァルターは黙って、背負い袋の口を開けた。中の水袋と縄をずらして、木箱を沈めるように収めていく。荷を削れと言っていた理由がわかった。この箱ひとつぶんの空間を、最初から空けてあったのだ。
アレイは壁から背を離して、しゃがんでいるモグラの横に立った。
ジョグは切れかけている。三日ろくに吸っていない。それでも、まだ舌の根が緩い。気付いたら口が動いていた。
「中身は何なんだ?」
ヴァルターの手が止まった。背中でわかった。
モグラは顔を上げなかった。籠に布を戻しながら、少し首を傾げただけだった。
「俺も知らん」
「知らねえのか」
「下から上がってきたもんだ。俺は七層のやつから受け取った。七層のやつは八層のやつから受け取った。誰も開けてない。開けたら手首から先が要らなくなる」
言い方が乾いていた。脅しではなく、料金表を読み上げるような調子だった。
アレイは、それで納得しかけた。しかけたところで、モグラが続けた。
「ただ、噂はある」
「噂」
「エリクサーじゃないかって」
窪みの空気が、一段冷えた気がした。
「エリクサァ〜?」
語尾が伸びた。伸ばすつもりはなかったが、伸びた。
エリクサー。
不死の妙薬。迷宮の底から稀に出るという、あらゆる重病と不治の病を治す液体。末端で二億ペルを超えると言われている。世界で最も高価な液体、という呼び方をする連中もいる。
首を切られても、すぐに飲めば首がくっつく。腹に大穴が空いても塞がる。真偽は誰も確かめていない。
アレイの頭が、勝手に割り算をした。
二億ペル。アンブロシアが五回分で六万。桁が多すぎて、薬に換算しても実感にならない。一生吸っても使い切れない、という結論だけが残った。それは、金額として理解するのを頭が諦めたという意味だった。
「……そりゃ、四十万は安いな」
口に出してから、しまったと思った。
モグラが、初めてアレイの顔を見た。
目だけが妙に若かった。白目が濁っていなくて、瞳の動きが速い。この深さで生き残る人間の目だ。
「あんた、それを口に出すのか」
「……悪い」
「別にいい。俺は聞かなかった」
モグラは籠を背負い直した。
「言っとくが、噂は毎回ある。前は竜の心臓だって話だった。その前は誰かの首だった。実際に入ってたのが何だったのか、俺は一度も知らん」
「じゃあ噂に意味ねえじゃねえか」
「意味はある」
モグラは道の方へ体を向けた。
「噂が太いときは、途中で誰かが死ぬ」
それだけ言って、歩き出した。
止める理由もなかった。灯りが二度揺れて、角を曲がって、消えた。足音は最後まで一定だった。石の凹凸を全部覚えている歩き方だ。
窪みに、静けさが戻った。
ヴァルターが背負い袋の口を締めながら、低い声で言った。
「訊くなって言っただろ」
「訊いちまった」
「訊いちまったで済むと思うなよ」
「済まねえのか」
「済むけどな。今回は」
ヴァルターは立ち上がって、肩の位置で荷を揺すった。重心を確かめる動作だ。
「あいつが喋ったのは、あいつも中身を知らねえからだ。知ってたら黙ってた。噂ってのは、知らねえ人間だけが持ち回るもんだよ」
「じゃあ嘘か」
「嘘か本当かを俺たちが決める必要がねえって話だ」
アレイは、背負い袋の膨らみを見た。
あの中に、二億ペルが入っているかもしれない。入っていないかもしれない。開ければわかる。蝋を割って、金具を外して、蓋を持ち上げれば、それで終わりだ。
考えたことは、認める。
三日ぶんの疲労と、切れかけたジョグと、四十万という数字が頭の中で並んでいて、その隣に二億という数字が置かれた。並べてしまえば、比べるのは人間の癖だ。
だが、その先が続かなかった。
開けた人間はどうなるか。ギルドの誓いの印がない仕事だ。だから縛りは魔法ではなく、人間で成立している。センジュが立ち会い、センジュの後ろに顔役がいて、顔役の後ろに知らない誰かがいる。バケツリレーのバケツを一つ盗んだ人間の名前は、リレーの全員に伝わる。
それに――アレイは、自分の癖を知っていた。
欲しくなると、思い込む。思い込むと、現実がそれに従いはじめる。ろくでもない方向にも従う。だから、余計なことを本気で欲しがるのは危険だった。危険なのは箱ではなく、自分の頭だ。
アレイは首を回した。骨が鳴った。
「行くぞ。ここに長居する仕事じゃねえ」
「休まねえのか」
「三層まで戻ってからだ。ここは受け渡し場所として知られてる。知られてる場所に荷物持ちが座ってるのは、下手を打ちに行くようなもんだ」
歩き出して、五歩でヴァルターが前に出た。この男の背中を見て歩くのは、慣れている。この背中は、危ないところで必ず止まる。
窪みを出るとき、アレイは一度だけ振り返った。
モグラが消えた方の道は、もう真っ暗だった。あの男は今夜もこの階層のどこかで寝て、明日もどこかから何かを受け取って、上へ渡すのだろう。十三層までは、ああいう人間がいる。十四層からはいない。
いない理由は単純で、あの下はもう人の住める場所ではない。
「なあヴァル」
「なんだ」
「エリクサーって、飲んだことあるか」
「あるわけねえだろ」
「飲んだらどうなるんだろうな」
「治るんだろ」
「治りたいもんが、俺にはあるかな」
ヴァルターは、答えなかった。
灯りだけが少し揺れて、それから前へ進んだ。答えないというのが、この男の答え方だった。
六層の道は上へ向かって緩く曲がっていて、その先に五層への昇り口がある。往復四日の、折り返し地点を過ぎたところだ。
帰りは、下りよりも速い。




