↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/24

2.2 木のうろに美しさを見る


 冒険者ギルドの食堂は、朝でも夜でも同じ顔をしている。


 天井が高く、窓が小さく、油の煙が抜けきらないまま梁のあたりに溜まっている。長机が縦に何列も並び、そこに前の晩から居座っている連中と、これから潜る連中が入り混じって座る。

 手前の卓では四人がカードを配っていて、奥では誰かが突っ伏して寝ていた。背中の防具をつけたまま寝ているから、まだ帰る気はないのだろう。


 脂と麦と、焦げた肉と、安い香草の匂い。


 アレイは扉をくぐったところで一度立ち止まり、その匂いを鼻から思い切り吸い込んだ。


 最高だった。


 匂いにすら味があった。舌の上に何も乗っていないのに、もう先払いで美味い。空気が食えるなら、この食堂の空気は一杯八百ペルで売れる。


「注文」


 カウンターに肘を乗せると、鍋を掻いていた女将が振り向いた。丸太みたいな腕に、二の腕まで火傷の痕がある。


「ドラゴンバーガー。ポテト。フライドチキン、多いほうで」

「金あんのかい」

「あるある」


 アレイは財布から札を抜いて、カウンターの木の上に並べた。五万ペルの死体から、順番に切り分けていく。女将はそれを一枚ずつ指で数えて引き寄せた。


「それと、ビール」

「朝だよ」

「キンキンに冷えたやつ」


 女将は何も言わずに、地下へ通じる床の蓋を蹴った。下働きの少年が這い出てきて、水滴のついたジョッキを持ってくる。

 ぬるいのを出されたら暴れるところだが、そのジョッキは白く曇っていた。


 アレイは奥の壁際の席に座った。


 それから、待った。


 普段のアレイは待てない。料理が出るまでの十分で腹の底から苛立ちが湧いて、指で机を叩き、舌打ちをして、しまいには厨房へ怒鳴りに行く。

 実際、去年ここで一度、皿が出るのが遅いという理由だけで椀を壁に投げつけて、女将に椅子で殴られた。


 その苛立ちが、今日はどこにも湧いてこない。


 待つのが気持ちいい。


 腹の中の獣は完全に目を覚まして、内側から肋を押していた。喉が渇いて、唾が湧いて、下顎のあたりが勝手に動く。

 それが不快ではない。むしろ楽しい。

 この空腹は、これから来る飯を最高にするための下地だ。塩みたいなものだ。

 腹が減っていない人間が食うバーガーなど、ただのパンだ。


 だから今、俺はいちばん美味い状態に自分を仕上げている。


 アレイは背を丸めて、ジョッキの表面を伝う水滴を眺めた。滴が一つ、ゆっくり下りていって、途中で別の滴と合流して、急に速度を上げて机に落ちた。


 それを三回も見た。


「よぉ」


 声がして、向かいの椅子が引かれた。ヴァルターだった。


 革のプレートを要所だけ留めた、使い込みの軽装。ベルトにはいつものように小さなポーチが並んでいる。今日は大荷物を背負っていないから、潜る予定ではないのだろう。


「よお、ヴァル」

「今日は珍しく早いじゃねぇか」

「起きたんだよ。朝に」

「朝に?」


 ヴァルターは眉を上げて、アレイの顔を覗き込んだ。それから、ジョッキと、机の上の何もない場所を順に見て、鼻から息を吐いた。


「まあいい。……この前はありがとな」


 アレイは目を上げた。


「なにが」

「エビだよ。あの嬢ちゃんの件」

「ああ」


 アレイは首を回した。


「あれか」

「あれだ。正直、詰んだと思ったからな。あの袋小路は俺の判断ミスだ。逃げ道を一本しか読んでなかった」

「読めてただろ、細道は」

「細道は読んだ。奥が壁ってのは読めてなかった」


 ヴァルターは指で机を撫でて、それから声を落とした。


「お前が出てくれなきゃ、二人ともあそこで甲殻の中身になってた。……嬢ちゃんも、俺も」


 珍しく素直だった。


 この男は損をした話をするときだけ素直になる。得をした話をするときは、必ず一枚多く嘘を挟む。


「気にすんな。腹が減ってたんだ」

「その一吸いがいくらだ」

「一万二千」

「だろ。それでお前の取り分が五万で、寝込みで二日飛んで、身体が減る」

「勘定に含めろって言ってたのはお前だろ」

「言ったな」


 ヴァルターはにやりと笑って、ベルトのポーチの一つを開けた。


「だから、赤になった分だ。いいもんやるよ」


 机の上に、革紐で口を絞った小さな袋が置かれた。


 アレイは指で引き寄せて、紐を緩めて中を覗いた。乾いた匂いが上がってくる。土と、蜜と、かすかに腐葉の匂い。灰茶色に縮んだ傘が、房のまま何本も詰まっている。


 キノコだった。


 迷宮浅層の骨場に胞子を植えて育てる、夢喰い茸の乾物。効くまでに時間がかかる。当たれば数時間、世界の裏側が見える。

 外れれば、ただ苦い木の屑を食っただけで終わる。採れた場所で効き目がまるで違うから、玄人でも読めない。

 要するに博打だ。


 一袋一万五千ペル。赤字の補填としては、まあ、悪くない。


「上物だぜ。八層の骨場で採れたやつだ。俺は試してねえけどな」

「試してねえのかよ」

「俺は明日も明後日も働くんだよ」


 アレイは袋の口を絞って、上着の内ポケットに滑り込ませた。ジョグの麻袋の隣に、ことりと収まった。


「ま、お互い様だろぉ〜」


 アレイは椅子の背に体重を預けて、両手を広げた。


「いいもんありがとな」

「気色悪い声出すな」


 朝から美しい世界を歩いて、これから最高の飯が来て、その上に思いがけず土産までついた。

 今日はもう、間違いなく当たり日だ。三日前の自分は床の上で虫みたいに転がって呻いていたのに、世の中というのはこういう風にちゃんと帳尻を合わせてくれる。


「はいよ」


 女将の下働きが、両手で盆を運んできた。


 机に置かれた瞬間、アレイの視界からヴァルターが消えた。


 厚い木皿の中央に、ドラゴンバーガー。粗い麦のバンズが上下に重なって、その間から、分厚く焼いた肉がはみ出している。

 黒く焦げた縁から脂が滲んで、下のバンズにもう染み始めている。輪切りの玉葱、酸っぱい漬け菜、赤い辛味の垂れ。

 横には太切りのポテトが山になって、粗塩がまだ溶けきらずに白く粒立っている。別皿に、衣を厚くまとったフライドチキンが六本。


 立ち上る蒸気が、アレイの顔にかかった。


 あ、と思った。


 いい匂いというものが、これほど暴力的なものだとは、シラフの人間は知らないだろう。


 アレイは両手でバーガーを掴んだ。掴んだ時点でもう指の間に脂が伝った。


 それから、口を開けた。


 一口だった。


 顎の限界まで開いて、上から被せるように噛み下ろす。バンズが潰れ、肉の繊維が裂け、脂と垂れが口の中で混ざって舌の上に落ちる。

 噛むというより、押し込むという動きだった。


 半分が消えた。


 美味いという言葉は間に合わなかった。味の情報が舌から脳へ届くより先に、喉が勝手に開いて、それを受け入れていた。


 噛んだのは三回か四回。あとは飲んだ。


 バーガーが、飲み物になっていた。喉を通っていく塊の輪郭まではっきり感じて、その通過そのものが快感だった。食道が幸せになるという体験が、この世にはある。


 そして間を置かずに、右手がジョッキを掴んだ。


 冷えた麦酒を、喉の奥へ直接落とす。冷たさが、口に残った脂を全部さらって胃へ押し流していく。泡が鼻の裏を刺して、目の奥が一瞬白くなった。


 ぐび、ぐび、ぐび。


 ジョッキを机に戻したとき、中には泡の膜だけが残っていた。


「ぷはァ……」


 アレイは天井を仰いだ。梁に溜まった煙が、ゆっくり渦を巻いている。


 完璧だった。


 朝の計画が、一つも狂わずに全部叶った。こんな日は数年に一度もない。


 残った半分のバーガーを口に押し込み、ポテトを三本まとめて掴んで、噛みながらチキンの骨を摘み上げる。塩と脂と衣の音が、耳の中で連続して鳴った。手が止まらない。止める理由がない。


 向かいでヴァルターが、椅子を少し引いていた。


 飛んでくる衣を避けたのだろう。


「……お前、もうキマってんのか?」


 ヴァルターが、椅子の背に肘を掛けたまま言った。


 アレイはチキンの骨を口から引き抜いて、皿の縁に置いた。骨はきれいに白かった。


「なんでわかる」

「目だよ。あと、飯の食い方だ。お前が噛まずに飲んだ回数、俺は数えてる」

「数えるなよ、そういうの」

「まだ昼にもなってねえぞ?」


 アレイはポテトを二本掴んで、塩の粒ごと口に放り込んだ。


「時間なんて関係ねぇよ」


 塩が舌の縁で溶けた。溶ける瞬間まではっきりわかる。


「今日は最高の朝だったんだ。朝からいい風が吹いてて、水売りのバケツが光ってて、パンの匂いがして、犬が寝てた。全部よかった。そういう朝に吸わないやつが、いつ吸うんだよ」

「犬が寝てた」

「寝てた」


 ヴァルターは口の端を歪めて、それから短く息を吐いた。呆れるのを途中でやめる、というのがこの男の癖だ。呆れきると説教になり、説教は金にならない。


「まあいい。どうせ明日には抜ける」

「抜ける?」

「それより仕事だ」


 その一言で、食堂の音が少しだけ遠くなった。


 妙なもので、アレイの身体はこの言葉に反応する。どれだけキマっていても、どれだけ多幸感の底に沈んでいても、「仕事」という単語だけは芯まで届く。届くように出来上がってしまっている。金は薬で、薬は金だ。輪の一方を引かれれば、もう一方が必ず動く。


 アレイはジョッキを持ち上げて、空だと気づいて置いた。


「今回は太いヤマなんだろうなぁ?」


 語尾が伸びた。自分でも伸びていると思ったが、直す気にはならなかった。


「安心しろ。センジュ経由だ」


 アレイは眉を上げた。


 センジュ。地下スラムの、あの早口の若造だ。南方の血が入った細い顔で、いつも笑っていて、人の肩に手を置くのが早い。

 会うたびに「その話、俺を通すと丸く収まるよ」と言う。実際、あの男を通した仕事で不払いになったことは一度もない。危ない仕事しか持ってこないが、危ない仕事の値段だけは正確につける。


 スラムの顔役の使い走りから始めて、今は自分の名前で仲介をしている。人脈だけで飯を食っている人間の顔つきをしていた。


「センジュか。あいつまだ生きてんのか」

「あの手のやつが一番長生きするんだよ。手を汚さねえからな」

「で、内容は?」


 ヴァルターは机の上に肘をつき、身を乗り出した。声の高さを一段下げる。ここは冒険者ギルドの食堂で、隣の卓ではカードが配られていて、誰も他人の話など聞いていないが、それでも下げる。裏の人間の礼儀だ。


「荷上げだ」


 アレイはポテトを噛む口を、一度だけ止めた。


 荷上げ。


 正規のルートを通さずに、迷宮の出土品を地上へ上げる仕事だ。ギルドの検問所も税関も通らない。地下スラムの最奥にある崩落坑道――かつての事故で放置されたまま、公権力が不介入を決め込んでいる穴を使って、下から上へ、品物だけを吐き出させる。


 関税を逃れたい品。台帳に載せられない品。載せた瞬間に持ち主が変わってしまう品。


 どれも共通しているのは、運ぶ側が中身を知らなくていい、ということだった。むしろ知らないほうがいい。知っていると、値段の意味がわかってしまう。値段の意味がわかると、余計なことを考える人間が必ず出る。だから依頼主は最初から教えない。


 アレイはチキンの二本目を摘み上げた。衣が指先で割れて、白い身から蒸気が出た。


「いくらだ」

「一人、四十万」


 もう頭の中で勘定が回りはじめていた。今日の頭は数字を嫌わない。むしろ、勘定のほうから勝手に寄ってくる。


 四十万ペル。


 家賃が七万。一般人の月収が二十万前後。アンブロシアが五回分で六万。


 つまり、アンブロシアをひと月まるごと、遠慮なく吸って、なお余る。ジョグなら――ジョグの本数まで数えかけて、アレイは途中でやめた。数えると惜しくなる。


 先日の護衛依頼が、二人で十万だった。あれの八倍だ。


「四十万」

「四十だ。前金なし、上げ切って渡した場所で現金。センジュが立ち会う」

「太いな」

「太い理由があるんだろうな」


 ヴァルターはそう言って、それ以上は考えない顔をした。この男の賢さはそこにある。太い理由を突き止めようとしない。突き止めた人間から順番に消えていくのを、この街で何度も見ているのだろう。


「日時は?」

「明日の日没。集合は地下スラムの坑道入り口」

「明日か」

「明日だ。文句あるか」


 アレイは肩を回して、椅子の背に寄りかかった。


「ねぇよ。明日は暇だ。行程は?」

「三泊四日。六層まで降りる」


 アレイはチキンの骨を噛んだまま、視線だけ上げた。


 六層。


 並以上の探索者なら、魔物を避けて進めば片道二日で着く。ルートも湧く魔物も解明されきっていて、避け方の知識が十分に出回っているからだ。裏を返せば、六層までは「知識で行ける」階層だということでもある。


 そして六層より下は、途端に難易度が上がる。だからこそ、あの階層は境目として使われる。上から降りてくる人間と、下から上がってくる人間が、ちょうど落ち合える限界の深さだ。


「バケツリレーか」

「そういうことだ。俺たちは六層から上のぶん。下から誰かが上げてくる。渡す先は坑道の口で、そこから先は俺たちの仕事じゃねえ」

「降りて、受け取って、帰る」

「それだけだ。寄り道なし、掘りなし、狩りなし。出土品を拾っても持ち帰るな。荷を増やすなってのが条件だ」


 弾丸だ。往復四日で六層まで降りて戻る。寝るのは最小限、火を焚くのも最小限、素材も無視。

 行きと帰りに歩くことしか許されていない。稼ぎのいい仕事にはたいてい、こういう味気なさがついてくる。


 だが、味気ないのは悪くない。味気ない仕事は、たいてい死なない。


「六層までは俺が読む。避けられる。避けられねえのは……お前が起きてればいい」

「起きてるよ」

「本当に起きてろよ。三泊だぞ。配分間違えるな」


 その一言に、アレイは内ポケットの重さを思い出した。麻袋がある。ジョグの葉が、あと数本ぶん。それと、さっき貰ったキノコの袋。


 三泊四日。四日ぶんの葉。足りるか。


 足りる、とアレイは思った。今日の頭は、なんでも足りると答える。


「余裕だ」

「その顔で言うな」


 ヴァルターは立ち上がって、ベルトのポーチの位置を直した。


「荷は削れ。要らねえもんは全部置いてけ。俺は水と縄と灯りだけで組む」

「わかってる」

「わかってねえ顔だ」


 言い残して、ヴァルターは長机の間を抜けていった。カードを配っていた卓の男が何か声をかけ、ヴァルターが片手を上げて応えた。あの男は誰とでも一言ずつ交わす。あれが人脈というものの作られ方だ。


 アレイは残ったチキンの骨を並べて、それから皿を見た。


 皿は、空だった。


 バーガーの跡に赤い垂れがひと筋残っているだけで、ポテトの山も、六本あったはずのチキンも、どこにもない。塩の粒だけが白く散っている。


 いつ食い終わったのか、まったく覚えがなかった。


 条件を聞いているあいだに、手が勝手に終わらせていたのだろう。四十万という数字を噛みながら、身体は別のものを噛んでいた。


 アレイは指についた脂を舌で舐めて、それから袖で拭った。


 空になった皿の上で、油の膜が光っていた。天井の小さな窓から入った光が、そこに一筋だけ落ちている。


 それが、やけに綺麗に見えた。


「……最高だ」


 誰にも言わずに、アレイは呟いた。






 潜って二日、たどり着いた六層は静かだった。


 静かというのは、音がしないという意味ではない。どこかで水が落ちている。遠くで何かが石を擦っている。壁の向こうを何かが移動している気配が、断続的に伝わってくる。だが、そのどれもがこちらに向かってこない。六層の静けさとは、そういう種類の静けさだ。


「ここだ」


 ヴァルターが灯りを腰の高さで止めた。


 合流地点は、天井が斜めに落ち込んだ小さな窪みだった。かつては通路だったのだろうが、途中で崩れて袋状になっている。三方が石で、一方だけが道に開いている。座って待つのに向いていて、囲まれたら終わりだ。裏の受け渡しに使われる場所というのは、だいたいこういう作りをしている。


 アレイは壁に背を預けた。


 二日で六層まで下りきった足が、ようやく持ち主に文句を言いはじめている。寝たのは通算で四時間ほどだ。火は一度も焚いていない。乾いた携行食を噛んで、水で流して、また歩いた。


 それでも身体は動いた。動くようには作られている。動かなくなるのは、薬が切れたときだけだ。


 内ポケットに手を入れる。麻袋の膨らみを指で確かめた。数えるほどしか残っていない。今は吸わない。ここで吸う馬鹿はいない。


「来たぞ」


 ヴァルターが言った。


 道の向こうから、灯りが一つ近づいてきていた。灯りの揺れ方が妙だった。歩幅が短く、上下しない。まるで床の凹凸を全部覚えている歩き方だ。


 現れたのは、小柄な男だった。


 年齢がわからない。四十にも六十にも見える。服は元の色が判別できないほど汚れていて、継ぎ当てが継ぎ当ての上に縫われている。背中には籠のようなものを負い、腰には短い鉈が一本。武器と呼べるものはそれだけだった。


 六層に住み着いている人間。モグラだ。


 アレイは反射的に、鼻から息を吸った。


 臭くなかった。


 この見た目でこの深さに住んでいるなら、獣の巣のような臭いがしていて当然だ。だが男からは、湿った石と、乾いた草の匂いしかしなかった。汗の臭いも、脂の臭いもない。


 匂いは魔物を呼ぶ。深いところで長く生きている人間は、まず自分の匂いを殺す。生き延びるための作法だ。汚れているのと臭いのは、この場所では別の話だった。


「ヴァルターだな」


 モグラの声は、思ったより高かった。人と喋る回数が少ない人間特有の、掠れた高さだ。


「そうだ。荷物を預かる」

「センジュの札を」


 ヴァルターがポーチから小さな木片を出して見せた。モグラはそれを灯りに近づけ、裏返し、縁を親指の爪で撫でて、返した。


 それだけだった。名乗りもしないし、握手もしない。モグラは背中の籠を下ろすと、上に被せた布を剥がした。


 中から出てきたのは、木箱だった。


 小ぶりだ。両手で抱えられる。アレイが想像していたよりずっと小さい。四十万ペルという数字から勝手に膨らんでいた像が、その場でしゅっと縮んだ。


 だが、造りは異様だった。


 板の合わせ目が見えない。四隅は黒い金具で締められ、上蓋の周囲には蝋で封がしてある。蝋の上には何かの印が押されていて、その印の縁が、灯りを当てるとわずかに光の色を変えた。魔法がかかっている。それも、素人が趣味でかけたものではない。


 ヴァルターが受け取り、片手で持ち上げて、すぐに両手に持ち替えた。


「重いな」

「見た目よりな。落とすなよ」

「落としたらどうなる」

「知らん」


 モグラは即答した。


「壊れんとは思う。だが、壊れたときのことは俺の話じゃない」


 ヴァルターは黙って、背負い袋の口を開けた。中の水袋と縄をずらして、木箱を沈めるように収めていく。荷を削れと言っていた理由がわかった。この箱ひとつぶんの空間を、最初から空けてあったのだ。


 アレイは壁から背を離して、しゃがんでいるモグラの横に立った。


 ジョグは切れかけている。三日ろくに吸っていない。それでも、まだ舌の根が緩い。気付いたら口が動いていた。


「中身は何なんだ?」


 ヴァルターの手が止まった。背中でわかった。


 モグラは顔を上げなかった。籠に布を戻しながら、少し首を傾げただけだった。


「俺も知らん」

「知らねえのか」

「下から上がってきたもんだ。俺は七層のやつから受け取った。七層のやつは八層のやつから受け取った。誰も開けてない。開けたら手首から先が要らなくなる」


 言い方が乾いていた。脅しではなく、料金表を読み上げるような調子だった。


 アレイは、それで納得しかけた。しかけたところで、モグラが続けた。


「ただ、噂はある」

「噂」

「エリクサーじゃないかって」


 窪みの空気が、一段冷えた気がした。


「エリクサァ〜?」


 語尾が伸びた。伸ばすつもりはなかったが、伸びた。


 エリクサー。


 不死の妙薬。迷宮の底から稀に出るという、あらゆる重病と不治の病を治す液体。末端で二億ペルを超えると言われている。世界で最も高価な液体、という呼び方をする連中もいる。


 首を切られても、すぐに飲めば首がくっつく。腹に大穴が空いても塞がる。真偽は誰も確かめていない。


 アレイの頭が、勝手に割り算をした。


 二億ペル。アンブロシアが五回分で六万。桁が多すぎて、薬に換算しても実感にならない。一生吸っても使い切れない、という結論だけが残った。それは、金額として理解するのを頭が諦めたという意味だった。


「……そりゃ、四十万は安いな」


 口に出してから、しまったと思った。


 モグラが、初めてアレイの顔を見た。

 目だけが妙に若かった。白目が濁っていなくて、瞳の動きが速い。この深さで生き残る人間の目だ。


「あんた、それを口に出すのか」

「……悪い」

「別にいい。俺は聞かなかった」


 モグラは籠を背負い直した。


「言っとくが、噂は毎回ある。前は竜の心臓だって話だった。その前は誰かの首だった。実際に入ってたのが何だったのか、俺は一度も知らん」

「じゃあ噂に意味ねえじゃねえか」

「意味はある」


 モグラは道の方へ体を向けた。


「噂が太いときは、途中で誰かが死ぬ」


 それだけ言って、歩き出した。


 止める理由もなかった。灯りが二度揺れて、角を曲がって、消えた。足音は最後まで一定だった。石の凹凸を全部覚えている歩き方だ。


 窪みに、静けさが戻った。


 ヴァルターが背負い袋の口を締めながら、低い声で言った。


「訊くなって言っただろ」

「訊いちまった」

「訊いちまったで済むと思うなよ」

「済まねえのか」

「済むけどな。今回は」


 ヴァルターは立ち上がって、肩の位置で荷を揺すった。重心を確かめる動作だ。


「あいつが喋ったのは、あいつも中身を知らねえからだ。知ってたら黙ってた。噂ってのは、知らねえ人間だけが持ち回るもんだよ」

「じゃあ嘘か」

「嘘か本当かを俺たちが決める必要がねえって話だ」


 アレイは、背負い袋の膨らみを見た。


 あの中に、二億ペルが入っているかもしれない。入っていないかもしれない。開ければわかる。蝋を割って、金具を外して、蓋を持ち上げれば、それで終わりだ。


 考えたことは、認める。


 三日ぶんの疲労と、切れかけたジョグと、四十万という数字が頭の中で並んでいて、その隣に二億という数字が置かれた。並べてしまえば、比べるのは人間の癖だ。


 だが、その先が続かなかった。


 開けた人間はどうなるか。ギルドの誓いの印がない仕事だ。だから縛りは魔法ではなく、人間で成立している。センジュが立ち会い、センジュの後ろに顔役がいて、顔役の後ろに知らない誰かがいる。バケツリレーのバケツを一つ盗んだ人間の名前は、リレーの全員に伝わる。


 それに――アレイは、自分の癖を知っていた。


 欲しくなると、思い込む。思い込むと、現実がそれに従いはじめる。ろくでもない方向にも従う。だから、余計なことを本気で欲しがるのは危険だった。危険なのは箱ではなく、自分の頭だ。


 アレイは首を回した。骨が鳴った。


「行くぞ。ここに長居する仕事じゃねえ」

「休まねえのか」

「三層まで戻ってからだ。ここは受け渡し場所として知られてる。知られてる場所に荷物持ちが座ってるのは、下手を打ちに行くようなもんだ」


 歩き出して、五歩でヴァルターが前に出た。この男の背中を見て歩くのは、慣れている。この背中は、危ないところで必ず止まる。


 窪みを出るとき、アレイは一度だけ振り返った。


 モグラが消えた方の道は、もう真っ暗だった。あの男は今夜もこの階層のどこかで寝て、明日もどこかから何かを受け取って、上へ渡すのだろう。十三層までは、ああいう人間がいる。十四層からはいない。


 いない理由は単純で、あの下はもう人の住める場所ではない。


「なあヴァル」

「なんだ」

「エリクサーって、飲んだことあるか」

「あるわけねえだろ」

「飲んだらどうなるんだろうな」

「治るんだろ」

「治りたいもんが、俺にはあるかな」


 ヴァルターは、答えなかった。


 灯りだけが少し揺れて、それから前へ進んだ。答えないというのが、この男の答え方だった。


 六層の道は上へ向かって緩く曲がっていて、その先に五層への昇り口がある。往復四日の、折り返し地点を過ぎたところだ。


 帰りは、下りよりも速い。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。