2.1 木のうろに美しさを見る
目が覚めた。
それだけで、もう妙な気分だった。
アレイ・クロウリーが自分の意思で朝に目を開けるなんてことは、ここ数年で数えるほどしかない。
たいていは昼過ぎに、渇いた喉と鉛みたいな四肢と、身体の内側を引っ掻くような渇望に叩き起こされる。そういう起き方が習慣になっている男だった。
だが今日は違った。
薄い麻布のカーテンの隙間から、細い光の線が一本、床板の上に落ちている。パンテラ南東部の、どこにでもある普通の民家。石造りの壁に木の梁、洗っていない皿が積まれた流し、脱ぎ散らかされた長袖のシャツ。
アレイはしばらく天井を眺めていた。
喉は渇いている。頭の奥は少し鈍い。だが、いつもの最悪ではなかった。
虚脱も、あの内臓を裏返されるような渇きもない。ここ数日は迷宮に潜っていないし、アンブロシアの封も切っていない。
つまり、身体が久しぶりに「ただの朝」を迎えているということだった。
「……お」
起き上がって、猫背のまま大きくひとつ伸びをする。骨がぱきぱきと鳴った。窓の隙間から差す光を指で弾いてみる。埃が金色に舞った。
そこでアレイは、ベッドの縁に腰かけたまま、この日一日をどう使うかを真剣に考えはじめた。
真剣というのは、彼にとってはかなり珍しい状態である。仕事のときですら大抵は投げやりなのに、こういうことにだけは頭が回る。
まず、朝からジョグを吸う。
これは決定事項だった。夜に吸うジョグと朝に吸うジョグは、まったく別の物だ。
夜のジョグは一日を畳んで押し入れに突っ込むための道具だが、朝のジョグは一日を広げて世界に敷き詰めるための道具である。
誰に教わったわけでもない、アレイ自身の発見だった。
次に、散歩をする。
キマった頭で大通りを歩くと、この街はまったく違う顔をしている。
石の壁の粒、屋根から垂れる水滴、荷馬車の車輪が石畳を噛む音。普段はゴミみたいに視界の底に沈んでいるものが、ぜんぶ光って浮かび上がってくる。
世界の美しさというやつは、たぶんいつでもそこにあるのに、シラフの目には見えないように隠されているのだ。
アレイはそう思っていた。
そして――マンチーが来る。
ジョグの副作用。理由も脈絡もなく襲ってくる、暴力的な空腹。胃が咆えて、口の中に唾が湧いて、目に映る食い物すべてが神の恵みに変わるあの時間。
そこに、狙いを合わせる。
「……ドラゴンバーガー」
声に出すと、もう腹が反応した気がした。分厚い挽肉に、じゅわりと脂の浮いたやつ。
あれを両手で持って、口の端まで裂けるほど大きく開けて、一口で三分の一を落とす。
「ポテト」
塩を振りすぎたくらいのが良い。指がべたつくのも良い。
「フライドチキン」
骨のまわりの、あの一番旨いところ。歯で削ぎ取る。
そして。
「……キンキンに冷えたビール」
ジョッキの外側に汗をかいて、持ち上げただけで手のひらが痺れるような一杯。あれを、口の中の脂の上に流し込む。喉が痛いくらい冷たい液体が、食道を一直線に落ちていく。
アレイはベッドの上で一人、深く頷いた。
最高の一日だ。
金の心配は、今日はしないことにした。
先日の護衛依頼の分け前がまだ少し残っている。アンブロシアを一袋買えばそれで消える程度の額だが、逆に言えば、薬を買わなければ食って飲むには充分だった。
どうせ数日もすれば全部消える金だ。消え方くらいは自分で選ばせてもらう。
立ち上がって、部屋の隅の木箱を漁る。
巻き紙。乾いた葉の入った麻袋。小さな鉄の鋏。それから――アレイは少し考えて、奥に手を伸ばした。
ずるり、と引き出したのは、ひとかかえほどの硝子の筒だった。
ボングである。
厚手の硝子を吹いて作った縦長の壺のような形で、腹の部分には水を張る。首の横から斜めに管が突き出していて、その先の小皿にジョグを詰めて火をつける。吸い込むと、煙はいったん水をくぐり、ごぼごぼと泡を立てて冷えたうえで、太い筒を上がってくる。
紙で巻いたジョグは、喉と鼻を焼くから、そう深くは吸えない。だが水で煙を冷やせば、一度に濃いのをまとめて肺の底まで落とし込める。スラムの連中や、酒より安く飛びたい下層の市民、そして迷宮帰りの荒んだ冒険者――そういう人間たちの間で、これは重宝されている道具だった。
アレイはボングの水を替えた。前に使ったときの水が、茶色く濁って底に溜まっていたからである。
そういう部分にだけはやたら丁寧だった。台所の水瓶から新しい水を注ぎ、指で水位を確かめて、少し捨てる。多すぎると吸いにくい。少なすぎると煙が熱い。加減がある。
麻袋の葉を掌の上でほぐした。乾いた花穂が指の間で崩れ、甘く、青く、少しだけ焦げたような香りが立った。
上物ではないが、ヴァルターから買ったものだ。あの銭ゲバは金にはうるさいが、粗悪品を寄越したことは一度もない。
湿気を吸って咳と不安ばかり呼ぶような屑を客に売れば、その客が次から来なくなることを、あの男はきちんと理解している。
小皿に詰める。指の腹で軽く押さえて、火が回るだけの隙間を残す。
火打ちで種火を作り、細い木片に移して、皿に近づけた。
アレイは唇を硝子の縁に当てた。
吸う。
ごぼり、と水が鳴った。
筒の中に白い煙が満ちていく。渦を巻きながら、みるみる濃く、乳のように立ち込めて、硝子の内側を撫でていく。
腹の底まで空にする気で吸い続けると、水の音がぶくぶくと途切れなく鳴り、筒の中の白がぐるりと回った。
もういい。
皿から口を離し、指で管を塞ぎ、溜まった煙を――一気に。
「――ッ」
肺が焼けた。
冷えているはずの煙が、それでも喉の奥をざらりと引っ掻いていく。胸が内側から膨らんで、押し返してきて、
「ごほッ、ごほ、げほッ、……ごほ」
アレイは前のめりになって咳き込んだ。目の縁に涙が滲む。喉が痙攣して、吸ったものの半分くらいが白い塊になって口から吐き出され、朝の光の中を漂って、ゆっくり天井へ上っていった。
咳が引いていく。
そのあとに来るのは、ひどく静かな一瞬だ。
耳の奥で、細い音が鳴った。頭の後ろのほうから、温かい水がゆっくり降りてくる。首の筋がほどけて、肩が落ちて、背中の重さがどこかへ預けられる。指先がじんわり遠くなる。
「……お」
アレイは硝子の筒を抱えたまま、床にしゃがみ込んで笑った。
なんで笑っているのかは自分でもわからなかったが、そのわからなさがまた面白くて、しばらく肩を揺らしていた。
もう一発。
二度目の吸い込みは、一度目より上手くいった。水が長く鳴って、白がたっぷり溜まって、それを一息で全部さらう。
今度の咳は軽かった。かわりに、頭のてっぺんが数センチ持ち上がったような感覚が来た。
部屋の輪郭が、やわらかくなっていく。
窓から差す光の線に、埃が浮いている。さっきも見たはずのそれが、今はまるで水槽の中を泳ぐ小さな魚みたいに見えた。一匹ずつ、勝手な速さで、勝手な方向へ。誰も指図していないのに、ちゃんと美しく並んでいる。
「……すげえな、おい」
誰にでもなく言った。
しばらくそうして埃を眺めてから、アレイはよろりと立ち上がった。ボングの水を捨て、筒を棚に戻す。麻袋には、まだ何本分か残っている。巻き紙と一緒に、上着の内側のポケットに突っ込んだ。散歩の途中で吸う分だ。
着崩した長袖を羽織って、袖口を引き下げる。腕の内側を隠すのは、もう考えなくてもできる動作になっていた。腰のポーチをいくつか確かめる。癖である。中身の半分は必要のないものだ。
ベッドの下の聖剣には、今日も目をやらなかった。
扉を開ける。
朝の空気が、まっすぐ顔にぶつかってきた。冷たく、湿っていて、南東部の朝らしく、どこかの家の炉と、大市場のほうから流れてくる焼いたものの匂いが混じっている。石畳はまだ夜の色を残して濡れていた。路地の向こうで、荷車の車輪が鳴っている。
アレイは目を細めた。まだぼうっとした、力の入らない目つきのままで、それでも今日はいくぶんか嬉しそうに。
ゆらりと猫背を伸ばして、大きく息を吸う。
「……よし」
腹はまだ静かだ。だが、じきに来る。あと少しで、この胃袋が獣に変わる。それまでにこの街をひと回りして、世界がどれだけ美しいかを確かめてくればいい。それから、ギルドの食堂へ行くのだ。
完璧な段取りだった。
アレイは扉を後ろ手に閉め、鍵もかけずに、朝の光の中へ足を踏み出した。
路地を抜けると、大通りだった。
パンテラの朝は早い。中央の大穴から放射状に伸びる石畳の幹線道路には、もうすでに荷馬車が列を作り、魔物素材を積んだ台車が軋みながら北西へ流れていく。
露店の親父が板を蹴り上げて店開きをして、水売りが桶を担いで角を曲がり、寝そびれた冒険者が壁にもたれて船を漕いでいる。
いつもの朝だ。何ひとつ珍しくない朝だった。
なのに。
アレイは足を止めた。
東の屋根の切れ目から、朝日がまっすぐ差し込んでいた。石畳がまだ夜の雨気を含んでいるせいで、光がそこで跳ねて、道の表面いっぱいに細かい白がばら撒かれている。
人が歩くたび、その白がぐしゃりと崩れて、また集まる。
誰も見ていない。誰も見ていないのに、勝手にそこで起きている。
アレイはしばらく、その光の粒を眺めていた。頭の後ろから降りてきた温かい水が、まだ首筋のあたりに溜まっている。
目の焦点は少し甘い。だがその甘さの向こうで、世界はやたらと丁寧に作られていた。
歩き出す。
音が来る。
右から、鉄を打つ音。北西の武具街から流れてきた鍛冶の響きが、建物の壁に何度も当たって、遅れて重なる。
左から、女が二人、値段のことで笑いながら揉めている声。前から、車輪。後ろから、桶の水がちゃぷんと鳴る音。
普段なら全部ただの騒音だった。ただの、耳を通り過ぎていく汚れた空気の震えだった。
だが今は、それらが勝手に揃っていた。誰も指揮していないのに、鍛冶の音が拍を打ち、女の笑いが上に乗り、車輪がその隙間を埋める。ずれているのに、ずれ方が気持ちいい。
「……最高にチルだ」
アレイは誰にでもなく呟いて、ゆらゆらと猫背のまま歩いた。
匂いも次から次に押し寄せてくる。
南東部の大市場のほうから、焼いた粉ものの匂い。そこに炉の煙と、雨に濡れた石の匂いが混じる。
角を曲がれば、干した魚。少し行けば、香草を茹でた湯気。安酒場の裏を通ると、昨夜の酒が石に染みた匂いが立ち上がって、それすら悪くない気がした。
匂いというのは記憶に近い場所にあるらしく、通り過ぎるたびに、名前のつかない断片が浮かんでは消えた。どこか遠い村の朝。誰かが火を起こしていた台所。何かの前の日。
浮かんできたものを、アレイは追わなかった。追わないのが上手いやり方だと知っている。ただ、通り過ぎるのを見送った。
途中、噴水のある広場の縁に腰かけて、内ポケットから麻袋と巻き紙を出した。慣れた指で葉をほぐし、巻いて、端を舐めて留める。火をつけて、一口。
紙で巻いたやつは、ボングより優しい。喉を焼かず、じわりと足していくだけの吸い方だ。
煙を細く吐くと、朝の光の中でそれが白い帯になって伸び、噴水の飛沫と混ざって虹の粒みたいに散った。
通りかかった老婆が、露骨に顔をしかめて足を速めた。アレイはへらりと笑って、軽く手を上げた。老婆は振り返らなかった。
それも別に、どうでもよかった。今日は誰のことも嫌いになれそうにない。
立ち上がる。膝が少し笑った。
そのとき、腹の底で、何かが小さく鳴った。
アレイの目が、ゆっくりと開いた。
来た。
まだ本番ではない。前触れだ。獣が檻の中で寝返りを打った程度の。だがそれが何であるかは、身体が誰よりよく知っている。
胃の内側が薄く痺れて、唾が湧いてきた。露店の焼き台から立つ煙が、突然、さっきまでの十倍の意味を持って鼻に届いた。串に刺した肉。脂の落ちる音。皮の焦げ目。
「――おい、おい、おい」
アレイは慌てて首を振った。
ここで買ってはいけない。串の一本、パンの一切れ、そういうもので誤魔化してはいけない。
今日は段取りがあるのだ。
この空腹は、ドラゴンバーガーのために取っておかなければならない。
考えるだけで、口の中が海になった。
中央の大穴のほうへ向かって、大通りをまっすぐ行けばいい。放射状に伸びた道の突き当たり、巨大な冒険者ギルドの、あの騒がしくて脂じみた食堂へ。
朝日が背中を押した。
石畳の白い粒が、進む先までずっと続いていた。
アレイはへらへらと歩き出した。腹の獣が、二度目の寝返りを打った。
歩きながら、アレイはぼんやりと数字のことを考えていた。
珍しいことだった。普段の頭は数字を嫌う。金の計算というのは、だいたい足りないという結論しか出てこないからだ。
だが今日は違う。
今日の頭は、どんな結論でも笑って受け止められる用意がある。
十万ペル。
あれが先日の護衛依頼の報酬だった。
迷宮一層から三層。目的は三層の巨大ザリガニ、バーベッジクレイフィッシュ――冒険者は皆エビと呼ぶ――の甲殻を一枚持ち帰ること。
依頼人は魔法学校の女学生。それで十万。二人で割って五万ずつ。
安い。ふざけた額だ。
浅層とはいえ迷宮は迷宮で、素人を連れて三層まで下りるなら、まともな冒険者は最低でもその三倍を吹っかける。
実際、あの依頼は依頼板に貼られたまま何日も放置されていたらしい。誰も相手にしなかったのだ。
なのにヴァルターが受けた。
あの、一ペルの端数で人を追い詰めるような男が、指を舐めて数えるまでもない額の仕事を、自分から取ってきた。
『妹を見てるみたいでよ、可哀想になっちまったんだよ』
しかもあの野郎、そう言って半泣きだった。酒も入っていなかったのに。
アレイは思い出して、道の真ん中で少し笑った。
ヴァルターがどこの生まれで、どういう出方をして、何を置いてきたのか、アレイは詳しく知らない。
二の腕に入っているものについても、見えた日があっただけで、聞いたことは一度もない。
ただ、そういう男が金の話を後回しにするときは、たぶんそこが柔らかい場所なのだろう、と思っている。
それだけで十分だった。だから受けた。腹も減っていたし、薬も切れかけていた。理由なんてそのくらいで足りる。
クロエ・グレース、と名乗った娘の顔を思い出す。
三角帽子。きっちり整えたローブ。その下から覗く制服の襟も、皺ひとつなく折り返されていた。あれは見栄というより、たぶん決意に近い折り方だ。
そして口を開けば、私に任せなさい、だった。エビの一匹くらい一人で倒せる、と。
アレイはそれを聞いて、特に何も思わなかった。ああそうか、と思っただけだ。若いやつは大きいことを言う。言わないと立っていられないからだ。それは別に責めるようなことでもない。
問題は、あの娘は言いつけを破ってもう一度撃ち、外し、壁を爆ぜさせ、寝ていたエビを全部起こしたことだ。
逃げ込んだ細道の先は行き止まりで、娘は壁に背をつけたまま、たしか一度も声を上げなかった。
声を上げないやつは、だいたいいちばん怖がっている。
で、俺はアンブロシアを一吸いした。
そして指一本動かせなくなった。あの娘とヴァルターに引きずられていたらしい。ろくに記憶がない。
あれで、完璧に赤字だ。
だから今日、財布に残っているのはその残骸だった。バーガーとチキンとビールになって消える予定の、五万ペルの死体。
まあ、いい使い道だと思う。
アレイは、細くなった煙草を路肩に落として踏んだ。
あの娘は、もう来ないだろうな、と思った。
迷宮というのは一度で足りる場所だ。
狭い岩の中で、自分より大きくて自分より数の多いものに囲まれて、頼りにしていた護衛が薬を鼻から吸い込んで別人になって出ていく。
そういうものを十七で見たなら、二度と近づかないのが正しい。
実際、地上に出たあの娘の顔は、行きとはまったく違っていた。
負けを認める顔をしていた。
あれは悪くない顔だった。悪くない顔だったから、たぶんもう二度と来ない。
賢いやつは懲りる。懲りたやつは長生きする。
「うん」
アレイは満足して、勝手に頷いた。
これでいい。全部片がついた。
あの依頼は終わり、金は薬に化け、その残りは今日のバーガーになる。世界はきちんと回っていて、朝日は石畳の上で跳ねていて、腹の獣は三度目の寝返りを打った。
もう何も考えるようなことはない。
大通りの突き当たりに、冒険者ギルドの巨大な影が見えてきた。すでに人が吐き出され、吸い込まれ、正面の階段の上では誰かが誰かの胸倉を掴んでいる。いつもの朝だ。
脂と麦と煙の匂いが、そこから風に乗って流れてきた。
アレイの歩幅が、ほんの少しだけ広がった。




