1.3 エビ狩り
三層の階段は、途中から水に浸かっていた。
くるぶしまでの深さの、生ぬるい水。ヴァルターが先に降り、次にクロエ、最後にアレイ。一段ごとに、水面が三人分に割れる音がした。
匂いが変わった。二層の獣臭とはまるで違う。潮の匂いに近い。生臭く、青く、鼻の奥に貼りつく匂い。魚屋の店先を思い出して、クロエは間の悪い唾を飲み込んだ。
「ここからは口を閉じろ」
ヴァルターの声は、もう囁きの域だった。
「連中は目が悪い。だが水の揺れと音は拾う。踵から降りるな。足の裏を、そっと置け」
通路が下るにつれ、水はふくらはぎまで来た。壁の発光苔は青みが強く、水面に映って天井を波紋のように照らしている。美しい、と思ってしまった自分に、クロエは苛立った。
やがて、通路が終わった。
開けた。
巨大な空洞だった。学校の講堂が二つ入る。中央は浅い池のようになっていて、その底に白い破片が一面に散らばっていた。最初は石かと思った。違う。殻だ。脱皮した殻。折れた鋏。抜け落ちた触角。空洞の縁を、それらが雪のように埋めていた。
そして。
池のあちこちに、岩が沈んでいた。
岩ではなかった。
クロエは、息を吸い込んだまま吐けなくなった。
人の身の丈ほどの、赤黒い甲殻。節ごとに厚く重なった外殻の縁が、青い苔の光を鈍く弾いている。長い触角が水面すぐ上でゆらゆらと揺れ、太い鋏が、片方だけ、水の中でゆっくりと開いて閉じた。
バーベッジクレイフィッシュ。
教本の図版では、横向きの断面に矢印が引かれていて、脆い関節の位置に細字で注記があった。第三腹節と第四腹節の間。頸部の付け根。図版は、白黒だった。
鰓の隙間から、規則的に泡が上がっている。ごぷ、ごぷ、と。数えられないほど、あちこちで。
(何匹……)
五。十。数えるのをやめた。奥の暗がりにも、まだいる。
「眠ってる」
ヴァルターが唇だけを動かした。
「連中は水温が下がると動きが鈍くなる。今が一番安全だ」
彼は指先で、右手の壁際を示した。
「あの端の一匹。他から十五歩は離れてる。あれを引き剥がして、通路まで引っ張り込む。狭いところなら鋏が振れねえ。アレイが殺る。甲殻は嬢ちゃんが好きに剥いでいい」
「……剥いで、いい」
「そういう依頼だろ」
クロエの喉の奥が、かっと熱くなった。
違う。そういう依頼ではない。
依頼書には書いた。討伐は依頼人が行う。護衛は護衛のみ。あの受付台で、震える手で自分がそう書いた。ヴァルターは覚えているはずだ。覚えていて、無視している。
脳裏に、教室が浮かんだ。ピーターの笑い声。首席の彼女が気の毒そうに伏せた目。あの目。
——甲殻を、持ち帰ってやるわ。
あの言葉を、他人が殺した獲物の殻で満たすのか。それは、証明ではない。ただの土産物だ。買ってきた記念品だ。私は十万ペルで、恥を買って帰ることになる。
(一発だけ)
クロエは、ローブの中で杖を握り直した。
(一発だけ、当てればいい。あの一匹だけ。関節を狙って、細く、細く。教本通りに。眠ってるんだから、動かないんだから、今なら——今なら、当てられる)
指先が氷のように冷たい。冷たいのに、汗で滑る。
「嬢ちゃん」
ヴァルターの声が、遠かった。
「下がれ」
クロエは、下がらなかった。
一歩、前に出た。水が鳴った。
「クロエ!」
名前で呼ばれた。初めてだった。それが引き金を引いた。
杖の先に光が集まる。魔力が、いつものように、蛇口を捻った瞬間から止まらない量で流れ込んでくる。細く。細く。細く。祈るように念じた。
「——燈れ、火の——」
その瞬間、右手の壁際の一匹が、触角を跳ね上げた。
目が悪いのだと、ヴァルターは言った。水の揺れと音を拾うのだと。
鋏が持ち上がる。厚い、丸太のような鋏が、水を裂いて、こちらへ向く。
クロエの視界が、白く狭まった。関節の位置が、わからない。第三腹節がどこか、わからない。図版の矢印が、どこにも見えない。
手が跳ねた。
光が、杖の先から離れた。
狙いより、拳ひとつ分だけ高く。
それだけだった。それだけで、火の球は巨体の頭上を掠め、その先の壁面に——殻が積み上がり、水気を含んだ岩肌に——吸い込まれるように、突き刺さった。
白。
音は、後から来た。
空洞そのものが殴られたように震え、熱風がクロエの体を持ち上げて、水面に叩きつけた。口に生ぬるい水と砕けた殻の粉が流れ込む。耳が詰まった。何も聞こえない。何も聞こえないまま、天井から、太い石の塊が落ちてきて池に沈むのが見えた。次に、ばらばらと細かい礫。壁を割った罅が、青い苔の線を裂いて奔っていくのが見えた。
(あ)
(あ、あ、あ)
耳が戻った。
最初に聞こえたのは、水の音ではなかった。
軋みだった。
何十もの甲殻が、同時に持ち上がる音。関節が擦れ、鋏が開き、砕けた殻の海を太い脚が掻く音。それが波のように空洞を満たしていく。かさ、という乾いた音の粒が——三つどころではなく、数えることも意味を失う密度で——重なって、うねりになった。
水面が、一斉に盛り上がった。
赤黒い背が、次々と浮かび上がる。触角が空を叩く。鋏が水を打ち鳴らす。音は、やがて一つの高い、金属を擦り合わせるような鳴き声に変わった。何十もの喉が、同じ音を出していた。
怒っていた。
はっきりと、怒っていた。
「——ばか野郎ォ!」
襟首を掴まれて、クロエは水から引き抜かれた。ヴァルターの顔が真横にあった。冗談を並べるあの顔ではなかった。
「走れ! 止まったら死ぬ、水を蹴るな、縁を走れ!」
クロエは必死に足を動かした。動かしたつもりで、膝が言うことを聞かない。
「ヒィ」
自分の口から出たとは思えないほど無様な悲鳴だった。
自分の手を、包帯を巻いた手が掴んで強引に引っ張った。
アレイは、走りながら、後ろの群れを一度だけ振り返り、ぼんやりと、まるで市場の値札を読むような声で言った。
「うわ、いっぱいいるじゃん」
背後で、天井の岩がもう一つ落ちた。ヴァルターの背中が、右へ折れた。
「そこ! 壁の割れ目だ、身体を横にしろ!」
クロエには何も見えなかった。青い苔の光に照らされた岩壁は、どこも同じ赤黒い皺の連なりで、割れ目などなかった。それでも襟を掴まれて押し込まれると、確かに壁が受け入れた。肩幅ぎりぎりの、垂直の裂け目。三角帽子が引っかかって落ちた。拾おうとした手を、ヴァルターに叩かれた。
「捨てろ!」
背後で、あの金属じみた鳴き声が近づいた。水を打つ音。乾いた殻を掻き割る脚の音。鋏が岩に叩きつけられ、火花のような欠片が飛んだ。
裂け目の中を、三人は横向きに進んだ。足の下は乾いた砂利になった。背後の音が、少しだけ遠ざかる。
「よし、ここは通れねえ。連中は鋏が引っかかる。この幅なら——」
ヴァルターの声が、途中で切れ、クロエは、彼の背中に鼻をぶつけた。
顔を上げる。
行き止まりだった。
裂け目の先は、崩れた岩でびっしりと塞がっていた。まだ新しい。砕けた面が青白く光を弾いていて、隙間から細かい砂がさらさらと零れ落ちている。落ちて、間もない。
壁の低いところに、白いチョークの線が残っていた。ヴァルターが行きに描いた、彼にしか読めない印。その印が指していた道が、いま、岩に呑まれていた。
「……ここは、二層の横道に抜けてた」
ヴァルターは岩に手を当て、押した。動かなかった。
「上が抜けたな」
クロエの膝から、力が抜けた。砂利に手をついた。
私が抜いた。私の火球が、天井を割った。逃げ道を、自分の手で塞いだ。
背後の裂け目の入口で、赤黒い鋏が岩を掻いている。太い触角が、隙間から蛇のように差し込まれ、空を撫でて、また引き抜かれた。狭くて入れない。入れないから、掘っている。何十匹が、順番に。
(死ぬ)
思考は、そこで平らになった。私は死ぬ、ここで。二十匹の巨大ザリガニに囲まれた岩の穴で、教室に持ち帰る殻もなく、父に自慢される娘のままで。
「ご、ごめんなさい」
喉から出たのは、みっともなく震えた声だった。
「私が、私が撃たなければ、こんな——」
「後にしろ」
ヴァルターは、彼女を見ていなかった。バックパックを砂利の上に降ろし、その上に座った。逃げる支度ではない、と、クロエは奇妙に冷えた頭で理解した。
そして彼は、壁にもたれて突っ立っている男を、顎で示した。
「アレイ。やれるか」
アレイは裂け目の天井を見上げて、何か数えているような目をしていた。
「……何匹いた?」
「三十九。奥にまだ三、四匹」
「うへぇ」
彼は、心底うんざりした声を出した。それから、頭を掻いた。
「仕方ねぇ。完璧に赤字になっちまうが……」
「赤字」
クロエの口が、勝手に繰り返した。
アレイは彼女を見て、めんどくさそうな顔をした。
「あんたの依頼、俺の取り分いくらだと思う? 五万だ。五万じゃこれは買えねぇんだよ。しかも離脱症状が酷い」
言いながら、彼は上着の内側に手を入れた。取り出したのは、小さな布の袋と、短い刃のナイフだった。袋の口を縛る紐は二重に結ばれていて、その結び目だけが、彼の持ち物の中で唯一きちんとしていた。
ナイフの腹に、白い粉が落ちた。ほんの一摘み。銀のような、塩のような、けれど塩よりずっと細かい粉が、苔の光を吸って鈍く光った。
アレイは、それを鼻へ運び、吸った。
一度。短く、深く。
クロエの背筋を、氷の指が滑り降りた。ジョグの甘い煙ではない。あれは、まだ煙だった。匂いがあり、笑いがあり、腹が減った、で済むものだった。これは、匂いさえしなかった。
「……ぐ」
アレイの喉が鳴った。
「鼻から入れたから効くまで二、三分かかる、ちょっと待ってろ」
彼は目を閉じ、壁に背を預けたまま動かなかった。ヴァルターも動かなかった。裂け目の入口で鋏が岩を掻く音だけが、かさ、かさ、と続いていた。
「な、なにを……いま、吸って」
「分かってるんじゃないか?」
白い粉の魔薬には心当たりがあった。ジョグよりもうんと強く、中毒症状も酷い。もちろん違法の魔薬だ。
「……アンブロシア」
「せいかーい」
「な、なんで……?」
魔薬の名前を当てたかったのではない。何故、今、このタイミングなのか、ということだ。
「生きて帰りたきゃ黙ってろ、もちろん帰っても黙ってろよ?」
ほどなくして、アレイの首筋に筋が浮いた。
皮膚の下から縄が引き出されるように、太い筋が二本、三本と立ち上がった。肩が上がる。猫背が、ゆっくりと伸びた。ぼんやりとした立ち方が消え、ただ真っ直ぐに立つという、それだけのことが、クロエの視界の中でアレイを異様に大きくした。
目が開いた。
クロエは、悲鳴を飲み込んだ。
瞳孔が、開いていた。定まらないまま、見開かれていた。焦点は自分の遥か後ろにあるのに、それでもこちらを射抜いている。歯が剥き出しになっていた。食いしばった歯の隙間から、息が漏れる音がした。獣ではない。獣はもっと理由のある顔をしている。
圧が来た。
物理的なものではないのに、クロエの背中は岩壁に押し付けられていた。汗が一滴、うなじから背骨を伝わる。ただ、目の前の男が「そこにいる」ということが、それだけで重かった。
この男は、十分前まで、エビを焼いて食う話をしていた。
「がァ——」
アレイは腰の鞘に手をかけた。革が擦り切れて、鉄くず同然の刃を収めた、あの安物のなまくら剣。抜く音は、笑ってしまうほど間抜けだった。しゃり、と鳴った。刃には錆の斑が浮いていた。
彼はそれを一度、無造作に振った。
風が鳴った。
クロエは、錆の浮いた鉄が振られただけで、空気が縦に裂けた気がした。
「アレイ」
ヴァルターの表情には、こんなことは大きな問題ではないとでも言うように、何の緊張も感じられなかった。
「離脱症状が来る前に出来るだけ早く上がるぞ。お前を引きずって上りたくない」
「分かってる」
声が、変わっていた。低く、平らで、砕けた口調の輪郭だけが残っている。
アレイは裂け目の入口へ向かって歩き出した。差し込まれた触角が、彼の顔をぬるりと撫でた。彼は避けもせず、掴んで、片手で引きちぎった。悲鳴のような高い音が、岩の向こうで上がった。
肩越しに、彼はこちらを見た。
その目は、クロエを見ていなかった。もう何も見ていなかった。それでも彼は、律儀に言った。
「行ってくる、三分だ」
そして、身体を横にして、裂け目の中へ消えた。
クロエは、砂利の上に座り込んだまま動けなかった。ヴァルターが水袋の栓を抜いて、こう言った。
「耳、塞いでていいぞ」
「……え」
「エビの悲鳴は気持ち悪りぃんだ」
次の瞬間、それは始まった。
最初は、笛の音だと思った。高く、細く、震える音。教会の裏で子供が壊れた縦笛を吹いているような、間の抜けた音。それが二つ、三つと重なって、やがて十を超えたところで、クロエは自分の間違いに気づいた。
笛ではない。
金属を擦り合わせるあの鳴き声が、限界まで引き伸ばされ、裏返っている。生き物が、自分の身体で出せる最も高い音を、出したくもないのに出させられている音だった。
その合間に、別の音が挟まる。
ぱき、と、湿った枝を折るような音。裂くような音。
水が、重いものを受け止めて跳ねる音。
それらは規則的だった。まるで誰かが薪を割っている。裂け目の向こうで、鼻歌でも歌いながら、日暮れまでに割ってしまわなきゃならない薪の山を、順番に、片付けている。
「……ヴァルさん」
ヴァルターはバックパックの上に座ったまま、水袋の口を布で拭いていた。彼は指を三本立てて、そのうち一本を折った。
「一分。……早いな、今日は」
「あの人、一人で……」
「心配するな。あいつは出鱈目に強い」
悲鳴が一段、高くなった。
クロエの膝が、勝手に動いた。座り込んでいたはずの脚が、砂利を掻いて立ち上がっていた。恐怖で動けないというのは嘘だ、と彼女はどこかで思った。恐怖は、人を立たせることもある。見なければ、この音の正体を自分の目で確かめなければ、一生この音に追いかけられる。そういう種類の予感が、脚を動かした。
「嬢ちゃん」
「見ます」
「そうか」
ヴァルターは止めなかった。水袋の栓を締めて、それだけ言った。
クロエは裂け目に身体を横向きに差し入れた。
ローブが岩に擦れる。杖が引っかかって、持ち直す。五歩。十歩。近づくほど、音は音でなくなっていった。空気そのものが、細かく叩かれている。肋骨の内側が、外から押される。
裂け目の出口は、巣の空洞の縁に近い、岩の窪みだった。
クロエは、そこから顔だけを出した。
まず、赤いと思った。
水が赤い。くるぶしまでの浅い水が、いちめん、煮詰めた葡萄酒のような色をしていた。その上に白い粉が薄く浮いている。砕けた殻の粉だ。赤と白が渦を巻いて、青い苔の光を跳ね返し、紫がかった濁りになっている。
次に、山だと思った。
狭窄部の手前、幅五メートルほどの入り組んだ岩場に、赤黒いものが積み上がっていた。折れた鋏。裏返った腹。まだ痙攣している脚が、何十本も、別々の速度で空を掻いている。積まれているのではない。積み上がったのだ。前のが倒れた上に次が乗り、その上に次が乗って、そうしてできた坂を、奥の連中が乗り越えようとしている。
その坂の頂に、男が立っていた。
クロエは、アレイの背中を見た。
彼は特別なことを何もしていなかった。構えていない。腰も落としていない。片手にぶら下げた剣を、ただ、通り過ぎる場所へ置くように動かしている。
殻が、開いた。
巨大ザリガニの背——教本には「複数層の甲質板が重なり、鋼と同等の耐衝撃性を持つ」と書いてあった、あの背が、縦に開いた。斧で叩き割られたのではない。抵抗が、なかった。刃が触れた線に沿って、内側から自分で開いたように見えた。バターの塊にナイフを落としたときの、あの音のない裂け方。
そんなはずがない。あの剣は、なまくらだ。
先ほど見たヴァルターの短剣より安そうな、鉄くず同然の代物だ。あんなもので、鋼が切れるわけがない。物理的に、切れるはずがない。
切れていた。
「——おらァ!」
アレイが吼えた。
その声で、クロエの首の後ろの毛が全部立った。歓喜と憎悪の区別がついていない、剥き出しの音。
「なんだァ? その面で俺の前に出てきたのかァ?」
巨大な鋏が、彼の頭上から落ちてきた。
クロエは声を上げた。あれは岩を砕く。教本にはこうあった——成体の鋏圧は、人間の大腿骨を容易に断つ、と。
アレイは避けなかった。
左腕を上げて、受けた。
鋏が、彼の腕に噛んだ。噛んで、止まった。長袖の布は裂けて、下の汚れた包帯が見えた。血は、出ていない。皮膚の上で、鋏の刃が空回りするように滑った。
アレイは笑った。
剣が下から跳ね上がり、鋏の付け根を斜めに抜けた。
太い脚がまとめて宙に舞い、水に落ちた。エビは倒れる前にもう二度切られていた。腹節が輪切りになって、中の白いものが水に散った。
悲鳴。
そして次が来る。
次も来る。
クロエは剣を振った回数を数えようとして、すぐに諦めた。数えられるような速さではなかった。振り抜いた剣を戻すことすらせず、戻す途中の軌道でもう次を裂いている。
薪割りだ、とクロエは思った。
彼女は自分が震えているのに気づいた。膝でも手でもなく、腹の底が震えていた。三年間、魔法学校で習ってきたことの全部——魔力量の測定、詠唱の音節、術式の効率、教員が黒板に書き連ねた美しい数式の全部が、目の前の光景の前で、ただの紙の音になった。
あれは魔法ではない。技でもない。あの男は、「切れる」と思っている。
悲鳴の数が、減っていく。十が七になり、七が四になった。奥の暗がりから駆けてきた最後の三匹は、坂を登りきることさえできなかった。一匹が滑って裏返り、その腹に剣が落ち、水面が赤く跳ねた。
最後の一匹は、逃げようとした。
巨体が、水を蹴って向きを変えた。目が悪いはずのその生き物が、はっきりと退路を選んだのが、クロエには分かった。恐怖だ。魔物にも恐怖はあるのだ。
「どこ行くんだよ」
アレイが、死体の坂を蹴った。
跳んだ距離は、六メートルはあった。
着地の音より先に、切る音がした。エビは尾を残して前へ進み、頭部だけが水に沈んだ。二つに分かれた身体の間を、赤い水が満たしていった。
静かになった。
あまりに突然だったので、クロエは自分の耳がまた詰まったのだと思った。違った。音が、なくなっただけだ。あれだけ空洞を満たしていた鳴き声が、一つも残らず、消えていた。
残ったのは、水がゆっくりと揺れる音。
まだ動いている脚が、殻を掻く音。
アレイは、赤い水の中に立っていた。
首筋の筋は、まだ縄のように浮いたままだ。剣を持った右手は、握りすぎて指が白くなっている。口の端に、白い泡が溜まっていた。
彼は、周囲を見回した。
もう何もいないのに、探していた。次の一匹を探して、いないことに苛立っているような、そんな首の動かし方だった。
クロエは、岩の窪みから半分身体を出した状態で、動けなかった。
声をかけるべきだと思った。終わりましたよ、と。ありがとう、と。
喉が動かなかった。
その代わり、遠くの裂け目の奥から、ヴァルターの声が響いてきた。
「アレイ! 二分四十五秒だ! 早かったな!」
アレイの肩が、びくりと跳ねた。
彼はゆっくりと振り返り、初めてクロエの方を見た。定まらない瞳孔が、彼女の顔の上を通り過ぎて、その少し上で止まった。
「……あー」
そして、笑った。目は笑っていない。
「エビ、剥けよ。……好きなの、選んで、いいぜ」
アレイがそう言って顎で死体の山を指した。
クロエは動けなかった。
赤黒い坂の中で、いちばん手前の一匹の頸部が、斜めにきれいに開いていた。教本で赤鉛筆で丸をつけた、あの場所だ。図版のとおりの角度で、図版よりもずっと美しく、切られていた。
自分が焦がしたのは壁だけだった。
「……いりません」
「そうかい」
「いや、」
クロエは唾を飲んだ。
「一枚だけ、貰います。持ち帰るためじゃなくて」
「じゃ何のためだ」
「覚えておくためです」
アレイは少し目を細めて、それから鼻で笑った。悪い笑い方ではなかった。彼は短剣を差し出し、剥ぐ場所を指で二度叩いて教えた。関節の膜に刃を入れて、てこの原理で捻る。手が滑って三度失敗し、四度目で、手の平二枚分の甲殻が湿った音を立てて外れた。裏側は真珠のような虹色をしていて、思っていたよりも、ずっと軽かった。
帰りは、途中までは順調だった。行きとは違い、何かに急かされるように急いだ。
しかし二層まで上がってほどなくして、アレイは自分では一歩も歩けなくなった。離脱症状だろう。ずっと「最高の俺が行っちまった」と囁いていた。
ヴァルターは革の帯を彼の胸に回して即席の引き具を作り、クロエは背嚢を背負い、二人で交互に引いた。二層の上り階段からは、百八十センチの男を石段の上に引き上げる作業になった。
一段。息を整える。一段。
「持ち上げるな、転がせ! 骨は折れねえ、こいつは折れねえんだ!」
「折れないって、どういう——」
「いいから引け!」
一層の宿営広間で、一度長く休んだ。ヴァルターは壁の窪みに小さな火を起こし、干し肉を炙り、チョークの印を確かめ、周囲の警戒を怠らなかった。クロエはいつの間にか少し眠った。
休憩のあいだに一度、アレイが呻いた。
「……ヴァル、歩けねえ」
「言うなよ、それ」
ヴァルターが即座に遮った。声が、初めて硬かった。
「『もう動けねえ』とは言うなよ。言うと、本当に動かなくなる」
クロエは、赤い水の中で錆びた鉄が鋼を裂いた光景を思い出した。
あの男は「切れる」と思っていた。それだけだった。
休憩の後はアレイはノロノロと歩き出した。その歩みはまるで亀のようだった。
地上に出たときには昼を過ぎていた。
都市中心の大穴の縁に這い上がったとき、クロエは光を痛いと感じた。露店の油の匂いと、酔った冒険者の笑い声と、鐘の音がした。街は、何ひとつ変わっていなかった。巨大ザリガニが真下で腐り始めていることを、誰も知らない。
検問所の職員が、担架で運ばれてくるアレイを見て、木札を確認しながら気の毒そうに言った。
「三層で、これか」
「エビの群れに囲まれたんだ。運が悪かった」
ヴァルターは平然と答えた。
「三名、全員帰還だ。書いといてくれ」
ギルドの受付台で、クロエは十万ペルの革袋を置いた。
手の甲の銀の紋が、す、と皮膚の下に沈んで消えた。《誓いの印》が解けた感覚は、拍子抜けするほど軽かった。三年分の貯金が、それだけのことで、他人の手に渡った。
長椅子に寝かされたアレイが、天井を見ながら間の抜けた声で言った。
「ヴァル。差し引き赤だぜ、これ」
「立て替えは立て替えだ。ツケは払ってもらうぜ?」
「ヴァル、ツケって言葉はさあ、もっと優しく言えねぇもんなの?」
クロエは、二人を見た。
礼を言おうと思った。裂け目の出口で喉が動かなかった分を、今こそ言うべきだと思った。
「……あの」
「なんだ」
「ありがとうございました。それと、ごめんなさい。全部、私が」
「聞いたよ、それはもう」
ヴァルターは手をひらひら振った。
「嬢ちゃん。ひとつだけな。生きて帰ったんだから、それは成功だ。迷宮じゃそれ以上のことは滅多に起こらねえ」
アレイが長椅子の上で、こちらを見ずに言った。
「エビ、焼いて食えばよかったな」
それが、彼が彼女にかけた最後の言葉だった。
数日ぶりの学校は、いつもと同じように騒がしかった。
クロエは前髪の焼けた先を切り揃え、ローブの下の制服の襟を、いつもより丁寧に整えて登校した。誰かが彼女に気づいて、声を落とした。声の輪が、波紋のように静まっていった。
「クロエ」
ピーターが立ち上がった。妙に慌てた顔だった。
「あのさ、俺、あれ、冗談で」
「ピーター」
クロエは机の前に立って、皆を見た。
窓から斜めに差す光。黒板に残った昨日の術式。廊下から聞こえる誰かの詠唱練習。この数日で、ここは一ミリも動いていない。
「私じゃ倒せなかったわ」
誰も、何も言わなかった。
「一発撃って、外して、壁を吹き飛ばして、巣を全部起こして、みんなを死ぬところまで連れて行った。三層のバーベッジクレイフィッシュは、私には無理よ。弱点を覚えたところで、目の前に来たら、どこも見えなくなる。それだけの話だった」
声は震えなかった。それが自分でも不思議だった。
「あんたの言ったとおりよ、ピーター。スライムも危ないくらい」
笑い声は、起きなかった。
いちばん奥の席で、学年首席の少女が顔を上げた。あの日、嘲笑わずに目を伏せた娘だ。彼女は何か言おうとして、やめて、それから小さく頷いた。気の毒そうな目ではなかった。それが、クロエにはありがたかった。
その夜、下宿の机の引き出しを開けて、クロエは布に包んだ甲殻を入れた。
手の平二枚分。裏側は真珠色。切断面は、指で撫でるとまだ鋭い。人間の力で開けられるはずのない場所が、ためらいの一片もなく開いていた。
引き出しを閉める。
彼女は決めた。実技の評点は最下位のままでいい。だが、暴走で誰かを殺すような魔法使いにはならない。それが、あの十万ペルで買った唯一のものだ。
そして、もうひとつ決めた。
——迷宮には、二度と行かない。冒険者にも、二度と関わらない。
あんな世界に足を踏み入れる人間は、まともではないのだ。魔物と戦う前に薬を吸い、殻を割るように命を割り、割り終わったあとに自分の身体の中から逃げようとして砂利を掻く。あれは強さではない。あれを強さと呼ぶのなら、自分は一生弱いままでいい。
クロエは灯を消し、毛布を被った。
目を閉じると、笛の音がした。
高く、細く、震える音。それが十を超えて、そして、規則的な薪割りの音が始まる。
彼女は目を開けて、天井を見た。
二度と関わらない、と、もう一度心の中で唱えた。
それでも、あの錆びた鉄の鋭さは忘れることはできなかった。




