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1.2 エビ狩り


 一層は、思っていたより明るかった。


 壁のあちこちに苔のような発光体が張りついていて、通路全体が薄い緑がかった白に照らされている。空気は冷たく、湿っていて、遠くのどこかで水が落ちる音がする。天井は高い。石畳は、無数の靴に磨かれてつるつるだった。


「教本の通りだわ」


 クロエは思わず呟いた。魔力灯の必要がないのは発光苔の生態のためで、一層の地形は千年変わっていない。地図さえあれば三層までは一日で下れる——書いてあった通りだ。なぜかそれだけで少し安心した。


「腹減ったなあ」


 安心を、後ろからの声が台無しにした。


「さっき食べてましたよね。串二本」

「あれは前菜」

「前菜」

「歩くと腹減るだろ。人体の摂理だぜ」


 アレイは長袖の袖口を引っ張りながら、へろへろとついてきている。猫背で、剣は腰にぶら下げているだけ。歩き方に警戒の気配が一切ない。散歩か何かだと思っているみたいだ。


 その少し前を、ヴァルターが黙って進んでいた。彼だけは別だった。足音がほとんどしない。三歩進むごとに顔の向きが変わり、分岐に来る前から視線がそちらへ飛んでいる。ときどき膝をついて床の埃を指ですくい、匂いを嗅いでまた立つ。


(……この人、本当にプロなんだ)


 クロエは少し胸を張った。私の人選は間違っていなかった。半分は。


「嬢ちゃん」


 ヴァルターが振り返らずに言った。


「一層は魔物がほとんど出ねえ。出てもスライムだ。だがな、油断すんなよ」

「わかってます」

「わかってねえ顔してんぞ」

「してません」


 そのとき、前方の曲がり角の先で、ぬちゃ、と湿った音がした。


 ヴァルターの手が挙がる。止まれの合図。クロエは足を止めた。心臓が跳ねた。


 角の陰から、それは滑り出してきた。


 半透明の、水を張った革袋のような塊。膝の高さくらい。中心に、鈍く光る小指の先ほどの核。体を伸縮させて、ぐにゅ、ぐにゅ、と石畳を這っている。


 スライム。


 教本第一章、演習用標本の項。ピーターが、お前ひとりじゃこれも倒せねえだろと言った、その魔物。


 クロエの中で、何かが勝手に動いた。


「——私が!」


 声が出たときには、もう右手が前に出ていた。


「あ、待——」


 ヴァルターの声は間に合わなかった。


 詠唱は短い。火の初歩魔法だ。掌の前に指先ほどの熱の芯を結び、そこへ魔力を、細く、細く、糸のように——


(細く)


 という思考が、いつもクロエの中で裏返る。


 彼女の中にある魔力は、細い糸を通すには多すぎた。多すぎるものを細くしようと力を込めた瞬間、それは押さえた水道の口から噴き出すように、逆に勢いを得る。


 掌の前の芯が、ぶわりと膨れた。


 拳の大きさ。頭の大きさ。樽の大きさ。


「あ」


 クロエの目の前で、直径二メートルの火の玉が、通路の幅をほとんど埋めて浮いていた。


 熱が、前髪を焼いた。


 ヴァルターが横から飛んできてクロエの襟を掴み、床へ叩き伏せた。


 火球が、行った。


 音は、後から来た。空気が殴られる音がして、通路が白く塗り潰され、次の瞬間、背中を熱風が引っ掻いて通り過ぎた。石畳を這う衝撃が腹に響く。天井から砂と小石が降り、耳の奥が鳴りっぱなしになった。


 クロエは床に頬をつけたまま、しばらく動けなかった。


 やがて、耳鳴りの隙間から、ぱち、ぱち、と何かが焦げる音が聞こえてきた。


 顔を上げる。


 通路の先、二十歩ほど向こうの壁が、黒く抉れていた。発光苔が円形に消し飛んで、そこだけ暗い。焼けた石の匂い。天井の一部からぱらぱらと砂が落ち続けている。


 スライムは、いなかった。


 正確には、いた。壁と床に、薄く、広く、こんがりと。乾いた膜になって、まだ湯気を上げていた。核があったらしい黒い粒が、焦げ跡の真ん中でぱちんと弾けた。


「……倒した」


 クロエは掠れた声で言った。


「倒しました。ほら、一発」


 沈黙。


 その沈黙の中で、ヴァルターがゆっくりと立ち上がり、頭から埃を払った。それから、抉れた壁を見て、天井を見て、まだ湯気を上げているスライムの跡を見て、最後にクロエを見た。


 クロエは、笑顔を作ろうとして失敗した。


「嬢ちゃん」

「はい」

「今の、何を狙った」

「スライムです」

「アホか! 通路の幅が一杯の火の玉出したら、どうなると思う? なあ? 誰が焼けると思う?」


 ヴァルターの声が通路に反響した。彼が声を荒げたのは、この二日で初めてだった。


「……計算より、少し、出力が」

「少しじゃねえ」


 ヴァルターは天井を指した。


「見ろ。あそこ、罅が入った。一層の天井は分厚いから今のじゃ落ちねえ。だが下は違う。二層、三層はもっと脆い場所がある。あんなもんをぶっ放したら、俺たちは魔物の前に岩に潰されて死ぬ」


 クロエは何も言えなかった。言い返す理屈が、ひとつも見つからなかった。理屈は全部、相手の側にあった。


「あー……なあヴァル」


 のんびりした声が割り込んだ。


 アレイだった。いつからそこにいたのか、少し離れた壁際に座り込んでいて、髪と肩が煤で黒くなっている。彼は焦げ跡のほうへ顎を向けた。


「スライムってさ、焼くと食えるって聞いたことねえ?」

「食えねえよ」

「あー、そう」


 アレイはあっさり興味を失って、指先で自分の髪の煤を払った。怒っている様子は、まったくなかった。危なかったという顔すらしていない。


「嬢ちゃん、聞け」


 ヴァルターがしゃがんで、クロエと目の高さを合わせた。声はもう荒げていなかった。荒げていないほうが、よほど怖かった。


「今からお前はもう戦闘に参加するな」

「え」

「魔法を使うな。前に出るな。俺が下がれって言ったら下がる。走れって言ったら走る。それだけしろ」

「待ってください」


 クロエは思わず身を起こした。頬に血が上るのがわかった。恥ずかしさと、それより強い焦りで。


「それじゃ、依頼の意味がありません」

「意味?」

「私の依頼は、討伐は依頼人が行う、護衛のみ求む、です。バーベッジクレイフィッシュは、私が倒さなきゃ——」

「倒す前に俺たちが死ぬんだよ」


 言葉が、腹の底に刺さった。


「いいか。俺は請けた仕事は最後までやる。誓いの印もある。だがな、依頼人ってのは、たいてい自分が何を頼んだかわかってねえもんだ。護衛ってのは、魔物からお前を守る仕事じゃねえ。迷宮からお前を守る仕事だ。——今の火の玉は、迷宮側だぜ、嬢ちゃん」


 クロエは唇を噛んだ。


 言い返したかった。訓練すればできる、いや、さっきのは久しぶりだったから、狙いはちゃんと合っていた、当たったでしょう、当たったじゃない。


 でも、目の端に、黒く抉れた壁が入っていた。


 あれが自分の魔法だ。二十歩先の壁を丸ごと焼いて、天井に罅を入れた、自分の魔法だ。教室の的を丸ごと燃やしたあの日と同じだ。


「……わかりました」


 声が、思ったより小さく出た。


「本当か?」

「わかりました、って言いました」

「よし」


 ヴァルターは満足したのか、あっさり立ち上がって埃を払い、荷を背負い直した。彼は根に持つ性質ではないらしい。焦げた壁のほうへ歩いていって、罅の入り具合を指で確かめ、「まあ問題ねえ」と独りごちる。


 クロエは、まだ床に座っていた。ローブの裾が煤で汚れていた。制服はいつも整えてあるのに、と思って、それが今どうしようもなく馬鹿らしいことのように思えた。


 差し出された手が、視界に入った。


 アレイだった。長袖の袖から出た手首に、汚れた包帯が覗いている。ぼーっとした目つきのまま、彼は何も言わなかった。


 クロエは一瞬ためらって、その手を取らずに自分で立った。


「……大丈夫です」

「そーかよ」


 アレイは伸ばした手をそのまま自分の首の後ろに回して、掻いた。


「よく飛んでたなァ、あれ」

「馬鹿にしてます?」

「してねえよ。褒めてる」


 彼は焦げ跡を眺めた。


「思い込みが強い魔法は、よく飛ぶ」


 何を言っているのかわからなかった。わからないまま、クロエは帽子を拾って被り直した。


「行くぞ」


 前方でヴァルターが呼んだ。


 クロエは、彼の背中の三歩後ろを歩き始めた。魔法を使うな、前に出るな。守ると約束した。


(——三層に着くまでね)


 自分の中で、そう言い足したことに、クロエは気づいていた。気づいていて、聞こえなかったふりをした。




 二層への下り階段は、一層の磨かれた石畳から急に様子が変わった。


 段の高さが揃っていない。手すりもない。壁の発光苔は数が減って、代わりに天井から細い水の筋が垂れていた。空気が重くなる。匂いが、湿った土と、獣のものに変わった。


「ここから先は、俺の後ろを歩け。真後ろだ」


 ヴァルターは階段の途中で足を止め、片膝をついて下を覗いた。しばらく、そのまま動かない。


「……音を聞け」


 クロエは息を詰めた。


 最初は水音しか聞こえなかった。だがじっと待っていると、その裏側に、かさ、かさ、と乾いた擦れる音があるのがわかった。何十かある。同じ方向へ、まとまって動いている。


「デカネズミの群れだ」


 ヴァルターが小声で言った。


「二層はあいつらの縄張りだ。一匹なら学生でも殺せる。三十匹だと、Aランクでも死ぬことがある」

「三十……」

「音の粒を数えるんだよ。三つ以上重なったら、群れだと思っておけ」


 彼は階段を降りきると、右の広い通路を無視して、左の、人ひとりがやっと通れる狭い横道へ入っていった。地図に載っていない道だった。クロエは慌ててついていく。


 それからの半日は、クロエにとって不思議な時間だった。


 戦闘が、一度も起こらないのである。


 ヴァルターは進まなかった。正確に言えば、進む前にやたらと止まった。分岐に来ると床の埃を指ですくって匂いを嗅ぎ、壁の擦り跡の高さを確かめ、時には十数える間だけ黙って耳を澄ませる。それで「こっちは駄目だ」と言って、平然と来た道を戻ることさえあった。


 一度、前方の通路の奥に赤い眼がいくつも並んだ。クロエの背筋が凍った瞬間、ヴァルターは腰のポーチから干し肉の切れ端を出して、背後の暗がりへ思いきり放り投げた。かさかさという音の塊は、迷わずそちらへ流れていった。


 三人は、その横をただ歩いて通り過ぎた。


「……戦わないんですか」

「金にならねえ」


 ヴァルターは即答した。


「ラットの毛皮なんぞ一枚二百ペルだ。剣が痛む分のほうが高い。それに、こっちが一匹殺すと血の匂いで十匹寄ってくる。迷宮で一番高くつくのはな、嬢ちゃん、余計な勝利だよ」


 クロエは黙った。教本には、そんなことは一行も書いていなかった。


 壁に小さな白い印がついているのに気づいたのは、その少し後だ。矢印と、点。ヴァルターが通りすがりにチョークでつけている。


「帰り道です?」

「そうだ。俺の字は俺しか読めねえように崩してある」

「なんでですか」

「他人の帰り道を追いかけて、そいつを袋にする奴がいるからだよ」


 クロエは、この人の頭の中には迷宮とは別の、もっと嫌な地図があるのだと思った。


 その後ろで、アレイは相変わらずへろへろと歩いていた。索敵にも進路にも一切口を出さず、止まれと言われれば止まり、歩けと言われれば歩く。ただ、腹が減った、という報告だけは定期的に上がってきた。




 三層への下り口に着いたのは、発光苔の明るさが少し落ちた頃だった。地上ではもう夕方なのだろう。


 下り口の手前は、天井の高い広間になっていた。壁の窪みに古い焚き火の跡がいくつも残っている。冒険者たちの宿営地だ。今は誰もいない。


「休憩だ。半刻」


 ヴァルターが荷を下ろし、乾いた床に腰を落とした。


「この下がもう、目当ての巣です?」

「巣の外縁までは二百歩ってとこだな。水音がしたら近い」


 ヴァルターは水袋を放ってくれた。


「飯食って、水飲んで、小便してこい。巣に入ったら止まれねえぞ」


 クロエは水を飲んだ。手が少し震えているのに気づいて、慌てて袋を膝に置いた。


 いよいよだ。バーベッジクレイフィッシュ、通称エビ。人の身の丈ほどの甲殻。教本の図版でしか見たことがない。横向きの断面に、脆い関節の位置だけを示した細い矢印。


 でも、私が倒す。倒さなきゃ意味がない。


 その考えを何度も裏返している最中、視界の端で、アレイが妙なことを始めた。


 彼は懐から布の小袋を出し、膝の上に薄い紙葉を広げていた。袋の中から、乾いた植物の葉を指でほぐして落としていく。細かく崩れる音がした。ぼーっとした目つきのままなのに、その指先だけは異様に手際がよかった。何千回とやった手つきだ。


 紙の端を舐め、くるくると巻き、片端を捻る。細い筒が一本できあがった。


 クロエは、それが煙草だと思った。思いたかった、というほうが近い。


「……それなに?」

「あァ?」


 アレイは筒を口の端にくわえたまま、こちらを見た。


「こいつぁ、神の草だ」

「は」

「うまいぜ」


 彼は火打ち石の欠片を擦り、先端に火を移した。ふ、と赤い点が灯る。


 煙が立った。


 白ではなかった。うっすらと紫がかった煙が、天井のない方向へゆるく渦を巻いて上がっていく。それを、アレイは胸の奥まで深く吸い込み、しばらく止めてから、長く吐いた。


 匂いが、届いた。


 甘い。焦げた蜜と、青い草と、その奥に鼻の粘膜を刺す何か。クロエの喉が勝手にすぼまった。


 知っている匂いだった。


 魔法学校の、東棟の裏。物置と焼却炉の間の、誰も通らない隙間。素行の悪い上級生たちが放課後にたまっていた場所。教員が巡回に来ると散り散りになって、後にはこの匂いだけが残っていた。


 ジョグ。


「——ちょっと」


 クロエの声が裏返った。


「それ、ジョグですよね」

「よく知ってんな。学生なのに」

「知ってます、学校で、退学になった人がいましたから!」


 クロエは声を荒げた。


「な、なんで今なんですか。今、これから、下に降りるんですよね。エビの巣に入るんですよね。危険な魔物と戦うんですよね!」


 アレイは、赤い点をゆっくり指で回しながら、彼女を見上げた。目つきが、さっきまでと少し違っていた。もともと焦点の合っていない目が、さらに一段ぶん、遠くへ落ちている。口の端が、意味もなくわずかに上がっていた。


「最高にチルだ」

「意味がわかりません!」

「ジョグをキメると腹が減るんだ」

「もっとわかりません!」


 クロエはヴァルターを振り向いた。助けを求めるつもりだった。この人ならこの薬中を叱ってくれる、一層で私を叱ったみたいに、と。


 だがヴァルターは、荷にもたれたまま、干し肉を齧っていた。慌てるどころか、煙のほうを一度見て、風向きを確かめるように鼻を鳴らしただけだった。


「ヴァルさん」

「あー」

「止めてください。迷宮の中ですよ。あの人、頭が回らなくなるんじゃ——」

「いや、こいつはこれでいいんだよ」


 ヴァルターはあっさり言った。


「キマってた方が強いんだ」


 クロエは、言葉を失った。


「……強い?」

「そういう体質なんだ、こいつは。理屈は知らねえ。シラフのアレイは、正直そこの床の埃と大差ねえ。だが入ると変わる」


 彼は干し肉を噛みちぎった。


「ま、俺は迷宮の中じゃ控えるぜ? 当然だろ。頭が緩んだシーカーなんざ、荷物より役に立たねえ。……っていうかな、嬢ちゃん。迷宮内でキメる奴なんて、命知らずのバカか、相当な好きモノだけだ」

「あの人はどっちなんですか」

「両方だな」


 ヴァルターは笑った。冗談を言った顔ではなかった。事実を並べただけの顔だった。それが、クロエには一番怖かった。


 紫の煙が、広間の高い天井へ細く上っていく。壁の窪みの古い焚き火の跡と、そこに残った誰かの焦げた木片。人の骨みたいに見えて、クロエは目を逸らした。


 私は十万ペルを払った。タンス預金の全部を。仕送りを削って、三年かけて貯めた分を。


 その金で雇ったのは、迷宮の底で薬をキメる男と、それを見て笑っている男だ。


(——帰りたい)


 喉の奥まで上がってきたその言葉を、クロエは水で無理やり流し込んだ。手の甲の銀の紋が、発光苔の光を薄く弾いていた。帰れない。誓いの印は、依頼人が逃げるのも許さない。


「なあ嬢ちゃん」


 アレイが、吸い殻を靴底で潰しながら言った。煙の残りが、彼の言葉と一緒に流れてきた。


「エビってさ。焼いたらうまいのか?」

「……知りません」

「そうか」


 彼は満足したようにうなずいて、包帯の巻かれた手首で口元を拭った。


「じゃあ楽しみだな」


 ヴァルターが立ち上がり、荷を背負い直した。


「行くぞ。三層だ」


 下り階段の奥から、かすかに、水の音が聞こえていた。



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