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1.1 エビ狩り

 冒険者ギルドの朝は、想像していたよりずっと汚かった。


 石造りの広間には昨夜の酒の匂いが染みついていて、床には割れた皿の欠片が誰にも片付けられないまま転がっている。

 依頼板の前でたむろする男たちは、朝から瓶をラッパ飲みし、下卑た笑い声を上げていた。奥の受付台では、片目に傷のある大男が職員に何か凄んでいる。


 クロエ・グレースは三角帽子のつばを引き下げ、ローブの襟を握りしめた。学校の制服はいつも通り、皺ひとつなく整えてある。魔法学校の生徒がみっともない姿を見せられるわけがない。……たとえ、こんな場所でも。


(大丈夫。私はお客様。依頼人よ。堂々としてればいいの)


 胸の内で三回唱えて、顔を上げる。


「よお、待たせたな。魔法使いのお嬢ちゃん」


 声は思っていたより明るかった。振り向くと、人混みを掻き分けて男がひとり近づいてくる。

 背はクロエより頭ひとつ分高いくらいだが、肩や胸板はがっちりと厚く、革のプレートを要所だけ留めた軽装。ベルトには小さなポーチがずらりと並び、背には泊まり込み用の大きなバックパック。使い込まれた道具の匂いがした。


「俺はこの前会ったな、ヴァルだ。よろしくな!」


 差し出された手を、クロエは慌てて握り返す。掌はごつごつと硬く、それが妙に安心できた。

 この人だ。依頼板の前で誰にも相手にされず立ち尽くしていた自分に、「浅層の護衛くらいならちょうどいい小遣い稼ぎだ」と声をかけてくれたのは。


「クロエ・グレースよ。……その、今日はよろしくお願いします」

「かしこまらなくていいぜ。金を出すのはあんただ」


 ヴァルターはにっと笑って、親指で背後を指した。


「で、こいつがアレイ。俺の相棒だ」


 クロエは、そちらへ視線を移した。


 ……そして、固まった。


 柱にもたれかかるようにして、長身の男が立っていた。いや、立っているというより、骨を抜かれてぶら下がっているように見えた。

 上背はありそうなのに、猫背でだらりと肩が落ちているせいで、ちっとも大きく見えない。着崩したシャツの裾は出っぱなし、袖は真夏でもないのに手首まで長く、その隙間から汚れた包帯が覗いている。


 髪はぼさぼさ。目つきは、どこも見ていなかった。焦点が合っていないのだ。瞼が半分落ちたまま、口が薄く開いている。


挿絵(By みてみん)


「……よお」


 男は片手を上げた。それだけの動作にすら、風に揺れる洗濯物のような気の抜けた感じがあった。


「腹減ったなあ。ヴァル、迷宮潜る前に、なんか食ってこうぜ?」

「さっき肉挟んだやつ食っただろうが」

「あれ食い物か? 紙だろ、あれ」


 クロエは、口を開いたまま何も言えなかった。


 鼻の下がうっすら赤い。目の縁も。左腕の包帯の巻き方が明らかに素人で、めくれた端の下に、点々とした古い痕が見えた気がして、クロエはとっさに目を逸らした。


 学校にもいた。校舎裏で妙に甘い煙を吸って、へらへらと笑って、教師の声も届かなくなった生徒たち。あの目だ。あれと同じ目だ。


(——薬中じゃない、これ)


「ええと」


 クロエの声は、自分でも驚くほど硬くなった。


「……この人、が、護衛?」

「ああ。剣はこいつが振る。俺は道を読む係だ」


 振る、と言われた剣を、クロエは見た。

 腰に下げられた鞘は革が擦り切れてめくれ、覗く柄は塗りの剥げた安物。錆と手垢で色が変わっている。魔法学校の練習用武器庫にすら、もっとまともなものが並んでいた。


「なあ、嬢ちゃん」


 アレイがのろりと顔を上げる。


「三層まで、だっけ。エビ?」

「……バーベッジクレイフィッシュよ。三層の」

「エビだな」

「エビって言い方やめてくれる!?」


 ぱん、と自分の声が広間に響いて、近くの男たちがこちらを見た。クロエは慌てて帽子を押さえ、俯く。頬が熱い。


 アレイは、へへ、と息だけで笑った。それがからかっているのか、ただ呼吸しただけなのかも判別できないのが、いちばん怖かった。


 肩に、軽く手が触れた。


 ヴァルターだった。彼はクロエの側へ一歩寄って、少しだけ膝を折り、帽子のつばの下へ顔を入れるようにして声を落とした。

 広間の喧騒より、ひとつぶん低い声だった。


「安心しろ。薬中にしか見えねぇが、腕は立つ」


 クロエは、まばたきをした。


「……あの。今、否定しませんでしたよね。薬中のところ」

「してねえな」

「してくださいよ、そこは!」


 声を抑えたつもりが、抑えきれていなかった。


 クロエは唇を噛んで、ローブの内側で右手を握った。

 手の甲に、ギルドの受付で交わした《誓いの印》の紋が、うすい銀色を帯びて浮かんでいる。破れば全身を苦痛が這うという、太古の術式。つまり——今からもう、断れない。


 なけなしの十万ペル。何度も数え直したタンス預金。まともな冒険者たちは、鼻で笑って背を向けていった。

 命の値段に見合わないと。それでも受けてくれたのが、この二人だった。


(……よく考えなさい、クロエ。よく考えなさいよ)


 だが、考えれば考えるほど、答えは同じ場所に落ちた。

 安すぎる報酬に釣られたのは、頼もしいシーカーと——どう見ても、正気を金で売り払ったような男。


「行くか。今日中に三層まで下りて、明日には戻る。段取りは道中で話す」


 ヴァルターがバックパックを担ぎ直し、歩き出す。アレイは柱から体を剥がすようにして、ずるずるとその後をついていく。


 クロエは、その丸まった背中を見つめた。


 ——後悔した。


 どうしようもなく、深く、後悔した。それでも足は動いた。教室で吹いた大ボラが、背中を押していた。




 ——五日前。魔法学校三年の教室は、午後の授業が終わるといつも小さな酒場のようになる。


 窓から斜めに差す光の中で、机を寄せた男子たちが騒いでいた。話題は例年この時期に必ず出るやつだ。すなわち、「自分ひとりなら、どこまでの魔物を倒せるか」。


「俺なら二層のジャイアントラットくらいは余裕だな」

「嘘つけ。お前、実技で的にも当ててねえだろ」

「当てたって。斜めにだけど」


 クロエ・グレースは窓際の自分の席で、書き写した魔力循環の図に線を引きながら、聞いていないふりをしていた。

 していたのだが、耳は勝手に拾ってしまう。ジャイアントラット。二層。的にも当たらない。——自分は、どうだ。


 答えを頭の中で探しているうちに、椅子の背にどんと重みがかかった。


「なあなあ、グレース」


 ピーターだった。ひょうきん者で、成績はまあ中の下、口だけは学年一位。にやにやと机に肘をつき、わざとらしく声を張る。


「お前は? ひとりなら何倒せる?」

「……別に、そういう話に興味ないから」

「うわ出た、興味ないってやつ」


 ピーターは大袈裟に椅子ごとひっくり返る真似をした。


「いいって無理しなくても。お前ひとりじゃスライムだって倒せねえだろ」


 教室の空気が、ぴたりと固まって、それからくすくすと崩れた。


 クロエの頬の内側が、かっと熱くなった。羽根ペンの軸が指の中で軋む。


 スライム。一層のスライム。核を一発貫けば終わる、教本の第一章に載っているような魔物。それを、倒せない、と言われた。笑われた。


 言い返すべき言葉は、山ほどあった。理論の点数はずっと学年上位だ。魔力量の測定なんて針が振り切れるほどある。予習も練習も、誰より積んでいる。ただ、実技の——たった実技の評点だけが、いつも一番下に並んでいるだけだ。


 だから、口が動いたとき、そこから出てきたのは理屈ではなかった。


「バーベッジクレイフィッシュを倒せるわ」


 しん、となった。


「……は?」


 ピーターの笑みが半端な形で止まる。


「バーベッジクレイフィッシュよ。三層の」


 クロエは自分の声を、遠くから聞いているような気がした。止まらなかった。止め方がわからなかった。


「人の背丈くらいの巨大ザリガニ。甲殻が硬いから、火系じゃなくて衝撃を通すのが定石でしょ。関節の隙間なら光の矢でも抜ける。理論的には可能よ」


 最初に噴き出したのは、後ろの席の誰かだった。それが引き金になって、教室が爆発した。机を叩いて笑う者、腹を抱えてしゃがみ込む者。ピーターは涙を拭う仕草までしてみせた。


「エビ! 実技ドベがエビ!」

「先月の合同実習、上級生が三人がかりで手こずってたやつじゃん!」

「グレース、標的紙に穴あけるの先じゃない?」


 視界の端に、教室の中央の席が見えた。学年首席の——名前を口に出すのも悔しい同級生が、こちらを見ていた。笑ってはいなかった。ただ、少し困ったような、気の毒そうな顔で、目を伏せた。


 それが、いちばん効いた。


 クロエは立ち上がった。椅子が耳障りな音を立てて後ろへ滑る。


「——甲殻、持ち帰るわ」


 笑い声が、少しだけ薄くなった。


「ひとりで三層まで潜って、バーベッジクレイフィッシュを倒して、甲殻を剥いで、この教室に持ってくる。見せてやるわよ。それで文句ないでしょ」

「え、いや、待てって」


 ピーターの声が急に素になった。


「冗談だぞ、俺」

「私は冗談じゃないから」


 クロエは鞄を掴んで、まっすぐ教室を出た。廊下に出て、角を二つ曲がって、誰もいない階段の踊り場でようやく足を止めた。


(……やってしまった)


 三層。魔法学校の教本では、教員引率のもとでの見学が三年後期の課外実習にあたる階層だ。ひとりで、なんて誰も言わない。というより、ひとりで潜った生徒がどうなったかという話は、入学式の翌日に先生から真面目な顔で聞かされている。


 冷たい石の壁に背をつけて、クロエは天井を睨んだ。


(でも言った。みんなの前で言った)


 引っ込めることは、できた。明日行って、笑いながら「昨日のは嘘」と言えば、二日で忘れられる話だ。頭ではわかっている。


 それでも、目を閉じると、あの気の毒そうに伏せられた首席のまなざしが浮かぶ。故郷で、近所の人に「うちの娘は都のパンテラの魔法学校に行ってるんだよ」と自慢する父の声も、なぜか一緒に浮かぶ。


 クロエは、爪が食い込むほど手を握った。


 その夜、下宿の部屋でタンスの一番下の引き出しを開けた。


 布に包んだ小袋の中身を、机の上に並べて数える。銀貨と、折り目のついた紙幣。家からの仕送りを削って、教本を我慢して、屋台の串を一本減らして貯めた分。数え終えて、もう一度数えた。三度数えても、額は変わらなかった。


 十万ペル。


 一般人の月収の半分。十七年生きてきて、クロエが自分の手で持てる金額の、全部だった。


 紙とペンを引き寄せ、几帳面な字で書いた。


 ——依頼。迷宮三層、バーベッジクレイフィッシュ討伐の護衛。討伐は依頼人が行う。護衛のみ求む。報酬十万ペル。


「万全を期すため」


 誰もいない部屋で、クロエは声に出して言った。ひとりで倒すという宣言に矛盾はしない。倒すのは自分だ。ただ、道中の安全を確保するために、専門家を雇う。合理的だ。理論的だ。


 小さな火球のつもりで教室の的を丸ごと燃やした、あの日の焦げた匂いを思い出しながら、クロエは紙を折った。




 冒険者ギルドの依頼板に依頼を貼ったのは翌朝だった。


 結果を言えば、三日かかった。


 最初に声をかけてきた三人組は、報酬額を読んだところで顔を見合わせ、ひとりが鼻を鳴らした。


「三層で、十万?」

「安いんですか」

「嬢ちゃん。三層で死んだ奴の葬式代のほうが高いぜ」


 二日目に来た男は、貼り紙を上から下まで読んで、それからクロエのローブと三角帽子を上から下まで見た。


「討伐は依頼人が行う、ねえ。学校の課題か何かか? 悪いが、俺は依頼人が死ぬ現場に立ち会う趣味はねえ」

「死にません」

「みんなそう言うんだよ」


 三日目には、誰も声をかけてこなくなった。板の前を通る冒険者たちは、クロエの貼り紙をちらりと見て、値段のところで目を止めて、そのまま隣の「五十万ペル・薬草採取」に視線を移していく。クロエは依頼板が見える位置の古ぼけたテーブル席で待ち続けた。荒れた声と酒の匂いの中で、ローブの襟を握って。


 貼り紙の端が、湿気でめくれ始めていた。額を書き直すことはできなかった。書き直せる金が、もうなかった。


(明日、学校でみんなに言おう。冗談だったって。……言えばいいだけ。それだけ)


 そう考えたら、鼻の奥が痛くなった。まずい。ここで泣いたら、魔法学校の生徒として終わりだ。クロエは帽子のつばを両手で引き下げ、視界を布で塞いだ。


 そのとき、頭の上から声が降ってきた。


「——三層のエビ狩り、あんたか」


 顔を上げると、革の軽装を着た男が、ベルトのポーチを鳴らしながら話しかけてきた。背はそう高くない。けれど肩の厚みと、こちらを見る目の妙な落ち着きが、周りの酔っぱらいたちとは違って見えた。


「……そうです。何か文句があるなら」

「文句はねえよ。字が綺麗だな」


 男は剥いだ貼り紙を指で弾いた。


「十万か。まあ、正直に言えば安い。だが浅層の護衛くらいなら、ちょうどいい小遣い稼ぎだ」


 クロエは、自分の耳を疑った。


「……受けてくれるんですか」

「二人で行く。相棒がいるんだ。剣を振るのはそいつ、道を読むのは俺。それでいいなら」


 迷ったのは、一秒もなかったと思う。手を差し出したのはクロエのほうだった。


「クロエ・グレースです。よろしくお願いします」

「ヴァルだ」


 握り返してきた掌は、ごつごつと硬かった。


 受付台で交わした《誓いの印》は、思ったより痛くなかった。手の甲にうすい銀の紋が浮かんで、消えて、皮膚の下に沈む。契約成立。これで依頼の条件と報酬は、術式に縛られた。


 つまり、もう引き返せない。


 ギルドを出たとき、クロエは晴れた空を見上げて、深く息を吸った。護衛は雇った。段取りは決まった。あとは自分がエビを一匹倒すだけだ。それくらいはできる。できるはずだ。


 あのときの自分の背中を、今なら殴りに行きたい。


 ——そして当日の朝、柱にぶら下がるようにして立つもう一人の護衛と顔を合わせて、後悔は始まったのだ。




 迷宮への正道は、都市の真ん中に空いた巨大な穴だった。


 クロエも遠くから見たことはある。だが縁に立って覗き込むのは初めてだった。石を削り出した螺旋の坂道が壁に沿ってぐるぐると下へ落ちていき、途中から霧のような白い光に溶けて見えなくなる。底は、見えない。


「税関、通るぞ。冒険者証と、依頼書」


 ヴァルターが慣れた手つきで検問所の窓口に紙束を差し出す。職員は判子を押しながら、クロエの三角帽子を一瞥した。


「学生さん。三層まで?」

「はい」

「引率は」

「護衛です」


 ヴァルターが横から言った。


「二人。ちゃんと届けを出してる」


 職員は何か言いたそうな顔をして、それから何も言わずに木札を三枚滑らせた。事務的な手つきだった。ここでは毎日、こういう顔の人間が下りていくのだろう。


 クロエの後ろで、アレイが柱に肩を預けて欠伸をしていた。

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