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8.1 シドの白昼夢


 迷宮四層の三叉路で、シドは膝をついて床を見ていた。


 擦れ跡が三本、右の通路へ向かって伸びている。だが真新しいのは一本だけで、あとの二本は表面の埃が薄く乗り直している。つまり右の道を通ったのは、少し前の一匹と、ずいぶん前の二匹だ。


「左だ」


 シドは立ち上がり、腰の方位磁針を親指で押さえて向きを確かめた。傷だらけで、蓋のちょうつがいが緩んで、針もときどき機嫌を損ねる安物だ。それでも駆け出しの頃に自分の稼ぎで買った最初の道具だったから、シドはずっと腰へ下げていた。


「右のほうが広いぞ」と、剣士のロットンが顎で示す。


「広い道は魔物も好きなんだよ。左は狭いけど、擦れ跡が古い。しばらく誰も通ってない」


「へえへえ。すっかり口が偉くなったなあ、シーカー様」


 ロットンはからかうように言いながら、ちゃんと左の通路へ先に足を向けた。口では茶化しても、危ないと言われた道へ突っ込む男ではない。そこがシドは気に入っている。


「クック、そっち見とけ。後ろから来たら教えて」

「見てるよ」


 最前線を任されている大盾と斧のクックが、荷袋を担ぎ直しながら短く応じる。弓を持ったジョンジーは何も言わず、通路の先の暗がりへ矢の届く角度を測るように顔を上げていた。シドが「左」と言えば、ジョンジーはもう左の射線を作っている。


 三人と組みはじめて、ひと月ほどになる。


 誰も飛び抜けてなどいない。ロットンの剣は速いが粗いし、ジョンジーの魔法は火をつける程度、クックは頑丈なだけで詰めが甘い。シドは相変わらず、正面から殴り合えばスライムにも負ける気がする。それでも四人でいると、なぜか噛み合った。誰かの穴を、誰かの得意が埋めていく。


 そしてシドには、迷宮の歩き方だけは頭に入っていた。酒場で先輩たちの武勇伝に付き合い、危ない話ほど熱心に聞き出し、ヴァルターにも何度も同じ講釈を垂れられてきた。曲がり角の手前で止まれ。匂いに気をつけろ。荷が重くなった帰り道こそ気を張れ。当時は生存率を上げる勉強だと自分に言い訳していたが、いざシーカーの役を渡されてみると、それが全部そのまま使えた。


 二層は下見のように抜けた。三層で薬草と甲殻を稼いだ。四層は魔物の当たりが強くなったが、避けられる戦闘を丁寧に避けていけば、稼ぎだけが積み上がっていく。


 先日は、一つの依頼で一人あたり十二万ペルになった。


 十二万だ。家賃が七万、飯が一食八百ペルの街で、一日で十二万。ギルドの窓口でその金を受け取ったとき、シドは指先が少し震えたのを、あくびの振りで隠した。


「シド、お前ちょっと顔がいやらしくなってきたぞ」

「なってねえよ」

「なってる。金の匂いがする顔だ」


 ロットンが笑い、クックが「それはお前だろ」と横から言い、ジョンジーが息だけで笑う。


 先輩冒険者の前では、シドは今でも「兄貴」と呼び、敬語を崩さず、自分の情けなさを先に差し出す。そのほうが可愛がられるし、安全だからだ。だがこの三人の前では、そんな芸はいらなかった。ただの十八歳の口で、ただの指示を出せばよかった。


「ロットン、急ぐなよ。角の先で止まる」

「はいはい」


 左の通路は静かで、シドの読み通り、何も出なかった。


 出なかった、という結果が、シドの中で少しずつ形を変えていく。


 最初は運だと思っていた。次に、三人が優秀だからだと思った。だが、ひと月ずっと当たり続ければ、人はそれを自分の手柄と数えはじめる。あの三叉路で右を選ばなかったのは俺だ。あの通路で戻れと言ったのも俺だ。四人がここまで無事に稼げているのは、俺が読めているからだ。


 地上へ戻る大穴の梯子を見上げながら、シドは息を吐いた。


 迷宮の一〜二層で燻って、スライムに三回負けた話を自虐のネタにしていた男が、いまは四層の道を選んでいる。


「次はどこまで行く?」とロットンが訊いた。


「五層。いい依頼があるんだ」


 シドは即答した。自分の声が、ずいぶん軽く響いたことには気づかなかった。




 ジャイアントマイマイの殻は、思っていたよりも重かった。


 人の胴ほどある巻き貝の殻だ。中身を掻き出して洗ってあるから汚くはないが、厚みがあって嵩張り、四人がそれぞれ二つずつ背負うと、背中の高さが頭を越えた。狭い場所では横向きにならなければ通れない。


「これ、街に着く前に肩が死ぬぞ」


 ロットンが荷紐を親指で引っ張って、食い込んだ肉を逃がした。クックは黙っている。この男は重いものについて文句を言わない代わりに、限界が来たときも言わないから、シドはときどきその顔を確かめる癖がついていた。


 五層の依頼は、想像していたより素直だった。マイマイは動きが遅く、殻を割らずに始末する手順もジョンジーの矢とクックの斧で回った。危ない場面は二度だけあって、二度ともシドが先に気づいた。


 稼ぎは悪くない。殻は一つで相場が決まっている。全部持ち帰れば、先日の十二万をさらに越える。


 越えるなら、越えたかった。


「シド、帰りはどう行く」


 ジョンジーが訊いた。この男が口を開くのは、選択肢が二つ以上あるときだけだ。


 シドは方位磁針の蓋を親指で開けた。針が少し迷って、北を思い出す。頭の中には、来た道の地図がちゃんと描けている。四層への上がり口まで、来た道を戻れば三時間半。荷を担いだ足なら四時間を見たほうがいい。


 もう一つ、道がある。


 五層の広間の東奥から、崩れかけた細い通路が斜めに伸びて、四層の下段へ抜ける。一時間強で済む。図面でも見たことがあるし、下りのときに入口だけは確かめてあった。魔物の擦れ跡も薄かった。


 ——帰りの近道ほど、荷を持つ冒険者は狙われる。


 ヴァルターの声が、驚くほど正確に頭の中で再生された。酒の匂いと、串の脂で光った指先まで思い出せる。とくに待ち伏せ向きの狭い道は避けろ。人間は魔物より安全な獲物だからな。荷が重い、疲れてる、あと一時間で地上だと思ってる。三つ揃った奴を襲うのがいちばん儲かるんだよ。


 シドは、その声に一度うなずいた。うなずいた上で、こう考えた。


 あれは弱い連中の話だ。


 擦れ跡は薄い。人の通った痕もない。四人いる。ロットンの剣は速いし、クックは崩れない。それに、俺が先に気づく。ひと月、ずっと先に気づいてきた。


 クックの息が上がっているのも見えていた。ロットンは肩を回し続けている。三人を三時間半、この重さで歩かせるのか、一時間で終わらせるのか。シーカーというのは、そこを決める役だ。


「東の抜け道を使う」


 シドは蓋を閉じて言った。


 ロットンが眉を上げた。「狭いって言ってたとこか」


「狭いけど短い。擦れ跡もない。三時間半歩くより、一時間で上がっちまったほうがいい」


「お前がそう言うならな」


 ロットンはあっさり荷を担ぎ直した。ジョンジーも何も言わず、東へ体を向けた。クックだけが一瞬、シドの顔を見た。


「狭いんだよな。荷を降ろせるか」


「肩幅は通る。降ろすのは無理だ」


「そうか」


 それで終わりだった。四人は東へ歩いた。


 通路は、記憶よりも狭かった。


 幅は人ひとりと少し。天井は低く、殻の背が擦れてざらついた音を立てる。左右は崩れた岩肌で、脇へ逃げる隙間はない。荷を背負ったまま振り向くこともできないから、後ろを見るには一度荷を壁へ預けて体をねじる必要があった。


 それでも静かだった。魔物の気配もない。水の垂れる音と、四人の足音だけ。


 三十分ほど進んだところで、シドは自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。理由は分からない。何も出ていない。何も聞こえない。何も——


 匂いだ。


 迷宮の匂いではない。油の匂いがした。刃に塗る、街で買う安い油の匂い。


「止まれ」とシドは言った。声が思ったより小さく出た。


 言い終わる前に、前方の暗がりが動いた。


 灯りがない。相手は灯りを持っていなかった。ここでずっと、明かりを消して待っていたということだ。黒い塊が三つ、通路を塞ぐ形で立ち上がる。目の部分だけを切り抜いた頭巾。特徴のない上着。武器はもう抜いていた。


 背後で、クックが低く唸った。振り向く余裕はない。振り向かなくても分かった。後ろにもいる。


「七人だ」


 ジョンジーの声だった。数を数えられたのは、たぶんこの男だけだ。


 誰も何も言わなかった。追い剥ぎは名乗らないし、要求もしなかった。荷を置けとも言わない。それが何より悪い意味だと、シドは遅れて理解した。荷だけが目的なら、脅すのがいちばん安く済む。脅さないというのは、こちらを立たせておくつもりがないということだ。


 最初の一手は、灯りだった。ロットンが掲げていたランタンが、投げつけられた何かで叩き落とされる。硝子の割れる音がして、通路は本当の暗闇になった。


 そこからは、順番の話だった。


 ロットンが剣を抜こうとした腕を、二人がかりで壁へ押しつけられる。クックは盾を構えたが、荷を背負ったままでは半身しか隠せない。ジョンジーが弓を捨てて短刀へ持ち替える音がして、すぐに止まった。七人は荷へ飛びつく者、武器を殺す者、退路に立って動かない者に分かれていて、その分かれ方が、あまりにも慣れていた。


 シドは前へ出ようとした。何をするつもりだったのかは、自分でも分からない。


 膝の下、脛の辺りに、棒のようなものが振り下ろされた。音が先に聞こえた。折れた音を、自分の体の内側から聞くというのは初めてで、シドはそれを痛みとして受け取るのに一拍かかった。


 床に倒れて、殻が背中の上で割れた。あれだけ苦労して運んだ殻が、あっけない音を立てて割れた。


 誰かが自分の腰のあたりを探っている。ベルトの留め具を外す手つきに、迷いがなかった。方位磁針の蓋が、かちりと開いて閉じた。


「シド——」


 ロットンの声が、遠くで自分の名前を呼んだ。返事をしようとしたが、口の中が鉄の味でいっぱいだった。


 暗がりの中で、シドが最後に考えたのは、あと一時間で地上だったな、ということと、この道を選んだのは俺だ、ということだった。


 それから、何もなくなった。




 救護堂の窓は東向きで、朝のうちだけ床に光の帯ができる。ローレンはその帯が寝台の足元まで届く時刻に、包帯を替えることに決めていた。明るいほうが、膿の色を見落とさない。


 寝台は十二。今日埋まっているのは七つで、そのうち二つは戦争帰りの労役者、四つは酔って階段から落ちた類の怪我人だ。残り一つが、名前を書いた札に「シド/冒険者/十八」とだけ記された若い男だった。


 運び込まれたのは、昨日の明け方だった。


 右の脛は二か所で折れていた。ローレンは骨の位置を戻し、聖術で継ぎ目を寄せ、添え木で固めた。脚の処置は終えている。問題は頭で、後頭部に鈍器か床へ打ちつけた痕があり、腫れが強い。目はまだ開かない。


 祈って治るものではない。祈りは魔力の流し方を整えるだけで、時間の代わりにはならない。ローレンは十字を切ってから、それを何度も自分に言い直す癖がついていた。


 扉が開いて、鉄の音がした。


「盾はどこ置けばいい?」


 振り向くと、入口いっぱいに人がいた。ドレスの上から全身板金を着込んだ女が、身の丈に近いタワーシールドを抱えて立っている。石の床に置くたび、天井まで音が響いた。


「外に立てかけておいてください。ここは病人が寝ています」


「盗まれない?」


「あれを持って走れる人がいると思うか?」


 後ろから呆れた声がした。革の軽装に小道具のポーチを幾つも下げた男——顔は覚えていた。ヴァルター。ギルドで名前だけは何度も聞く。そしてその隣に、長袖を袖口までだらしなく伸ばした猫背の男が立っていた。


 ローレンの喉が、一瞬だけ動かなくなる。


 八層で、瓦礫の下からイアンの手を引き上げた男だ。マーティンには届かなかった手だ。教会の報告書に、この男の名前は一行も書かれていない。ローレンが書けなかった。


 アレイはこちらを見て、それから寝台を見て、何も言わずに小さく手を上げた。覚えているのかいないのか、判別のつかない仕草だった。


「見舞いです。こいつの」ヴァルターが顎で寝台をさす。「まだ寝てんのか」


「骨は繋ぎました。目が覚めないのは頭を打っているせいです。……いつとは、言えません」


「言えねえか」


「言える人がいたら、私が代わってほしい」


 ヴァルターは肩をすくめて、寝台の脇の丸椅子に腰を下ろした。座り方に遠慮がない代わりに、足音は立てなかった。


 女——アンジーは寝台を覗き込み、添え木で膨らんだ布団の形をしばらく見てから、素直に眉を寄せた。


「なんで治らないの? 骨は繋いだんでしょ」


「あなたの基準で言わないでください」


「えっ、繋いでもすぐ治らないの?」


「治ります。時間をかけて」


 アンジーは驚いた顔をした。ローレンはこの女の噂も知っている。全身に回復の魔法が効き続けているという、聖術の理屈からすると説明のつかない体質の女だ。腕がちぎれても繋がるという話が本当かどうかは、確かめる気になれない。


 アレイは会話に混ざらず、寝台の反対側に立っていた。掛布の外に出ている左手を見て、それから腰のあたりを見ている。


「持ち物は」


 アレイが訊いた。この男の声を聞くのは、八層以来だった。


「一つも残っていませんでした。剣も、水筒も。……腰に何か下げていたようですが、金具だけです」


「そうか」


 それだけだった。


 ヴァルターが背もたれに腕を回して、話し出した。語り口は世間話の調子で、内容だけがそうではなかった。


「五層でカタツムリの殻集めだ。四人で八つ担いで、依頼はきっちり済んでる。仕事は失敗してねえんだよ。帰りだ」


 五層の東奥から四層の下段へ、斜めに落ちる細い通路がある。正規の道を戻れば三時間半、そこを抜ければ一時間強。荷を担いだ帰り道でその一時間を惜しむのは、疲れた人間の考え方だ。


「俺は前に言ったんだ。帰りの近道ほど狙われる、待ち伏せ向きの狭い道は避けろってな。酒の席で、串食いながら言った」ヴァルターは指を一本立てて、それを寝ている男へ向けた。


「こいつ、覚えてたそうだぜ。ロットンが言ってた。入る前に一回、間があったって。一月うまくいってたからな。自分が先に気づくと思ったんだ。思うだろ、あの歳なら」


 ローレンは何も答えなかった。十八歳。自分と同じ歳だ。


「灯りを消して待ってた奴が七人だ。名乗らねえ、荷を置けとも言わねえ。荷だけ欲しけりゃ脅すのが安いんだよ。脅さねえってことは、立たせて帰す気がねえってことだ」


 最初に潰されたのはランタンで、次が武器だった。ロットンは抜く前に両腕を壁へ押さえられ、クックは殻を背負ったままでは盾の陰に半身しか入らなかった。ジョンジーが弓を捨てた音がして、それで終わった。七人は荷に飛びつく者、武器を殺す者、退路に立って動かない者に、はじめから分かれていたという。


「慣れてやがる。四人以下で、荷が重くて、あと一時間で地上だと思ってる連中を選んで待ってんだ。商売だよ」


「その七人、どこにいるの」


「知らねえよ。知らねえから今、皆で探してる」


「見つけたら殴っていい?」


「殴るのは決まりだ。順番の話をしてる」


 ローレンは口を挟むべきだと思った。私刑は禁じられている。教団の立場からも、ギルドの規則からも。しかしその言葉が喉から出る前に、ヴァルターが続けた。


「奴らが去ったあと、残った三人は殻を全部捨てた。八つ全部だ。金になる荷を一つも持たずに、交代でこいつを担いで、戦闘を全部避けて、五層から地上まで上がってきた。一日半だ」


「三人とも、目玉が腫れて口が切れてた状態でな。クックは肋をやられてたのを、ここに着くまで言わなかった」


 ローレンは思い出した。運び込まれた昨日の朝、若者を寝台へ移したあとで、大柄な男が壁に手をついてゆっくり座り込んだのを見た。あのとき初めて、自分の怪我のことを口にした男だ。


「稼ぎはゼロだ。八つ分の殻代も、装備も、全部消えた。それでこいつだけ生きてる」ヴァルターは椅子から立ち上がって、埃を払うように膝を叩いた。


「悪いのはこいつだ。道を選んだのはこいつだよ。それは変わらねえ」


「……ええ」


「変わらねえが、待ち伏せて身ぐるみ剥ぐ連中を放っておく理由にもならねえ」


 ローレンは、その言い方を否定できなかった。教義でも規則でもなく、ただ順序の話として言われたからだ。


 アレイは最後まで、ほとんど何も言わなかった。ただ帰る前に一度、寝ている男の掛布の端を、皺を伸ばすように手の甲で押した。指先では触らなかった。


「治療代は」ヴァルターが懐に手を入れた。「請求はどこだ」


「先に、五人ほど置いていかれました。この子の先輩だと」ローレンは帳面を見ずに答えた。「足りています。むしろ、多すぎるので返します」


「返さなくていい。酒代に回されるだけだ」


「返します」


 ヴァルターは短く笑って、それ以上は言わなかった。


 三人が出ていくと、廊下でまた鉄の音がして、「盾あった! 誰も盗まなかった!」という声が響き、他の寝台の病人が身じろぎした。ローレンは静かに扉を閉めた。


 光の帯は寝台の足元から膝のあたりまで上がっていた。彼女は添え木の縛りを確かめ、腫れの引き具合を指の腹で測り、それから丸椅子に座って、少しの間だけ手を止めた。


 危険な薬中だ。ギルドでそう呼ばれている。イアンはあの男に引き上げられた手のことを、今も一度も口にしない。


 それなのにこの男は、名前も高くない駆け出しの寝台の脇に立って、掛布の皺を手の甲で伸ばして帰っていく。


 ローレンは十字を切って、目を閉じた。祈る言葉は決まっているのに、今日は最後まで唱え終える前に、教義に載っていない祈りが混ざった。


 ——どうかこの子が、目を覚ましたときに、自分のせいだと言えるくらい生きていますように。


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