7.3 おかえりアンジー
「行った」
アレイの腕が奥へ滑った。指先が卵の下へ回る。冷たい。予想より冷たく、そして重かった。十数キロが片腕にかかる。手前へ転がすのではなく、まず垂直に持ち上げる。殻を土に擦らせない。窪みの縁に当てない。
肘を折り、卵を自分の胸元へ引き込んだ。
「取った」
「そのまま出ろ。急ぐな。肩を落として」
アレイは首を横へ倒し、卵を抱えたまま体を後退させた。背甲の縁が背中の布を擦る。腕が抜け、肩が抜け、最後に卵の丸みが隙間を通った。
「出た」
ヴァルターは縄を離さないまま、片手だけで保護容器の蓋を開けた。厚布の敷かれた内側へ、アレイが両手で卵を沈める。布を四隅から折り重ね、留め具を一つずつ締めていく。二つ、三つ、四つ。指がもつれて三つ目を締め直した。
「固定した」
アンジーは、その間ずっと押し続けていた。押す位置も角度も変えず、汗が板金の隙間から幾筋も落ちていた。声はかけなかった。かけたら力が動くと、たぶん彼女は思っていた。
「アンジー。よくやった」
「まだ?」
「まだだ。……離すぞ。ゆっくりだ。俺が楔を抜く。抜くまで、力を変えるな」
「変えない」
アレイが容器を抱えて後退し、空洞の壁際まで下がった。ヴァルターは縄を少しずつ緩めた。指一本分ずつ、繊維を送り出すように緩める。背甲がそれに合わせて戻り始め、岩棚の縁から滑り降りた。
「アンジー、いま」
「うん」
「四つ数えて、そのあいだに力を抜け。一気にやめるな」
アンジーは数えた。声には出さず、板金の中で数えた。四つ目で盾が離れた。触れていた鉄と甲殻の間に、隙間ができた。
灰褐色の半球が、自分の重さで転がった。
低い擦れ音が空洞を渡り、二メートルの塊は洞穴の口へ収まった。楔の一本が押し出されて飛び、壁に当たって落ちた。ヴァルターは残りを引き抜き、縄を岩棚から解いた。
口は、完全に塞がれた。板の隙間が閉じ、灰褐色の丸みだけが残る。その内側で、呼吸が始まった。
速くない。怒っていない呼吸だった。
「……終わったよね?」
「終わった」
アンジーは盾を下ろし、その縁に額を当てた。フルプレートの中で、大きく息を吐く音がした。
「あたし、ちゃんとできた?」
「できた」
「ほんとに?」
「二回目はな」ヴァルターは縄を束ねながら言った。「一回目は最悪だった。二回目は完璧だ。今日はそれでいい」
アンジーは顔を上げた。汚れひとつない頬に、汗の筋だけがついている。
「じゃあ、あたしは主役だった?」
「主役だ」
「いちばん我慢したから?」
「そうだ」
アンジーは満足そうに頷き、それから盾を担ぎ直そうとして、思い出したように動きを止めた。持ち上げるように、と言われていた。引きずらずに、持ち上げて歩く。彼女は言われた通りにそうした。
アレイは容器の留め具を親指で一つずつ確かめていた。四つ、締まっている。振っても中で動かない。
「ヴァル」
「なんだ」
「手前の一個、割れてなかったかもしれねえぞ」
「どういうことだ」
「土が乗ってただけだ。爪は撫でただけで、殻は白かった」
ヴァルターは束ねた縄を肩へ掛け、洞穴の口を見た。灰褐色の丸みが、その下の三つを守って動かない。
「そりゃ、あっちの家の話だ。……俺たちの卵は一個で足りる」
彼は膝の砂を払い、灯の光をさらに絞った。
「行くぞ。ここから先は、割らずに持って帰るだけの仕事だ」
隊列は空洞を出る前に組み直した。
ヴァルターは保護容器を胸の前で抱え、束ねた縄の端を切って肩と腰へ二重に回し、容器の縁を体へ縛り付けた。両手が空くわけではない。転んだときに、手より先に容器が地面へ着くのを防ぐためである。
「先頭はアンジーだ」
「あたし?」
「お前だ。道を空けろ。俺は中央、アレイが後ろだ」
「先頭って、いちばん偉いやつ?」
「いちばん最初に殴られる奴だ」
「じゃあ、あたしでいいね」
異論はなかった。板金の女が前を歩き、卵を抱えた男が真ん中を歩き、剣を抜かない男が後ろを歩く。それ以外の並びで、この荷が地上へ届く見込みはない。
グリプトドンは追ってこなかった。親は巣穴に残り、残った三つを背甲の下に抱えている。ヴァルターは一度だけ振り返り、灰褐色の丸みが動かないことを確かめてから、灯を通路の先へ向けた。
最初の分岐で、アンジーが立ち止まった。
前方の通路に、犬ほどの大きさの獣が三匹いる。毛のない、灰色の皮膚をした四足で、鼻先を土に擦りつけている。匂いを追ってきたのだろう。
「ヴァル、殴っていい?」
「待て」
ヴァルターは灯を絞り、壁の凹みへ身を寄せた。通路は広い。左右に六歩ずつの余裕がある。迂回できる分岐は、二十歩ほど戻った位置にあった。
「戻るには近すぎる。……アンジー、前へ出ろ。二十歩先まで押し出して、そこで片付けろ。こっちには来させるな」
「殴っていいんだね?」
「そこでならな。俺が下がるまで動くな」
ヴァルターは容器を抱えたまま、通路を二十歩戻った。壁を背にし、足元の段差を確かめる。アレイはその斜め前に立ち、なまくら剣の柄に手を置いた。抜かなかった。抜けば構えが要る。構えれば、ヴァルターの前から一歩離れることになる。
「いいぞ」
アンジーが踏み込んだ。
三匹が同時に顔を上げ、一匹が跳んだ。タワーシールドが下から迎え、獣の身体は天井近くまで跳ね上がって落ちた。二匹目には左の拳が入り、三匹目は逃げようとして、逃げる先へ盾ごと押し込まれた。
終わるまで、十数秒だった。板金の擦れる音以外、ほとんど音が立たなかった。
「終わったよ!」
「声。……大きい」
「終わった」と、アンジーは囁き直した。
ヴァルターは容器の留め具を四つ確かめてから、前へ進んだ。振動は、彼の胸で止まっている。
四層への上り口の手前で、ヴァルターは足を止めた。最短のルートは、右手の細い裂け目を抜ける道である。降りるときは、そこを通った。
彼は灯を裂け目へ入れ、肩幅を目で測った。
「駄目だ。容器が入らねえ」
「入るよ。押せば」
「押したら擦れる。擦れたら傾く。……左だ」
「こっちのほうが遠いじゃん!」
「割って帰るよりマシだ!」
アンジーは口を開け、閉じ、それから素直に左へ曲がった。理屈は分からなかったが、怒鳴られたということは分かった。
遠回りの通路は天井が低く、床に岩が出っ張っていた。アレイが後ろから声をかける。
「ヴァル、三歩先に段。左寄れ」
「見えてる」
「その次で天井が下がる。屈むなら、膝からだ。腰から折ると容器が前に出る」
ヴァルターは膝から沈んで通り抜けた。前を歩くアンジーは、言われる前に自分の盾を横倒しにして持ち替えていた。持ち上げて運べ、と最初に言われたことを、まだ守っている。
三層の水場で、一度休んだ。
ヴァルターは容器の紐を解かず、腰の位置だけを直そうとして、片手で結び目を探った。うまくいかない。
「持ってろ」
彼は容器をアンジーへ渡した。渡してから、渡したことを一瞬悔いた顔をした。
アンジーは両腕で容器を抱えた。腹の前ではなく、胸の高さで、身体を反らせもせず、揺らさずに抱えた。あれだけの重量を苦にしない女が、十数キロの荷を、こわごわと持っていた。
「これ、動かしちゃ駄目でしょ」
「駄目だ」
「じゃあ、あたし、息だけしてる」
「息はしろ」
ヴァルターが結び直すまで、彼女は一歩も動かなかった。返してもらったヴァルターは、留め具を四つ確かめ、それから何も言わずに水筒をアンジーへ回した。
アレイは壁にもたれて、指先を眺めていた。震えは、朝より少し強い。腰のポーチには手を入れなかった。入れる理由がない。今日この道で、薬が要る場面はまだ一度も来ていない。
「アレイ。動けるか」
「動くさ。……走れって言うなら文句を言う」
「走らせやしねえよ。走ったら割れる」
二層は静かだった。スライムが二つ、通路の隅で光を反射していた。アンジーが拳を握り、ヴァルターが「無視だ」と言い、アンジーは名残惜しそうに通り過ぎた。
一層に入ると、他の冒険者の声が聞こえるようになった。土と血の匂いに、上の空気が混じり始める。
大穴の検問所で、税関の職員が容器を指した。
「中身を出せ」
「出したら割れる」ヴァルターは懐から依頼書を抜いた。「五層の甲殻獣の卵。中間材料だ。工房行きだ。ここに品名と依頼人の判がある」
職員は依頼書と容器を見比べ、留め具を一つだけ外して布の隙間から中を覗いた。白い曲面が灯を鈍く返す。
「見せてあげようか?」
アンジーが横から手を伸ばした。
「触るな」
ヴァルターとアレイの声が同時に出た。職員は無言で留め具を締め直し、通行の印を寄越した。
鉄の階段を上がり切ると、外の光が目を刺した。石畳と、荷馬車の音と、人の声。アンジーは大きく息を吸い込み、それから思い出したように声を落とした。
「……もう、静かにしなくていい?」
「いい」
「やったー!」
ギルドの方角から鐘が鳴った。ヴァルターは胸の容器へ掌を当て、四つの留め具を最後にもう一度数えた。四つ。中で動く音はしない。
「あとは、これを渡して金に換えるだけだ」
アレイは陽に目を細めながら言った。
「腹減ったな」
北西部の錬金工房は、通りの奥の袋小路にあった。石造りの平屋で、煙突が三本並び、扉の前の石畳だけが酸で白く抜けている。中へ入ると、熱と、酢に似た刺すような匂いと、灰の匂いが一度に鼻へ来た。
奥の作業台で、白い前掛けの男が振り返った。四十半ばの、指の関節が薬品で変色した男である。
「五層のか」
「五層のだ」
ヴァルターは胸の紐を解き、容器を両腕で抱え直した。男は無言で作業台の上を片付け、厚く畳んだ毛織りの布を広げ、その中央にくぼみを作った。
「留め具は俺が外す。手を離してくれ」
ヴァルターは容器を布の脇へ置き、掌を離した。男は留め具を、一つずつ、締めた順の逆から外していった。厚布の端をめくり、両手を差し入れ、卵を持ち上げた。持ち上げ方だけで、ヴァルターはこの男が卵を何度も割ってきたのだと分かった。手首から先を一切曲げなかった。
卵はくぼみへ収まった。
男は台の上の眼鏡玉を目に当て、殻を一周分だけ、指の腹で転がしながら見ていった。次に、細い木の棒を取り、殻のあちこちを軽く叩いた。叩くたび、耳を近づける。
「音が濁ったら、ひびだ」
アンジーが息を止めた。板金の女が、工房の中で一番静かにしていた。
乾いた音が七度続いた。男は棒を置き、卵を秤へ移した。分銅が三つ。
「十四キロ六百。欠けも、擦れもない。……いい状態だ」
「割れてねえな」
「割れてない。窯に入れる前の段階で、この殻がそのまま硬化薬の型になる。焼く前に髪一本の傷が入っていれば、そこから全部裂ける。だから、傷がないこと自体に金を払う」
男は前掛けで手を拭き、初めて三人の顔を見た。
「この依頼は、お前らで三組目だ。前の二組は親を殺そうとして、巣ごと潰して帰ってきた。片方は卵の破片を袋に入れて持ってきたよ」
「殺さなかったよ!」アンジーが胸を張った。「押しただけ!」
「押した」男は少し考えて、「……押したのか」と繰り返した。
ヴァルターは懐から依頼書を抜き、台へ広げた。
「一つ文句を言わせてくれ。あんたの依頼書には、親を倒せとは書いてなかった。だが、どかせとも書いてなかった」
「書いたら誰も受けない」
「そりゃそうだろうな」
男は悪びれずに筆を取り、依頼書の下段へ受領の一文を書き、傍らの判を押した。押した瞬間、三人の手首の内側が一拍だけ温くなった。誓いの印が、履行されたことを確認して緩んだのである。アンジーは自分の腕をまじまじと見て、「あ、終わったやつだ」と言った。
「金はここでは出さん。ギルドの窓口で受け取れ。」
「八十万!」
アンジーの声が工房の梁まで跳ね返った。男は少し驚いた顔をし、それから卵のほうへ意識を戻した。
ヴァルターは何も言わなかった。言うべきことは分かっていたが、この場で言えば、この女は工房の作業台を蹴るかもしれなかった。彼は依頼書を折り畳んで懐へ入れ、空になった容器を拾い上げた。
「あたし、新しいドレス買うんだ。裾がこう、広がってるやつ」
「……そうか」
「ヴァルにも一杯おごってあげる」
「そりゃどうも」
工房を出ると、通りはもう夕方の色になっていた。石畳に長い影が伸び、荷馬車が二台、酸の樽を積んで通り過ぎていく。
ヴァルターは空の容器を肩に担ぎ直し、ギルドの方角へ顎をしゃくった。
「窓口だ。行くぞ」
先頭を歩くアンジーの足音は、往路よりずっと軽かった。ヴァルターは、その背中を三歩後ろから眺め、胃の底が静かに重くなるのを感じていた。
ギルドの窓口は、夕方が一番混む。
迷宮から上がった連中が換金と報告に並び、板の向こうでは職員が三人、算盤のような珠を弾きながら台帳をめくっていた。列の空気は汗と鉄と血の匂いで、誰も他人の稼ぎを見ないふりをしながら、全員が横目で見ている。
ヴァルターは依頼書を窓口へ滑らせた。工房主の判、受領の一文、参加者欄の三つの名前。職員は判の縁を指で撫でて確かめ、台帳の該当欄と照らし、奥へ引っ込んだ。戻ってきたとき、両手で革袋を抱えていた。
「八十万ペル。数えるか?」
「数える」
窓口脇の勘定台へ移り、ヴァルターは袋の口を開けた。硬貨の音は、聞き慣れた重さの音だった。
アンジーは板金のまま台へ覆いかぶさるように覗き込んだ。胸当てが台の縁を擦って軋む。
「これ全部あたしの?」
「待て。今から分ける」
「分ける?」
ヴァルターは答えず、硬貨を十枚ずつ積み上げていった。柱が並ぶ。三列に振り分ける。列が伸び、伸びきり、端の余りを指で寄せた。
「二十六万六千。二十六万六千。二十六万六千。……端の二ペルは俺が飲む」
三つの山ができた。
アンジーは自分の前へ押し出された山を見た。それから、隣の二つの山を見た。それから、空になった革袋を見た。もう一度、自分の山を見た。
「……えっ」
「取っとけ」
「えっ、なにこれ?」
「お前の分だ」
「一人八十万ペルじゃないの!?」
声が窓口の列を貫いた。並んでいた冒険者たちが一斉に、話の途中だったような顔で前を向いた。
「バカ言え」ヴァルターは懐から依頼書を出し、報酬欄を指で叩いた。「ここ、読め。一件につき八十万。一件だ。パーティ全体で八十万を受け取って、三人で山分けだ」
「三人で……」
「三人でだ」
アンジーの唇が、数を数える形に動いた。指も動いた。板金の指が二本折れ、また伸び、また折れた。それから、動きが止まった。
「あたしの残り五十四万ペルは!?」
「最初からねえんだよ!」
「だって八十万って書いてあったもん! 工房のおじさんも八十万って言ったもん!」
「言ったな。一件につきだ」
「そんなの小さく書いてあるほうが悪いじゃん!」
アンジーの目の縁が、みるみる赤くなった。
列の空気が変わった。前から三人目にいた冒険者が、用を思い出した顔で列を離れた。四人目もそれに続いた。この街で長くやっている者ほど、この女が泣き出す前に建物を出るべきだと知っていた。
「あたし、ドレス買うつもりだったのに……裾がこう、広がってるやつ……」
「二十六万あれば買えるだろうが」
「二着買えると思ってたの!」
アンジーの拳が持ち上がった。板金の甲がぶつかり合って鳴り、勘定台の天板の上で、硬貨の山が微かに震えた。
ヴァルターは、動かなかった。代わりに、手袋を外した掌を彼女の目の前へ差し出した。五層の空洞でやったのと、同じ形で。
「アンジー。指先だけだ」
アンジーの拳が止まった。
数拍、彼女はその掌を見ていた。それから、握りを解き、人差し指の先だけをヴァルターの掌へ当てた。ヴァルターの手は、一分も動かなかった。
「……これ」
「そうだ。それが今日の力だ。台を割ったら、窓口の修理代がお前の二十六万から引かれる」
「えっ、そんなの困る」
「困るだろ」
アンジーは指を引っ込め、鼻をすすった。涙は溢れる寸前で止まり、赤い目のまま、彼女は自分の山の硬貨を両手で掻き集めて袋へ流し込んだ。集め方は、料理の皿へ手を伸ばすときと同じ勢いだった。
「……二十六万も、けっこうすごいけどね」
「すごいんだよ」
「でも八十万のほうがすごかった」
「そりゃ、そうだな」
アレイは、二人のやり取りの間に自分の山を三度に分けて懐へ収め終えていた。硬貨を握った瞬間、指先の震えが少しだけ落ち着いたのを、彼は自分でも気づいていた。震えが止まったのではない。数字が動いたのだ。
「ヴァル」
「言うな。分かってる」
「まだ何も言ってねえよ」
「顔に書いてある。……あとで来い。ツケの分も持ってこいよ」
アレイは薄く笑っただけで、それには答えなかった。
卵を一つ、割らずに運んだ。剣は抜かなかった。それで二十六万六千。悪くない一日だと思う一方で、彼は今日一日ずっと考えていたことを、ようやく言葉にした。
「なあヴァル。今日、卵を取るだけの仕事だったよな」
「そうだな」
「なんで俺たち、二メートルのアルマジロと押し合ってたんだ?」
ヴァルターは何も言わず、空の革袋を畳んで懐へ突っ込んだ。裏の物流も、センジュも避けた。名前の残らない、安全な、採取の依頼を選んだはずだった。それでも結局、巣穴の入口で親魔物と押し合いをして帰ってきた。
原因は板金を着て、いま硬貨の袋を振って重さを楽しんでいる。
「ヴァル」
「なんだ」
「一杯おごる約束、まだ有効だよ」
「……二十六万から出すのか」
「うん。一杯だけね」
「そりゃどうも」
ヴァルターは眉間を揉んだ。胃の底の重さは、まだ抜けていなかった。
依頼掲示板は、ギルドの一階の奥、換金窓口から十歩ほど離れた壁一面を占めている。
板は三枚継ぎで、上から下まで押しピンの穴だらけだった。上段には報酬の高いもの、下段には薬草採取や荷運びのような小口のものが貼られる。冒険者たちは板の前に立つと、たいてい上を見て、それから諦めて下を見る。
夕方の板の前には、四、五人が張り付いていた。板金を着た女が近づくと、その四、五人が水のように左右へ引いた。
「なあヴァル、もう帰らねえか」
アレイが言った。声に力はない。硬貨は懐に入り、あとは飯を食って、ヴァルターの部屋へ寄って、それで今日は終わりのはずだった。
「帰る。帰る前に一つだけ言っとくことがある」
ヴァルターは畳んだ依頼書を懐から出し、アンジーの目の前で開いた。
「アンジー。ここを見ろ」
「報酬のところ?」
「そうだ。ここに何て書いてある」
「一件につき、八十万ペル」
「読めるじゃねえか」
「読めるよ!」アンジーは胸を張った。板金が鳴った。「あたし、字は読めるもん」
「読めるんだよ、こいつは」ヴァルターはアレイへ向かって言った。「読めるんだ。読まねえだけだ」
アレイは何も言わず、壁に肩を預けた。
ヴァルターは依頼書を指で叩いた。
「いいか。今日みたいなことをもう一回やられると、俺の胃が死ぬ。だから次からの決まりを作る。板から紙を剥がす前に、上から下まで全部読む。報酬だけじゃねえ。人数、階層、持ち帰るもの、それから下のちっこい字だ。ちっこい字ってのは、書いた奴が本当は言いたくねえことが書いてある場所だ」
「言いたくないなら、書かなきゃいいのに」
「書かねえと後で揉めるからだよ。だから書く。ただし、読まれたくねえから小さく書く」
アンジーは眉を寄せて、しばらくその理屈を胸の中で転がしているようだった。それから納得したのかしていないのか分からない顔で頷いた。
「じゃあ、ちっこい字がいちばん大事なんだね」
「そうだ。……いや、そこまで言うと違うが、まあそうだ」
「分かった! 全部読む!」
「よし。次からそうしろ。今日はもう終わりだ、帰るぞ」
ヴァルターは依頼書を畳み直し、懐へ入れた。眉間の重さが少しだけ軽くなった気がした。
言い聞かせた。伝わった。頷かせた。
三つ揃ったのだから、これで済んだはずである。
「ヴァル」
アレイが壁から肩を離した。目は板の上段へ向いている。
「なんだ」
「あいつ、もう手ぇ伸ばしてるぞ」
ヴァルターが振り向いたとき、アンジーは板の前にいた。
つま先で立つ必要すらない。板金の指が、上段のいちばん端――赤い縁取りのある紙の下の角へ、すでに掛かっていた。
「アンジー」
「これ!」アンジーの声が跳ねた。「ヴァル、これ見て! いちばん大きい数字!」
「待て」
「二百三十万ペルって書いてある!」
「待てって言ってんだろ!」
ヴァルターは半歩で距離を詰め、板金の手首を両手で掴んだ。掴んだところで止まるものではない。この女が本気で腕を引けば、押しピンごと板の一枚が剥がれてくる。
止まったのは、アンジーが止めたからだった。
「なんで?」アンジーは掴まれた腕をそのままに、心底不思議そうに首を傾げた。「二百三十万だよ? あたし今日、五十四万なくなったんだよ?」
「なくなってねえ。最初からなかったんだ」
「じゃあこれで取り戻せるじゃん」
「取り戻すって発想がもうおかしいんだよ」
「だってドレス二着買えるもん」
ヴァルターは、掴んだままの手首の向こうにある紙を見た。赤い縁取り。上段のいちばん端。この板でその位置にある紙は、報酬が高いのではなく、長く誰にも剥がされていないという意味だった。
下のほうに、小さい字が詰まっている。読むまでもない。人数の下限か、階層か、あるいは失敗時の扱いか、そのどれかが書いてある。書いた奴が本当は言いたくないことが。
「読むって言っただろ」
「読むよ!」
「今読め。上から下まで」
「剥がしてから読む!」
「順番が逆なんだよ!!」
ヴァルターの声が、換金窓口の列まで届いた。並んでいた冒険者たちが、今日二度目に、用を思い出した顔で振り向くのをやめた。
アレイは壁際から動かなかった。
止める気は、正直なところ、あまりなかった。二百三十万を三で割れば七十六万である。家賃を抜いても、しばらく数えなくて済む額だ。数えなくて済む日が続くというのは、それだけで悪くない。
それに、赤い縁取りの紙が上段の端で日に焼けている理由も、たぶん今日は考えないほうが楽しい。
「なあヴァル」
「言うな」
「まだ何も言ってねえよ」
「顔に書いてある。お前も割り算してんだろ」
アレイはヘラヘラと笑って、それには答えなかった。
板の前では、板金の指が紙の角を掛けたまま、まだ離れていない。アンジーはヴァルターに手首を掴まれた格好で、行儀よく、しかし一歩も退かずに笑っていた。
「ヴァル。ちっこい字、読んであげようか?」
「お前が読むと剥がすんだよ」
「じゃあヴァルが読んで」
「……手を離してから言え」
押しピンが一本、板の穴から半分抜けかけて、紙の角が微かに持ち上がっている。
ギルドの夕方の騒めきの中で、その紙だけが、風もないのにひらひらと鳴っていた。




