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7.2 おかえりアンジー

 北西部の道具屋で、ヴァルターは依頼書を卓の上に広げた。


「いいか、一回しか言わねえぞ。今回獲るのはグリプトドンの卵だ」


「グリ……なに?」


「巨大なアルマジロだ。丸まると背中が岩みてえになる。五層の奥に穴を掘って住んでる」


 アンジーは指を一本立てた。


「殴る?」


「殴らねえ。倒す依頼じゃねえんだ」


 ヴァルターは依頼書の下段を指で叩いた。細かい字で、注意書きが三行あった。


「卵は人の頭くらいの大きさで、重さは十数キロ。殻は硬いが、衝撃には弱い。ひとつだけ、ひびも欠けもねえ状態で持ち帰る。ひびが入ってりゃ一ペルにもならねえ」


「じゃあ落とさないようにすればいいんだ」


「そういうことだ。落とすな、ぶつけるな、揺らすな」


 店の主人が奥から運んできたのは、内側に厚い布を張った木の容器だった。留め具が四つあり、中で品が転がらないよう当て布で挟む造りになっている。ヴァルターはその布の厚みを指で確かめ、縄と、掌ほどの木の楔を六本、それに当て布を追加で買い足した。


 アレイが横から覗き込んだ。


「縄と楔なんて何に使うんだ」


「まだ分からん。現地を見てからだ。だが、力任せにやる仕事じゃねえのは確かだ」


 そう言いながら、ヴァルターは依頼書の報酬欄をもう一度見た。


 八十万ペル。その上に小さく、一件につき、と書いてある。


 口を開きかけて、彼はやめた。


 ここで正しい算術を教えれば、この女は間違いなく「じゃあ別のにする」と言って掲示板へ戻る。そして今より悪い依頼書を剥がしてくる。それが二枚三枚と続く可能性を、ヴァルターは冷静に見積もった。


 算術の話は、金を受け取るときにすればいい。彼は依頼書を畳んで懐へ入れた。


「ヴァル、なに黙ってるの?」


「金の勘定だ」


「あたし、八十万で新しいドレス買う!」


「……好きにしろ」




 中央の大穴を降りて、三人は迷宮に入った。


 先頭はヴァルターである。彼は魔石灯の光量を絞り、床の乾きと湿りを見比べながら分岐を選んでいく。二層に入るあたりで、通路の先から羽音が聞こえた。


 アンジーが足を止め、拳を鳴らした。板金の指が硬い音を立てる。


「いた」


「行くな。左だ」


「でも三匹しかいないよ」


「三匹だろうが三十匹だろうが同じだ。俺たちの荷物には、これから割れ物が入る。今のうちから余計な喧嘩を覚えさせるな」


 アンジーは不満そうに口を尖らせたが、素直に左の道へ入った。命じられたことを守るのは、彼女の唯一の美点かもしれなかった。ただし、命じられていないことは何ひとつ守らない。


 最後尾はアレイだった。シラフである。なまくら剣は鞘から抜かず、腰にぶら下げたまま、ただ後方の暗がりへ時々目を向ける。薬の切れた身体は重く、階段を降りるたびに膝の裏が軋んだ。ヴァルターが選ぶ道は、その重さをよく計算に入れた道だった。


 三層の水場で一度休み、干し肉を噛んだ。アンジーは自分の分を三口で片づけ、それからアレイの分を見た。


「食うぞ」


「まだ何も言ってないもん」


「顔が言ってた」


 四層に降りると、通路が広くなる代わりに、天井の低い区画が続いた。ヴァルターは壁際の擦れ跡を灯で照らし、指でなぞって、乾いた粉を落とした。


「新しい。ここは通らねえ」


「なんで分かるの?」


「粉が乾いてねえからだ。……いや、説明はいい。ついてこい」


「うん!」


 結局、五層に降りるまでに拳を使ったのは一度だけだった。細い通路の真ん中で、犬ほどの大きさの甲虫が二匹、動かずに道を塞いでいた。迂回路は水没していた。


 ヴァルターは灯を掲げ、短く言った。


「二匹だ。二発で済ませろ。壁を殴るな。天井を揺らすな」


「三発じゃダメ?」


「二発で済むなら二発だ」


 アンジーはタワーシールドを前に立て、そのまま踏み込んだ。鉄の板が一匹目を通路の壁へ押し付け、外殻が乾いた音を立てて潰れた。二匹目が跳ねかかったところへ、空いた右の拳が下から入った。虫は天井まで飛び、落ちてきて動かなくなった。


 所要は、二呼吸だった。


「二発!」


「上出来だ」


 ヴァルターは通路の先へ光を向けながら、心の中でだけ付け足した。この女が加減を要求されない場面では、これほど便利な道具は他にない。問題は、この仕事の本番が、加減しか要求されない仕事だということだった。


 五層の空気は、上の層より乾いていた。石の匂いに混じって、獣の巣の匂いがかすかにする。


 ヴァルターは灯を絞り、二人を振り返った。


「ここからだ。声を落とせ。アンジー、盾を引きずるな。持ち上げて歩け」


「はーい」


 鉄の縁が床から離れ、白い線が途切れた。


 三人は、匂いのする方へ進んだ。


 匂いは、通路が右へ折れるあたりで急に濃くなった。


 獣の体臭と、乾いた糞と、砕けた石粉の混ざった匂いである。アレイが鼻から短く息を吐いた。


「濃いな」


「近い。……足元見ろ」


 ヴァルターが灯を床へ向けた。石畳の代わりに、踏み固められた土がある。その土の表面が、幅一メートル半ほどの帯になって、つるりと磨かれていた。何度も何度も、重いものが同じ道を転がった跡だった。


 壁にも跡があった。腰の高さから頭の高さまで、灰色の石が白っぽく擦り減っている。ヴァルターは指を当て、粉を掌に落として鼻へ近づけた。


「これも新しい。だが、こっちは避けねえ。この道が巣に続いてる」


「じゃあ殴りに行くんだね」


「行かねえ。……アンジー、頼むから覚えてくれ。今日の敵は魔物じゃねえ。卵のひびだ」


 アンジーはしばらく黙って、それから真面目な顔で頷いた。


「ひびを殴る」


「殴るな」


 通路はゆるやかに下り、やがて天井の高い空洞へ出た。


 空洞の奥の壁に、穴が開いている。人が掘ったものではないことは一目で分かった。縁は不規則で、爪でえぐった溝が放射状に走っている。直径はおよそ二メートル。三人が並んで入れる程の口ではあるが、今はその口の八割が塞がっていた。


 塞いでいるのは、岩ではなかった。


 灰褐色の甲板が、幾重にも重なって半球を作っている。板の一枚一枚は掌よりも大きく、縁が磨り減って光っていた。表面には苔と土が乗り、本当に洞穴の入口に転がり込んだ岩そのものに見える。だが、よく見れば、その半球は呼吸をしていた。ゆっくりと、深く、板の隙間がわずかに開いて閉じる。


「あれが親か」


 アレイが小さく言った。


「あれが親だ。丸まってる。頭と前脚は内側に引き込んでる」


 ヴァルターは灯の光をさらに絞り、腹ばいに近い姿勢で空洞の縁を回った。二人にも手で合図し、正面に立つなと示す。壁沿いに十歩ほど進んで、彼はようやく巣穴の斜め横に落ち着いた。


 その位置からは、背甲と洞穴の縁の隙間が見えた。指三本ほどの隙である。その奥に、灯を反射する白いものが並んでいた。


 卵だった。


 数は五つか六つ。土を浅く掘った窪みに、互いに触れ合うようにして並んでいる。手前の一つは、背甲の内側から突き出た太い爪の先から、掌一つ分も離れていない。


「見えるか」


「見えた。近すぎるな、手前の」


「そうだ。あそこへ手ェ突っ込みゃ、指が三本残るかどうかだ」


 アンジーが横から覗き込もうとして、盾の縁を壁に当てた。硬い音が空洞に響いた。


 背甲の呼吸が止まった。


 三人が動かないまま数えて十を過ぎたころ、板の隙間から低い唸りが漏れた。石が石を擦る音に近い。それから、半球はほんのわずかに動いた。動いたのは前ではなく、洞穴の口へ向かって奥へ。塞ぎ方をより厳重にしただけだった。


 ヴァルターは長く息を吐いた。


「……見たか。今のが答えだ」


「なにが?」


「あいつは襲ってこねえ。逃げもしねえ。ずっとあそこで蓋になってる。それが卵を守るってことだからな」


 アレイが顎を撫でた。


「じゃあ、こっちが手を出さなきゃ、永遠にああしてるってことか」


「そういうことだ。ありがてえ話でもある。……こいつが向かってくる種類だったら、俺は依頼書ごと燃やして帰ってた」


 ヴァルターは膝をつき、土の上に指で線を引いた。丸を一つ、その横に洞穴の口を表す弧を描く。


「いいか、二人とも聞け。やり方は三つある。一つは殺す」


 アンジーが顔を輝かせた。


「殺す!」


「殺せねえ。あの甲羅は並の刃を通さねえ。通す方法はあるが、それをやると――」


 ヴァルターはアレイの腰を、目だけで指した。なまくら剣と、その持ち主。


「――帰りにあいつを引きずって歩くことになる。卵と役立たずの荷物を引きずるのはごめんだ」


「俺は別に構わねえけどな」とアレイが言ったが、口調に本気はなかった。


「二つ目は、引きずり出す。縄をかけて、外へ引っ張り出す」


「それだ! あたし引っ張る!」


「無しだ。引き出されると分かった瞬間、あいつは暴れる。前脚が出る。爪が出る。あの爪の届く範囲に、卵が全部ある」


 ヴァルターは土に描いた丸の、洞穴の外側を指でなぞった。


「三つ目。これしかねえ。あいつを横へずらす」


「横」


「そうだ。前でも後ろでもねえ、横だ。あの丸まった身体を、穴の口に沿って掌一枚分ばかり滑らせる。それだけで、俺たちが腕を入れられる隙間ができる」


 アンジーは首を傾げた。板金の肩当てが、頭の動きに合わせて鳴った。


「掌一枚分? そんなちょっと?」


「そんなちょっとだ。それ以上動かす必要はねえし、それ以上動かしちゃならねえ。大きく開けりゃ、あいつは自分が守り切れてねえと気づく。気づいたら暴れる。暴れたら終わりだ」


 ヴァルターは巣穴のほうへ顎をやった。


「掌一枚分だけ開けて、あいつには『まだ蓋をしてる』と思わせたまま、卵を一つ抜く。それが今日の仕事だ」


 アレイが隙間の奥へもう一度目を凝らした。


「奥から二つ目。あれなら爪から遠い」


「お前が抜け。手が長い」


「盾で押すのはあたし?」


 アンジーが胸を張った。フルプレートの胸当てが、ドレスの布地を巻き込んで軋む。


「お前が主役だ」


 ヴァルターは言い、それからすぐに指を一本立てて彼女の鼻先へ向けた。


「だが、真っ直ぐ押すな」


「真っ直ぐ押しちゃダメなの? 押すのに?」


「真っ直ぐ押せば、あいつは穴の奥へ入る。奥には卵がある。分かるか。お前が押した力は、そのまま卵を潰す力になる」


 アンジーは自分の掌を見て、それから巣穴を見た。何かを本気で考えている顔だった。彼女がその顔をするのは珍しい。


「……じゃあ、どうやって横に押すの? 横から押せばいいの?」


「横から押せる場所がねえ。だから道具を使う」


 ヴァルターはバックパックを下ろし、縄と、掌ほどの木の楔を取り出した。楔を二本、土の上に並べる。


「まず縄だ。背甲の丸みに沿って回して、穴の口の脇にある、あの岩へ斜めに通す」


 彼が示したのは、洞穴の入口の左手に張り出した、腰の高さの岩棚だった。


「引きずるための縄じゃねえぞ。お前が横から押したとき、あの丸いもんは必ず元の位置へ転がり戻ろうとする。それを止める。押す向きを一本に決めるための止め具だ」


「うん?」


「分からなくていい。俺が張る」


「うん!」


 ヴァルターは楔を持ち上げた。


「次に楔だ。背甲の下端と、あの岩の間に差し込む。持ち上げるためじゃねえ。背甲の端が岩の丸みに沿って横へ滑る、その道を作る。ついでに、奥へ入り込むのを止める歯止めにもなる」


 アレイが楔を一本手に取り、重さを確かめた。


「これ、折れねえか」


「折れる。だから六本買った」


「用意がいいな」


「用意しか俺の取り柄がねえんだよ」


 ヴァルターは立ち上がり、二人の顔を順に見た。灯を絞ったせいで、三人の輪郭だけが暗がりに浮いている。


「手順を言う。一、俺が縄を回して張る。二、俺が楔を差す。三、アンジーが盾を背甲の端に当てる。この時点では押すな。当てるだけだ」


「当てるだけ」


「四、俺が合図する。合図してから、少しずつ力を足せ。俺が『引け』と言ったら、その瞬間に引け。理由は聞くな。聞いてる間に卵が割れる」


「分かった!」


 ヴァルターはそこで一度言葉を切り、深く息を吸った。彼が一番言いたいことは、まだ言っていなかった。


「アンジー。今日の力は、三割だ」


「三割」


「お前の全力の、三割。いや、二割でもいい。押し潰すんじゃねえ、滑らせるんだ。分かるか」


 アンジーは眉根を寄せて、指を折り始めた。一、二、三。それから顔を上げた。


「三割って、どのくらい?」


 ヴァルターは黙った。


 アレイが横で、なまくら剣の柄に手を置いたまま、小さく息を漏らした。笑ったのかもしれない。


「……ヴァル」


「言うな」


「無理だと思うぜ」


「言うなっつってんだ」


 ヴァルターは額を押さえ、それからアンジーの前へ手を差し出した。


「押してみろ。俺の掌を、三割で」


 アンジーは素直に頷いて、板金の手袋を外した。古傷とささくれの残る拳が出てくる。彼女はその拳を開き、指先をヴァルターの掌へ添えた。そして、押した。


 ヴァルターは三歩下がった。踵が土を掘り、背中が壁に当たった。


「……それが三割か」


「うん!」


「アレイ」


「なんだ」


「楔は六本ある。だが、たぶん足りねえ」


 巣穴の入口では、灰褐色の半球が変わらぬ速さで呼吸を続けていた。その下の暗がりで、白い卵が五つか六つ、灯の光をわずかに返している。


 ヴァルターは縄の束を肩に掛け、楔を懐へ差した。


「行くぞ。声を落とせ。……アンジー、三割だ」


「三割!」


 返事だけは、いつも完璧だった。


 


 縄を回すのに、思った以上の時間がかかった。


 ヴァルターは腹ばいに近い姿勢で背甲の脇へ寄り、灰褐色の丸みに沿って縄を這わせた。触れれば呼吸が止まる。止まったら手を離して十を数え、また這わせる。それを四度繰り返して、ようやく縄の先が背甲の向こう側へ回り、洞穴の口の左手に張り出した岩棚へ届いた。


 岩棚に二重に巻き、末端を自分の腰へ回す。斜めに張った縄が、灯の細い光の中で一本の線になった。


「張った」


 囁くような声だった。アレイが頷き、アンジーも頷いた。アンジーの頷き方だけが、板金の音を立てた。


 次は楔だった。背甲の下端と岩棚の間に、わずかな空隙がある。ヴァルターはそこへ当て布を差し入れ、布の上から木の楔を押し込んだ。木槌は使わない。掌の底で、押す。三度目で楔が噛み、背甲の端がほんの数ミリ、岩の丸みへ乗った。


 二本目を差し込み、ヴァルターは初めて背筋を伸ばした。汗が顎から落ちて土に染みた。


「よし。……アンジー、来い」


 アンジーは足音を殺して近づいた。殺したつもりだが、フルプレートの脛当てが小石を蹴って鳴った。ヴァルターは目を閉じ、何も言わずに位置を指で示した。


「ここだ。盾の縁を、この線に合わせろ」


 土に指で引いた短い線がある。背甲の端から、岩棚のほうへ斜めに走る線だった。


「当てるだけだぞ。押すな。当てるだけだ」


「当てるだけ」


「そうだ。当てたら、俺が三つ数える。三で――」


 そこまでだった。


 アンジーは足場を取り、タワーシールドを両手で構えた。構えたと同時に、腰が落ちた。膝が沈み、板金の隙間から吐かれた息が短く鋭くなった。それは彼女が壁になるときの姿勢ではなかった。前へ出るときの姿勢だった。


「よーし! 任せて!」


「待――」


 言い終わらなかった。


 轟音が空洞を殴った。


 タワーシールドが背甲を真正面から捉え、その音は金属でも石でもない、腹の底を突き上げるような鈍い破裂音だった。アンジーの全体重と、断裂と同時に修復される筋肉が生み出す出力が、一点に集まって背甲へ流れ込んだ。


 二メートル近い半球が、洞穴の口の中へ滑り込んだ。


 横ではない。奥へ。


 縄が唸った。岩棚に巻いた二重の輪が、擦れて煙のように白い粉を吹いた。楔が二本とも同時に弾け、木片が空洞の壁に当たって跳ねた。当て布が背甲の下から引き抜かれ、宙で一度めくれて土に落ちた。


 洞穴の奥から、聞いたことのない声が上がった。


 唸りではない。悲鳴に近い、高く割れた咆哮だった。石を擦る音を無理やり引き裂いたような音である。半球が内側から膨れ、板の隙間が一斉に開いた。開いた隙間から、太い前脚と、湾曲した黒い爪が飛び出した。


 爪が土を掻いた。掻いた土が、卵の並ぶ窪みへ雨のように降った。


「馬鹿野郎!」


 ヴァルターが跳んだ。縄を腰から外す暇もなく、そのまま体ごとアンジーの脇腹へぶつかった。百七十四センチの男が、鉄を着た女に体当たりしたところで倒れはしない。だが、押していた盾の角度だけは崩れた。


「全力じゃねえ! 加減しろ!! 加減しろって言ったろうがァ!」


 声が空洞に反響し、それを聞いたグリプトドンがさらに暴れた。背甲が洞穴の内壁を打ち、天井から土がこぼれた。前脚が引き戻され、また出て、爪先が卵の一つを掠めた。白い殻の表面を、黒い爪が浅く撫でて通った。


 アレイは既に地面に膝をついていた。なまくら剣は抜いていない。抜いても意味がないと分かっている。彼は隙間の奥に目を凝らし、卵の位置と、爪の届く弧を数えていた。


「ヴァル」


「見てる!」


「奥から二つ目、まだ無事だ。手前の一個は――今、擦った」


「割れたか」


「分からねえ。土が乗ってる」


 アンジーは、押すのを止めていた。ヴァルターに引き剥がされたわけではない。彼女は自分から力を抜き、盾を胸元へ引き戻して、本気でキョトンとした顔をしていた。


「えっ!?」


「えっ、じゃねえ!」


「力いっぱい押すんじゃないの!?」


「誰がそう言った!」


「主役って言った!」


 ヴァルターは一瞬、言葉を失った。それから縄を掴み直し、岩棚のほうへ体重をかけながら怒鳴った。


「主役ってのは、いちばん我慢する奴のことだ!」


「そうなの!?」


「そうだ!」


 洞穴の中で、暴れが少しだけ収まった。押す力が消えたことに、獣が気づいたのだ。前脚が背甲の内側へ引き込まれ、板の隙間が閉じ始める。半球はゆっくりと後退し――いや、後退ではなかった。洞穴の口へ向かって、また転がり戻ってくる。塞ぎ直そうとしている。


「戻る!」


 ヴァルターは縄を張った。手袋の上から、繊維が掌を焼いた。だが縄はもう役に立たなかった。背甲が奥へ入った分だけ縄は緩み、緩んだ縄は止め具ではなく、ただの垂れた紐になっている。


 半球は元の位置へ収まり、洞穴の口を、以前よりも深く塞いだ。呼吸の間隔が短くなっている。速い。怒っている呼吸だった。


 空洞に、しばらく誰の声もなかった。


 ヴァルターは膝から崩れるように座り込み、額を掌で押さえた。指の間から汗が滴った。


「……アレイ」


「なんだ」


「今のは、いくつだと思う」


「何が」


「あいつの三割」


 アレイはなまくら剣を抱え直し、洞穴の口を見た。それから、ひび割れて土に転がった楔の残骸を見た。


「十割だな」


「そうだよなァ」


「おいおい、卵割りかけたぞ」


「割りかけた、じゃねえ。割れてるかどうかまだ分かってねえんだ。それが一番タチが悪い」


 アンジーが盾を下ろし、二人の顔を交互に見た。怒られていることは分かっている。だが、なぜこれほど怒られているのかは分かっていない顔だった。


「あたし、ちゃんと押したよ?」


「押しすぎたんだよ」


「だって、硬いから……本気で押したほうがいいかなって……」


「硬いのは背中だ。中身は違う。お前が押した力は、あの丸いのを通って、そのまま卵にいくんだよ。分かるか。お前が殴ったのは甲羅じゃねえ、卵だ」


 アンジーの表情が、そこで初めて変わった。


 拳を握って、開いて、それから自分の掌を見た。古傷とささくれの残る掌である。彼女はしばらくそれを見つめていた。


「……卵、割れちゃった?」


「分からねえ」


「あたしのせい?」


 ヴァルターは答えなかった。答える代わりに立ち上がり、腰の縄を解いて束ね直した。


「まだ終わってねえ。やり直す」


「やり直せるの?」


「やり直せるように道具を六本買ったんだ。折れたのは二本だ。四本残ってる」


 それは慰めではなかった。単に、まだ手があるという事実の確認である。だがアンジーはそれを聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。


 ヴァルターは崩れた現場を検めた。楔は二本とも根元から折れ、縄は毛羽立って次に張れば切れる状態だった。


「アレイ、縄を替える」


 古い縄を短剣で切り捨て、丸めて壁際へ放る。新しい縄を肩にかけ、腹ばいの姿勢で背甲の脇へ寄っていった。触れる前に十を数え、二度、三度と手を引いてから、四度目でようやく縄が向こう側へ回る。


 今度は岩棚に三重に巻き、末端を突起へ引っ掛けた。腰へは回さない。次に何かがあったとき、自分ごと引きずられないためだった。楔も二本から四本に増やす。折れる分を見込んでの数だった。差し込みは先ほどより難しく、三本目は途中で噛み合わず角度を変えて差し直した。


 四本目を打ち終えたとき、ヴァルターの手は震えていた。恐怖ではない。押し続けた腕が限界に来ていた。


「……アンジー、もう一回、掌を出せ」


 先ほどと同じ検査だったが、要求は違った。


「三割じゃねえ。俺の手が動かない程度だ。動かしたら失敗だ」


 アンジーは指先だけで押した。ヴァルターの掌は動かなかった。


「……それだ。今の力を覚えとけ」


「これ? ぜんぜん力入ってないよ?」


「入ってねえのがいいんだ。今日は、判断は俺がする。お前は力を出すだけでいい」


 アレイが洞穴の呼吸を数えながら言った。


「ヴァル。呼吸、落ち着いてきたぞ」


「どのくらいだ」


「さっきの半分くらいの速さだ」


「あと少し待つ。完全に元の速さに戻るまでだ」


 四本の楔が、灰褐色の丸みを岩の丸みへ導く道として並んでいる。三重に巻いた縄が、灯の光の中で一本の線を作っていた。最初に組んだものより、丁寧で、頑丈だった。一度壊されたから、そうなった。


「いいか、アンジー。もう一度言う。俺の掌を動かさなかった、あの力だ。俺が『引け』って言ったら、理由も聞かずにすぐ引けよ」


「分かった!」


 返事の勢いだけは、一度目とまったく同じだった。


 ヴァルターは長く息を吐き、それから縄の端を握った。


 待ったのは、体感で四半刻ほどだった。


 アレイが洞穴の口へ耳を向けたまま、指を二本立てた。それから一本に折った。


「戻った」


「元の速さか」


「元の速さだ。……眠りかけてるかもしれねえ」


 ヴァルターは頷き、縄の端を握り直した。手袋の内側は汗で滑る。膝の砂を払い、足の裏を岩の傾きへ合わせた。踏み損ねたら、縄を張る力がそのまま抜ける。


「アンジー」


「はい」


 返事は小さかった。今日はじめて、彼女は声を落とすことを自分でやった。


「盾を当てろ。線に合わせて。当てるだけだ」


 アンジーはタワーシールドの縁を、土に引かれた斜めの線へ静かに寄せた。鉄と甲殻が触れる音は、指で紙を撫でるほどの音しか立たなかった。あれだけの質量を、彼女はそこまで落として置くことができる。できるのに、さっきはしなかった。


 背甲の呼吸が、一度だけ止まった。


 三人とも動かない。土に落ちる汗の音が聞こえるほどの静けさがあって、それから呼吸が再開した。速くはならなかった。


「いいぞ」ヴァルターが囁く。「今から数える。三で、さっきの掌の力だ。俺の手を動かさなかった力だ。それを、そのまま盾に乗せろ」


「掌の力」


「そうだ。潰すんじゃねえ。送るんだ」


 アンジーは頷いた。板金は鳴らなかった。


「一つ」


 ヴァルターが縄をわずかに引いた。三重に巻いた縄が岩棚の上できしみ、たわみが消えて一本の線になる。


「二つ」


 アレイが膝の位置を数センチずらし、隙間の奥へ視線を通した。なまくら剣は地面に置いてある。抜かないと決めたなら、手に持っている必要さえない。


「三つ」


 アンジーの足の裏が、岩を噛んだ。


 盾が動いた。動いたと分かるまでに一拍かかるほどの、ゆっくりとした前進だった。それは打撃ではなく、押しでもなく、体重の預け方だった。二メートル近い灰褐色の半球が、その圧を受けて――低く、長く、擦れた。


 石が石の上を這うような音である。四本の楔が順に軋み、背甲の下端を岩棚の丸みへ導いた。縄が戻ろうとする力を受け止め、逃げ場を一方向へ絞った。


 半球が、横へ滑った。


「動いた!」


「声出すな。……そのままだ、止めるな」


 洞穴の口と背甲の間に、細い闇が生まれた。指四本ほどの幅である。


「まだだ。卵一個分だけだ」


 アンジーは呼吸を止めていた。止めると力が固まると、彼女の身体が知っているのだろう。板金の隙間から、汗が一筋、顎へ落ちた。フルプレートの上から見ても、肩の位置が一ミリも上下していない。


 楔の三本目が、根元でぱきりと鳴った。


 ヴァルターの背中が跳ねた。だが折れたのは半分だけで、残った半分が斜めに噛み直した。彼は息を吐かずに縄を握り替えた。


「アレイ、幅」


「まだ足りねえ。腕は入るが、肘が曲がらねえ」


「あと二寸だ。アンジー、足すぞ。ほんの少しだ」


「どのくらい?」


「掌のときに、俺の手が動く直前の力だ」


「……分かった」


 アンジーの膝が、さらにわずかに沈んだ。


 擦れる音が伸びた。背甲が二寸だけ横へ送られ、そこで岩棚の縁に端が乗った。乗った瞬間、重さの支え方が変わった。獣の身体は、自分でその位置に落ち着いた。


「開いた。そこで止めろ!」


 アンジーは止まった。命じられたことは守る。


 隙間は、大人の腕がまっすぐ入るだけの幅になった。奥に、白い曲面が三つ並んで見える。手前の一つには黒い土が乗っていて、その下がどうなっているかは分からない。二つ目は、灯の光を鈍く返していた。


 アレイは腹ばいになり、右腕だけを差し入れた。


 熱い。獣の腹の熱と、糞と土の匂いが顔にかかる。肩まで入れたところで、彼は動きを止めた。


 背甲の内側で、親が身じろぎした。


 張った縄が低く鳴った。楔が軋み、隙間の高さが指一本分だけ縮んだ。アレイの肩の上を、甲殻の縁が撫でて通った。


「アレイ」


「まだいる」


 黒い爪先が、闇の奥から現れた。土を探るように動き、手前の卵のすぐ横を擦って、また引き返した。爪の弧は、アレイが数えた通りの範囲を出なかった。


「今のは近い」ヴァルターが縄を握り込みながら言った。


「見えてる」


「次に親が止まった瞬間だ。焦るな」


 アレイは動かなかった。腕を伸ばしたまま、掌を上へ向けて待った。


 薬はない。指先が微かに震えているのが自分でも分かる。シラフの身体は重く、膝は軋み、肩の付け根が痛む。かつては、こんなものを待つ必要がなかった。炎の中でも、間合いは自分で作れた。


 今は、獣が休むのを待つ。


 それが不快ではないことに、アレイは少しだけ驚いていた。


 爪が引き、前脚が背甲の内側へ収まった。呼吸が、二つ分だけ間を空けた。


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