7.1 おかえりアンジー
パンテラ収容所、通称「ブタ箱」。
石壁には湿気と鉄錆と消毒薬の臭いが染み込み、木の寝台は何十人分もの汗と垢を吸って黒ずんでいる。床の汚れは、もう洗っても落ちない色に変わっていた。鉄格子の開閉音、刑務官の怒鳴り声、囚人同士の怒号、金属の食器が擦れる音。ここで静かな時間があるのは、誰かが誰かに殴られて気を失っている間だけだ。
その朝、収容区画に囚人番号が響いた。
「四七二番!」
返事の代わりに、寝台の板がきしんで跳ねた。房の奥から立ち上がったのは、女だった。
男の受刑者が大半を占めるこの場所で、女は珍しい。まして、看守からも囚人からも恐れられている女となれば、いよいよ稀だ。彼女が廊下を歩けば、囚人たちは二種類に分かれる。面白半分に鉄格子から顔を覗かせる者と、壁のほうを向いて目を合わせないようにする者だ。名前を知らない者ですら、姿を見れば「あの女だ」と分かった。
「おい、あの女、出てくのか」
「一年経ったのか。早えな」
「早くねえよ。俺は長かった」
囁きの中には、安堵する声、惜しむ声、最後まで関わりたくないという沈黙が混ざっていた。彼女の名前を口にする者はほとんどいない。名前を呼ばなくても、誰のことか分かるからだ。
アンジーはそんな囁きの間を、上機嫌で歩いていった。
「みんな元気でね〜!」
誰も返さなかった。三つ目の房の前で、大柄な男が慌てて壁のほうへ寝返りを打つ音がした。アンジーはそれを見て、まだ寝てるんだな、と思った。
手続きの部屋で、担当の刑務官が木箱を台へ置いた。
「四七二番。預り品の返却だ。確認しろ」
箱から出されたのは、たたまれたドレスだった。深い色の生地に、収監時のまま留められた飾り紐。刑務官が続けて、櫛や小さな鏡、革の紐で束ねた小物、それに冒険者証を簡素な袋へ押し込んでいく。
アンジーは返却品の数を数えることもせず、ドレスだけを両手で持ち上げた。
「あー! あたしのドレス! 久しぶり〜!」
頬に押し当てて、匂いを吸い込む。一年ぶんの防虫薬の匂いしかしなかったが、彼女には十分だった。いい女は常にドレスを着ているものだ。囚人服の一年は、その点だけが不満だった。
「終わったか。……それと、こっちだ」
刑務官が顎で示したのは、部屋の隅である。二人がかりで運び込んだらしいフルプレートアーマーが、床板を軋ませて置かれていた。その横には、大人一人を丸ごと隠せる大きさのタワーシールドが立てかけてある。どちらも通常の人間なら持ち上げるだけで腰を痛める重量だ。
アンジーは片手で盾の縁を掴み、ひょいと引き寄せた。刑務官の眉が跳ねる。
「傷ついてないね! よかった〜」
「……傷をつけるほど誰も触れねえんだよ」
書類の判が押され、刑務官はペンを置いた。それから、面倒な囚人がようやくいなくなる安堵と呆れを、隠す努力もせずに吐き出した。
「いいか。もう戻ってくんなよ」
アンジーは背筋を伸ばし、胸を張って答えた。
「はい! 今度は捕まるまでは殴りません!」
刑務官の手が、額へ上がった。
「……なんだそれは」
「だから、捕まるようなことになる前に、ちゃんと止めるってこと!」
「捕まるかどうかを決めるのはお前じゃねえんだよ」
「えっ、なにそれ?」
本気で分からない、という顔だった。刑務官はしばらく無言でアンジーを見上げ、それから深く息を吐いて、扉のほうへ手を振った。もういい、行け、という意味だと、アンジーは正しく理解した。約束のほうは伝わったと思っていた。彼女は本気で守るつもりだった。
鉄扉が押し開かれる。
蝶番の悲鳴のあと、風が来た。
外気は埃と石畳の熱を含んでいて、迷宮都市らしい雑多な匂いがした。焼いた肉、獣脂、酒、遠くの荷馬車の土。アンジーは目を細め、胸が持ち上がるほど大きく吸い込んだ。
自由になった、という実感を彼女が深く考えることはなかった。一年が長かったかどうかも、あまり考えない。ただ、はっきりしているものが二つあった。
肉と、ビールだ。
ブタ箱の飯には、噛む必要のある肉が一度も出なかった。酒はもちろん一滴もなかった。それだけで、この一年は罰として十分に機能していたと言える。
アンジーはその場でドレスに着替え、囚人服を丸めて塀の脇へ置いた。裾を整え、飾り紐を締める。それから鎧を抱え、タワーシールドを背に回して、当たり前のように担ぎ上げた。
誰も迎えに来ていない。誰かが来ると思っていたわけでもない。
「よし、ギルド!」
陽の光の下、ドレス姿の女が全身鎧と巨大な盾を抱えて歩き出す。すれ違った通行人が二度振り返り、荷車を引いていた男が車輪を溝に落とした。アンジーは気づかないまま、迷宮都市パンテラの大通りを、冒険者ギルドの方角へ真っ直ぐ歩いていった。
頭の中にあるのは、脂の浮いた大皿と、白い泡の乗ったジョッキだけだった。
冒険者ギルドの食堂は、昼を過ぎても人が引かない。
迷宮から上がってきた者が土と血の匂いを持ち込み、これから潜る者が最後の腹ごしらえをする。長卓は端から埋まり、板張りの床には獣脂と酒がこぼれた跡が層になって染みついていた。厨房からは絶えず肉の焼ける音が響き、給仕が皿を頭上に掲げて人の間を縫っていく。
その入口に、全身鎧を抱えたドレス姿の女が立った。
最初に気づいたのは、扉のすぐ横で串焼きをかじっていた男だった。彼は串を口から抜き、そのまま動きを止めた。次に隣の男が、その視線を追って振り返った。
アンジーは誰の顔も見ていない。奥のほうに空いた四人掛けの卓を見つけ、そこへ真っ直ぐ歩いていった。途中で椅子の背に肘が当たり、座っていた男の椀が跳ねて汁が飛んだが、男は文句を言わなかった。言おうとして、顔を上げて、やめた。
卓に着くと、アンジーは抱えていたフルプレートアーマーを隣の空いた床へ下ろした。どすん、という重い音が、食堂の板をわずかに震わせた。タワーシールドはその横へ立てかける。
それから椅子を引いて、腰を落ち着けた。
「すみませーん!」
給仕の少年が飛んでくる。アンジーは卓に肘をつき、身を乗り出した。
「肉! 焼いたやつ! いちばん大きいのを二つ! それと骨つきのやつと、あと腸詰めもある?」
「あ、ありますけど」
「じゃあそれも! ビール! いちばん冷えてるやつ!」
「……お一人ですか」
「うん!」
少年は一度厨房を振り返り、それから何も聞かずに走っていった。この店で働く者は、注文の量で客の常識を測らないよう訓練されている。
ビールが最初に来た。木のジョッキに白い泡が盛り上がっている。
アンジーはそれを両手で持ち、一度だけ、じっと見た。一年ぶんの間があった。
次の瞬間、ジョッキは半分になっていた。
喉が動く音が、周囲三卓に聞こえるほど鳴った。泡が唇の上に残り、彼女は手の甲でそれを拭って、天井を仰いだ。
「……っはあああ! これ! これだよ!」
そのまま残りを飲み干し、ジョッキを卓へ叩きつける。
「もう一杯!」
肉が来た。
大皿に乗った塊は、拳二つ分はあった。表面は焦げ、切れ目から脂が浮いて、まだ音を立てている。アンジーはナイフを取ったが、二切れ目からは使うのをやめた。骨を掴み、噛みつき、引きちぎる。頬が膨らみ、飲み込みきる前にもう次の皿へ手が伸びる。腸詰めは半分を一口で消した。
食べているというより、食事に殴りかかっているような勢いだった。
それでいて、汚らしくは見えなかった。器量のいい女だったからだ。化粧気はまるでないのに、肌は異常なほど滑らかで、脂を拭った指の跡すらすぐに消えていく。首筋にも、剥き出しの肩にも、傷が一つもない。ドレスの胸元は肉を頬張るたびに揺れ、卓の周りの男たちの目線は、恐怖と別のところで忙しかった。
両拳だけが、ちがった。
関節の上に古い傷が盛り上がり、皮がささくれて硬くなっている。全身のどこにも傷がないのに、拳だけが何度も割れた跡を残している。それがどういう意味なのかを、この食堂の何人かは知っていた。
皿が空く。追加が来る。ジョッキが転がる。
卓の周囲に空の大皿が塔のように重なり、四杯目のビールが運ばれてきたころには、食堂のざわめきが妙な形に変わり始めていた。声の量は同じなのに、話す方向が全部一つに寄っている。
「……なあ、あれ」
「言うな」
「いや、あれだろ。アンデッドアンジーだろ」
「アンデッドアンジーだ」
「出所したのか? いつ?」
「今日じゃねえのか。あの飲み方見ろよ」
「まだあのドレス着てやがる」
「そこは変わんねえよ。あいつは死んでもドレスだ」
囁きは、隠す気があるようでなかった。アンジーの耳には半分ほど届いていた。
届いていて、気にしなかった。
むしろ、腸詰めを咀嚼する口元が満足そうに緩んだ。アンデッドアンジー。いい響きだ、と彼女は思う。死なない女、という意味だと本人は理解している。実際そのとおりなのだから、間違ってもいない。呼ばれると、いつも少し嬉しくなる。
奥の卓で、若い冒険者が身を乗り出して先輩に囁いた。
「あの人、なんで一年入ってたんですか」
「聞くな」
「え」
「本人に聞くのだけは絶対にやめとけ。それだけ覚えとけば長生きできる」
若い冒険者は素直に頷き、それきり彼女を見なかった。
かわりに、食堂を横切ってきた別の男が、迷いなくアンジーの卓へ近づいた。四十過ぎの、腕に古い焼き傷のある冒険者だ。彼はアンジーの後ろに立ち、肩を軽く叩いた。
周囲の卓が一斉に息を止めた。
「おかえり、アンジー」
アンジーは肉を口いっぱいに詰めたまま振り向いた。頬がふくらんで、口の端に脂が光っている。
「たらいま!」
何を言ったのか半分も伝わらなかったが、伝わるべきところは伝わった。男は笑って、もう一度その肩を叩いた。
「ちゃんと食えよ。あそこの飯、噛むもんが出ねえだろ」
「出ないの!」
飲み込んで、アンジーは指を突き立てた。
「一年ぜんぶ、汁とパン! パンも柔らかいの! 噛むところがないんだよ! あんなの、罰だよ!」
「そりゃ罰なんだよ」
「あ、そっか」
男は声を上げて笑い、自分の卓へ戻っていった。
それだけのやり取りだった。それだけのやり取りで、食堂の空気がわずかに緩んだ。息を止めていた卓が呼吸を再開し、囁きから警戒の棘が抜け、また元のざわめきへ混ざっていく。
確かに恐ろしい女ではある。誰もが関わりたくないと思っている。だが、彼女はこの場所から切り離された人間ではない。ここは荒くれ者が騒ぎ、稼ぎ、たまに助け合う場所で、アンジーもその一人だった。少なくとも、卓を叩いて「おかえり」と言う相手がいる程度には。
アンジーは五杯目のビールに手を伸ばし、泡ごと一気に喉へ流し込んだ。
目の前には、まだ食べていない骨つき肉が二本残っている。皿の塔は膝の高さを超えていた。誰にも迎えられなかった出所の日は、彼女にとって、これで十分に満たされていた。
ギルドの正面扉が開いた。
入ってきたのは、そばかすの浮いた細身の若者だった。黒髪のつんつん頭で、肩には安物の革帯を斜めに掛けている。駆け出し冒険者のシドである。
彼はいつもの調子で片手を上げ、顔見知りの卓へ「兄貴、今日も生きてますね」と声をかけようとした。その手が、途中で止まった。
食堂の奥。皿の塔。転がったジョッキ。骨つき肉に噛みついているドレス姿の女。
シドの表情から、順序よく色が抜けていった。愛想、軽口、余裕。最後に残ったのは、鼻の奥がすっと冷える感覚だけだった。
彼の左の頬骨のあたりには、目を凝らせば分かる程度のわずかな凹みがある。鼻筋も、よく見れば真っ直ぐではない。折られたものを繋ぎ直すと、こうなる。
(うそだろ)
心の中でそれだけ言った。声には出さなかった。声を出せば気づかれるからだ。
シドは踵を返した。それも、慌てて回るのではなく、最初からそのつもりで入ってきた人間のように、自然な速度で。上げていた手はそのままの高さで下ろし、扉に触れる音まで抑えた。空気を読むのが速い男だが、この瞬間その技能は、場を和ませるためではなく、自分の骨を守るためにだけ働いていた。
扉が閉まる。彼は外の石畳を三歩歩いてから、ようやく息を吐いた。
「……今日は、依頼が無かったな」
誰にともなく声に出して、そのまま大通りの人波へ消えた。
それから半刻ほど経って、また扉が開いた。
ヴァルターである。腰のベルトには小道具入りのポーチをいくつも下げ、いつものように少し胡散臭い笑みを浮かべている。財布の重みと明日の稼ぎのことを考えながら、彼は食堂へ足を踏み入れた。
三歩目で、その笑みが凍った。
奥の卓。皿の塔。フルプレートアーマー。立てかけられたタワーシールド。
ヴァルターの足は、頭が結論を出すより早く横へ動いていた。太い柱の陰へ身を滑り込ませ、背中を板に貼りつける。息を殺し、指で眉間の皺を揉んだ。
「そういえば、そろそろ出所の日だったか……」
一年前、あの女がブタ箱へ運ばれていくのを、彼はギルドの窓から見ていた。しばらく静かになるな、と思ったのを覚えている。実際、静かだった。とても静かで、正直に言えば快適だった。
元の仕事仲間である。共に迷宮へ潜り、あの拳と盾に何度も助けられたのは事実だ。帰ってきたのなら喜ぶべきなのだろう。喜ぶべきなのだ、理屈では。
問題は、関わりたいかどうかである。
ヴァルターは柱の陰で真剣に検討した。今なら間に合う。まだ気づかれていない。静かに出て、明日出直せばいい。明日ならあいつも落ち着いているだろう——落ち着いたところを一度も見たことはないが。
(今日は、何も見なかった)
結論が出た。ヴァルターは柱に沿って、爪先から先に体重を移し、扉のほうへ半歩下がった。シーカーとしての技量は、こういう場面でこそ本領を発揮する。
そこへ、背後から声がした。
「なに隠れてんだ、ヴァル」
猫背気味の長身が、ぼんやりした目でこちらを見下ろしていた。アレイである。長袖の袖口をだらしなく垂らし、腹が減っているという顔をしている。
ヴァルターは振り向きもせず、手のひらだけを突き出した。
「あ、言うな馬鹿」
遅かった。
食堂の奥で、骨を噛み砕く音が止まった。
「——ヴァル!」
椅子が後ろへ倒れる音。皿の塔がぐらりと揺れる音。それらを踏み越えるようにして、明るい声が食堂中に響き渡った。
「一年ぶり! ヴァル、シド!」
シドはすでに半刻前に逃げている。だがアンジーはそんなことを一切気にしていなかった。彼女の中では、いま呼んだ名前の全員がそこにいるのである。
食堂の全員がヴァルターを見た。柱の陰から、それでもまだ出まいとしていた男を。
ヴァルターは天を仰ぎ、それからゆっくりと柱から離れた。腹を括った顔で片手を上げる。
「……よう、アンジー。出たのか」
「出た! 今日! 朝!」
アンジーは指を三本立てて、そのうち二本を数え直した。数え直す必要はどこにもなかった。
アレイは事情を掴めないまま、皿の塔とドレス姿の女を交互に見ている。
「なんだ、こいつ知り合いか」
「お前もだよ」
「俺も?」
「一年前まで、三人で潜ってたろうが」
アレイは数秒かけて記憶を掘り、ぼんやりと頷いた。
「……ああ。盾の女か」
「アンジー! 名前で呼んで!」
「アンジーな」
「そう!」
アンジーは満足そうに笑い、卓へ戻ってジョッキを掴んだ。まだ半分残っていたビールを、上向いた喉に一気に流し込む。喉が三回動いて、それで空になった。
木のジョッキを卓に置く。ふう、と息を吸う。
次に来たのは、獣の唸りに近い音だった。
「げぼおおおおおうっ」
食堂の梁が鳴ったのではないかと思うほどの音量だった。周囲三卓の会話が完全に止まり、給仕の少年が皿を取り落としかけた。麦と脂と胃の混ざった風が、正面に立つ二人の顔をまともに撫でていく。
アレイが顔を顰めて袖で口元を覆った。
「……おい」
ヴァルターは手のひらで鼻を押さえ、半歩後ろへ下がった。
「変わってねえな、お前」
アンジーは胸を叩き、晴れ晴れとした顔で言った。
「一年ぶんたまってたの!」
「ためとくもんじゃねえだろ、それは」
「だって出すとこ、なかったんだもん」
何一つ噛み合わないまま、それでも会話は成立していた。この女とは、いつもそうだった。ヴァルターは眉間を揉み、それから諦めのため息を一つ吐いた。
一年ぶりの再会である。感動の余地は、げっぷの音とともにきれいに消し飛んでいた。
アンジーは空になった皿の塔を横目に見て、それで満足したらしかった。
椅子を引き、床に下ろしていたフルプレートアーマーへ手を伸ばす。胸当てを片手で持ち上げ、ドレスの上からそのまま被った。
ヴァルターは思わず口を挟んだ。
「お前、まだそれやってんのか」
「なにが?」
「ドレスの上から着るのを、だ。下に着るもんが他にあるだろ」
アンジーは留め具を締めながら、心底不思議そうな顔をした。
「だって、いい女はいつでもドレス着てるものだよ?」
「鉄の下じゃ誰にも見えねえだろ」
「見えなくても着てるの。そこが大事なんだから」
理屈になっていない理屈だったが、彼女の中では完結していた。
肩、胴、腰、脛。板金が次々に噛み合っていく。並の人間なら立つことすらできない重量が積み上がっているのに、アンジーの姿勢は最初から最後まで一度も沈まなかった。留め具を締める指が、鉄より柔らかいものを扱う速度で動く。一年ぶりだというのに、手順に迷いがない。
最後に、卓へ立てかけていたタワーシールドの縁を掴んだ。鉄の板が床から離れる音が、ずしんと食堂の板を鳴らす。
食事をしていた女と、そこに立っている女は、同じ人間には見えなかった。
アレイがぼんやりと呟いた。
「……そうだ。こういうやつだったな」
「思い出したか」
「思い出した」
ヴァルターは短く息を吐き、依頼掲示板のほうへ顎をしゃくった。
「アレイ、行くぞ。飯は後だ」
「腹減ってんだけどな」
「掲示板を見るだけだ。すぐ済む」
本音は別にあった。当面はセンジュを通す仕事から離れ、名前も顔も残らない普通の依頼で稼いでおきたい。慎重に選びたいのだ。だからこそ、あの女を掲示板の前へ連れていく気はなかった。
アレイが歩き出しながら、後ろを振り返った。
「アンジーは置いてくのか?」
「置いてくんじゃねえ。掲示板を見るだけだ。あいつに選ばせると、報酬額しか見ねえからな」
二人は人波を縫って食堂を抜け、依頼掲示板へ向かった。
十歩も進まないうちに、床が鳴った。
ずしん、ずしん、と重い足音が、しかも遠慮なく近づいてくる。振り返ると、フルプレートを着込んだアンジーがタワーシールドを引きずりながら、当然の顔でついてきていた。石の床に、盾の縁が細く白い線を引いている。
「何してんの? 仕事探してるんでしょ? あたしも行く!」
「……食堂に置いてきたはずなんだがな」
「置いてかれたから来た!」
返す言葉がなかった。
ヴァルターが掲示板の前へ着くより早く、アンジーの腕が横から伸びた。板金の腕が空気を割り、上段に貼られた一枚を掴む。
「これ! 一人八十万ペルだって!」
紙が音を立てて剥がれた。押しピンが弾け、隣の依頼書が二枚ほど巻き添えで床に落ちた。
ヴァルターの手は、掴む対象を失って空を切った。
「待て、まだ何も読んでねえだろ」
「読んだよ! 八十万って書いてある!」
「そこしか読んでねえって言ってんだよ!」
アンジーは依頼書を胸元へ抱え、番犬のように守った。参加条件も、持ち帰る品の扱いも、下段の注意書きも、彼女の目には入っていない。数字だけが、はっきりと入っていた。
アレイが横から紙面を覗き込み、報酬欄で目を止めた。
「八十万なら、俺も行く」
「お前もそこしか見てねえのか」
「見てるぞ。八十万だ」
ヴァルターは深く、長く、腹の底から息を吐いた。安全な通常依頼を選ぶという計画は、掲示板に触れて十秒で崩れた。
諦めた男の動作で、彼は受付窓口へ歩き、職員からペンを借りた。依頼書の参加者欄に、自分とアレイの名を書く。その下へ、もう一行足した。
アンジーが肩越しに覗き込む。板金の胸当てがヴァルターの背中に当たって、彼の体が前へよろけた。
「あたしの名前だ!」
「そうだよ」
「これであたしも正式な仲間だね!」
「勝手に仲間になるな。……いや、もう書いちまったが」
アンジーは声を上げて笑い、依頼書を高く掲げた。書かれた名前を確かめるのに、二度読み直していた。
手続きが済むまでの間、三人は食堂の端の卓へ戻った。ヴァルターが依頼書の裏面まで目を通し、アレイが遅い飯を注文する。
その隙に、アンジーの手が隣の卓へ伸びた。
二人組の冒険者が置いた皿に、串から外れた肉が三切れ残っていた。板金の指がそのうち一つを摘まむ。
持ち主が、皿を胸元へ引いた。悲鳴を上げなかったのは根性である。
アンジーは肉を摘まんだまま、首を傾げた。
「えっ、食べちゃダメ? 余ってたよ?」
「余ってるかは持ち主が決めるんだよ」
ヴァルターが依頼書から目も上げずに言う。アンジーはしばらく真剣に考え込んだ。眉根を寄せ、肉を見て、皿を見て、また肉を見る。
そして、皿の真ん中へそっと戻した。
「じゃあ、真ん中に戻したから半分こね!」
持ち主は引きつった顔で皿ごと抱え込み、卓を離れた。隣の卓も、その向こうの卓も、一斉に目を逸らす。会話の音量が不自然に上がった。
アンジーだけが、その反応の理由を掴めずにいる。
「みんな、あたしが帰ってきて嬉しくないの? 一年ぶりなのに」
ヴァルターは依頼書を卓へ置き、正面の扉のほうへ顎をしゃくった。
「シドなんか、お前の顔を見た瞬間に逃げたぞ」
アンジーの目が丸くなった。
「なんで? 迎えに行こうよ」
「行くな。絶対に行くな」
迎えに行かれた側が何をされるかを想像して、ヴァルターは自分の言葉に力を込めた。
シドが逃げた理由と、この女が一年間ブタ箱に押し込められていた理由は、同じ一語に繋がっている。
口にすれば一息で終わる、ただの悪口だ。
二年ほど前、シドはまだアンジーと同じ卓で飲める程度の距離にいた。あの夜、彼は酔った勢いで、周りが笑うだろうと見込んで軽口を投げた。先輩たちが呼んでいた通り名の一つを、そのまま口にしたのだ。
メスゴリラ、と。
笑いは起きなかった。アンジーはジョッキを置き、目に涙を溜め、それから拳を振るった。シドが床へ落ちてからも、拳は止まらなかった。頬骨と鼻が折れて、彼が両手で顔を覆って丸くなり、声も出さなくなってからも、まだ続いた。三人がかりで引き剥がすまで、彼女は泣きながら殴り続けていた。
収監の原因になった男は、それとは別である。もっと直接的な言い方で、もっと大勢の前で、同じ意味の言葉を彼女へ向けた。その男が担架で運ばれていったとき、アンジーの拳は皮膚が裂けて骨が覗いていた。男は今も、硬い食べ物を噛めない。
当のアンジーにとって、その二つはまったく同じ、単純な出来事だった。
「だって、悪口言ったんだよ?」
卓の上で、板金の指が組み合わされる。
「だからって、動かなくなるまで殴るな」
「でも、泣いてたから、もう分かったと思う」
誰が泣いていたのか、誰が分かったのか、その主語は最後まで示されなかった。おそらく本人の中でも分かれていない。
アレイとヴァルターは、同時に黙った。
沈黙を、アンジーは別のものとして受け取ったらしい。少し考えたあと、反省を示すつもりで胸を張った。板金が硬い音を立てる。
「次はもっと早く止めるから!」
アレイが、運ばれてきた皿へ手を伸ばしながら聞いた。
「どのくらい早く?」
「相手が動かなくなったら、すぐ!」
ヴァルターは額を押さえた。指の腹で眉間を押し、それでも足りずに目を閉じた。
「……お前の中で、それは早いほうなのか」
「早いよ! 前は動かなくなってからも殴ってたもん」
事実として、進歩ではあった。ヴァルターは反論を諦めた。
アンジーは二人の沈黙を、反省が正しく伝わった証拠だと解釈していた。満足そうに一つ頷き、それから顔を明るくして依頼書を掲げる。
「でも魔物なら殴っても怒られないでしょ? あたし、普通の仕事はよく分かんないけど、殴って稼ぐのは得意だもん!」
それは、この女が辿り着いた唯一の結論だった。数を数えるのも、荷を数えるのも、人の話の裏を読むのも、何一つできなかった。最後に残ったのが拳だった。だから拳で稼ぐ。本人はそれを、悲しいこととは思っていない。
アレイは報酬欄を見ていた。ヴァルターは注意書きを読み直していた。二人が言葉を返すより早く、アンジーは立ち上がってタワーシールドを担ぎ直した。
鉄の縁が、卓の脚を軽く叩いた。皿が一枚、跳ねて落ちた。
「行こう! 迷宮!」
「まだ準備してねえだろ!」
「じゃあ準備する!」
食堂の板を鳴らして、板金の背中が先に歩き出していく。
ヴァルターは床に落ちた皿を拾い、それを卓へ戻してから、依頼書を懐へねじ込んだ。




