6.3 密偵
俺は壁にもたれたまま、話の輪郭を頭の中で置き直した。頭は薬切れで濁っているのに、こういう話の骨だけは勝手に組み上がる。
「それがパンテラに来たわけか」
「ここは中立の市場だ。どの国の軍も入れない。つまりどの国の帳簿にも載らない。記録を消したい奴には都合がいい」エドは肩をすくめた。
「で、この街で欠けてる札を二つ拾った。数ヶ月前に崩落坑道から上がった封の木箱。それと、十七層帰りの派手な連中が持ち帰った荷の届け」
喉の奥が乾いた。二つとも、俺が触っている。
「木箱を運んだのは俺とヴァルだ」
「知ってる。三日前に割れた」エドは淡々と言った。
「荷を追ったんじゃない。銭が動く日に詰所を張って、出入りした顔を数えて、換金の控えと突き合わせた。腕に輪の刺青が入ってて、迷宮帰りに毎回二人分を換える男が一人だけいた」
「……ヴァルか」
「そいつの名前は俺の帳面に書いてある」エドはそこで、初めて少し言い方を変えた。
「連れの分は、書いてない」
水が一つ落ちた。俺の靴の先を濡らした。
「書けば記録になる。記録は誰かが読む」エドは言った。
「お前のことは頭にだけ入れた。それだけだ」
「そこまでして、ついでか」
「ついでだよ」エドは笑った。人当たりのいい、店先で天気を話すときの顔だった。
「本筋は流れの元を探すことだ。パンテラは末端の一つに過ぎない。ただ、その末端を辿ってたら、荷を運んだのがお前の相棒で、その隣にお前が立ってた。これは予想外だった。正直に言えば、面倒なことになったと思った」
「面倒」
「荷の中身も、流れを作った奴の名前も、俺はまだ知らない。だが向こうは運び手を切って捨てる手口を持ってる。今日みたいに、受け渡しの場所を直前でずらす程度のことは平気でやる」
俺は路地の方を見た。貼りついた五人が、まだ壁で鼻を鳴らしている。一人は靴を捨てて逃げた。あの足で、どこかへ話が戻る。
「一人逃げたな」
「逃げさせた」エドは言った。
「五人まとめて消えれば、次はもっと丁寧な連中が来る。一人帰れば、しばらくは荷の値段の話で済む」
「……お前、変わってねえな」
「変わったら食えんよ」
エドは声の高さを一段だけ落とした。世間話の顔のまま、中身だけ変える喋り方だ。
「ヴァルターの名前が誰かの帳面に載れば、次はその連れが数えられる。連れが数えられれば、そいつの家と、寝る時間と、薬を買う間隔まで数えられる。俺がやったのと同じことを、別のやつがやるだけだ」
「脅してんのか」
「忠告だ。それも大した話じゃない。しばらく、荷の仕事は選べ。以上だ」
それで終わりのつもりらしかった。エドは外套の前を合わせて、路地口の方へ半歩体を向けた。だが向き直る途中で、動きが止まった。止まったというより、止めたのだと思った。
「一つだけ、こっちの分を払っておく」
「なんだよ」
「五年前、俺はお前を見逃した」
水音のあいだに、その言葉だけがはっきり残った。
「俺の役目は、部隊から離れる者を止めることだった。あの晩、お前が抜ける支度をしてるのは知ってた。報告する時間も、追いつく足もあった」
エドは俺を見なかった。壁の濡れた筋を見ていた。
「やらなかった。理由は一つだ。お前はあと半年もたなかった。魔族じゃなく、薬で死ぬ。俺はそう見積もった」
俺は何か言おうとして、口の中が果実の甘さで気持ち悪くなっているのに気づいた。
「見積もりは正しかったのか」
「五年生きてる」
言い返せなかった。腕の震えが、ちょうど返事の代わりみたいに続いていた。
「あの晩の話には続きがある」エドは言った。
「お前が消えて、勇者の席が空いた。空いた席のまま戦を続ければ、前線も民衆も持たない。半年もしないうちに、看板が一枚立った」
「……ジャスティンか」
「どこの街にも貼ってあるだろ。剣を掲げてる、笑顔の男だ」
エドは他人事のように言った。
「その剣は、明日を照らす。うまい文だよ。うちの村の年寄りまで覚えてる」
「あいつ、泉に呼ばれてねえだろ」
「俺は知らない」
「知ってるだろ」
「知らないことにしてる」エドはそこで初めて俺を見た。
「順番がそうだっただけかもしれない。俺が見逃したから看板が立った、とまでは言わない。ただ、俺が引き金を引いてない札の裏に、俺の指の跡がついてる」
俺は笑おうとした。喉が鳴った。それだけだった。
「なあ、エド」俺は言った。
「お前、俺がどこにいるのか知ってたのか。三日前に割れたって言ったな。だが五年だぞ。五年、お前は俺が生きてることを知ってた口ぶりだ」
エドは少し黙った。黙り方が、答えを選んでいる黙り方ではなかった。どこまで渡すかを決めている黙り方だった。
「最初に居場所を教えたのは、イヴだ」
名前を聞いた瞬間、腹の底が妙に軽くなった。落ちる床がなくなったような感じだった。
「……いつの話だ」
「随分前の話だ」
「それだけか」
「あいつのことは、あいつから聞け。あいつも会いたがっている」
俺は口を開いて、閉じた。訊きたいことは十くらいあって、どれも訊けば自分の五年が崩れる種類の質問だった。
「なあ、エド」
「なんだ」
「ついでにしちゃ、ずいぶん時間かけて探したみてえだな」
エドは路地口の方へ半分向けたままの体を、動かさなかった。外套の裾から水が一滴落ちた。
「三日前に割れたって言ったよな。詰所を張って、顔を数えて、控えと突き合わせた。それだけならご立派な仕事だ」俺は壁に背を預けたまま言った。
「ベッドの下の話も、俺が言う前に知ってるって顔をした。三日でそこまで貯まるかよ」
「観察力の話をされると照れるな」
「イヴから聞いたのが随分前だってのは、そっちが言ったんだぞ」
エドは黙った。否定はしなかった。肯定もしなかった。この男の黙り方には値札がついていて、俺はそれを読めない側の人間だ。
「本筋が荷の流れで、俺がついでだって話は信じてやる。信じたほうが楽だしな」俺は言った。
「ただ、荷の流れを追う男が、五年前に消えた仲間の生き死にを片手で持っときながら、この街の末端に立ち寄って、忠告だけ置いて帰るのか」
「置いて帰るのが仕事だ」
「巻き込みたくねえんだろ」
水が落ちた。エドは靴の先でそれを避けた。
「巻き込む余裕がない」エドは言った。言い方は同じだった。店先で天気を話すときの、人当たりのいい調子。
「俺の帳面に書いた名前は、いずれ誰かに読まれる。読まれる前提で書いてる。だからお前の名前は書かない。書かないってことは、助けもしないってことだ。今日みたいのがまた来ても、俺は路地の入口で立っているだけかもしれない」
「今日は立ってただけじゃなかったじゃねえか」
「今日は運がよかった。運は帳面に載らない」
俺は笑う代わりに、息だけ長く吐いた。腕はまだ震えていた。
「で、俺はどうすりゃいい」
「今までどおりだ」エドは言った。
「冴えない薬中でいろ。ギルドで舐められて、ツケを溜めて、安い依頼を受けて、袖を下ろしておけ。それが五年もった理由で、たぶん来年ももつ理由だ」
「褒めてんのか」
「褒めてる。本気で言ってるぞ」エドは薄く笑った。
「役立たずってのは、いちばん記録に残らない肩書だ。俺の同業が百人いても、九十九人はお前を数えない」
「残りの一人がお前か」
「残りの一人がお前を数えたとき、俺はもうこの街にいない」
それが答えのつもりらしかった。エドは外套の前を合わせ直して、路地口の方へ一歩踏み出した。貼りついた五人のうち誰かが、鼻の奥で長く唸った。半刻もすれば剥がれて、荷の値段の話が始まる。
俺はその背中に向かって、思っていたのとは違うことを言った。
「エド」
「まだあるか」
「そっちも、死んだ仲間を見つけた顔すんなよ」
足音が止まった。この男の足音は普段しない。止まった音がしたということは、止まるつもりで止まったということだ。
エドが振り向いた。天気を話す顔が、そこにはなかった。目の下の皮が一度だけ引きつって、それから口の端が、笑いの形を作りかけたまま行き場をなくしていた。俺は五年前、こいつがこういう顔をするのを一度も見なかった。誰の分か言わずに乾し飯を配って、誰が減ったかも数えていたはずの男が、顔だけは最後まで平たかった。
水が落ちた。エドは何も言わなかった。
言い返してくれたほうが楽だった。「そんな顔してねぇよ」でも、「死んでるだろ、公式には」でも、なんでもよかった。だがこいつは、はぐらかす言葉を持っている男なのに、そこだけ何も出さなかった。出さないことがこいつの一番の仕事で、たぶん今のは、仕事じゃなかった。
やがてエドは、顔の筋を一つずつ元の位置へ戻すみたいに、いつもの薄い笑いを組み立て直した。
「……袖、下ろしておけよ」
それだけ言って、背を向けた。
足音は、しなかった。
路地口の暗がりに外套の輪郭が一度混ざって、それで終わりだった。壁の向こうを人が二人通って、荷車が石畳を鳴らして、水が垂れた。エドがいなくなった音は、その全部の隙間に埋まって聞こえなかった。
俺は壁から背を離した。膝が笑うのはまだ続いていたが、剣を鞘に落とす程度のことはできた。
貼りついた五人の前を通ると、いちばん手前の男が目だけで俺を追った。唇を接着されているので、鼻の奥で長く唸るしかできない。俺は屈んで、そいつの腰の巾着を指で探った。銅貨と、銀が三枚。
「荷は渡してねえんだからな」
言い訳を口に出しておいた。誰も咎めない。男の唸り声が高くなったが、それだけだった。銀を二枚だけ抜いて、一枚は戻した。全部持っていくと恨まれる。半分だと、腹を立てて忘れる。誰に教わったわけでもないが、そういうものだと知っていた。
路地を出て、折れ釘の水場を回り、南東の居住区へ向かって歩いた。半刻もかからない道だ。それが果てしなかった。
シラフの街は、汚い。露店の油は焦げた臭いしかせず、酔っ払いの笑い声は耳の内側を引っ掻き、石畳は足の裏を一歩ごとに殴ってくる。以前、朝のジョグで歩いたときと同じ道だ。同じ道が、こんなにも別物になる。世界が美しいわけでも汚いわけでもなく、俺の側が毎日入れ替わっているだけだと、こういう夜には嫌でも分かる。
家に着いて、扉を閉めて、床に座った。
ポーチの奥にアンブロシアが一回分ある。吸えば三分で震えは消えて、三十分は王様になり、そのあとは今よりもっと酷いところへ落ちる。俺はポーチの布越しにそれを撫でて、手を離した。今日は使わない理由がちゃんとあった。使う理由がなかったからだ。
ベッドに這い上がって、天井を見た。頭の下、板一枚隔てた床の上に、埃をかぶった聖剣が転がっている。売っても捨てても帰ってくる、俺の唯一の財産で、俺の唯一の首吊り縄だ。見なかった。見ないことに五年かけて慣れた。
まだ生きてたか、とあいつは言った。
台帳の空欄を埋めるみたいな声だった。あんな声で言われて安心する自分が、いちばん気に食わなかった。
宿の卓に蝋燭を一本立てて、男は帳面を開いた。
人前では開かない。開けるのは、扉に鍵と、内側から接着を一枚かけた部屋の中だけだ。
新しい行を三つ書いた。
受け渡しの指定が直前に変わったこと。変えた者は不明。もともとの指定を知っていたのは、荷主、仲介、運び手、そして詰所で銭を数えていた七人のうち何人か。
襲撃六人。制圧五人、逃走一人。逃げた者は靴を捨てた。
男は布に包んだその靴を卓に置いて、灯にかざした。底の減りは外側から。踵に噛んだ泥は、北東のスラムのものではない。北西の解体所あたりに溜まる、獣脂と砂を含んだ黒い泥だった。荷を狙う連中が、武具街の側から歩いてきているということになる。線が一本増えた。
それから男は、頁を戻して古い記述を洗い直した。刑印持ちの運び手。札を書かない鑑定所。崩落坑道から上がった封の木箱。十七層帰りの届けの欠落。詰所に出入りした七つの顔と、その歩き方。誰と誰が同じ日に同じ通りにいたか。
運び手の周りに現れる人間を、もう一度全部数え直す。荷を追って線が切れた半年前と、同じ間違いはしない。
書き終えて、男は頁の下の余白を見た。指の幅ほどの空白がある。そこに入るべき名前を、男は五年間書いていない。今夜も書かなかった。
男は蝋燭を吹き消して、帳面を外套の内側へ戻した。
外套は明日には脱ぐ。旅人はもう三日使った。次は荷運びの下働きだ。付け髭は短く、頬の日焼けは片側だけ濃く、掌の胼胝は薬指の根に寄せる。顔は変えない。変える必要のない顔をしているのが、この仕事の唯一の才能だった。
寝る前に、紙包みを開いて干した果実を二つ噛んだ。数が二つ足りない。誰の分か言わずに配る癖は、前線からずっと直っていない。
男は包みを畳んで、明日、市で買い足すことにした。それ以上は考えなかった。考えても帳面には載らない。
翌日、俺はいつもの時間にギルドへ行った。
換金窓口の列で肩をぶつけられて、謝られなかった。舌打ちを一つして、笑ってやり過ごした。誰も俺を二度見ない。九十九人のほうだ。結構なことだった。
食堂の隅でヴァルターを捕まえて、ジョグを五本、ツケで買った。
「ツケが山になってんぞ」
「山ってのは登れるから山なんだよ」
「登る気のねえ奴の言い方だな」ヴァルターは紙包みを卓の下で滑らせてきた。「昨日のあれ、なんだったんだ。あの貼りつき方」
「知らねえ」俺は包みを袖に落とした。「通りがかりの魔術師か何かだろ。運がよかった」
「運」ヴァルターは指で卓を三度叩いて、三度目でやめた。値を言うときの癖が、宙で止まった。「俺様の勘は、運って言葉が嫌いなんだ」
「じゃあ勘に従えよ」俺は椅子の背に体を預けて、腕をだらんと下げた。
「しばらく荷はやめとこうぜ。俺、腕が痛ぇし。地味な依頼でいい。薬草採りとか、犬探しとか」
ヴァルターは眉を上げた。それから、鼻から息を抜いた。
「珍しく意見が合うじゃねえか。場所を直前に変えるような仕事は、次から蹴る。先払いでもだ」
「話が早くて助かるぜ」
「ツケの話も早くしてくれると、俺様はもっと助かる」
それで終わりだった。忠告は俺の口からは出なかった。あいつの名前が誰かの帳面に載っているかもしれない、なんて話をしたところで、ヴァルターは笑って肩をすくめ、そのあと三日眠らなくなるだけだ。心配は分け合うと減るというが、あれは嘘だ。増えるほうに賭けたほうが当たる。
夕方、俺はギルドの外の階段でジョグに火をつけた。
煙が入ると世界の角が丸くなって、石畳の凹凸まで愛しくなってくる。いつもの安い救いだ。それでも今日は、入口を出入りする人間の顔を、俺は無意識に数えていた。左から右へ、歩幅と靴の減り方と、路地の両端を確かめる癖のある奴がいないかどうか。
やっている途中で気づいて、やめた。
あいつはもうこの街にいないのかもしれない。いるのかもしれない。旅人の顔でも、荷運びの顔でも、俺の三歩後ろを通っても、俺は気づかない。気づかせない仕事をしている男だ。それでも、去ったとは思わなかった。数える側の人間は、数え終わるまで帰らない。
煙を長く吐いて、俺は袖を手首まで引き下ろした。
注射痕の上に布が落ちて、腕は誰の目にも留まらないただの長袖に戻った。冴えない薬中が一人、階段に座って安い煙を吸っている。それだけの光景になった。
五年かけて作った光景だ。壊すつもりはない。
ただ、五年前に切れたはずの糸の端が、今はどこかで誰かの指に巻かれている。それを知っているだけで、煙の味は少し薄かった。




