6.2 密偵
薬で強くなる冒険者なら、この街にいくらでもいる。上級の薬を入れれば誰でも束の間の英雄になれるし、そのぶん残りの人生を売る。だから、薬の有無だけでは何も証明しない。
男が照合しているのは、そこではなかった。
髪の生え際の下、首の後ろに、指の長さほどの古い傷跡がある。破片の傷だ。縫った跡が粗い。前線で、治療を待つ列に並ぶのを嫌がって自分で塞がせた傷は、みんなあの粗さになる。
声の濁り。喉の奥に砂を溜めたような響き。笑うとき、声より先に一度だけ喉が鳴る。あれは五年前にもあった。焚き火の向こうで、誰かの下手な冗談に、笑う前に喉を鳴らしていた男がいた。
夕方、ギルドの食堂でそれは決まった。
隣の卓の若い冒険者が、稼ぎが少ないと嘆きながら、半分残した皿を置いて席を立とうとした。連れの男は、その皿を無言で自分のほうへ引き寄せた。文句も講釈もなかった。ただ引き寄せて、自分の分の続きのように食い始めた。
男の指が、膝の上で止まった。帳面は開いていないのに、書く手の形になっていた。
五年前、前線の配給で、死んだ者の分を最後に食うのは決まってあいつだった。まわりが黙って手を出せずにいる椀を自分の前へ引き寄せて、
『食い物に罪はねえだろ』
と言った。誰も反論できなかった。あの日から数えて、何人分をあの男が食ったのかは知らない。
男は水を一口飲み、匙を置いた。喉の奥に、事務では処理できないものが引っかかっていた。一瞬だけだ。一瞬で足りた。
宿へ戻り、蝋燭に火を移してから、ようやく帳面を開いた。
物流の頁がある。港、関所、消えた名簿、書かれなかった鑑定札。パンテラの荷を運んだのはヴァルター。そこまでは仕事だ。書き足すことに躊躇はない。
次の行で、筆が止まった。
書けば、記録になる。記録になったものは、いつか誰かに読まれる。読まれれば、五年かけて死んでいた男が生き返る。国家と教団が、笑顔の美丈夫に持たせた紙の剣が、その日に折れる。
男は結局、その頁には何も書かなかった。代わりに、記憶の中の頁に置いた。紙より安全で、紙より厄介な場所だ。
蝋燭を吹き消す前に、一つだけ考えた。
あと一つ足りない。傷でも喉の鳴りでもなく、追い詰められたときにあの男が何を選ぶか。逃げるか、庇うか、勝ちに行くか。あの男の正体は、剣ではなく判断に出る。薬が抜けきって、何もできないはずの体で、それでも一番先に何を決めるか。
そういう場面は、待っていても来る。裏の荷を運ぶ人間の周りには、必ず来る。
男は暗がりで外套を椀のように丸めて枕にし、明日は荷運び人の顔で出ようと決めた。付け髭は、少し短くする。あの連れの男は、人の顔を見ていないふりをして、通りの人間をひとりずつ確かめている。
——五年経っても、そういう癖だけは変わらないな。
思ってから、思ったことに舌打ちをした。感想は、この仕事の役に立たない。
「場所が変わった」
ヴァルターがそう言ったのは、日が落ちる半刻前だった。
もともとの指定は、北東の階段口で日没から一刻後。それが、折れ釘から二本西の路地で、半刻早く、に変わった。ヴァルターは紙片を火にかざして灰にし、指の腹でこすって落とした。
「向こうの都合が変わったんだろ。金は先払いだ、文句はねえよ」
「文句はねえけど、道が狭くなったな」
「そこはお前の得意な話じゃねえだろ」
得意じゃねえよ、と言いながら、俺は路地の入口で自分の腹の中を数えていた。ジョグは昨夜で切れた。ポーチの奥に粉が一回分ある。切れかけの日はどうしても数えてしまう。
左肩が重い。息が浅い。踵の音が二拍だけ揃わない。膝から下に他人の脚を借りてきたみたいな感じがして、それが薬切れの手前だという合図だった。
路地は幅が二間半。片側は石壁、片側は板壁。板壁の途中に空の樽が三つ積んであって、その先に排水の格子。突き当たりの左手に、二階へ上がる木の外階段。手すりは腐っている。
俺はそれを、見るというより、勝手に確認していた。
三十歩進んだところで、前の暗がりから三人出てきた。後ろの路地口に二人。板壁の上に一人。
「おいおい」ヴァルターが荷を抱え直した。「話し合おうぜ。俺様は交渉って言葉が大好きなんだ」
誰も返事をしなかった。返事をしない連中は、たいてい話を持っていない。荷の値と受け渡しの道筋だけを知っていて、運び手ごとまとめて持っていくつもりの連中だ。
俺は背を丸めたまま、あくびをした。冴えない薬中は、あくびをするものだからだ。
その裏で、勘定は終わっていた。
前の三人は同じ革帯を締めている。慣れているのは真ん中。左右は真ん中に合わせて動くから、真ん中を止めれば二人が止まる。後ろの二人は槍ではなく短剣で、路地の幅ではまともに振れない。上の一人は投げるつもりだ。だが板壁の上は狭い。投げるなら一度体を起こす。起こしたときが、ここでいちばん安全な瞬間になる。
勝てる勘定は、どこにもなかった。粉を吸えば三分で変わるが、三分は長い。三分のあいだにヴァルターは死ぬ。
だから俺が決めたのは、勝つ順番ではなく、逃がす順番だった。
「ヴァル。荷、こっちに寄せろ」
「はァ?」
「寄せて、そこの樽に置け。乱暴に置くなよ、優しくだ」
ヴァルターは一瞬だけ俺の顔を見て、それから何も訊かずに従った。そういうところが、この男のいちばん高く売れる部分だ。
荷が樽の上に載った瞬間、前の三人の重心が半歩ぶんずれた。荷は奪う物であって、守る物ではない。守る物なら囲めばいいが、奪う物には手を伸ばさなければならない。三人が同時に手を伸ばせる位置に置いておけば、三人は必ず互いの利き腕に触る。
真ん中が舌打ちして、左の男を肘で押しのけた。それで隊列は死んだ。
「右の壁沿い、三歩で外階段だ。手すりは触るな、腐ってる。上がって北へ跳べ」
「お前は」
「後ろから行く」
「嘘つけ」
言い合っている暇はなかった。左の男が、押しのけられた勢いのまま、いちばん近いところにいたヴァルターへ刃を振った。
考える前に、身体が間へ入っていた。
なまくら剣を横に立てて受けた。金物同士の、鈍くて情けない音がした。刃は止まった。止まっただけだ。腕の骨から肩まで一本の棒が通って、その棒が悲鳴を上げた。膝が抜ける。視界の縁が黒く滲む。薬の入った体なら、この一撃で相手の腕ごと落としている。今の俺は、受け止めるのが精いっぱいの役立たずだった。
それでも、押し返す方向だけは選べた。
俺は刃を弾かず、相手の体ごと板壁側へ寄せた。男の背中が樽に当たり、樽が崩れ、荷が転がって排水の格子に引っかかった。二人めが荷を追って屈み、三人めがその背中に躓いた。
路地が塞がった。ヴァルターの前だけが空いた。
「行け!」
「ツケ、まだ払ってねえだろ!」
馬鹿かこいつは、と思った。
板壁の上の男が、投げるために体を起こした。安全な瞬間が来た。だが俺の腕はもう上がらなかった。上がらないなら、上げるふりだけして相手の狙いを一つ遅らせる。それしか残っていない。
男の腕が振り下ろされる。
振り下ろされたまま、止まった。
止まったのは、腕だけではなかった。屈んでいた二人めの膝が地面から離れず、三人めの掌が板壁に貼りついて剥がれず、真ん中の男は自分の刃の柄と手が一体になったまま、間抜けな声で喚いていた。後ろの二人が逃げようとして、片方は靴底が石畳に縫い留められ、もう片方は靴を捨てて路地口から消えた。
路地の暗がりから、荷運び人の格好をした男がひとり出てきた。
足音がしなかった。歩幅がまったく乱れなかった。指が三度、軽く空を撫でるように動いただけで、それが全部だった。
接着だ。あんな使い方をする奴を、俺は一人しか知らない。
「……ヴァル」俺は剣を下ろした。腕が震えて、下ろすというより落とした。
「荷を拾って先に行け」
「おい」
「先に行け。俺は少し、この人と話がある」
男は、路地の入口の暗がりで最後まで動かずにいた。
助けに入るのは容易だった。だが、それでは何も分からない。追い詰められたときにあの男が何を選ぶか——逃げるか、庇うか、勝ちに行くか。そこだけが埋まっていなかった。
男は数えた。荷を樽へ置かせたのは、囲みを崩すためだ。刃を弾かずに寄せたのは、相手の体を邪魔物に変えるためだ。外階段の腐った手すりの位置を、あいつは路地に入って三十歩のうちに把握していた。粉には一度も手を伸ばさなかった。伸ばせば三十分は化け物になれると知っていて、伸ばさなかった。使えば連れを先に逃がす三分が消えるからだ。
勝てない場でだけ現れる判断だった。武勇伝には一行も残らない類の判断だ。前線で何度も見た。名も知らされない部隊に道を作らせて、そこを通っていった男の背中にも、同じ理屈があった。
埋まった。
男は帳面を思い出し、それを開かないことにした。代わりに指を動かして、五人の足と手と刃を、地面と壁とそれぞれの掌に接いだ。荷を奪うために来た連中だ。殺す必要はない。動けなくすれば、それで仕事は終わる。
暗がりから出るとき、男は一瞬だけ迷った。旅人の顔のまま通り過ぎることもできた。実際、この五日間そうしてきた。
だが路地の真ん中で、剣を落とすように下ろした男が、震える腕で相棒を先に行かせようとしていた。
男は付け髭の際に指をかけ、まだ外さないまま、そこへ歩いていった。
男は俺のところまで来て、二歩手前で止まった。ちょうど、こちらの剣が届かない距離だった。
「歩けるか」
「歩けねえって言ったら、担いでくれるのか」
「担がない。引きずる」
俺は笑おうとして、喉が鳴った。それだけで腕の震えが少し増した。
男は路地に貼りついた五人を順に見て、それから指を二度動かした。喚いていた真ん中の男の声が、途中でぷつりと途切れた。唇が上下でくっついたらしい。鼻から抜ける息だけが、笛みたいに鳴っていた。
「口も貼った。半刻は喋れない。剥がれるころには誰かが通るだろう」
「殺さねえのか」
「死体は記録になる」
男は先に歩き出した。突き当たりの外階段の下、板壁と石壁の隙間みたいな窪みへ入って、そこで立ち止まった。上から水が垂れていて、足元だけが濡れていた。路地口からも二階の窓からも見えない場所だ。五日どころか、もっと前からこの街の裏を歩いていた足取りだった。
「壁に掛かってろ。膝が笑っている」
俺は言われたとおり壁に背を預けた。預けた瞬間、体の重さが全部戻ってきて、しばらく喋る気になれなかった。
男はその間、自分の顔をいじっていた。
付け髭の際に指をかける。だが引き剥がすのではなく、指先で撫でるように三度こすった。それだけで髭は下地ごと素直に離れて、男の手のなかに丸まった。続けて頬の日焼けの跡が薄い膜になって剥がれ、手の甲の荷擦れの痣がぺろりと持ち上がった。掌の分厚い胼胝まで外して、男はそれらを一つに握り込み、外套の内側へ落とした。
残ったのは、なんの特徴もない顔だった。
髭のあったころより、むしろ思い出せない顔になった。年も背も、どこにでもある。すれ違って半日たてば、目の色すら誰も言えないだろう。
俺はそれを知っている。五年前、同じ顔が三日おきに別人になって帰ってきた。
「そういう外し方するのは、世界に一人しかいねえよ」
「二人いたら困る」
男は水の落ちてこない側へ半歩ずれて、俺を見た。
「まだ生きてたか」
感動はなかった。労いも、驚きもなかった。台帳の空欄に線を引くみたいな声だった。俺はそれで、ようやく本当にこいつだと信じられた。
「……エド」
「久しぶりだな」
久しぶりだな。それだけだった。
俺は自分の中身を探した。嬉しさが出てくるはずの場所に、手を突っ込んで探した。出てきたのは、内臓を掴まれたみたいな冷たさだけだった。
俺の生存を知っているのは二人だけだ。一人は聖女で、もう一人が目の前にいる。その二人のうち片方が、五年たって俺の前に立っている。世間話をしに来る距離ではない。
「連れ戻しに来たのか」
言ってから、声が掠れているのが自分でわかった。
「聖剣はベッドの下だ。埃かぶってる。売ろうとしたが帰ってきやがる。捨てても帰ってくる。あれは俺の借金より粘着質だ」
「知ってる」
「なら何しに来た」
エドは答えなかった。俺の剣の柄に目を落とし、それから震えている右腕に目を移して、また顔に戻した。
「五年だぞ」俺は言った。
「五年、誰も来なかった。俺はそれでいいと思ってた。ヴァルにも言ってねえ。ギルドじゃ俺は薬中の役立たずだ。それで釣り合ってた」
「釣り合ってたな」
「なのに、なんで今さら出てきた」
エドは、記憶の中の人当たりのいい顔に戻った。戻し方が早すぎて、俺は逆に嫌な予感がした。
「そう身構えるなよ。大した話じゃない」
「大した話じゃねえんだ」
エドは水の落ちる筋を避けて壁に背を預け、外套の内側から何かを取り出した。帳面ではなかった。皺の寄った紙包みで、開くと干した果実が入っていた。指で二つ分けて、こちらへ差し出す。
「糖だ。震えが少し楽になる」
俺は受け取って、噛んだ。砂を噛むみたいな味がして、それでも顎を動かしているうちに指先の芯だけが少し戻った。エドはこういうものを、いつも持っている男だった。前線でもそうだった。誰の分か言わずに配る。
「用は仕事だ」エドは言った。
「荷の流れを追ってる」
「荷」
「南の国から共和国へ入る物が、途中で枝分かれする。港でも、国境の街でも、壁沿いの関所でも。品はばらばらだ。深層の高いやつ、薬の元になる草、鑑定前の出土品。行き先も毎回違う」
「なら、ただの密輸じゃねえか。この街の名物だぞ」
「密輸なら記録は残る。誰かが袖の下を取った記録がな」エドは首を振った。
「これは記録が残らない。運び手には中身を教えない代わりに、妙に厚い口止め料を払う。鑑定人には札を書かせない。仲買には帳簿をつけさせない。それで数週間たつと、触った人間がいなくなる」
「殺されてるのか」
「わからない。病死になる者もいる。名簿から名前だけ消える者もいる。半年前、河の港で一本追った。仲買が調べの前の週に死んで、運び屋は別の名前で別の都市に出てきた。線は切れた」
エドは自分の掌を見た。胼胝を外した、のっぺりした掌だった。
「あれは俺の失敗だ。品を追ったからだ。品は箱に入ってるだけで喋らない。今度は人を追ってる。末端まで切らずにな」




